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「はぁ、はぁ……」
ずぶ濡れの身体で息を切らしながら、トーマとカレントはどうにか、洞窟らしき陸地に乗り上げた。すべての繊維に水を染み込ませた服は恐ろしく重く、騎士の鎧でも身に着けているかのように、トーマには感じられた。カレントが水のアーツでなければ死んでいた、とトーマは背後を見返りながら思う。視線の先のガルダバム川からは、激しい水しぶきと共にごうごうと水の流れる音が轟いている。
水のフォルスを操るカレントと、カレントを使役するトーマには、周囲に存在する水の動きを、多少なりともコントロールすることが出来た(例えば、水道の蛇口から重力に従って真下に流れる水を、重力に逆らって違う方向に流したり、バケツに汲んだ大量の水を、水の塊として宙に浮かしたり、といった具合にだ)。とは言え川の流れを変えたりだとか、それを堰き止めたりといった経験は、トーマやカレントには勿論なかった。安全な孤児院で生活する上で、当たり前だがそのような必要に迫られることはない。が、せめて自分の周りの水の流れを、少しでも緩やかにすることが出来れば――そう思いながら、トーマはこの川に飛び込んだ。然し――。
「カレント、生きてるな」とトーマ。
「なんとかな」と、カレントも息絶え絶えになって返す。
ガルダバム川の流れは凄まじく、トーマのコントロールは全くと言っていいほど効かなかった。それどころか、川へと飛び込んだ瞬間、トーマはその流れの速さに圧倒され、カレントとの〝共鳴〟をも、不本意ながら解いてしまっていたのだ。辛うじて、カレントが近くでコントロールを働かせてくれたことで、二人は水中で、或る程度の身動きは取れた。
このまま海まで流されていては、恐らく海岸線への到着前に体力が尽きる。そう思った矢先に、二人の目には乗り上げられそうな陸が映った。死に物狂いで陸に寄り、トーマとカレントはどうにかここに乗り上げた、というわけだ。
「……」
背後のガルダバム川を、今一度トーマは振り返る。丁度夜明けだ。外は少しずつ明るくなってきていた。
最早、あの激流からどうやってここに登ったのか、トーマには分からなかった。とにかく必死だったのだ。命だけは無事だったことに安堵の溜め息を吹き出すと、トーマはハッとなって、左隣のカレントを仰ぎ見た。
「カレント、二人を降ろしてくれ」
トーマの声に従って、カレントは両腕に抱えたままだったハレとノアを、洞窟の地に、仰向けになるように順番に降ろした。二人に意識はない。トーマはすぐに、二人の首に触れて、その脈と、口に手を近づけて息を確認した。二人はともに、存命であった。
「脈も息もある。気を失ってるだけだ。ただ、このままでは凍え死ぬ。カレント、俺は薪を拾ってくるから、二人を見ていてくれ」
そう言い残すと、トーマはずぶ濡れの身体のまま、洞窟の奥へと姿を消した。
ハレが目を覚ましたのは、それから数時間の後だった。
瞼を押さえながら、「うーん」と唸ったハレに、「目が覚めたか」とトーマは言った。ハレの返答は、想定外だった。
「いや、まだ寝る……」
「……よくもまあ、こんな洞窟の地面で眠れるな」
気絶から目覚めたかと思えば、硬い岩盤の上で二度寝を始めようとするハレに、トーマは感心すら過り、呆気に取られた。が、流石にいつまでもこんな場所に留まることは出来ないと冷静に判断し、トーマは再度ハレを起こした。
トーマたちの服や身体は、トーマが起こした焚火によって、既に九割がたが乾き切っていた。ノアにはまだ、目覚める気配はない。
いやいや言いながらも起き上がったハレは、開口一番、トーマに向かってこう言った。
「まず、ここはどこだよ」
「……何から説明したものか、ガルダバム川に飛び込んだのは覚えてるか?」
「ああ、飛び込んだ。残念ながら着水した記憶はない」
「気を失うのが早すぎるだろ。後ろの川がそうだ」
ハレの後方左側を、トーマは指差して言った。外はもう完全に朝だった。谷底にあるガルダバム川には日差しは殆ど入らなかったが、激しく音を立てて流れる水面は、空の青さを映している。どうやら外は晴れているらしい。
「しばらく流されたところで、俺とカレントは陸地を見つけて這い上がった。それが、この洞窟ってわけだ」
今度はトーマは、洞窟の天井を見上げながらそう言った。
洞窟内の壁や地面は、土ではなく岩で出来ており、その表面は薄黄色に光沢を持っていた。川から上がる入り口は狭かったが、中に入ってみるとその天井は高く、三メートルから四メートルはあるように見える。奥へと進む通路も同様、幅、高さ共にあり広い。天井からは(氷柱のような)先端の鋭い鍾乳石が、無数に垂れ下がっている。
「細かい話は歩きながらにしよう。薪を拾うついでに軽く探索してみたが、この洞窟、通路が入り組んでいてやたら広い。可能ならば、今日中にはここを出たい」
「今日中にって……、広さも分からないのに出られるのかよ?」
疑念、もとい諦めのよう表情を浮かべながら、ハレはトーマにそう問うた。「分からない」とトーマは答える。
「だが、分からないってことは出られる可能性もあるってことだ。試しもしないうちから諦めるなよ。気持ちがやられたら本当に出られなくなるぞ」
やってみる前から諦めるな――こういう時、トーマはよくそう言った。冷静沈着なトーマには、あまり似合わない台詞だと、初めて聞いた時ハレは思った。が、ハレは今は、その言葉を気に入ってすらいた。
一見して冷静沈着で、ロジカルに見えるトーマだが、実際のところトーマはトーマで、彼なりに或る種の情熱を持っており、ロジックだけで全ての物事が解決するとは思っていない。数年に渡る付き合いの中で、ハレはそのことを知り、今やその言葉の中に、『トーマらしさ』すら感じていた。弱気になった自分を奮い立たせてくれる、その言葉がハレは好きだった。
胡坐を解いて立ち上がり、ハレの隣に横たわるノアに目をやると、「それから」とトーマは言った。
「助けたはいいが、ハレ。このノアとかいう女、どうするつもりだ?」
「どうするって……、助けた後のことなんて考えてなかったけど、こうなった以上、まずは洞窟の出口まで連れていくしかないだろ。ここに置いていくわけにはいかねーしよ」
ハレの言葉にトーマは押し黙ると、睨み付けるような鋭い視線でノアを見つめた。
ストレートの黒髪は腰の辺りまで伸ばされており、その前髪は眉の上で一文字に切り揃えられている。幼いが凛とした顔立ちをしており、首には水滴型で金色の飾りがついたチョーカーを、彼女は巻いていた。袴のように身体に巻き付ける形状の(生地はさらりとしており、薄手である)漆黒の衣装を、彼女は腰の上を濃紫の帯で留めて着用している。袖は中ほどから先にゆとりを持っており、その先端部分にはやはり黒の、レースのような生地が付いていた。また、袴の下半身はその前方が大胆に開けており、大腿部より上の部分は、ペチコートのようなシースルーの衣服によって覆われている。脚にはグラディエーターサンダルを思わせる、茶色い革紐のサンダルを履いており、そして彼女はその右手にだけ、黒いレースのグローブを嵌めていた。一方で、グローブのない左の手は明らかになっており(トーマが見ていたのはここだった)、その爪は、闇のような黒をしている。
〝それ〟を言うべきか、トーマは吟味しているようだった。言うにしても、どんな言葉を使えばいいのか、トーマが迷っているようにハレには見えた。十数秒の黙考を経て、トーマは言った。
「ハレ、この女の左手の爪を、よく見てみろ」
様子のおかしいトーマに疑念の目を向けながらも、ハレはそれに従った。ノアへと前身を伸ばし、左手の爪を覗き見ると、ハレもその色が黒いことに気が付いた。が、深刻そうなトーマとは対称に、ハレはあっけらかんとして応える。
「黒いな」
そんなハレの反応も、トーマには想定内だった。
「まあ、赤ん坊の頃から孤児院にいたお前が、聞いたことがないのも無理はない」
「なんだよ、勿体ぶってないで教えろよ。爪を黒く塗ってると、なんかまずいことでもあるのかよ」
眼鏡のブリッジをくい、と押さえて、トーマは答えた。
「塗っているのなら、どうということはない。『塗っていない』から問題なんだ。この女の爪は、元からその色をしているんだよ」
トーマの言葉に表情を歪ませて、「はぁ?」とハレは言った。「そんなことあるのか? あったとして、それがどう問題だってんだ?」
再びノアへと目を向けると、表情を無にして、トーマは言った。そのことに対し、自分がどう思っているのかを、悟られたくはない、とでも言うように。
「――黒き爪の者」と、トーマは言った。
「かつて、そう呼ばれ迫害された一族があった」
トーマによる解説は、以下のような内容だった。
遠い昔――太陽王の時代よりも遥かに昔。黒い爪を持った女系の一族が、この世界の何処かにあったという。一族は特別な役割を持っていた。その役割がなんだったのか、今となっては知る者はいない。役割を担う代償として、一族の爪は黒く染まった。然し、それは一族を含む全ての人々にとって重要な役割であった為に、一族はそれを快く受け入れ、人々は一族に対し、感謝の念を以て接していた。
遥かなる時が流れ、感謝を忘れた人々の中から或る時、或る場所で『爪が黒いのは先祖の悪行の報いだ』と謂れのない声が上がった。小さな一石は大きな波紋を呼び、人々は瞬く間に、一族を迫害するようになる。大規模な殺戮も行われたが、逃げ延びた一族の者は辺境に身を寄せて暮らし、人の世に姿を現すことは殆どなくなった。それから太陽王の時代を挟んで現代にまで、未だ迫害の風潮は続いている。見つかれば良くても避けられ、当然のように人の扱いは受けず、最悪は殺される。ここ数十年の間で、一族は完全に根絶やしになったのではないか、とまで言われていた。
「この話が真実かどうか、最早確かめる術はない。然し、後付けの作り話にしては、語り手である通常の人種にとって、不都合な部分が多すぎる。多少の歪曲はあったとしても、概ね史実だと捉えるのが一般的だ。つまり、お前の質問に答えるとするならば」
一拍を置くと、トーマは続ける。ハレも途中からは、無表情になってその話を聞いていた。
「爪が黒いこと自体には何の問題もない。然し、その女と共に行動をすることで、俺たちに何らかの不利益が巻き起こる可能性は、ないわけではない。寧ろ、確実にあると言ってしまったほうが、残念ながら的確なレベルだ。それを踏まえた上で、もう一度聞く」
静かな目で、トーマはハレの目を見つめて、先と同じように問うた。
「この女、どうするつもりだ?」
トーマの質問に、ハレは一瞬たりとも悩む様子などは見せずに、「連れていく」と答えた。
「洞窟の外までは確実に。ノアが必要とするのなら、その先もだ。そんな話聞いたら尚更ほっとけねえ。どういう事情で旅をしていて、どういう事情で連中に追われてるのかは分からねぇけど、くだらねー差別のせいで、俺たちと変わらない年頃の女子が酷い目に遭わされてるんだろ? 見ない振りして、俺たちだけがのうのうと幸せに生きるなんて、俺はまっぴらごめんだね」
ハレの回答に、トーマは少しだけ、驚いたような反応を見せた。ハレには寧ろ、そのトーマの反応のほうが不思議に思えた。自分がこういう人間であることを、トーマは分かっていると、ハレは思っていたからだ。
暫しの沈黙を挟んだ後で、「分かった」とトーマは頷きながら言った。「ならば連れていこう。カレント、ノアを背負って歩けるか?」
「構わない」とカレントは頷くと、早速ノアの細い体を抱き起こして、その広い背中に優しく背負った。
「ハレももう動けるな? こんなところに長居は無用だ。出口を探そう」
言いながら、トーマはくるり、と踵を返して、洞窟の奥のほうにその身体を向けた。
「ちょっと待てよ」と、ハレはその場に立ち上がりながら言った。ハレを振り返ることはせずに、トーマは聞き返す。
「どうした?」
「トーマ、お前はどう思ってんだよ」
ハレの言葉と、トーマを見つめるその視線には、複雑な感情が交差していた。
確かに、ノアのような『黒き爪の者』という人種があることを、ハレは今の今まで知らなかった。当然、彼らが一般的に迫害の対象となっている、ということも。然し、アシリアに蔓延る差別や迫害は、残念ながら黒き爪の者に対するものだけではない。センシティブである話題の特性上、ハレはトーマと、こういったことについて話し合ったことはなかった。そもそも孤児院で生活をする上で、人種差別が話題に上がることというのは基本的にない。
その一方で、差別や迫害といった類のものを、ハレは心底嫌っていた。例え、仮に本当に、先祖の悪行によって爪が黒く変色するようなことがあったとして、そこにノアの責任が問われるのは不当だ。そして、トーマの話を史実だとするのならば尚更、先祖に悪行があったことすら、捻じ曲げられた事実なわけである。それはきっと、誰かを陥れたいという、人間の弱き心が作り出した妄想なのだ。妄想によって事実が捻じ曲げられ、妄想によって普通の人生を謳歌出来ない人々が生まれ、妄想によってそれらの人々は殺される。くだらない妄想が、差別や迫害を生み、この世界自体を誤った方向に導いていく。ハレはそんな風に考えており、その妄想を生み出す弱き心を、軽蔑していた。
黒き爪の者について語るトーマの表情が、普段とは明らかに違うことに、ハレは不思議を感じていた。トーマもまた世論を支持し、彼らは迫害されるべきと考えているのか。トーマ自身の口から出たように、自ら迫害をすることこそないものの、彼女を連れていく上で自分たちが被るであろう不利益を、ただ迷惑に感じているのか。はたまたハレと同じく、差別や迫害などあってはならない、根絶すべきだと考えており、ハレの意思を確認する為だけにその話をしたのか。このまま旅を続ける上で、ハレにはそれを、今のうちに明らかにしておく必要があった。
「なあ、トーマ」
差別などあってはいけない――。トーマがそう言ってくれることを、ハレは祈っていた。
「……」
トーマはハレに背中を向けたまま、暫く何も言わなかった。ほんの十数秒の時間だったが、それが永遠に続くのではないかとすら、ハレには感じられた。二人の間に横たわる、認めたくもない疑念が、そのように感じさせるのだろうとハレは思った。
やはりハレを振り返ることはなく、「忘れたのか? ハレ」とトーマはその沈黙を破った。
「俺はお前の旅に同行してるだけだ。あくまでも俺はサポートで、最終的な判断や決定は、お前に従うさ」
そう言って、トーマは洞窟の奥へと、歩を進めようとした。「違うだろ!」というハレの言葉が、その歩みを差し止めた。
「俺が聞いてるのはそういうことじゃなくって、単純にお前自身が、この子をどうしたいのかってことだよ。黒き爪の者ってのを、お前はどう思ってて――」
「――分かってる!」
今度はハレの言葉を、トーマが遮る形となった。珍しく、トーマは取り乱しているようだった。結果としてトーマは終始、ハレを振り返ることはしなかった。
「ハレ、お前の言いたいことは分かってる。ただ……、今すぐにそれに答えることは出来ない。だからお前の答えに、今は相乗りさせてくれ。……頼む」
その言葉の裏側に一体何が隠れているのか、ハレには分からなかった。疑わしいというよりかは、ハレは単純に不可解だった。トーマは普段、その考え方ははっきりとしており、彼の中では或る一つの事象に対しては、或る一つの答えが存在するのが普通だ。そんなトーマがこの問題に対しては、自分自身の答えを持っていない。それどころか、求められた答えに対して、彼は混乱するような様子さえ見せた。まるで自分の中に或る複数の答えの中から、どれか一つを選び切ることが出来ない、とでも言うような。
いずれにせよ、ハレにはトーマを待つほかなかった。彼の中で何らかの決着が着き、彼の言葉を以て、その答えが説明される、その時までは。