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「なあトーマ~~、テント立てようぜ~~」
ハレが泣き言を言い出してから、一時間ほどが経過していた。姿勢よくスタスタと歩くトーマとは対照的に、ハレの腰は前方にすっかり折れ曲がっており、その足取りは重い。呪いにかけられて、そのような歩行方法しか出来なくなった、小説の中のゾンビみたいにだ。
ハレの声色は、疲れたので休みたいのが六割、テントでの寝泊まりが楽しみなのが四割、という具合だった。歩き続けて凡そ十四時間。トーマの時計は十八時半を指していた。西の空に日は暮れかけている。
「……」
始めのうちは、「もう少し頑張れ」、「初日からそんなんでどうする」とハレを鼓舞していたトーマだったが、この時には既に、駄々をこねるハレを無視するようになっていた。或るところで、トーマはピタリと足を止めると、周辺の環境をじっくりと観察し始めた。テントを張るのに丁度いい場所を、トーマは探っていたのだ。頭を垂れたままの姿勢で歩いていたハレは、立ち止まっていたトーマの背中にドン、と後ろからぶつかると、その場で立ち止まった。ぶつかられたトーマはというと、ハレの足音で接近には気付いていたので、彼は身体を揺すられるのみで、その場から押し動かされたりはしなかった。
「よし、ハレ」
「ああ~?」
斜め前方の、小高い丘の麓に立った一本の広葉樹を指差して、挑発するようにトーマは言った。「勝負をしよう。あの樹まで先に着いたほうが、テントを立てる権利を得る」
トーマの提案に、「よっしゃァ!」と威勢よく声を張り上げながら、ハレは垂れていた上体を起こすと、樹を指差したまま動かないトーマを置き去りに、凡そ一〇〇メートルほど離れたその樹まで、(先ほどまでの疲れた様子が嘘だったかのように)一目散に走り抜けた。
「見ったかトーマ! はぁ……はぁ、俺の、……はぁ、勝ちだぜ!」
息を切らしながら、ハレは樹の幹に手を触れる。後ろを振り返ると、トーマは既に別の方角の林のほうへと歩き始めていた。ハレに向かって手を振り上げながら、トーマは言う。
「おめでとうハレ! テントを立てる権利はお前のものだ! 俺は薪を拾ってくる」
「テメートーマこの野郎! そういう魂胆か!!」
「テントを立てられるのだから良いだろう、羨ましい限りだ」と言いながら、トーマは夕闇の林の中へと消えていった。トーマを見送ってから、しばらくは気の乗らなかったハレだったが、数分の後には仕方なしに、ぶつくさと文句を呟きながらもテントの設営へと取り掛かった。然しやはりというべきか、元々はテントでの寝泊まりが楽しみだったハレである。立て終わる頃には怒りも忘れ、立ち上がったテントの周りをぐるぐると回りながら、その出来栄えに「うんうん」と繰り返し頷いていた。
テントでの寝泊まりは勿論のこと、ハレは記憶のある限り、孤児院以外の場所で眠るのは初めてであった。基本的に、当然ではあるが孤児たちには、宿泊を伴う外出は禁止されている。安全な生活を送る為とはいえ、自由奔放なハレにとって、孤児院内での生活には少々息苦しいものがあった。
孤児院での生活は朝、六時半の起床から始まる。必ずこうしろ、と全てが決められているわけではなかったが、シスターたちが目安として定めた生活のリズムに則って、ハレやトーマは生活をしていた。元から真面目で几帳面なトーマは兎角として、変なところで生真面目さのあるハレにとっても、幼い頃から身体に馴染んでいたその生活リズムは彼なりのルーティーンと化しており、面倒くさがったり、たまの遅刻はしながらも、そのリズムに沿って生活するということを、ハレはハレで不器用なりに全うしていた。
ハレたち十三歳以上の(個人部屋を持つ)子供たちは、起床するとまず初めに、三階廊下に四つ並んだ共用の水道で洗顔と歯磨きをする。この時大抵、ハレの意識はまだ半分眠りの中にある。
部屋に戻って着替えを済ませると、十分間、彼らには祈祷の時間があった。バルド教の教えに基づいて、太陽を司る唯一神に、感謝の祈りを捧げる時間だ(通常の信者はこれを夜明けと共に、朝日に向けて行うのが基本であった)。
教団が運営をする孤児院である為、最低限孤児たちに、この宗教がどういう内容のものなのか、という教示は行われる。然し、孤児院はそれを子供たちに強要はしなかった。宗教観には個人の自由が認められる、というのも、バルド教の教えの一つであるからだ。実際、トーマは形こそ祈りの時間を取ってはいたが、これもまた彼にとってはルーティーンの一つであったまでであり、ハレに至ってはこの時間は、二度寝の時間と決めていた。
祈祷の時間が終わると、朝食の七時半まで子供達には自由時間がある。ハレはトーマの部屋で過ごすか、自室で寝ているのが基本であった。トーマはハレが部屋に来ようが来なかろうが、この時間は決まって本を読んでいた。
「おはよー」「おはようございます」
「おはようハレ、トーマ。ぐっすり眠れたかい?」
七時半になると、孤児たちは一階の食堂に集まって朝食を摂る。食事を作るのはシスターたちの役目の一つだった。
「四本足のトーマに追いかけ回される夢を見たよ、シスターガーベラ」
「人の足を勝手に増やすな」
シスター長のガーベラを始め、孤児院には十人強ほどのシスターが常駐していた。ガーベラのように、子供たちと共にこの孤児院に暮らす者も、普段は街で暮らしており、孤児院に通って子供たちの世話をする者もいる。両者の割合は半々といったところだった。
朝食を終えると、月曜日から金曜日の平日には四時間の勉強の時間がある。勉強を教えるのもシスターの役目だ。授業の内容は語学、数学、歴史、精霊学など様々で、大まかな年齢ごとに教室を分け、その授業内容は(当たり前だが)年齢が上がるに連れて難しいものへと変わっていった。ハレは勉強は嫌いではなかったが、決して得意というわけではなかった。一方のトーマは、常に教室でトップの成績を修めていた。
四時間の授業が終わると、十二時半から昼食の時間になる。昼食の後の十三時からは、昼の自由時間だった。六歳以上の子供には外出が認められる。とは言っても、自由時間での外出には幾つかの制限があった。
そもそも、前日までに外出の申請が必要である。昼の自由時間は二時間のみで、十五時には孤児院に戻らなければならない。自由に使えるお金もない。当たり前だが街の外には出てはいけない。そして、シスターのお守りが付く。
その為ハレやトーマは、平日の昼の自由時間、外に出ることは殆どしなかった。孤児院はその敷地内に、数万冊の蔵書を持つ図書室と、広大な中庭をも有していたので、二人は基本的に、そのどちらかで時間を潰した。ハレは冒険小説を読むか、中庭で小さい子供の遊び相手となることが多かった。トーマは基本的に、常に何かしらの本を読んでいた。
「いっつもいっつも何の本読んでんだよ? 難しそうな顔しちゃって」
読書中、トーマは寡黙であった。「別に」
トーマの読んでいる本を右手で摘むと、ハレは表紙の題を読み取ろうと覗き込んだ。
「なになに? 『キソセイレイガクのオコリとハッテン』……? え、勉強してんの?」
「……そうだよ。だから邪魔をするな」
そっけないトーマの態度に顔を顰めながら、ハレは言う。
「お前って、ちょっとだけアーロンに似てるよ」
十五時までの自由時間が終わると、十九時の夕食まで、『リベレ』と呼ばれる時間だった。アシリア古語で『監視がないこと』を意味する言葉で、バルド教に於いてこの時間は、『天から神がいなくなる時間』とされている。ハレたちは外出からは戻らなければならなかったが、孤児院の中では自由に行動することが出来た。とはいえ自由時間に外出をしないハレたちにとっては、自由時間もリベレも、することは基本的に変わらなかった。シスターたちはこの間、一階の幼児棟で、幼児の昼寝の寝かし付けを総出で行う。
十九時からの夕食の後は、二十時から入浴の時間だった。一階の隅にある、男女に分かれた二つの大浴場で、ハレたちは身体を洗うこととなる。
「なあなあトーマ! この壁の何処かに穴が開いてて、女湯を覗けるようになってるって噂があるんだぜ!」
「くだらない。一生探していろ」
「つーれねーなァ、トーマさん」と、ハレはトーマの肩に腕をかける。勢いよくその腕を振り払いながら、トーマは怒鳴った。
「裸でくっつくな! 気持ちが悪い!」
入浴後は二十一時から、二階の談話室でシスターによる読み聞かせがある。参加は自由で、子供たちの凡そ七割ほどが、読み聞かせを聞きに行く。ハレとトーマは週に一度か二度ほど、気の向く時には参加した。大抵は小さい子向けの童話や絵本だったが、ハレはこれを聞くのは嫌いではなかった。
二十二時、孤児院は就寝時間を迎える。孤児たちは各自、自室にて眠りにつく。
基本的にはこの繰り返しだったが、週末の土曜と日曜にだけは、ハレたちにはもう少しの自由が許されていた。土日は勉強の時間がなく、午前にも自由時間が設けられるのだ。平日昼の自由時間とは違い、土日の外出には申請は要らない。シスターのお守りもつかない。街の外に出られないのは一緒だったが、ハレたちには自由に使える小遣いが、僅かだが与えられた。
アシリアでは『ベイ』と呼ばれる、貨幣と紙幣による通貨が世界共通で使われる。ハレたちに支給されるのは一日に一〇〇ベイまでであり、これは大体、リンゴ一個とか、飲み物一杯に消えていく。また、自由時間を終えて孤児院に戻る時、釣りがあれば返すのが決まりだった。但し、釣りがあるかどうかは子供たちからの申告制であったので、ハレとトーマは「ぴったり使い切りました」と毎週申告して、小遣いをポケットに入れて持ち帰り、土曜と日曜の二回の外出で一人二〇〇ベイ、二人合わせて四〇〇ベイを、部屋の貯金箱にこっそりと溜め続けた。
「一年貯めてようやく買えた……! ギール・ニーレの巻き取り時計……!」
ハレがトーマと知り合って間もない頃、トーマは黒猫があしらわれたロゴマークで有名な『ギール・ニーレ』の時計を欲しがっていた。然し勿論、孤児たちにはブランドの時計を持つような贅沢は許されない。諦めの付かなさそうなトーマを見兼ねたハレが悪知恵を働かせて、この方法を思い付いたのだ。毎週末の申告が嘘であることに、シスターたちは途中から気付いていただろうが、探りを入れたり、咎めたりすることはしなかった。シスターのハレたちへの思いやりが、その暗黙の了解を生んだのだ。
「然し、本当にいいのか? ハレ。お前も一年我慢して貯め続けたお金なのに」
トーマの時計の購入に、ハレは自分の貯金も使わせていた。
「良いんだよ! 俺はバカだから、買いたいもんもしょうもないし。トーマが欲しがるもんなんだから、その時計、悪いもんじゃないんだろ?」
「分かった。本当にありがとう。でも、今度はハレの欲しいものも買おう」
「いいっていいって! 気にすんなよ」
「遠慮するな。お前らしくないぞ」
「そ、そうか? じゃあ……、ゴ、ゴーグル」
照れ臭そうにそう言ったハレに、トーマは思わず「は?」と聞き返した。聞けばハレは、砂漠を旅する冒険小説の主人公が付けているゴーグルに憧れたので、自分もそれが欲しいのだという。少年らしい理由に笑いそうになりながらも、トーマはゴーグルを買う約束をした。然し――。
「お、兄ちゃんイイもの持ってるじゃん」
孤児院への帰り道、柄の悪い若者に絡まれたハレとトーマは、一年をかけてようやく手に入れたその時計を、早くも手放すことになってしまった。二人は勿論抵抗した。が、当時十一歳だったハレとトーマが、二十歳前後と思われる複数人の男に敵うはずもなく、時計は虚しく、トーマの手から奪い取られた。
「すまない、ハレ」
「なんでトーマが謝んだよ。悪いのはあいつらだ。また一年、頑張って貯めて、時計はもっかい買えばいいだろ」
トーマは「もういいんだ」と言ったが、ハレは譲らなかった。結局一年後、同じ額を貯めた二人は、同じ時計を購入した。そしてその数か月後には、今度はハレのゴーグルを買った。それが、今も二人が身に付けている時計とゴーグルなのだ。
「戻ったぞ、ハレ」
テントの傍らで胡坐をかくハレの耳に、後方からトーマの声が届く。旅立ちの前に本で読んだ手順を思い出しながら、ハレは夕食に使う魔物の肉を捌いているところだった。ゴーグルをかけたハレが振り返ると、そこには両腕いっぱいに、大小様々な枯れ枝を抱えるトーマとカレントの姿があった。
「おう、テントはこの通りだ。肉はまあ、上手く捌ける保証はない」
「食えればなんだっていいさ」と、トーマは薪となる枯れ枝をその場に放ると、テントの骨組みを指で摘まみながら、「孤児院の物置に放置されていた割には、悪くないものみたいだな」と呟くように言った。老練の旅人が、風向きでも読むような具合にだ。
それからトーマはハレの向かいに座り込み、細い枝から選んで積み重ねた。孤児院から持ってきていたマッチを擦って火を付けると、トーマはそれを枝の中へと放った。枝から枝へと燃え移り、みるみるうちに炎は大きくなっていく。
「……なんだ、ゴーグルなんかかけて」
「別に~」
面白がって炎の中に枝を投げ入れながら、ハレは続けた。
「ちょっと昔のことを思い出してよ」