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「その絵が気になるのかね」
葵が振り返ると、珈琲の注がれた白いカップを右手に持った先ほどの老店主が、じっとこちらを見つめていた。
「この絵は、どうして、ここに……?」
「ふん。理由なんてないわい。その絵は、運命に流されて、その壁にたどり着いたのじゃ。その運命の正体は分からない。運命とはそういうもんじゃ」
「でも……」
「まあ、座りなさい」
葵は言われた通り、椅子に座って、渡された珈琲を一口飲んだ。珈琲の深い味わいに舌が包まれ、上品な香りが鼻を抜けてゆく。
葵は、珈琲を味わうと、すぐに老店主に尋ねた。
「あの、この絵は、わたしの幼馴染の、香坂直紀くんが描いたものなんです。直紀くんは一月前に、交通事故で亡くなりました。わたし、それからずっとこの絵を探していた気がするんです。どうして、この絵がここにあるのか、教えていただけませんか?」
白髭の店主は、しばらく真面目な顔をして、なにか考え込んでいたが、向かい側の椅子に座り、しぶしぶ語り出した。
「いいかね。この絵はわしが購入したものではない。誰に譲られたというわけでもない。というより、この店がこうしてこの地にやってきた時には、この絵はすでにここにこうしてかかっていたのじゃ」
「どういうこと……?」
「お嬢さん。こう考えるのじゃ。店が先にあって、そこに絵がかけられたのではなくて、絵が先にあって、その後にこの店ができたのじゃ」
「わけわかんない……」
店主はめんどくさそうに頭をぽりぽりと掻いた。
「わけわからん話をしてるんじゃよ。わしだって、わけわからんのじゃ。大変なもんじゃよ。でも、事実はそうなのじゃ。絵が先じゃったのよ。いいかね。この絵は想像力の源なのじゃ。多くのものをイメージし、世界をつくった」
「うん」
「絵は、ひとつの世界をつくったのじゃ。それのみならず、この店も、実は絵に描かれたものじゃよ」
「このお店は、絵が生み出したものだとでも言うの?」
葵はわけが分からず、不満げに尋ねた。老人は、その響きを感じ取ったらしく、
「ふん。信じられんのなら、信じんでもいいよ」
と言って、その場から立ち去ろうとした。葵は立ち上がって、老人を止めた。
「ねえ、教えて……。このことで、直紀君のことが少しでも分かるかもしれないんです。おじいさんが言うことをちゃんと信じるから」
葵は、必死になって言った。可憐な女子高校生に詰め寄られて、老人は頬を赤らめて、三角帽子を外し、長い白髪を撫でた。
「真剣な表情じゃの。真剣なものに嘘はつけんわい。実はわしは、この絵の中の住人なんじゃ。そして、この雑貨屋も本来は絵の中のものだったのじゃよ」
葵は、老店主の姿をもう一度眺めた。
「じゃあ、おじいさんは本物の魔法使いなの?」
「そうじゃ。わしの名前は、カーネル・ダグラス。またの名前は白髭。城下町でちょっと名の知れた魔法使いじゃった。しかし、不思議なことが起きた。絵の中と外の境界線が突然、曖昧になってしまったのじゃ」
カーネル・ダグラスは不満げに唸った。
「それは何故。作者の直紀君が、死んじゃったから……?」
「それは分からん。でも、その可能性はある。この店は、こんな異世界に店舗を構えることになってしもうた。ちなみにここにもともとあったというスポーツ用品店はどこにいったか知らん。なんにせよ、お嬢さん。わしは正直、困っている。先ほどから、この店にさまざまな客が訪れて、雑貨や玩具を購入してゆくが、正直、わしはそんなことをしている場合ではないのじゃ。この店を絵の中に戻さにゃ、しょうがないというわけ」
「そうなのね」
「しかし、最悪の状況ではない。店は戻せんでも、わしひとりだけなら、いつでも絵の中に戻れるんじゃ」
「………」
葵は、すぐには実感がわかなかった。
「絵の中に戻るには、どうするか、分かるかね」
「どうするの」
「飛び込むんじゃよ。こうやってね」
「えっ」
カーネル・ダグラスに後ろから突き飛ばされて、葵は絵の中に入った。カーネル・ダグラスの声が響く。
「そんなに絵のことを知りたいなら自分で見てくるのじゃ!」
そこはとてつもない渦巻きだった。それはこの世のありとあらゆる色を揃えたような渦巻きだった。葵は叫んだ。そして、葵は絵の中に落ちて行った。
葵は目を覚ました。目の前には、フリルの沢山ついた桃色のカーテンが垂れ下がり、その向こうには、四角形や円形の枠の中に、キリスト教の天使たちが舞い踊っている絢爛の天井があった。自分はベッドの上、布団の中にいるのだと分かった。なんだ。すべて夢だったんだ。そう思うと、葵はほっとして瞼を閉じた。
(でも、おかしい。私の部屋は、和室のはず……)
葵は跳ね起きた。そこは四角形の大きな部屋で、桃色と白が基調の、ごってりとした装飾がなされていた。まるでどこかの王室の寝室のようだ。並んだ大きな窓の外には、バルコニーがあり、その向こうに青い空が見え、柔らかな朝日が室内に射し込んでいた。
(ここは、わたしの六畳間ではない。そんな、なんで?)
葵が、立ち上がると、いつもの体操着みたいなパジャマではなく、白いネグリジェを着ていることに気づいた。
(どういうこと。これって……)
その時、扉が開いて、使用人と思われる女性が入ってきた。
「あら、もう、お目覚めですの。王女さま。いつもお昼過ぎまで寝ていらっしゃるのに……」
使用人は、栗色の髪のヨーロッパ人風の外見をしている三十代の女性だった。
「王女さま? わたしが……」
葵は、わけが分からず首を横に振った。そして慌てて説明しようとする。
「わたし、王女なんかじゃない。どこにでもいるような女子高校生の葵です。ねえ、教えて。ここはどこなんですか?」
「ここはどこって、ここは王様のお城ですよ。王女さま、まだ夢を見ていらっしゃるの」
「王様って、誰……」
「王様は、あなたのお父様ではありませんか」
「お父様? 違う! うちのお父さんは、王様なんかじゃなくて、ラーメン屋の店主よ!」
そう叫ぶと、葵は気が遠くなってゆくのを感じた。視界から女性が消え、天井の装飾が見えたかと思うと、真っ暗になった。




