プロローグ
「そんな…これを、一体誰が、どうやって…?」
ただ一人の学生・砂村ヨウの他には誰もいない測定室。
ところどころシミの入った白衣を羽織ったヨウは、たった今、自らの測定した結果が信じられないといった様子で思わず独り言を漏らしていた。
慌てて自らの受け持つクラスの名簿をめくる。
「D班…塩山…いちか…」
ヨウはふうっとため息をついて暫く考え込んだ後、再現性確認のための測定準備に取り掛かった。
「問題は合成方法だな…」
数時間後、砂村ヨウは電話で弟を大学の談話室に呼び出した。
ヨウは測定したデータを見せながら言った。
「ケイ、これを見てどう思う」
ヨウの双子の弟であるケイは、ヨウと同じ大学の大学院生として研究している。
専門はヨウと異なり物理学だが、お互いの研究について意見を交換し合うのは2人の日課であった。
「どうって…ああ、ずいぶん改善したじゃないか!ついに目標値までクリアした物質を合成できたんだな!」
「そう、確かに成分も特性も十分なものができている。これだと、有名雑誌への論文の掲載も狙えるかもしれない。ただ…」
ヨウは言葉を詰まらせながら続ける。
「ただ、これは俺が合成したんじゃないんだ」
もちろん研究は1人で出来るものではない。
メインで研究を進めていた者以外、例えば実験を手伝った後輩などが大発見をすることもある。
ただ、今回の発見者は後輩などとはレベルが違う…
「これ、俺の生徒の高校生がわけも分からず合成したんだ。当然正確な実験ノートもないし、再現性もとれない。合成レシピだって掲載できない…」
消え入るような声でヨウはそう呟くと、うつむいてしまった。
「確かに、これだと有名雑誌に掲載されてもS○AP細胞の二の舞だよな」
さっきまで兄の成功を自分のことのように喜んでいたケイの顔も暗くなっていく。
「でも…実際に合成は成功しているんだ。ここまで理論値に近づける事を証明した。それが発表できないなんて…」
数十秒の沈黙の後、最初に口を開いたのはケイだった。
「なぁ、やっぱり、ここで成功してるんだからその生徒にもう一度合成を再現してもらおう。その子も覚えていないだろうし、うまくいかないかもしれないけれど、お前が化学をきちんと教えて、ノートも取らせて、今度こそ合成レシピをちゃんと記録しよう」
ヨウも「やっぱりそう言うと思った」と言いたげに、頷いた。
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塩山いちかはごく普通の県立高校に通う高校一年生だ。
クラスの中では特に目立つわけでもなく、かといって地味なオタクというわけでもない、何もかもが普通のどこにでもいる今時のJKである。
特に個性もなく普通であることが嫌だった時期もあるが、高校生として普通に勉強をし、進学を目指す分に普通であることは余計なストレスや悩みがなくてむしろ生きやすさを感じていた。
(このまま普通に勉強して、普通の成績をとって、普通の人生を送れればそれでいい、むしろ、それが幸せかな…)
最近はそんなことを考える。
もちろん多少の向上心も持っているし、いい成績をとったらお母さんや友達も感心してくれるのでテスト勉強などはがんばっているつもりでいる。
でも、高校に進学して授業の内容が難しく、ついていけないと感じることも多くなってきた。
まあそこは、周りの生徒も同様に理解していないだろう、と自分に言い聞かせるようにしている。
「でも完璧に理解できるまで予習復習なんて、してる時間ないし」
放課後には部活も塾もあるし、土日だって家族や友達と遊びに出かけることが多い。
「正直こんなにちんぷんかんぷんな授業、座って聴く時間もったいないよね…」
かといってサボるようなことは絶対にしない。
そういう普通でないことは決してできないのだ。
だから、今日もいちかは少しずつ分からない時間が増えていく授業に出席する。
(…今日は授業で当たりませんように…)
化学はいちかが2番目に苦手な科目である。
1番目は数学。でも方程式は例外的に得意で、中学の時はクラスで一番計算が速かったほどだ。
ちなみに得意なのは英語。単語や文法を覚えたり、ネイティブみたいにかっこよく発音出来た時は独りで快感を得たりする。
化学の授業は、若い非常勤講師の男が担当している。
その男の名は、砂村ヨウ。
本業は超有名大学院博士課程の学生で、いちかの高校には週に3回ほど授業をしに来る。
容貌はいかにも大学院生という感じで、筋肉の少ない細身の体、おかっぱくらいの長さまで伸びたストレートの黒髪でメガネをかけている。
この教師のことを、いちかを含めた高校生達は、“浮世離れ”というか、自分たちとは違う世界の人であるかのように感じていた。
授業も、非常にスムーズではあるのだが、どうもロボットの話を聞いているような気になってその内容はいちかの頭の中には入ってきた試しがない。
そのくせ定期テストの問題が異常に難しく、先生の言った内容か教科書の文を丸暗記していないと点が取れない(と、少なくとも多くの生徒は思っている)ような記述問題か、聞いたこともない物質の計算問題か。
1割も点が取れない生徒が続出したが、答案の写しレポートを提出すれば成績は3割つくらしく、いちかの高校のような中堅の生徒はレポート点で救済してもらうことでよしとしていた。
チャイムが鳴り、時間ちょうどに化学の授業が始まった。
教科書のページ数を告げ、板書を始める砂村先生。
いちかは真面目に聞こうとする…が、理解できない話の集中力など10分ともたない。
とりあえず板書をノートに写しながら、次の時間の英単語テストの勉強をすることにした。
「ではここの問題を…塩山さん」
砂村先生の低めの声で自分が当てられたのが分かった。
「えっ…と…」
授業を聞いていないいちかに分かるわけがない。
しかし、間違えるにせよ一旦前に出て書かなければならない。
いちかはトボトボと前に出て、さっき見たページに書いてあった適当な化学反応式を書いた。
「うん、これはちょっと正確じゃないですね。よく間違えられるんだけど。」
当然間違いなのだが、先生は優しくフォローし黄色いチョークで正解を書いた。
いちかがホッとして席に戻ろうとした瞬間、
「君、今の問題の意味も分かってないでしょ。ちょっと解説するから昼休みに化学準備室に来てくれる?」
耳元で先生が囁いた。
当然ほかの人には聞こえない。
(やっぱり先生はごまかせないんだ…にしても補講とか面倒だな…フォローとかいいから今解説してくれれば良いのに)
いちかはなんとか笑顔を取り繕い、「ありがとうございます」とだけ小声で言ってから席に戻った。
昼休み、いつものようにクラスメートの高山小海と食堂で昼食を済ませ、教室へ戻った。
「あっ、そういえば私、昼休みに先生のところに質問に行こうと思って…」
いちかがそういうと、小海は、
「えっ、珍しい!いいなぁ、私も一緒に行っていい?」
と目を輝かせて言った。
小海は同じ小学校からの親友で、いちかはいつも小海と一緒に行動していた。
彼女は世の中のあらゆるものに興味を持っており、理系科目は特に熱心に授業を受けている。
ただ、少し恥ずかしがり屋なところがあってか、先生のところへ自分で質問に行くことはない。
前々から先生と直接話したいと思っていた小海にとって、これは乗っからない手はないチャンスだった。
「えっ、いいけど…」
いちかは当然質問に行くなんて初めてである。
だからなのか、この小海の反応はいちかの予想外だった。
(まあ、問題の解説してもらうだけだし2人で行ってもいいよね…?)
「そっか!一緒に行ってくれるとありがたい!」
いちかはそう言うと、ノートと教科書と筆箱を持って立ち上がった。
コンコン
「すみませーん、砂村先生、いますか?」
ノックしてそっと化学準備室の扉を開け、2人は部屋を覗き込んだ。
部屋にはヨウ1人しかおらず、ノートPCを覗き込みながらコーヒーを飲んでいた。
「ようこそ。来たね。あれ、友達も?質問?」
「あの、私も今日の問題の解説が聞きたくて。よろしくお願いします」
小海はそう言ってぴょこんと頭を下げた。
「まあいいや、君たち、コーヒーでも飲む?そこに紙コップあるから飲んでいいよ」
そう言いながらヨウはホワイトボードに授業で扱った問題文を書き始めた。
「-――こういう電子の流れでこの反応が起こると言われている。以上だ」
一通り解説してみてから、ヨウは心の中でため息をついた。
(高山小海の方はまだいい、ある程度頭の中でイメージできているようだ。問題は…どうやら合成を成功させた方の、塩山いちかだ。コイツ本当に何も理解していない。目に見えないものをイメージできないタイプだ。果たしてコイツに合成の再現ができるのか…?)
でも、教えるしかない。
自分が何回やってもできなかった合成を、目の前の女子高生は確かに成功させたのだ。
化学を教えて、再現させるしかない。
「塩山いちか、ちょっといいか」
ヨウはまっすぐといちかの方を見て言った。
「放課後、今度は1人で来てくれるか。君でも分かるように、もっと丁寧に解説するから」
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放課後、一日中座学を受けたせいでいちかの頭はパンク寸前である。
その上、これから補習だなんて、いちかの頭にはもう何も入る気がしなかった。
「正直、昼休みの解説もちょっと理解できなかったし、時間の無駄だったな。授業よりはマシだったけど…」
その足取りは重かったが、化学準備室の前まで到着すると、意を決し扉を開けた。
「失礼しまーす…」
準備室は昼とほとんど変わらない配置で、机、椅子、ホワイトボード、ノートPCと…昼間にはなかったものがある。あれは…ゴーグル?
「来たね。何度も申し訳ないね」
ヨウはそう言うと席を立ってポットにお湯を注ぎ始めた。
「そのあたりに適当に座って。今、緑茶を淹れるから」
黄緑色に透き通った熱いお茶を2つテーブルの上に置き、ヨウはいちかの向かいに座った。
「塩山いちか、君には、その、わけあって、化学をきちんと習得してもらう」
「…はあ」
いちかは怪訝な顔でヨウの方を見た。
実際に化学を教わりにここに来ているのだから、特段おかしな発言というわけではないが、「わけあって」という言葉に引っかかったのだ。
ヨウは続ける。
「俺の本業が大学院生だということは、知ってる?」
「はい、大学院生が何してるのかは、よく知らないですけど…」
実際にいちかは大学院という言葉については、数回耳にした程度の知識しかない。
「大学院生は、それぞれが自分のテーマについて研究をしている。例えば君らが学校でやるような実験に似たことをやっている人も多いし、俺もその一人だ。ただし、学校で習う実験と違って、俺らのは結果がどうなるか誰にも分からない」
いちかは、少し首を傾げながらイメージしてみた。
「テレビなどでたまに見る、白衣を着て研究している人ですね、あれって大学院生だったんだ」
「正確には、大学生や、大学教員などもいるが。まあそんなところだ」
ヨウは一息ついて、続けた。
「で、まあ俺の研究テーマなんだが…ざっくり言うと、太陽電池の材料になるような無機物の合成を行っている。太陽電池自体は実用化しているが、その性能を上げるための研究だな」
いちかは「太陽電池なら知ってる」と言いたげにうんうんと頷いた。
「その新しい合成法について、色々と試したんだがうまくいかず、行き詰まっていたんだ。そこで、発想をガラリと変えようと、授業をうけもっている高校生に『実験器具の練習』という体で俺が普段やっている合成をやってもらった」
いちかもこれは覚えていた。
ガラス器具を壊さないように必死で作業した記憶がある。
でも、先生のテーマの実験をやらされているなんて当然夢にも思わない。
「もちろんうまくいくとは思っていなかった。何か見落としや隠れたパラメータなどが見つかれば御の字くらいに思っていた。だが…」
ヨウはひと呼吸置いて言った
「これまでにないほどの、高性能な結晶ができあがってしまった。塩山いちか、お前の合成した結晶だよ」
ここまで話し終えると、ヨウは皮肉っぽく笑った。
いちか、自分の実験が先生の役に立ったということだけは理解できたので、明るく言った。
「それは、よかったじゃないですか!」
「それが、良くないんだよ」
ヨウは、実験再現性のこと、合成レシピの事などを説明した。
「つまり、塩山いちか、君に化学をしっかりと習得してもらって、あの時の合成を再現し、方法を記録してもらいたい」
いちかは頭の中を整理しようとした。
(つまり…先生について化学を学べばOKってこと?補習してもらえて、ちんぷんかんぷんな化学が理解できるならラッキーかもしれないけど…でも理系に進むかどうかも分からないし…)
今ひとつ納得がいっていないいちかを見たヨウは、顔をさらに近づけた。
「化学は、本当にすごいし面白いんだ。今から少しだけ特別授業をやってみせるから、それを見て決めてくれないか」
そう言うと、サッと机の上のゴーグルのようなものをいちかの頭に被せた。
その大きなゴーグルはいちかの視界を完全に塞いでいる。
「いちか、これから君に、原子になってもらう」
つづく