5
ロドルフ・ヴォロンソフとは何者なのか、葵はひどく気になった。そして、そのことを考えているうち、貧民街を抜けて、音楽広場という円形の広場にたどり着いた。そこには、軽快な音色が飛び交っていて、見ると、広場の真ん中で笛を吹いている男がいた。彼は痩せていて、小柄で、緑色の三角帽子をかぶった小人のような外見だった。よく見ると少なくとも二十代ではあるだろうという顔をしている。子供たちがまわりに座って、やんややんやと盛り上げている。
葵は子供たちの隣に座って、その音色に聴き入った。演奏が終わると、
「とても楽しい曲を演奏されるのね」
葵はそう言って、笑った。演奏に聞き入ったせいか、貧民街でのことで暗くなっていたのが嘘のように心が軽くなっている。
その男は笛を吹くのをやめて、にこりと笑った。
「おれはね、こうやっていつもここで笛を吹いているんで、笛吹きペリーって呼ばれてんだ。本当は仲間にオルガン弾きのハリスっていうのがいるんだけど、ここのところ、風邪でね。家で寝てるんだよ。だから、こうして俺だけで吹いてるってわけ」
「そうなの……」
「でも笛だけじゃ人集まんねぇよなぁ。本当に困ったもんだよ。これじゃいつまで経っても、パン一つ買えねぇよ」
葵は、ペリーに同情しながら、この仕事も面白そうだと思った。というのは、葵はオルガンが弾けたのである。そして、彼女も城から抜け出したからには、稼がなければならないのである。
ペリーの後ろに大きな木製のオルガンが置かれていた。それは、葵の知っているオルガンとは少しだけ違う造りになっていたが、演奏法はたぶん変わらないものと思えた。
「ねえ、私が弾いてあげようか」
「えっ、お嬢さん。オルガン、弾けるのかい。嬉しいねぇ。じゃあ、早速、頼むよ」
葵はにこにこ微笑みながら、木の椅子に座り、オルガンを演奏し始めた。葵の知っているオルガンとは少し違う音色がしたが、気にするほどのものではなかった。
葵は完璧なリズムを刻みながら、柔らかな音色をいくつも重ねていって、即興演奏を始めた。
「いいね。俺も吹かせてもらうぜ!」
ペリーもそのオルガンの音色に合わせて笛を吹いた。ふたりは完全即興で、互いに掛け合いをしながら、素晴らしいインタープレイを披露した。
瞬く間に、葵とペリーの演奏は評判になった。富裕層はもちろん、貧民街からも多くの人が集まって、広場は一杯となり、拍手喝采となった。銅貨や銀貨が投げ込まれた。その晩、ふたりは山積みになった貨幣を腹に抱えて持ち返った。葵はペリーの家に泊まり、ふたりは貨幣を使って、お腹いっぱいステーキとパンを食べた。そして、明日もペリーとともに演奏を披露することにした。
「ありがとよ。葵っち。こんなにお腹いっぱい食べたのは何年ぶりだろうな」
ふかふかの布団の中でペリーは笑った。葵は寝る場所がないので、床に転がっていた。
翌朝、広場には多くの人が詰めかけていた。
「それでは皆さん、今日も一日、お楽しみください!」
葵はそう言って、オルガンを演奏した。
その頃、赤い軍服を着た兵隊が、貧民街や商店街を走りまわっていた。失踪したアオイ王女を探していたのである。ちょうど兵隊たちが音楽広場にたどり着いた時、葵は最高にノっていて、肘を使って、オルガンの鍵盤を叩くようにして、音を鳴らしているところだった。その様子を見て、兵隊たちは彼女が狂ってしまったのだと思ったのだろう。たちまち二人は囲まれて、葵はペリーから引き離された。
兵隊はペリーの魔術師のように思ったことだろう。王女を誘拐したのはこいつだ、とばかりに、
「その男をひっ捕らえろ!」
と隊長が叫んだ。
兵隊はあっという間にペリーを捕まえて、どこかに連れて行ってしまった。葵は叫んだ。
「ペリー!」
しかし、その声は虚しく宙に消えていった。
ペリーは王女を誘惑した罪でアルゴス王の怒りを買い、中央大通りの広場で、公開処刑されることとなった。広場には無数の民衆が集められた。その中央には恐怖に震えたペリーとおぞましき絞首台があった。
「笛吹きペリーは、王女をたぶらかした張本人だ。よってここに死を与える!」
アルゴス王は騎馬に乗っている。彼は、憎しみのこもった声を上げた。民衆からは好奇心に満ちた下劣な歓声と、嘆きの悲鳴が同時に沸き起こる。
「やめてぇ!」
葵は慌てて、止めようとしたが、屈強な兵隊に捕まって動けない。
「ここに魔術師の穢れた血が流れることだろう!」
アルゴス王は叫んだ。
観衆のどよめきが大きくなっていった。殺せ、殺せ、の大合唱。ペリーの震えたまなこが瞼の中を頼りなくさまよっている。死刑執行人がペリーの肩を掴む。今、ここに死が訪れようとしている……!まさにその時だった。
「その処刑、まてっ!」
そこに騎馬隊が走り込んできた。それは、トロール退治を終えて帰ってきた一団であった。
「その処刑、お待ちください。父上はご乱心と見える。なぜまた庶民の命を奪おうとなさるのか!」
そう叫ぶ声は若々しかった。黒く艶やかな馬に乗っているのは、まだ十代の男子と見える。葵はその姿を見て、驚愕した。
(そんな……!)
その男の顔は、香坂直紀と瓜二つだった。髪こそ、金髪であるが、直紀とそっくりな鼻筋の通った美男子である。
「ローゼ。お前がなんと言おうと、このアルゴス王の怒りは収まらん。そのペリーという芸人は、アオイをたぶらかし、街に連れ出した悪党だ!」
「ならば、そのペリーという男が、あのアルゴス城の門を越えて、アオイを直接たぶらかしたというのですか」
「そうだ。そうでなくて、アオイが城外に出るはずがない」
「それは不可能だ。アオイはきっと自身の判断で城から抜け出したのでしょう。この男に罪はありません!」
「アオイが自分で城から抜け出しただと! そうなのか。アオイ!」
葵は兵隊を振り払って、王の前に歩み出ると、平伏した。
「お父様。申し訳ございません。わたし、もうお城の生活が嫌になって、ひとりで抜け出したんです。煮るなり、焼くなり好きになさいませ。だけど、ペリーはお許しください」
「なんてことだ。ええい。そのペリーという男を離してやれ。しかし、アオイ。お前に罪はない。罪があるのはお前を外に逃がした門番だ。わたしは城に帰る!」
アルゴス王はそう叫ぶと、馬を走らせて、家臣を引き連れて、城に帰った。
王子は、黒い馬で葵に駆け寄り、飛び降りて、葵をぎゅっと抱きしめた。
「愛しい妹よ。長い間、寂しい思いをさせてしまったね。でも、どうして、城から抜け出したりしたんだ……」
葵は、ローゼ王子の顔をまじまじと見つめた。たしかに、香坂直紀なのだ。しかし、こんな不思議なことがあるだろうか。葵は訳が分からなくなり、涙を流し、直紀の胸に顔を埋めて、そのまま、体重をすっかり彼に預けた。へとへとに疲れてしまったのである。




