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ガルダバム大橋を渡った先には、ファンテーヌへと続く道幅二メートルほどの街道が形成されていた。辺りには相変わらずに、浅い草の茂る平野が広がっているが、馬車によって踏み固められたのであろうその街道は、土の地面が剥き出しになっている。
この街道に沿って歩を進めたハレたちは、その日の夕刻には、街道に面した小さな修道院を、視界の先に見据えていた。ハレたちの暮らしていた孤児院と同じく、バルド教の運営する修道院である。
「バルド教の起源は、古くは太陽王の時代まで遡る」と、例によってトーマは解説をしてくれた。
「バルド教はアーツと並んで、千年前の文明を紐解く貴重な遺産とされているが、当時の宗教世界観の多くは、やはり太陽王の時代の終幕と共に失われている。残ったのはその唯一神と伝えられる、『アポロン』という黄金の巨鳥の存在と、アポロンが齎すとされている安寧の日々、そして信仰の先にあるとされる未曽有の繁栄だ。現代までに幾つかの宗派に分かれてはいるが、各宗派は対立することはなく、お互いの立場を守っている。その根本的な思想が共通であることが、互いの保守的な対応を手伝っているのだろう。どこの宗派に於いても基本理念とされるものは、『アポロンへの祈りを怠らなければ、人々は繁栄へと導かれる』、というものだ。孤児院の大広間にも、巨鳥の絵が掛けられていたのを覚えているか?」
孤児院入り口の大広間を、ハレは脳裏に思い浮かべた。見慣れすぎていてあまり真剣に眺めたことはなかったが、そこには確かに、濃紺の闇を背景に、金色に輝く鳥の姿が描かれた巨大な絵画が掛けられていたように思う。そして絵画の下には、『太陽神アポロンの飛翔』と作品名の書かれたプレートが貼り付けられていた、とも。
「そして、これも多くの宗派に共通する基本的な思想として、『太陽神は全ての人々に対して平等である』というものがある。これに基づいた活動として、バルド教は各地に修道院を置いており、旅人や行商人は、信者かどうかを問わず、この施設を宿泊の為に使うことが許されている」
アルバティクスのような街の中にある大規模な修道院とは違い、街の外にある修道院は、基本的にこじんまりとした二階建ての建物となっており、一階部分は祈りや教示の為の広間で、二階が宿泊施設となっているのだと、トーマは言った。この東アンモス平野の修道院も、例外ではなかった。
修道院の前まで辿り着くと、ハレは今一度、その建物を仰ぎ見た。土の壁で出来た、夕闇に照らされる二階建ての建物は、赤い瓦の並べられた方形屋根の天辺に、金に輝く鳥のオブジェクトを持っている。恐らくそれが、トーマの言うアポロンという神様なのだろう、とハレは思った。
「入ろう、ハレ」
「お、おう!」
物怖じする様子もなく、トーマは修道院の扉を押して開いた。トーマに続いて中へと入ったハレは、荘厳な雰囲気の装飾に圧倒されると共に、感嘆に声を漏らしながら、その内装をじっくりと観察した。
修道院内は白い壁と、梁のある天井になっており、窓が多分に設けられている。外光を上手く取り込める造りになっているようだ。それを除いても、院内には既に灯りが灯されており明るい。大理石の床には赤い絨毯が敷かれており、広間にはベンチ型の椅子が、ハレたちの立つ入り口から見て、正面の壁を向いて何列にも並んでいる。そしてその正面奥の壁には、アポロンと思しき巨鳥を模した、巨大な壁画が彫られていた。入り口を入ってすぐ右手側には、司祭らしき男の立つカウンターがあり、左手側には二階へと昇れるのであろう階段が設置されている。木で出来た椅子や、階段の手すりなどの細部にまで、花や鳥などの意匠が凝らされており、それらは何処となく、(当たり前と言えば当たり前だが)ハレたちのいた孤児院の雰囲気にも似ていた。
「ようこそ、バルド教修道院へ」
司祭の男は丁寧に辞儀をして、ハレたちを迎え入れた。内装観察に夢中になっているハレを置いて、トーマは司祭のいるカウンターへと向かった。
「二人連れの旅の者です。部屋が空いていれば泊まりたいのですが」
「今晩はまだ空きがあります。二階が宿泊施設となっておりますので、どうぞお休みください」
「どうも」と言って、トーマは司祭の男から、部屋の鍵を受け取った。
ぐるり、と一通りに院内を見回したハレは、広間奥側のベンチに腰掛ける一人の女性に気が付くと、そこに不思議な違和感を覚えて凝視した。
遠目で、しかも後ろからだったので、詳細なことは分からなかったが、少なくともハレには見たことのないような形状の、漆黒の衣を彼女は纏っているように見えた。長く美しいストレートの黒髪を、彼女はしている。
衣服の形状もさることながら、それほどまでにはっきりと黒い色をした髪を、ハレは今まで見たことがなかった。まるで、宇宙の最も暗い闇の中から、その黒は生まれてきたかのようにハレには見える。その黒さは、見る者を魅了する不可思議な魅力(或いは魔力すら)を持っていた。
「どうした、ハレ」
トーマの言葉には、もう二階の部屋に行くぞ、という意味が含まれていることがハレにも分かった。
「ああ、でもよ……」
ハレの視線を追ったトーマは、そこに黒髪の女性の姿を見つけると、少しだけ怪しむように目を細めてから、「向こうも旅人だろう。そう珍しがるようなものじゃない」と言った。
そうこうしているうちに、彼女もこちらに気が付いたらしい。こちらを振り向いた彼女と、ハレは目が合ってしまった。
振り返った彼女の、その顔の幼さに、ハレは驚いた。精々、自分たちと同じ十五歳くらいか、寧ろそれより更に下にも、ハレには見えたからだ。
敵意ではないが、少なくとも友好的な印象は、その視線からは感じ取れない。何かを見定めるように、彼女は視線を細めて、こちらを見ていた。
少女に向かって、静かに一つ辞儀をすると、トーマはハレの腕を引いて「もういいだろ。行くぞ」と無理矢理に、二階へと続く階段にハレを連れた。辞儀を返すことは、少女はしなかった。
「なんだよ。同じ旅人同士、仲良くなれたかも知れないのに」
部屋へと入ったハレは荷物を降ろしながら、納得がいかない、という風な声色でそう言った。
同じく荷物を床に降ろすと、眼鏡のブリッジを指で押さえながら「おかしいと思わないのか?」とトーマは尋ね返す。「周りに家族や、連れらしい姿もなかった。あの年頃の女が、一人で旅をしているんだぞ」
「だからだよ。何か困ってたかも知れねーじゃねーか」
「その親切心を利用して、人を騙そうとする輩もいる。旅は道連れというがな、ハレ。外で出会う人間を、無条件に信用しないほうが今後の為だ」
「騙そうとしてるかどうかなんて、聞いてみないと分かんねーだろ」
「ふ」と笑いを零しながら、トーマは二つ並んだ小さいベッドの頭部にあるランプに、ポーチから取り出したマッチで火を点けた。外は少しずつ暗くなっており、お互いの表情も、視認しにくくなってきている。
「騙そうとしてる奴は、騙そうとしてますかって聞かれてハイとは言わないんだ」
「そりゃまあそうだけど……」
「ハレ。お前のお人好し自体を否定するわけじゃないし、あの女が本当にただの旅人である可能性だってもちろんある。何かに困っているかも知れないし、お前が声をかけることで、助けになれることもあるかも知れない。だけどな」
一拍を置くと、トーマは続けた。「お前の旅の目的は、人助けをすることじゃない。アーロンを探して連れ戻すことだろ。それを見誤るな。不必要な選択は、目的を遠ざけることになる。それに……」
暫し、トーマは沈黙した。続きを言うべきか、トーマは迷っているようだった。
頭がむずむずしてくるのに耐えかねたハレは、「それになんだよ?」と聞き返した。その声には、先ほどまでの嫌悪感はもう含まれていない。トーマの言うことは尤もだとハレにも思えたし、ハレはそれ以上、トーマに反論をするつもりはなかった。
何処か後ろめたそうに視線を外しながら(後ろめたさとは違うかも知れないが、少なくともハレにはそう見えた)、トーマは続きをこう引き取った。
「そう簡単に、誰かを助けられるなんて思わないことだ。この世界はお前が思ってるほど、上手くいくようには出来ていない。困ってる人間を見つける度に、そいつら全員を助けるつもりか? そんなことをしていたら、身体が幾つあっても足りないぞ」
言葉の意味は理解出来るし、ハレはその言葉に納得も出来た。然し、その言葉の裏側には、何か別の真意が隠れているように、ハレには感じられてそれが気になった。勿論、思い当たる節のないハレはすぐに考えるのを諦めてしまったし、夕食を食べ終わるまでの間には、そのことを完全に忘れていた。
この晩、久々のベッドでの就寝に、ハレは自分でも驚くほどに深く、穏やかな眠りに就いた。