中編
スズランが俯くと視界には海の水面がちゃぷちゃぷと波に揺られていました。
ドラゴンの炎でつくられた大華の日に照らされた水面は、ビー玉の硝子が散りばめられたようにキラキラと輝いていて、とてもこの奥底に広がる深海に死者が集う世界があるとは思えないほど、光が溢れているようにみえます。
妖精はスズランの頬を撫でる手をぴたりと止めると、しょんぼりと子犬が飼い主に嗜められたように小さくなって俯くスズランをじっと見つめました。
深い藍色の瞳は、まるでスズランの心の奥の奥まで見透かしてしまいそうです。実際、そうなのかもしれません。妖精はちょっと考えるように指先を口元へとやり、何か思案気に唇をむにむにと押しやると、次の瞬間にはその指先をスズランの方へと差し示し、魔法の杖を振るうように軽やかに指でくるくると円を描きます。すると大きなシャボン玉が現れて、スズランのからだを包み込むように丸い透明のバリアのごとく四方にめぐらします。
スズランは突然現れた妖精にも驚いたけれど、指先一つで大きなシャボン玉を作り出すことができる妖精にも驚きました。
きょろきょろと自分を囲む薄い水膜を見やるスズランに、妖精は朗らかに言いました。
「そのシャボン玉がお嬢さんのことを飲み込んでいる間なら、海がお嬢さんを飲み込んでしまうことはないから安心なさい」
妖精は笑みを絶やすことなくにこりと微笑んでスズランのことを見つめます。
どうして出会ったばかりの自分にこんなことをするのだろう。
スズランは妖精の考えていることが分かりませんが、妖精はスズランの考えていることが分かるようで、山にわき出る泉のようにさらさらと流れる水を彷彿とさせる清涼な声が、再びスズランの耳を撫ぜました。
「お嬢さんがどこへ行きたいのか、どうして行きたいのかも、私にはわかる。わかってしまうの。だって私はネーレーイス。海に住まう精霊だもの」
「…ねーれーいす?」
ネーレーイス。という聞きなれない言葉を辿々しく聞き返すスズランに、妖精。ネーレーイスは柔らかく笑みをこぼします。
「そう。私はネーレーイス。海のことならなんでも知っているわ」
「なんでも…?それじゃ、海の底に月魂があることも?」
「えぇ、もちろん」
ネーレーイスは得意気な顔で一つ頷きました。そして、水の花を咲かせた微笑みを一瞬だけ、そっと蕾のように潜めてしまいましたが、それは本当に花が散りゆくほどの僅かな時間だったので、スズランはネーレーイスの表情の変化には気づきませんでした。
スズランは月魂が本当にあるのだということに安心して、ほっと胸をなでおろします。ネーレーイスは安堵の息を小さく吐いたスズランに続けて言います。
「月魂が海にあることも知っているし、どうやって行くかも私は知っているわ。だから、お嬢さんをそこまで連れていってあげることもできる。お嬢さんが望んでいるのは、そこへ行くことなのでしょう?」
淀みなく言葉を連ねるネーレーイスに、スズランはまたしても驚きました。月魂に行きたいとは一言も言っていないのに、どうして彼女には何もかもわかってしまうのだろう。スズランはアクアマリンの大きな瞳をぱちくりさせました。
ずっと驚いた様子のスズランをけれど気にすることなく、ネーレーイスはそっとスズランの周りに出現させたシャボン玉に触れると、ふぅと妖精の吐息を吹き掛けました。
吐息はまるでキラキラと光の鱗粉を散りばめるようにシャボン玉を包み込むと、そのまますっと溶け込んでいきました。
「今、このシャボン玉に私の生命を吹き込んだから、暫くは海に入っても息ができるわ」
「シャボン玉がある間は海に飲み込まれないんじゃないの?」
「えぇ。決して飲み込まれたりはしないわ。けれど、酸素がないと生命は息絶えてしまうでしょう?そうならないように、シャボン玉に生命を吹き込んだのよ」
歌をうたうように滑らかに紡がれる言葉たちはスズランの耳にきちんと入ってきましたが、けれどネーレーイスの言っている言葉を理解するのはスズランには難しくて、よく分かりませんでした。首を傾げるスズランを、ネーレーイスは微笑ましそうに見つめるばかりで、それ以上の説明は望めそうもありません。だからスズランは素直に頭をぺこりと下げて、ネーレーイスに「どうもありがとう」とお礼を言いました。
きちんとお礼がいえるスズランに、ネーレーイスは満足そうに頷きながら笑います。
「それじゃ行きましょうか。お嬢さんの願いを叶えてあげるわ」
ふふっと軽やかな風のようにネーレーイスは笑うと、くるりと振り向いて海の方へと真っ直ぐ歩いていきます。スズランは慌ててネーレーイスのあとを追いかけましたが、ネーレーイスが魔法でだしてくれたシャボン玉のおかげで、ワンピースはおろか足元も濡れることはありませんでした。
***
海を歩いて、歩いて、歩いて、歩くと。自然と地面はなくなり、代わりに足のつかない海面がふわふわと底のない地面となっていきます。けれどネーレーイスもスズランも、海の底へ沈んでいくというよりも、海の底へ歩いていくというように、まるで洞窟を探検するかのような足取りで海の底へと進んでいきます。けれど、薄暗い洞窟と違い海の底は綺麗な魚や海藻、珊瑚に菟葵たちが、水面から入ってくるドラゴンの作り出した大華の光をあびて、宝石のように輝いています。
青と緑と赤の光を発光させるホタルウオの群れたち。
ゆらゆらと波に身を任せて自由にからだをくねらせるタユタイソウ。
ルビーとサファイア。それからエメラルドにダイヤモンド。アメジストにペリドットの原石を背負うヤドカリたち。
繊細なビロードをたばねたような菟葵たち。
スズランは本のなかでしか見たことのない生き物たちを自分の目で、からだで、近くで感じることができて、美しい海の世界の風景に心が自然とうきうきして弾みます。
アクアマリンの瞳はいっそう輝きをまし、丹念に磨きあげられた極上の宝石のようで、自然が作り上げる美とはまた異なる光を秘めたスズランに、ネーレーイスは静かに微笑みました。
海の景色と生き物たちに目を奪われているところに、頭に大きな金槌をもった鮫が突如現れてスズランの方へと向かってきました。スズランは突然現れた大きな鮫に呼吸を忘れてしまうほど驚いてしまいましたが、気がついたネーレーイスが機転をきかせてすっと小さな水流の道を作ってあげると、鮫はスズランに激突することなく、水流の道にそって大きなからだを、ゆらり。ゆらり。と揺らして泳ぎ去っていきました。
ネーレーイスはスズランの方を振り返ると、片目をきれいに瞑ったウィンクをスズランに投げて言います。
「海のことなら私はなんでもわかっているの」
海という世界はネーレーイスにとって、自分のからだの一部なのかもしれないとスズランは思いました。
もし、そうなのだとしたら、月魂もネーレーイスの一部になって、溶け合っているのかなと、スズランは鮫の突進から免れたことを安心する一方、月魂へ近づいていくことに鼓動を早くしていくのでした。
月魂は、もうすぐそこだと、ネーレーイスは相変わらず清らかな水のような声音で呟きました。