6
葵はふらふらになりながら、城に戻ったが、王子が香坂直紀であったことで、すっかり頭が混乱してしまった。無理もないことである。しばらく、彼女は寝込んだ。そして、考えるようになった。アルゴス王国、日本。どちらが夢で、どちらが現実なのか。しばらく、召使いに話を聞いているうちに、直紀とそっくりな彼がローゼ王子と呼ばれていることも分かった。彼は、今は亡き前のお妃さまの連れ子で、アルゴス王の血は受け継いでいなかったが、王が男子を授からなかったために、彼を後継者として扱っているのだそうで、アオイ王女は現在の妃の娘であるから、彼女からしてみれば、ローゼ王子は血のつながらない義理の兄ということになる。
ローゼ王子とアオイ王女が親密な兄妹であったことは、葵にもすぐにわかった。ローゼ王子は、毎晩、欠かさず、葵の体調を尋ねに来たからだった。
香坂直紀とローゼ王子の外見の決定的な違いは、香坂直紀が日に焼けた肌で、黒髪のストレートだったのに対し、王子は色白の肌で、少しウェーブのかかった金髪だったこと、そして、その髪が水に濡れているように見えたことだった。また、王子の瞳には、エメラルドのような緑色の輝きが秘められていた。それでも、香坂直紀の顔と声はそっくりなのだった。
葵は、この一件から、自分がそれまで夢と思うようになっていた多くの思い出を現実と受けとめるようになっていった。
そのうちに、あの魔法使いカーネル・ダグラスのことを思い出した。そうだ、あいつのせいで、こんなことになっているに違いない、今度あったら、懲らしめてやる、と葵は思った。でも、直紀君と再会できたことは感謝しなければならない、とも思った。
ある日、葵の部屋に、ローゼ王子が入ってきた。王子は寝ている葵に覆いかぶさるようにして顔を覗き込むと、
「アオイ。体調はどうだい?」
と尋ねてきた。葵は何と答えてよいか分からなくなった。
「だいぶ良くなりました」
「可哀そうに。この兄との記憶はまだ少しも戻らないかい?」
「ええ。まあ」
「きっと呪いのせいだよ。大丈夫。僕がきっとその元凶を退治してあげるからね」
「元凶?」
「うん。君が記憶を失ったのは、きっとロドルフ・ヴァロンソフの呪いに違いない」
「その名前、市街でも聞きました。でも、あの、その人、何者なんですか」
「近頃、市民を扇動している活動家なんだ。革命主義者というのかな。酒場などで演説をして、アルゴス王の暴虐に反感をもつ貧民を自分の集団に取り込んでいるんだ。父上は市民の暴動を警戒して、公開処刑の頻度を増やしているが、そんなものは、かえって逆効果というものだ。しかし、僕の見た限りでは、ヴァロンソフには悪魔が憑りついている。もしかしたら、あいつの正体が悪魔なのかもしれない。そういう存在だよ」
「捕まえられないんですか」
「残念ながら。やつはまさに神出鬼没だ……」
ローゼ王子が、神妙な顔つきをしているので、葵は何と声をかけてよいのか分からなくなった。そして、いつか話さなければならないと思っていたことを告げようと決心した。
「ねえ、お兄様」
「なんだい」
「実はお兄様にずっと話さなくては、と思っていたことがあるの」
「うん」
「わたし、きっとお兄様の知っているアオイじゃありません。わたしは別の世界から来たもうひとりの葵なんです。だから、アオイ王女としての記憶がないんだと思います」
「なにを馬鹿な事を。君は僕の可愛い妹、アオイ王女だよ。可哀そうに。まだ疲れているんだね。おやすみなさい」
「ううん。疲れてなんかいない。ねえ、真剣に聞いて。お兄様。わたしの住んでいた世界はね、こことは大分違うのよ。このお城よりもずっと高い建物がぎっしり並んでいて、地平線が見えないの。街路では、馬がいなくても車が走るのよ。それと食事は二本の棒でとるのよ。階段は勝手に上下に動くし、携帯電話というものがあってね、それはまあ簡単に言えば、遠くの人とお喋りができる手鏡みたいなものよ!」
葵は、スマートホンを指先でいじる真似を必死に実演した。
「アオイ。落ち着きなさい。君は混乱している。今すぐモリソン医師を呼んで来よう」
「その必要はないわ。ねえ、聞いて。それだけじゃないの。お兄様はきっと直紀君なんだわ。そして、この世界は直紀君が描いた絵の世界なんだよ。直紀君こそ、記憶を失くしてしまっているんだ。直紀君は交通事故で死んでなんかいなかったんだわ。だって、遺体は見つかっていなんだもの。きっとこの世界にスリップしたんだよ!」
葵は興奮して、うわっと叫んだ。
「直紀君!」
葵は、たまらなくなって、王子に飛びついた。そのまま、ふたりは床に崩れ落ちた。そして葵はまたしても、意識を失った。
葵が、目を覚ました時、もう夜中だったが、やけに城の外が騒がしく感じられた。人の声、物音、馬のいななき、矢の飛ぶ音。葵は異変を感じた。何かが起こっている! バルコニーに駆け寄ると、墨を塗りたくったような闇夜であったが、城門の向こう側に群衆が押し寄せていて、城のいたるところから火の手が上がっていた。
(市民の暴動だわ……)
葵は、真っ青になった。お兄様が語っていたロドルフ・ヴァロンソフという男が市民を扇動して、起こしたものに違いなかった。
そうこうしているうち、城門は打ち壊されて、武装した市民が侵入してきた。城からは矢が雨のように降り注いでいて、市民は次々とハリネズミのようになって、倒れていった。そうしたことが松明の妖しげな揺らめきのなかで巻き起こっていた。
(逃げなくては、まずい……!)
葵は、ネグリジュを脱ぎ捨て、あの洋服屋から譲り受けた動きやすい町娘の洋服に身を包むと、大広間に飛び出した。蝋燭の明るさの中で、召使いたちが叫び声を上げながら走り回っていた。
「アオイ!」
葵が振り返ると、そこにはローゼ王子がいた。彼は左肩に傷を負っているらしく、血を流していた。
「この城はもう駄目だ。城外に逃げるぞ」
王子は、葵の手を掴んで、体を引き寄せ、口づけをすると、そのまま手を引いて、一目散に廊下を走りだした。廊下はうす暗く、足音が不気味に反響している。しばらくすると、前方から、甲冑を着た人影がふたつ近寄ってきた。
「敵だわ。あの甲冑、アルゴス軍のものではないもの」
と葵が恐怖を感じて叫ぶと、王子は、吐き捨てるように、
「そして、市民でもない。人間ですらない。ヴァロンソフが悪魔の類である証拠には、こいつらからは生気を感じない」
と言った。
王子は、剣を取り出して、甲冑の戦士に目にもとまらぬ速さの突きをした。しかし、敵の戦士は、それを難なく避けて、大きな剣を振りまわした。一陣の風が起こる。ローゼ王子はよろめいた。すぐさま、戦士は剣で襲い掛かってきた。
王子は間一髪のところでよけると、葵の手を引いて、元来た廊下を戻った。




