前編
潮風がスズランの赤のかかったキャラメル色の髪と、タンポポ色の帽子を撫でました。
スズランの髪色のことを鉄錆色などとつまらない揶揄いをとばすものもおりますが、少なくとも両親はこの髪色のことをそんな霞んで傷みきった無粋な色ではなく、口のなかでとろけて甘いハーモニーを広げる正方形の小さなお菓子。キャラメルの色と同じであると、スズランの髪は砂糖と生クリームが混ざりあい溶けあった甘やかな髪なのだといつも褒めてくれるのでした。そうしてスズランの肩より少し長く伸びた健やかな髪を母が手にとり、丁寧にブラシで髪を梳かして解しながら結ってくれたお下げ髪を揺らし、スズランは今日も元気に海へと遊びにきたところなのでした。
スズランの住む世界には月がなく太陽もないけれど、代わりに真ん丸の星が二つあります。片方は紫色。もう片方は浮き輪をつけたような桃色の惑星がぽっかりと空に浮かんでいます。
空には縦に横に斜めへと自由に大空を飛びまわる無数のドラゴンたちがいるけれど、桃色の惑星にむかってドラゴンが炎を吐くことにより世界を明るく照らす大華を作ってくれるので、誰もドラゴンたちを怖がったり怯えたり、嫌うものはいません。ドラゴンたちのおかげで今日も三日月形の小島には、あたたかい日の光が世界を包みこんでくれるのです。
夕暮れどきになると今度は海に住む大蛸がドラゴンの炎で燃え盛る大華目掛けて、巨大な八本のあしを使ってバケツをひっくり返すがごとく大量の海水をぶちまけます。そして明かりが静かになると、大蛸は紫色の惑星にむかって墨を吐くのです。
墨がべったりとついている間の紫色の惑星は、月の代わりにも太陽の代わりにもなりませんが、それでも住民たちにとって黒く染まった小惑星は夜の訪れを告げる存在となって、今日の終わりと明日の始まりを示す道標になるのでした。
人の何倍も大きなからだをもつドラゴンも大蛸も、だから人々の生活には欠かせない無二の存在で、世界の家族であるのだとスズランは思います。たとえ姿形は歪でも、同じ魂をもったもの同士で、いずれは同じひとつの器にいくのです。
スズランは昔から言い聞かされてきた古い昔話の言い伝えを素直に受け取り、このように考えているのでした。
(どんな姿の生き物もいつかはみんな同じところに、海にいって、そこでひとつになるの)
スズランはお気に入りの水色のセーラーワンピースが濡れることも厭わずにジャバジャバと豪快な水音を立てながら、ぐんぐんと勇んで海へと進んでいきます。
りんごの形をした迷子バッジが、きちんと結われたキャラメルのお下げ髪が、タンポポ帽子のつばが、水の揺れる音に呼応して、ゆらり。ゆらり。風と一緒に踊ります。
手にもっていた赤色のシャベルも、小さなバケツに入れていた玩具たちも放って、スズランは、ざばりざばりと小さなからだを海のなかへと浸していきました。
温泉に浸かるような一切の躊躇いもないそれは、まるで海に呼ばれているから行くのだと豪語しているようで、不気味なほど真っ直ぐな足取りです。
宝石のアクアマリンを嵌め込んだような、純粋と透明のまざった瞳は美しく、スズランがまだほんの数年しか生きていない子供である象徴の証として光をはなっているようです。
アクアマリンの瞳の先には海のマリンブルーが広がるばかりで、何もありません。けれど何もないのは表面上のことで、このマリンブルーの色に染められたキャンパスの底には、もっと広い広い世界が繋がっていることをスズランは知っているのです。
スズランが行きたいところは、マリンブルーの表海ではなく、マリンブルーの裏海なのです。
スズランは言い伝えにある海の月に、死んだものたちが最後にむかい集う場所。月魂に行きたいと、願っているのです。
***
─人は、死んだらどこに行くの?
きっと誰もが、どんな世界でも、どんな境遇でも、一度は不思議に思うことであるでしょう。そして、人が死んだらどうなるか、それは永遠に解くことのできない謎の一つでもあるのでしょう。だからこそ、人々は想像するのです。きっと死んだらこうなるだろうと。
あるところでは死んだら天国という場所にいって、そこで平穏無事に何不自由なく暮らすことができるといい、あるところでは死んだら地獄へいって生きている間に犯した罪の分だけ鬼に懲らしめられるといいます。
またあるところでは死んだら別のなにかに生まれ変わるために、大きな円環に吸い込まれて、そこで順番がくるまでぐるぐると回っていなかければないらないといい、あるところでは死んだら星や風になって大切な人を見守るのだといいます。
死んだら泡のように何もかもシュッときれいさっぱり消えてしまうというはなしもあり、一体全体どれが本当に真の答えなのかは、今を生きるものたちには甚だわかりはしないのでした。
ただ一つ、どの話にも共通するのは、死んだら、今ではないどこかにいってしまうということ。別の世界の扉が開かれて、その扉を開けなくてはいけないということ。その二つなのでしょう。
スズランの世界もそれは同じことであり、この世界では死んだものは魂だけになって、皆、海の月になるのだといわれています。
肉体という脱殻を置き去りにして自由になった魂は、皆、海の底に向かうのだと、その新しい世界で皆一つの月になるのです。そここそが月魂と呼ばれる場所であり、死者のために作られた居場所なのだと、古くから言い伝えが残されています。だから、スズランはどうしてもそこに行きたかったのです。そこに、行かなくてはならなかったのです。
ざぱん。ざぶん。じゃぼ。じゃざん。
スズランは歩みを止めることなく海の方へと小さなからだではすぐに海にのまれてしまうのも恐れず、いや、考えることなく進んでいきました。
水平線に見えるけれど地下には底知れない暗闇が続いているかもしれない海の奥を目掛けていき、ワンピースの裾が海水に浸りはじめたその瞬間、スズランの目の前に仄白い壁が写り込みます。
こんなところに壁があるなんておかしいなとスズランがこてんと小首を傾げると、目の前の白い壁から声がしました。
「もし、そこのキャラメル髪のお嬢さん」
壁が喋るわけがないのでスズランはびくりと肩を震わせて驚いてしまいました。それも、ひどく鮮明で透き通った美しい声であったものですから、余計に驚いたのです。
スズランは恐る恐る目線を上にあげてみますと、そこには人の顔がありました。
人。といってもその人物は人間ではなく恐らく妖精の類いなのでしょう。羽こそ見当たりませんが、耳が妖精の象徴ともいえる横に細く尖っている形をしており、水が流れるように流美な長い髪は空と水を溶かしたような水色で、瞳は海の喜びを集めたような煌めきを帯びた深い藍色をしています。
白い壁だと思ったものは、妖精の着ている無地のドレスワンピースだったのです。飾り気がないぶんその服はいっそう妖精そのものがもつ浮き世離れした相貌が際立って麗美にみえます。
一目みただけで美しい存在だと幼いスズランにもわかるぐらい、目の前の妖精は眩しかったのです。けれど、それよりもスズランは妖精が言った「キャラメル髪のお嬢さん」という言葉がなんだか堪らなく嬉しくなりました。
両親以外の他の人からキャラメル色と髪のことを表現してくれる人は、あまりいないからです。
妖精は美しいものを美しい言葉で話すのがうまいのでしょう。
妖精は水を具現化したような湿潤の美を誇った相貌を柔らかく崩すと、水の花が咲いた笑顔を浮かべて言いました。
「お嬢さん。そのまま海にいってはだめよ。人間が魔法もなしにそのまま海に入ってしまったら、たちまちぱくりと波に食べられてしまうもの」
妖精はスズランのぽってりとした丸くふくよかで柔らかな頬をひと撫でしながら言いました。
波に食べられてしまう。という言葉にスズランは再びびくりと肩を震わせます。
途端に自分が今さっきまで考えなしにここまで歩いてきたことが恥ずかしくもあり、恐ろしくもなったのです。
恐怖というのは多かれ少なかれいつでも気づいた後にやってくるのでしょう。けれど、恐怖の情念がわいてもスズランはそこから立ち退こうとはしませんでした。何故ならば、スズランは行かなくてはならないから。死者の魂が集まる場所。月魂。スズランにはそこにいるはずの、あいたい人がいるのですから。