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雑事屋、ことはじめ  作者: 一枝 唯
第1章
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01 酒場の下働き

 何が起きたのか、何が起きているのか、さっぱり判らなかった。

 少年の頭のなかは真っ白になって、身体も完全に固まってしまった。

 ただ鼓動だけが激しく高鳴って、「大変なことが起きた」と彼に教えようとしていた。

 見知らぬ部屋。見知らぬ寝台。見知らぬ女の――死体。

 何も見たことがない。何も知らない。何も判らない。

 いや、そうではない。ひとつだけ、見覚えのあるものが。

 床に転がっている、血まみれの刃物。

 それは確かに、彼のものだった。


 ――季節は次第に秋へ向かおうとしていた。

 長かった昼は少しずつ短くなり、街の景色もどこか落ち着いてくるようになる。

 湾の奥に位置するこの街は穏やかな気候で、真冬になっても厳しい寒さとは縁がない。だから、木々がみな葉を落とすこともなければ、人々が冬支度に追われることもなかった。

 けれどそれでも変わりゆく季節というものは、変わらぬ日常にちょっとした彩りの変化をもたらした。屋台からは冷たい食べ物が消え、蒸籠から湯気が立ち上るようになる。道行く女性の身を包む衣服は、花弁で染めた華やかな色で露出の高いものから、樹皮や紅葉の色合いをして袖の長い――ふたつの意味で――刺激の少ないものになっていく。

 女性に関する後者の現象を残念なことだと語る男もいれば、妻や娘におかしな視線を寄越す者が減ると安堵する男もいた。

 街を走るひとりの少年には、娘はもちろん妻も恋人もなかったが、女性の外見(そとみ)についてどうとか言ったり、肌を出している若い女を見てにやにやしたり口笛を吹いたりすることはしなかった。

 小さな酒場の下働きは忙しいのだ。女性に見とれて新鮮な魚を買い逃したと知れたら、店主から説教を食らう。それに彼はまだ、色気のあることを考えるよりも走り回っている方がずっと楽しい、そういった成長段階であった。

「おっちゃん! まだオール魚のいいやつある?」

 波止場にたどり着くと、少年は元気よく漁師(オウィト)に声をかけた。

「おう、クレスか。お前さんのためにとっといたぞ」

「まじ? 助かったあ」

 クレスと呼ばれた少年は、年の頃十三、四に見えた。実際には成人たる十五歳を越しているのだが、身体つきがあまりしっかりしていないせいで、幼く見られるのだ。

「幾ら?」

「その箱の分で銀貨(ラル)十二だ」

「もうちっと、負かんない?」

 クレスはねだるように両手を合わせた。だが漁師は首を振る。

「いい品だよ。バルキーが相手じゃなきゃ、もう五枚は要求するとこだ」

「五枚は言い過ぎだろ」

 焦げ茶の瞳をきゅっと細めてクレスが言う。ばれたか、と漁師は豪快に笑った。

「だが、十二の線は譲れんな。何もお前さんをガキと侮るんじゃないぞ。バルキーがきたって一(スー)も負からん」

「判ったよ、あんたの取ってくる魚は傷が少ないってバルキーの気に入りなんだ。もらってくよ」

 そう言って少年は腰の袋からラル銀貨を取り出した。漁師は数を確認し、それじゃまたなと踵を返す。クレスは、それを見送ることなど特にしないで残された箱に向かった。

 黒っぽい髪は乱雑でばさばさとしており、少し剛い感じがある。毎朝、丁寧に櫛を入れてなどはいなさそうだったが、不潔な感じはしなかった。いくら、彼の働く〈赤い柱〉亭が品のない一画にあり、客に小汚い連中が多いからと言って、調理に関わる場所で働く人間までそうしていては評判は落ちる。気取って飾り立てる必要はないが清潔であれ、というのが店主兼料理長たるバルキー親父の台詞だった。

 クレスの体格は、あまり立派ではない。はっきり言えば、貧弱だ。

 だが、荷運びなどは慣れたものだった。バルキーに拾われるより前に働いていた――と言うより、無理に働かされていた隊商(トラティア)では、面倒なことはみんな彼に押し付けられた。まだちっとも身体のできない内から重いものを運ばされたのだ。

 ならば筋力がつきそうなものではあるが、非道な連中は子供に最低限の食物しか与えなかったので、クレスはバルキーに出会うまでずいぶん痩せていた。いまでこそ骨と皮というようなことはなかったが、まだ骨格に見合うだけの筋肉はついていない。

 何も戦士(キエス)のような肉体を持ちたいと思う訳ではないが、せめて貧相などと思われないだけの体つきになりたい、と少年は願っていたものの、なかなか現実は希望に追いついてくれなかった。

 だがそれでも、或いはそれだからこそ、クレスは腕力に任せるだけでない荷運びのコツを知っていた。あまりに重ければ単純に能力の限界を越えてしまうが、これくらいならばどのようにでもできた。腕に頼ることなく腰で持つ、というやり方は誰に教わった訳でもなかったが、いつしか習得していた。

 そのコツとともに木箱を抱えて店へ急げば、通りでは馴染みの顔が挨拶をくれる。両手がふさがっていれば手を振ることもできなくて、彼は声を出したりうなずいたりすることで挨拶を返しながら、店へと急いだ。

「バルキー、戻ったよ」

 クレスは裏口の前で叫びながら、箱を持ったままで強引に取っ手を回すか、それとも一旦その場に置くべきか、一(リア)逡巡した。

 だが少年は、どちらもする必要がなかった。内側から扉が開けられたからだ。

 そこに四十過ぎほどで、年齢によく似合う程度に太目の店主兼料理長の姿があるであろうと想像をしていたクレスは、目を見開いた。扉を開けたのは、全く見覚えのない、若くて細い男だったからだ。

 客であれば見知らぬ相手でも不思議ではないが、裏口を使って出入りするのはたいてい店の人間だった。大きな店ではないから、新参のクレスであっても、旬に一度しかやってこない給仕娘の顔までみんな覚えている。

「ご苦労さん。バルキーがお待ちかねだ」

 見覚えのない男は、だが気軽にそう言った。店主の名がさらっと出てくるということは、その友人というところだろう。クレスの父親ほどの年齢であるバルキーの友人にしては若いが、酒場の店主というのは付き合いが広い。バルキーに老若男女を問わず仲のよい人間がいることは知っていた。

「ああ、あんがと」

 そう思ったクレスは特に誰何(すいか)をすることなく、感謝の仕草をしようとした。だが、やはり両手を箱に取られたままではどうにも難しい。

 少年は気持ちだけでも伝えようと手指を動かしてその真似事をし、男が笑ったのを見て向こうがその動きに気づいたことを理解すると、笑い返した。

「クレス、こっちだ」

「はいよ!」

 少年は元気よく返事をして、厨房の奥へと魚を運び込む。どさりと床に落とすようにすれば、叱責が飛んできた。

「こら、クレス。せっかくのいい材料をここにきて痛めるんじゃないぞ」

「ごめんごめん、店主(セラス)

 少年は慌てて謝罪をした。

「さ、怒らないで仕事にしよう。何しろ、『一(トーア)でも早い仕込みが鮮度を活かす』だろ?」

 バルキーの口癖を引用すると、男の顔が緩んだ。

「よし、判ってるじゃないか。今日もしっかりな」

「おうっ」

 勢いよく返事をしてクレスは腕まくりをし、ふと背後を振り返った。見知らぬ男は、少年と入れ替わるようにもう小さな戸口を出て行っており、もういない。

「あれ、誰?」

「ん? ああ、いまの若いのか。ただの売り込みだよ」

「売り込み?」

「自分を雇わないかと言うのさ。だが、うちは手が足りてると断った」

 そう言うと店主バルキーは、少年に笑いかけた。

「お前さんも、立派にやってくれてるしな」

 褒められて少年は嬉しくなり、魚の鱗を取る面倒な作業に元気よく取りかかった。


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