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トーマは乗り気ではなかった。
この脱走自体に、というわけではなく、あのお調子者のハレが考えた脱走計画に、だ。とはいえトーマは、ハレが一度言い出したら舵の利かない暴走特急であることを、もちろん知らないつもりではなかった。知っていて、敢えて止めなかったのだ。暴走特急を止めるよりも、相乗りして走り抜けるほうがよっぽど楽なのだと、ここ数年に渡るハレとの付き合いの中で、トーマは肝に銘じていた。
時刻は午前四時。ハレの計画は単純にして明快だった。脱走に際してのポイントは二つ、と彼は言った。
「一つ目は、そもそも脱走したことに気付かれないこと。脱走に気付かれることは即ち、計画の失敗を意味するからな。そしてもう一つ、これが重要だ。脱走後、脱走に気付かれるまでにどれだけ時間を稼げるか。つまり、どれだけ遠くに逃げられるか、ってことだな」
当たり前のことを、何を世紀の大発見とばかりに、とトーマは口にはしなかった。それが昨日の昼のことだ。
昼間、――この孤児院の、昼の自由時間の間、ハレは自室にて、今夜の作戦の段取りをトーマに説明していた。
「いいか、トーマ。第一に、俺たちがこの孤児院から出る方法は、大きく分けて二つある」
自慢げに二本の指を突き立てて、ハレは語った。
「引き取り手となる里親が見つかるのを待つこと。或いは、シスターの目を掻い潜り、くくく……、脱走することだ」
「……その話は何度も聞いた」
「まあまあ、そう慌てなさんなトーマさん。まだ話は始まったばかりなんだから」
自慢の計画をどれだけ他人にひけらかしたいのか、トーマはこの数ヶ月の間、ハレの口から同じ話を繰り返し聞かされていた。それこそ、耳にたこができるほどにだ。
「二つのポイントを加味して考えて、脱走するのに最適な時間帯の候補を、俺は幾つか絞り出した。初めに考えたのは夕方の時間帯だ。昼の自由時間が終わると、幼児院のお昼寝の関係で、この棟からはシスターが殆どいなくなる。つまり、警備の手が薄くなるということだ。そしてそのあと、人数確認の点呼は夕食の十九時まで行われない。この間凡そ四時間。この孤児院で、夜中を除いて点呼がなくなる時間としては最長だ。その分、遠くへ逃げることが出来る」
おおよそ同意は出来る内容だったが、少なくともシスターは、警備の為にこの棟にいるわけではない、とトーマは思った。
「然しだ、トーマ。夕方の決行には大きな問題が一つある。不定期で訪れる、シスターハマナのお菓子タイムだ。彼女は夕方の時間帯、数日に一度この棟の子供たちにお菓子を配りにくる。何か周期があるのかと探ったが、これは数週間に渡る調査の結果、完全なるランダムであると実証済みだ。たまたま脱走の日にかち合えば、タイミングが悪ければ脱走が見つかるし、脱走自体を完遂していたとしても、俺たちがいないことに早期に気付かれては困る。夕方の決行は、あまり現実的とは言えない」
両手を広げて首を振るいながら、仕方のなさそうにハレは言った。お手上げ、のジェスチャーだ。極力興味のなさそうな視線でそれに応えるトーマにはお構いなしに、今度は自慢げなしたり顔になってハレは続けた。「そして俺が最終的に行き着いた結論は、明け方だ。夜中から脱走にかかれば、逃走時間は稼げるが、シスターロゼのおトイレタイムと重なる可能性がある。ロゼは必ず、俺たちの部屋の前の廊下を通ってトイレに行くからな。物音で気づかれたら速攻でアウトだ。シスターロゼの行動パターンも、この数週間で完全に把握した。彼女もトイレに行く日、行かない日はランダムだが、確実に言えることが一つある。午前四時以降は、ロゼは絶対にトイレに行かない。そして四時に脱出を決行すれば、次の点呼は七時半の朝食時。逃走時間は三時間半稼げる。夕方の決行には劣るが、これだけあれば十分だ。つまり、計画の実行は午前四時。これが最良にして、無二の選択というわけだ」
耳にたこが出来るほど、同じ話を聞かされているにも拘らず、作戦の決行が今日まで先延ばしになったのは、孤児院三階のハレの部屋から脱出する為に使うロープを、ハレが拵える為だった。ここのところ、この孤児院ではタオルや衣類がすさまじい勢いで紛失し続けている。そして勿論、その犯人はハレだ。
ここ、フォックシャル帝国の帝都であるアルバティクスのバルド教修道院内孤児院には、〇歳から十八歳までの孤児たちが、シスターに見守られながら常に四十人から六十人ほどで暮らしている。
細かくルールが定められているわけではなかったが、孤児たちの部屋は大まかに、年齢によって階数が分けられており、十五歳であるハレの部屋は三階の一室で、廊下を挟んで向かいがトーマの部屋であった(通常、孤児は二人か三人を一組とされ同室になるが、十三歳以上の者には原則として個人部屋が与えられた)。
脱走計画に際して、経路はハレの部屋からと二人は決めていた。窓から下に降りればそのまま修道院の外に出られるハレの部屋に対して、トーマの部屋の下には広大な中庭が広がっていた為だ。よって脱走計画の手はずとしては、四時を回り次第、トーマがハレの部屋へと向かい、窓からロープを伝って地上へと降り、そのまま孤児院を抜け出す、というものになっていた、が――。
(まあ、薄々こうなる気はしていたが……)
四時を回ったのでハレの部屋に向かうべく、廊下に出たトーマは呆れていた。窓の外からは白い光が薄らと、幅の広い廊下を照らしている。間もなく夜明けだ。
(ハレの奴、完全に寝てるな)
何度かハレの部屋の扉をノックしたが、反応はなかった。ここ一番というところで、ハレはいつもこういう失態を犯すのだ。だからトーマも乗り気ではなかった。ご丁寧に、いつもはかけていない部屋の鍵まで、用心の為かハレはかけている。
眼鏡のブリッジを指で押さえ、うーんと唸ったトーマだったが、思考の時間はそう長くは続かなかった。何かを閃くと、腰のベルトに携えられた、濃紺と白を基調とした二〇センチほどの楕円体に、トーマはそっと手を触れる。
トーマからの接触に応えるように、高音と共に静かな水色の光を放ちながら、楕円体は肥大化を始める。数秒もしないうちに、二メートルほどの体躯を持つ巨人の形へとその姿を変えると、それはトーマの隣に立った。
水棲生物を思わせる、(濃紺と白色の部分に分かれた)光沢のあるぬるりとした質感の肌。筋肉質でがっちりとした上半身と、対照的に、貧弱ではないがほっそりとした下半身。腕と背中、そして頭部には、魚のヒレのような部位を持ち、四本の手指と、三本の足指の隙間には、それぞれ水かきのような薄い皮膚を、彼は有していた。瞳はぎょろりとしており、これも魚か、蛙のような両生類を想起させた。
「やれるか? カレント」とトーマ。
カレント、と呼ばれたその巨人は、トーマに目配せをし、コクリと一つ頷きながら、「やってみよう」と静かに答えた。カレントの声は、どこか水中で聞くようにくぐもっており、どちらかといえば高音域の男声だった。
その場にしゃがみ込むと、カレントはハレの部屋の扉の前の床に手を着いた。扉と床の間には、一センチ強の隙間がある。驚くべきことに次の瞬間、床に着いていたカレントの指先は、にゅるり、と伸び始め、その小さな隙間に入り込んでいった。何かを探るように、カレントは目を細めている。
数秒の後に、「あった」というカレントの声と共に、ハレの部屋の扉の鍵は、ガチャリと開いた。扉の向こう側で、触手のように伸びたカレントの指が、鍵の摘みを回したのだ。
カレントが指を元に戻して立ち上がると、「よくやった」と言いながら、トーマはハレの部屋の扉を開けた。薄暗闇の中で、正面の窓へと足早に歩きながら、ロフトベッドの上で寝ているハレに向かってトーマは言う。
「ハレ、いつまで寝てるつもりだ? 早くしないと、シスターマリーの授業に遅れるぞ」
「おいおいトーマ待ってくれ、マリーは遅刻にはうるさいんだからよ、怒られるなら一緒に遅れて……、あ!? トーマ!?」
目覚めと同時に勢いよく起き上がったハレは、天井に頭をぶつけたようだった。ゴン、という鈍い音と共に、痛みに呻くハレの声を片耳に、トーマはカーテンを開けた。ハレの部屋は西向きなので、窓の外はトーマの部屋から見るよりも、幾分暗い。脱走には丁度いい、とトーマは思った。
「なあトーマ。寝過ごしたことは謝るよ」
額を右手で擦りつつ、ロフトベッドの梯子を下りながら、ハレは言う。「でもよ、もう少し起こし方ってモンがあるだろ?」
「時間がなかったんだ。この起こし方が一番効くことは実証済みだからな。それよりハレ、ロープはどこだ?」
「そんな実証は出来ればしてほしくなかったよ」とぼやくように返しながら、ハレはロフトベッド下の(物に溢れすぎて、最早机としての機能を為していない)机の上から、タオルや衣類を繋ぎ合わせて作ったロープを拾い上げると、窓際に立つトーマに向かってそれを投げた。ロープを受け取ると、トーマは外開きの窓を力いっぱいに押して開け、迷うこともなく地上へとそのロープを垂らした。
「ガーベラの起床は、四時三〇分と言ったな」、とトーマ。
シスター長のガーベラは、ハレの部屋の丁度真下の一階部分を私室としていた。そして彼女には、起きるとまず初めに窓を開ける習慣がある。そこで見つかることだけは、二人はなんとしてでも避けたかった。一度脱走しようとしたことがバレれば、ハレとトーマは勿論次を疑われ、脱走に対して何らかの措置を取られることとなる。ともすれば、次回以降の脱走計画の遂行は、極端に困難なものになるからである。
「ああそうだよ」と答えながら、ハレはタンクトップの上から、フード付きのジレを羽織って、そのフードを被った。次いでポールハンガーにかけられたゴーグルを手に取ると、ハレは首からそれを提げた。ハレの、気に入りのゴーグルだった。
腰のポーチに備えられた、ワイヤーが巻き取り式の時計をぐい、と右手で引っ張ると、トーマはそこに目をやった。時計は四時十七分を指している。
「あまり時間がない。ハレ、すぐにでも出られるか?」
言いながら、ようやくトーマは振り返り、ハレと目を合わせた。トーマのジトリとした鋭い目つきとは対照的に、ハレの目は元気よくパチリとしている。
右の頬だけでニヤリと笑って、ハレは差し出した左手の親指を、天に向かって突き立てた。
「モチ!」
ハレの言葉に微笑み返すと、トーマは再び、窓の外へと向き直った。トーマの隣へとやってくると、朝靄に包まれるアルバティクスの街並みへと、ハレは目を向ける。トーマの後方ではカレントもが一緒になって、その風景を見つめていた。
「いよいよ出発だな」
珍しく緊張気味になって、ハレはそう言った。
「怖気づいたか?」とトーマ。「やってみる前から諦めるなよ」
「うるせー」
右の手でロープを掴み、トーマに向かって鼻を鳴らすと、ハレは続けた。「その逆だよ。楽しくなってきやがった」
三人ともにロープを下ると、その最後に、トーマはロープを回収して、背中のリュックへとしまった。それがどの程度の有利性を生むかは知る由もないが、痕跡は残しておかないに越したことはない。
修道院を囲う鉄の柵を乗り越えると、そこはアルバティクスのとある路地の一帯だった。脱走後の進路は決めてあったので迷うことはなく、夜明けのアルバティクス中央通りへと、彼らは歩き出した。
「随分物騒なもん買うんだね。最近の若い子は」
「ちょいと失せ人を探しにね、街の外に出るもんで」
朝市の武具商から、ハレは短身の双剣を買った。揃いの鞘も購入すると、ハレはそれをベルトに取り付けた。
「最近じゃ、あっちこっちで怪しい奴らがうろついてるって専らの噂だ。あんちゃん、白地に青い線のローブを着た連中には気をつけな」
武具商の男はそう言って、ハレたちを見送った。初めて真剣を手にしたハレは、これが気に入ってしばらくは、気分が舞い上がったままだった。街の入出門広場方面へと、大通り途中の階段を、一段飛ばしで下りながらハレは言う。
「なあなあトーマ! 今の俺、すっげーカッコいいんじゃね!?」
「分かった分かった。頼むから前を見て走ってくれ。出来るだけ遠くへ離れるんだろう? 転んで骨でも折っても知らないぞ」
「分かってるって! それより聞いたかよ、怪しい連中がうろついてるってさ! 青地に白い線だか、白地に赤い線だか知らねーが、どんな奴が出てこようが、今のこの俺の敵じゃねえぜ!」
どっちも間違いだ、という言葉を、トーマは口には出さないでおいた。テンションの上がり切ったハレからどんな面倒な文句が返ってくるか、分かったものではない。ただでさえトーマは、嫌気がさすほどの眠気と戦っている真っ最中だったのだ。
街の入出門広場に設けられた門をくぐると、そこには街の外へと続く長い石橋が架けられている。石橋の先には遥かに霞む、広大な平原が広がっていた。帝都の東に遍く広がる、東アンモス平野だ。
勢いのままに門を飛び出して、ハレたちはそのまま、浅い草のそよぐ平野へと駆け出した。東の空が、朝焼けに染まり始めている。眼前に広がる平原は、その穂先に朝の光を反射して、黄金の煌めきを放っている。
「やっぱ、冒険活劇に悪役は付き物だよなァ! 『この世に悪がある限り、それを断ち切る正義もまたここにあり!』ってか!? 仕方ねえから人探しついでに、いっちょ世界でも救ってやるか!」
好き放題に跳ねる菜種油色の短髪と、その目には緑青色の瞳を、ハレは持っていた。白無地のタンクトップに、焦げ茶のジレを重ね、下衣には黒のジョッパーズパンツ。だらしがない、と言えば聞こえが悪いが、全体的に緩く着こなすのが、今年で十五歳になった彼の好みだった。首からはゴーグルを提げ、その足にはストラップ式のサンダルを、彼は履いている。
「それはお前の好きな冒険小説の台詞だろ。舞い上がるのは構わないけど、本来の目的を見失うなよ」
ハレよりも一学年上のトーマは、間もなく十六歳の誕生日を迎えようとしていた。整えられたブロンドの髪と、黒縁の眼鏡の奥には勿忘草色の瞳が輝いている。セーラーカラーにも似た白い立ち襟を持つ、薄青のボタンシャツを着用し、その手には肘までを覆う青のロンググローブを、彼は嵌めていた。ハレとは対照的にぴっちりとした白のパンツを履いており、膝から下は黒いブーツに覆われている。そして彼は、水のアーツであるカレントを、その使役者として従えていた。
「心配すんなよ、トーマ。何の為に今日まで準備してきたと思ってんだ。そう簡単に忘れるわけねーだろ」
アシリア歴二〇五二年、五の月十三の日。この惑星アシリアを舞台に、運命に導かれた二つ目の物語が、間もなく幕を開けようとしていた。
五年前、ハレたちの暮らす孤児院から突如として姿を消した、紅い髪の青年。兄貴分として慕っていたその青年を探すべく、ハレは今日、この帝都を旅立つ。始まりの目的地は、ここより東。『湖上の研究都市・ファンテーヌ』だ。
「待ってろよ……。――アーロン!」