開戦 前
城壁上から石段を下り、街道に停めてある馬車のタラップを登っただけで、イスカンダリア候国冒険者ギルド長、シグマイネンは息を切らし、滴った汗で彼はしきりに目をしばたたかせた。
「母様はともかく、苦手なんですよねぇ。クープ先生は……」
控えめなノックの後、シグマイネンは中の様子を窺うために耳をそばだてた。
「はあい」
客室内部からミスランティアの返事が返ってくる。
シグマイネンは汗を拭い、ちょび髭を撫でつけて身なりを整え、エヘン、オホンと咳払いをした後、ドアを開いた。
「いらっしゃいエステル」
赤ん坊を抱きかかえたミスランティアが、笑顔でシグマイネンを迎える。
母乳由来だろうか、甘い匂いがキャビンに充満している。
客室の隅に悪魔貴族クープもいたが、彼は小さなちゃぶ台を出して胡座をかき、紅茶を飲んでいる。
彼の姿が、見慣れたワシ鼻山羊髭の老人ではなく、青年貴族のようだったので、シグマイネンは少したじろいだ。
クープのすぐ横には、薄着にエプロンを付けた、かなりグラマーな悪魔が、ティーポットを盆に乗せて控えていた。
「ミスランティア。此処にはあなたに『エステル』と名付けられたら者が何人もいますよ。彼は独立後、イスカンダリアの重騎士シグマイネンと名乗っています」
クープが紅茶をすすりながら指摘する。
「そうでしたねシグマイネン。そして今はあなたがエステルでした」
ミスランティアは腕に抱く赤ん坊に視線を落とし、語りかけるようにそう言った。
「敵の先触れが来たようです。私とハインツ猊下で相手をしますので、先生と母様はここでお待ち下さい」
キャビン内部にはシグマイネンが入り込む余地はなく、彼は半身を入れてそう言うと戸を閉めようとした。
するとクープは片手をあげシグマイネンを留め、立ち上がるとミスランティアの頭に手を置いた。
「ああ、ミスランティア。少し外の空気を吸ってくるよ。君は……」
クープの問いにミスランティアはフルフルと首を振った。
「……だろうね。ギリニカ・マグルス。ミスランティアと赤子を頼む」
クープは控えていた豊満悪魔に声をかける。
「はっ、我が命にかけて」
お盆を脇に挟み敬礼をする悪魔ギリニカに見送られ、クープとシグマイネンは馬車から離れ、喧騒の増す城壁方面に歩き出した。
「ミスランティアはもう限界だ。恐らく赤子を抱くことで、なんとか理性を保とうとしている。……月が満ちる今夜、吸血鬼の狂気は最高潮に達するからな」
馬車から数歩離れて、クープは歩きながら、そうシグマイネンに伝えた。
「吸血鬼の『月狂』を抑えるには、ククルカンの秘法が必要です。クープ先生。デルモンド僧正は何処?」
「あそこの崖の洞穴の奥が、ドワーフの廃坑になっていてな、門番竜の血族が巣くっておる。デルモンドは今、護衛の冒険者と共に中を探索中だ」
クープがそう告げると、シグマイネンは嘆息し、頭を振った。
「お、面白そうなダンジョンだったものでな、私とミスランティアでそそのかしたら、あ奴、勇んで行ったのだ」
「クープ先生!」
悪事の発覚した悪戯小僧が下手な言い訳をするように、口を曲げてクープがそう言うと、シグマイネンはたまりかねて声を荒げた。
『ドォォン!』
時を同じく、城壁上部で火球が爆発し、凄まじい爆音が鳴り響いた。
「魔法障壁に火球が当たったぞ」
「ハインツ猊下があそこ、城壁にいます。かなり遠方から撃たれたようですね。直ちに向かいましょう!」
シグマイネンはイスカンダリア候国側にある、城壁上部に続く石階段へ向かおうとしたが、クープに首根っこを掴まれ制止された。
「シグマイネン。久し振りにお前の戦いぶりを見てみたい。一緒に城門から打って出て斬り込もうではないか」
「ですが先生! デルモンド僧正が戻らぬ場合、ハインツ猊下が『制月狂の修法』を執り行う必要があります。矢面に立たせるのは……」
「だからこそよ。私達で前線を押し戻し、ハインツを射程から外さねばならん。あそこには私の配下ゼルギス・ヒルギンドオルがいる。護衛は彼女に任せよう」
クープに説得され、シグマイネンは武器を取りに城門にある詰め所に向かった。
「ハインツはミスランティアの心臓を握っておる。アレを使わせる訳にはいかぬ」
ヒイヒイ言いながら走るシグマイネンの後ろ姿を眺めながら、クープは呟いた。
火矢と火弾、火球が次々とデール候国側撃ち込まれる門楼に、悪魔弓姫ゼルギス・ヒルギンドオルが姿を現した。
黒い皮ベルトを体に巻き付けただけの、服とも呼べない装束をまとい、手には大きな目玉の付いた不気味な大弓を携えている。
彼女が弦に人差し指と中指を掛けると、丸めた薬指と小指には、いつの間にか先端が膨らんだ長い矢が握られていた。
「古風だな。嚆矢を放つか」
クープが見守る中、ゼルギスは大弓をデール候国方面の上空、斜め上に構え、矢を引き絞った。
彼女の腕は何故か倍くらいに伸び、大蛇のような筋肉か膨らみうねっている。
『ヒィッ!!』
間をおかず矢が放たれた。
『ィィィィィィイイイイイイイイーー』
先端が笛のように加工された鏑矢は耳障りながら金切り声をあげなから、クープからは城壁で見えないが、恐らく迫る敵軍の上を飛んでいった。
それを皮切りに城壁の上から次々に矢が放たれる。
峠を巡っての戦いが始まった。




