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「やつら絶対に人間ではない……」
「じゃあ、一体……」
「化け物さ。きっとね」
「でも、大広間に戻って、どうするの?」
「秘密の地下通路から逃げる。こっちだ」
王子は、食堂に飛び込み、床のタイルを外し、その下に通じている梯子を指さした。
「ここが地下通路の入り口だ。もう時間がない。急ぐぞ」
二人は、鉄の梯子を下りて行った。地獄まで通じているのではないかと思わせるほどの深さだ。ようやく、下にたどり着くと、地下水が流れていて、もの凄い急流となっていた。王子と葵はその流れに飛び込み、勢いよく、下流へと流されていった。それはウォータースライダーのようなものだった。水の流れる道はくねりながら、どこまでも続いている。葵はその間、自分でも恥ずかしいぐらいの悲鳴を上げ続けていた。三十分ほどで、流れは緩やかになり、ふたりは洞穴内の岸に上がった。
「ここまでくれば、おそらくもう大丈夫だ。さあ、地上に出よう」
それは巨大な洞穴だった。王子が水に濡れても大丈夫な魔法のランプに火を灯すと、不気味な鍾乳洞の奇岩が赤々と照らし出された。
ふたりが外に出ると、岩だらけの荒野が広がり、頭上は一面の星空だった。
「あれはアルゴス城だ……」
王子は悲しげに呟いた。葵もそちらの方向を見ると、山の上に城が築かれていて、そこから黒煙と火の手が上がっている。落城だ。それはまさに香坂直紀が描いた絵、そっくりだった。
「お父様、無事かな」
と葵は、アオイ王女の気持ちになって、王子に尋ねた。
「わからない。しかし、これから、なんとかしなくてはならないだろう」
「どうするつもり?」
「ひとつ、考えがある。父上が若いころ、お世話になった賢者が、今も竜の寝床という名の洞窟の奥に住んでいるらしい。恐ろしくどう猛な竜がいるそうだから、生半可な覚悟では、その賢者に会うことはできないが、状況が状況だから、彼に相談するしかないと思う」
「どこにあるの、その洞窟って」
「ここから馬で、二十日ほどかかるだろうね。アオイ、君はどうしよう。これからの危険な冒険に付き合わせるわけにはいかない。でも、君をここに置いていくわけにもいかない……」
葵は、たとえ危険であっても、ずっと直紀君のそばにいたいと思った。ふたりは無言で荒野を歩いた。
その時、王子が何かを見つけて、驚きの声を上げた。
「なんだあれは……」
またしても時空がゆがんだのだろうか。何もない空間が縦に避けて、光り輝いている。その内側でさまざまな色の光が渦巻いている。だった。それは、ちょうど葵がこの世界にやってくる間に見た光景とそっくりだった。
(そうだ。きっと、カーネル・ダグラスが時空の扉を開けてくれたのね)
と葵は解釈した。
「直紀君……」
「だからね、僕はナオキではない」
「わたし、たぶん決断しなきゃいけない時なんだ」
「決断?」
「わたし、この穴の向こうの世界から来たの」
「まだそんなことを言っているのか」
「本当の話なの。わたし、直紀君が亡くなって、ずっと寂しかったんだ。そんな時に、カーネル・ダグラスって魔法使いに会ったの。彼のせいで、わたしはこの世界に落ちてきたのよ」
「カーネル・ダグラスだって……」
王子はその名前に覚えがあるらしく、それまでずっと疑っていたのに、その名を聞いた瞬間から表情が変わった。カーネル・ダグラス。実は彼こそは世界三大魔法使いのひとりだった。そして、カーネル・ダグラスなら、葵の言うようなとんでもない不思議なことも起こしかねないと思ったのだ。
「カーネル・ダグラスが、一体、何を……」
「わたし、分かってるんだわ。きっとこの中に飛び降りれば、わたしは元の世界に戻ることができるのね。彼は、わたしを連れ戻す気なんだ」
「アオイ、どうするつもりだ」
「安心して。わたし、決めたの。この世界にとどまるわ。ひとりで帰れるわけないじゃない。だって、ここに来て、直紀君と再会することができた。そして、これから直紀君が危険な冒険に出るというのに、私ひとりだけ日本に帰るなんてできない!」
葵は涙を流すと、王子に抱きついた。
「ねえ、ずっと寂しかったんだよ……」
王子は悲しげな顔をして頷いた。
「君の気持ちはわかったよ。でも、君が異世界から来た葵ならば、アルゴス王国の戦乱に巻き込むことなんて、できない。そして、君がたとえ異世界から来た葵だとしても、僕の妹であることには変わりないよ。大切な君を、こんな血にまみれた世界にとどまるべきではない。そうだ。君は元の世界に帰るんだ」
「そんな。わたし、この世界に残るよ!」
「妹よ。大好きな妹よ。僕はいつだって君のことを第一に考えている……」
王子は葵の体をぎゅっと抱きしめ、愛おしげに口づけをして、髪をそっと撫でると、
「お別れだ!」
と叫んだ。葵は王子に突き飛ばされて、時空の裂け目に落ちていった。
(いやあああああ!!)
葵は再び、時空を旅した。
葵が眼を覚ますと、そこは例の雑貨店だった。葵は絵の前に倒れていた。起き上がって、後ろを振り向くと、あのカーネル・ダグラスが椅子に座って、にこにこ笑っていた。
「どうじゃった。本当じゃったろう」
「ねえ、カーネルさん。わたし、この絵の中で、直紀君に会ったよ……」
「そうかもしれんの。絵の作者は、絵の中に自分の分身を描くことがよくあるのじゃ。そして、それは本人の死後も生き続けておるのじゃ」
「直紀君は絵の中で生きていた」
「そうじゃの」
「でも、この後、どうなるんだろう。直紀君は、竜の寝床という洞窟に行って、賢者に会わなければならないはず」
「ふんふん」
「私、また絵の中に戻りたい。私、直紀君の側にいたい……」
「それはできんよ。君には、現実の生活というものがあるのじゃ。それに向こうの世界はこれから大変じゃから、あまり関わらん方がいいよ。わしもしばらく、放っておこうと思う……」
葵は、名残惜しく感じたが、カーネル・ダグラスにお礼を言って、雑貨店を出た。
その翌日、葵は教室で授業を受けていた。国語の授業である。先生は芥川龍之介とフルトヴェングラーの類似性について語っていた。しかし、葵の頭に浮かんでくるのは直紀の顔ばかりだった。直紀が、あの後、どうなったのか、無事に賢者に会えたか、心配になった。彼を置いてきてしまった、その後悔にとてもつらくなった。自分の唇をそっと触る。最後の口づけの記憶がありありと浮かび、居ても立っても居られなくなった。
「もう、じっとしてられない!」
葵は立ち上がった。教室の生徒の視線が集まる。先生は注意しようとして、チョークを握って、近づいてきた。
「夕凪さん。なにを興奮しているのかね」
先生はチョークを投げた。
「直紀君!」
葵は、チョークを避けて、先生を振り切ると、廊下に飛び出た。親友の紗江が葵の名前を呼んだ。それでも、葵は立ち止まらなかった。そして高校の階段を駆け下り、通学路を走って、あの雑貨店に向かった。雑貨店では、カーネル・ダグラスが箒で床の掃除をしていた。
「忘れがちじゃが、箒は掃除のためのものなのじゃ。あ、葵君ではないか。どうした。何をしている。こら、待ちなさい!」
葵はあの絵に向かって走っていった。そして、カーネル・ダグラスの声を無視していた。
「戻ってはならぬ! その先には、多くの苦難が待っているのじゃぞ!」
葵は心の中で、
(上等だわ!)
と思った。どんな苦難が待っていようと愛している人の側にいたいのだ。
葵は絵に飛び込んだ。そして、色とりどりの光の渦の中に落ちていった。
(さあ、冒険は始まったばかり。これが私と直紀君の物語なんだ!)
葵はどこまでも落ちていった。その先には異世界がある。それは直紀の描いた世界なのだ。この後、ふたりがどうなったのか、どのような物語となるのか、それは読者の想像にお任せすることとしよう。青春に生きる、ふたりに幸あれ!
完




