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葵が再び目を覚ました時、目の前には白髪をカールしている医者らしき男の顔があった。目を大きく見開いて、凄まじい顔つきである。
「お目覚めですかな。王女さま」
「ええ。でも、あなたは一体……」
「わたしは医師のモリソンです。わたしの顔をお忘れかな」
「わたし、あなたのこと、知らない」
モリソン医師は、悩ましげに唸ると、後ろを振り返った。そこには多くの人々がいた。皆、中世のヨーロッパ人のようだった。その中でも、黒い顎髭を生やした厳しい顔つきの大柄な男が、葵のもとへと駆け寄ってきた。
「おお、我が娘、アオイよ。どうしたのだ。もしや、この父のことも忘れてしまったのか」
葵はそう言われて驚いた。
この人がお父さん……? いや、そんなわけないだろう、だって、わたしの父親は、あまり繁盛していないラーメン屋の店主で、塩ラーメン風味の味噌ラーメンをつくっていて、もっと小柄で痩せているはずなのに、と葵は混乱する。
「あの、誰ですか……」
その大男は目を見開いて、唇を震わせた。
「なんてことだ。呪いだ。呪いをかけられたのだ。悪魔だ。きっとそうに違いない。アオイの記憶を奪い去ったのは、悪魔か。わしがこれまで滅ぼしてきた敵国の王家の亡霊か……。それとも、あの岩山に住む魔女の仕業か…….」
その大男は、うおっと叫んで、剣を抜くと、一目散にバルコニーに飛び出した。
「死んでしまえ!」
剣を空に向かって投げた。途端に、けたたましい魔女の笑い声が空に響いた。それはなんとも不気味な嘲けりの声だった。
「王様。不吉です。窓を閉めましよう」
モリソン医師は、王様を室内に連れ戻すと、扉や窓を全て閉めた。
「教会の神父に悪魔祓いをしてもらいましよう。そうすれば、呪いが解けて、王女の記憶は戻るかもしれません」
「そうですよ。王様……」
そうだ、そうだ、と集まっている人々は口を揃える。
「そうかね。それなら、ひとまず、そうするとしよう。しかし、わしは悲しい。わしは夢中で、敵国を滅ぼし、大地に巣食う悪魔や魔物を倒して、現在の国家を築いた。そのためにはどんな殺戮も戸惑わなかった。それというのも、我が娘、アオイのためだったのだ。わしはアオイがなによりも大切だった。だのに、こんなことになってしまって……」
そして、目の前の大男は、涙をこぼし、机に拳を叩きつけ、唸り声を上げた。
後で葵は知ったのだが、彼こそ一代でこのアルゴス王国を築いた暴君、アルゴス王であった。
その日のうちに教会の神父による悪魔祓いが行われたが、まったく成功しなかった。
それからというもの、葵の記憶を蘇らせるため、毎日、モリソン医師によってさまざまな昔話を聞かされた。しかし、それは、葵には聞き覚えのないものばかりだった。
かつて、この荒廃した大地には四つの王国があったという。北のローレル王国、東のバンシン王国、西のフレンツァ王国、南のインゴル王国。それぞれ、素晴らしい文明を築き上げ、百年もの間、世界は平和であったという。
アルゴスは、フレンツァ王国の城下町にあるパン屋に生まれた。ちょうどその頃、フレンツァ王国とローレル王国間で、深刻な対立が起こった。
彼は志願してフレンツァ軍の兵士となり、フレンツァ王国とローレル王国との戦争に参加した。この戦争の中で、フレンツァ王国は壊滅的な打撃を受け、同時に、悪化した政治状況の中で、フレンツァ王国の王室の腐敗っぷりが、国民の知るところとなった。アルゴス王は軍に不満を持つ兵士を集めて蜂起し、いくつかの城を攻略して、独立を宣言し、アルゴス王国を建国したのである。
その後、アルゴス王は、四方の王国と絶えず、戦争を繰り返したが、その知性と残忍な性格により、負け知らずで、ついに大地の大部分をアルゴス王国が占めるようになり、現在に至る。
そんな話を聞かされても、葵は何がなんだか、分からなかった。葵は自分が日本にいたことを説明したが、病気と判断されて、誰にも信じられなかった。そのうち、自分の日本の記憶が本当に幻想なのではないか、と思うようになってきた。
何日か、このアルゴス城で生活を続けるうち、葵は自分が本当にこの王国の王女であったような錯覚に陥った。自分は本当に記憶喪失の王女で、あの日本という国での生活を夢の中の出来事と信じるようになったのだ。
葵は、光り輝くダイヤモンドのネックレスを首にかけ、美しい純白のドレスを身にまとい、花の香水をつけて、優雅な晩餐会や舞踏会に毎晩、訪れるようになった。アルゴス城の中庭には、色とりどりの薔薇が咲き誇っている。それはまるでルノワールの絵画の世界に飛び込んでしまったみたいに華やかな眺めだった。城内は、大広間がいくつもあり、そこには大理石の床が広がり、高い天井にはキリスト教の宗教画が描かれ、純金と宝石の散りばめられたシャンデリアが光り輝いている。絵画や彫刻が無数に飾られた巨大な宮殿であり、探検していると時が経つのを忘れた。
葵は、晩餐会など、マナーはすべて見よう見まねであったが、王女が記憶喪失となったことはすべての参加者が知っていたので、多少の粗相も見過ごされた。人々は皆、葵に優しかったのである。
葵は、しばらくの間、この生活を堪能した。
そのうち、不満になり始めたのは、毎晩、葵は硬いパンとオニオンスープと七面鳥や鶏の丸焼きとプティングケーキを食べことだった。スープはパンプキン味のものになることもあるし、メインディッシュもソーセージや魚料理になる日もあるが、大体、毎晩似たような料理の繰り返しだったので、だんだん飽きてきた。
(なんだろう。わたし、味噌汁とご飯が食べたい。でも、この気持ちはなんなの。だって、あれは夢の中の料理なのに……)
葵は、毎日の入浴にも不満を持つようになってきた。古代ローマの建築物のような巨大な浴室の真ん中で、泡だらけの浴槽に浸かって、召使いに体を洗われていると、葵は、どういうわけか、夢の中で入っていた温泉にどっぷりと浸かって鼻歌でも歌いたいと思うようになっていた。
(どうすれば、いいんだろう。この気持ち……)
葵は、だんだんと城の生活に飽きてきた。記憶を喪失したにせよ、幼い頃から自分がこの豪勢な生活を続けてきたようにはとても思えなかった。そのうち、城下町に出れば、少しは気持ちが癒されるのではないか、という気がしてきた。この城での生活は、わたしには合っていないのじゃないか、と思った。




