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「結論から言う。ハレ」
なんで俺、とでも言いたげに、ハレは自分自身を指差して、目を丸くさせた。が、続くシンの言葉には、ハレは更なる驚愕に、その疑問を上書きせざるを得なくなった。
「――ドボロを連れていけ」
大通りに面した、芝生の敷き詰められた公園のベンチに腰掛けたシンは、風に煽られる長い前髪を鬱陶しそうにしながらそう言った。ハレを見つめる彼の視線には、一切の冗談は含まれてはいない。ハレはその言葉の意味を考えた。
シンはこれから、エンデラの森を目指す為の旅路についての話をしてくれようとしていたのだから、単純に考えて「連れていけ」と言えば、その旅にドボロを連れていけということになるだろう。そしてそれは恐らく、単純に同行させろという意味ではない。シンは自分を名指ししたのだから、そこに含まれるのは(使役者ではなくとも)自分自身のパートナーとして、ドボロを連れていけ、という意味になる。
丸くした目を更に見張って、表情を目いっぱいに顰めると、ハレは怒鳴るように言った。
「む、無理無理無理無理!! 昨日の話聞いてなかったか? 俺はアーツが苦手、っていうか、はっきり言って嫌いなんだよ! トーマがカレントを連れてるとかならまだしも、自分のアーツなんて言語道断!! 絶ッ対に無理!!」
想像していた以上に強烈な拒絶反応を見せたハレに、流石にドボロが傷ついたのではないかと思って、シンは腕を組み直しながら、ベンチに掛ける自身の右隣に立つ、ドボロの表情を仰ぎ見た。同じくシンの表情を伺ったドボロと、シンは顔を見合わせる形となった。が、ドボロには特段、悲しむ様子などは見られなかった。ただ彼も、どうしたものか、とでも言いたげに、丸くした目とへの字にした口で、シンを見ていた。
再度、シンは自身の正面に立つハレへと視線を向けながら、「まあ、順を追って説明しよう」と仕方なさげに言った。
「まず確認をするが、ハレ。ノアの旅に同行する、もしくはそれを先導するつもりなら、当然、ノアを付け狙う夜明けの月光と、再び相まみえることになるのは覚悟しているな?」
コクリ、とハレは頷き返す。「当たり前だ」
「ではその上で、予め断ってはおくが、お前たちはこの旅で、海をも渡ることとなる。アンモス大陸はアシリア四大陸の中でも、比較的温暖で過ごしやすいのが特徴だ。自然環境も同様に、或る程度の山脈や河川、森などはあるが、どれもその険しさで言えば並以下。そこに棲まう魔物も勿論、比較的温和で、生存本能は然程高くない。労せずとも生き残れる環境がそこにはあるからだ。然し、海の向こうの大陸の中には、厳しい気候と自然環境に適応し、そこで生き抜く為の力を備えた、強力で獰猛な魔物がうじゃうじゃといる地域もある。そんな場所を渡り歩き、且つ、予告なく襲ってくる夜明けの月光からお前たちは、今後ノアを守り抜いていかなければならない」
自信満々でシンの話を聞き始めたハレだったが、聞き進めるうちにその表情は曇り始め、それを誤魔化そうと努めながらも、隠し切れない不安や焦りが、そこには浮かび上がってきていた。
「そもそも昨晩の話だと、夜明けの月光の一員が連れていた火を纏う巨体に、お前たちは傷一つ付けられずに逃げてきたのだろう。次、奴らと出くわした時はどうする? また勝ち目もなく戦うのか、それとも逃げるのか?」
「そ、そりゃぁ、剣技を磨いて強くなるよ」と、ハレは視線を逸らしながら答えた。が、それを一蹴するような口振りで、「無理だな」とシンは突き返した。
話を聞くのはハレに任せようと思っていたトーマだったが、彼もまた、『傷一つ付けられなかった』人間の一人だ。話の行方が気になったトーマは、そこに耳を傾けた。
「夜明けの月光が連れていたという火の巨体。話を聞く限りはお前たちの感じた印象通り、アーツか精霊の可能性が高い。そして、その一員がそれを連れていた以上は、夜明けの月光の他のメンバーも、同じくアーツや精霊を使役している可能性は十分に考えられる。アーツ使いや精霊術師と渡り合えるのは、同じくアーツや、精霊を使役出来る者だけだ。一度手合わせして分かったろうが、生身の人間でアレと渡り合おうなどと考えるのは、あまりにも無謀だ。カレントを連れているトーマは兎角としてな。アーツが嫌なら精霊術を学ぶか? 才能のある者でも、習得までに最短一年はかかると言われている。今のお前たちに、残念ながらゆっくりと勉学に励む時間はない。つまりハレ、お前には今――」
鋭く、睨み付けるような視線で、シンはハレを見つめた。二人の間を静かなる疾風が一つ、通り過ぎた。
「アーツの力が必要なんだよ」
シンの言葉に、ハレは俯き、左手で口元を覆い隠すと暫し沈黙した。物憂げに眉をひそめながら、ノアが静かに口を開く。
「確かに、あのフラムという大きい方を連れた女性以外にも、あのような大型の何かを連れている方は、少なくとも一人は見たことがあります。逃げるのに必死で、しっかりと姿を確認出来たわけではありませんが、使役者らしき男性と言葉を交わしていたように見えたので、魔物の類ではないと思います」
こくり、とシンはそれに頷き返す。
トーマはというと、彼は彼で、思うところもあった。ハレと同じく考え込むように俯いていたトーマは、眼鏡のブリッジをくい、と押さえながら顔を上げると、シンに向かって次のように問うた。
「でもシンさん。アーツは通常、人間側と波長が合っていないと使役が出来ないのでは? まさか、ハレとドボロの波長が合っているとでも言うんですか」
トーマの疑問は、至極真っ当だった。
使役者となる人間と、使役されるアーツの、その身に宿るフォルスの属性と波長が合っていて初めて、アーツの使役は可能となる。これは周知の事実だ。ハレがドボロを連れていくとして、二人の属性と波長が合っていなければ、ハレにはドボロを使役することは出来ない。単に、ドボロがいちアーツとして戦うことによる戦力の増強には期待出来るが、少なくとも(奇跡的に二人の属性と波長が合致している可能性を除いて)ハレと〝共鳴〟して共に戦うことは、ドボロには出来ないはずであった。
にも拘らず、シンの口振りはいかにも、ハレとドボロが〝共鳴〟をして戦うことで、夜明けの月光にも対抗し得る戦力となる、というようなものであった。トーマはそこに不思議を感じていたのだ。
静かに一つ頷くと、「四年前――」と何処か懐かしむように、シンは言った。
「悪の道に堕ちた研究者と出会った。元来はアーツの平和利用を望んでいた男だったが、敬愛する師の変貌を止められず、奴自身も悪に堕ちることとなった。奴はもうこの世にはいない。最後まで自分の不遇を嘆いて死んでいった哀れな男だったが、研究者としての手腕は本物だった」
懐かしむような表情を一転、再び説明的な口調になって、シンは続ける。
「アーツの持つフォルスの波長を無理矢理にズラし、本来は使役出来ないアーツをも意のままに操るグローブ。奴はそんなものを造り出していた。波長をズラされたアーツは正気を失い、ただグローブの持ち主の命に従う戦闘兵器と化す」
と、シンは腰のポーチから、何やら布製品を取り出した。
そんなものを造れること自体が、トーマには驚きではあったが、まさかシンがそれを持っていて、ハレに使わせようとしているのかと思うと、殊の外そこに動揺を隠せなかった。
シンがポーチから取り出して、トーマたちへと差し出したのは、確かに指無しのグローブであった。が、続くシンの説明には、トーマは安堵した。
「これは奴の死後、俺がそれを元に独自で開発したグローブだ。『新型フォルスチェイン』と俺は呼んでいる。アーツにその意志がある場合にのみ限り、アーツの波長を一時的にズラし、本来は使役出来ないアーツとの、疑似的な〝共鳴〟を可能とする装飾品だ。勿論、アーツは正気を失わず、自分の意思で自由に動くことが出来る。波長の合うアーツとの〝共鳴〟と同レベルとまでは流石にいかないが、それでも通常の〝共鳴〟の、五割から八割程度の能力を発揮出来るようにはなっている。生身で戦うよりは、万倍マシなはずだ」
「なるほど」とトーマは頷くと、次いでハレへと目をやった。準備は体よく整っているというわけだ。あとはそれを、ハレが受け入れるかどうかの問題だった。判断を仰ぐように、ノアやシン、ドボロも同じく、ハレへと視線をやった。ハレは尚悩んではいたが、その考えは一つの方向性に、徐々にまとまりつつあった。口元を覆って俯いたまま、ハレは言った。
「なあ、ドボロって言ったよな」
「ンだ」
「……俺、まだお前のこと、殆どなんにも知りやしねえ。上手くやっていけるかどうか、友達になれっかどうか。そもそも、そんな大層な手袋用意してもらって、それを俺に扱えるのかどうかも分からねえ。……正直怖えんだ。アーロンが攫われた日、俺を吹き飛ばしていったあの巨人を思い出すと、未だに身体が震える。……でもよ」
「……」
ドボロは黙って、ハレの話を聞いていた。す、とハレはドボロの顔を仰ぎ見る。きょとん、とした表情で、土の巨人はハレの瞳を見つめ返した。小さな少年の瞳には、微かだが決意の炎が光っているように、ドボロには見えた。
「お前が良い奴だってのはスゲー分かる。俺、お前の力が必要だ。ドボロ、お前は俺と、上手くやっていけると思うか?」
ハレの言葉に、横長の口を縫い合わせるようにぴったりと閉じて、ドボロは笑った。
「オデも、ハレのことはまだよく知らないだ。でも、ハレによく似てる奴を一人知ってる。そいつはすっごく良い奴だったし、そいつのパートナーのアーツも、すっごく幸せそうだった。オデは、オデがハレとも上手くやっていけると思ってるだよ」
唾を一つ飲み込むと、再び視線を落とし、片方の口角だけで余裕なさげな笑みを浮かべて、「よしっ」とハレは呟いた。
不安が、ハレの中から消えたわけではなかった。事実ハレの額には、嫌な汗がじんわりと滲んでいたし、その両手はハレの決意を受け入れるのを拒むかのように、微かに痺れている。然し、シンの言うことが尤もであることはハレにも分かったし、何よりもハレは、自分自身が決めたことから目を背けることだけはしたくなかった。
ノアを守り抜く。そして彼女を、エンデラの森まで送り届ける。その為には力が必要だ。目の前には好機が転がっている。これこそが、自分がロロキア旧水脈の出口で感じた予感の正体ではなかったのか。今決めなければ、この覚悟は永遠に燻ったままだ。歯を食いしばれ。アーツは敵じゃない。敵の一人が、アーツだっただけだ。
「シン」とハレ。
「ああ」
「悪いようにはしねえ。そのハイテクグローブ、俺に貸してくれや。やることやって用事が済んだら、ちゃんと返しにくっからよ。それから、……ドボロ」
ハレはドボロへと身体を向けて、しかし俯いたまま、自嘲気味に語った。
「すぐに克服できるかどうか分からねえ。気を悪くさせることもあると思う。俺ってバカで強がりだから、強い言葉で、自分も騙すしかねえんだ。それを許してほしい」
す、とハレはドボロの顔を仰いだ。
ハレの表情は真剣だった。その目の中から、恐怖が完全に消えたわけではないことは、ドボロにも分かった。ハレは無理をしている。無理を通して、道理を引っ込めようとしているのだ。そうまでして叶えたい思いが、そうまでして手に入れたい力が、ハレにはあるのだとドボロは悟った。
「絶対に、お前と友達になってやる。絶対に、お前と一緒に強くなってやる。絶対にノアをエンデラの森に連れていくし、絶対に夜明けの月光もぶっ飛ばす。んでもって、絶対にアーロンを連れて帰る。俺と、一緒に来てくれ。いや、俺についてこい。ドボロ」
右手を、ハレはドボロへと差し出した。その手は小刻みに震えている。狼と対峙した小鹿のように、その小さな手は無力に見えた。
弱い自分に正直ではないが、中途半端には嘘もつけない。彼なりの信念が、そこに含まれていることがドボロには分かった。横長の口をぴったりと閉じると、ハレの右手を握り返して、ドボロは頷いた。「ンだ!」
じんわりと嫌な汗が滲む。今日のファンテーヌは随分と暑いみたいだと、ハレは自分に言い聞かせる。目を閉じて深呼吸をするのにも、それほど深い意味はない。なんならずっと昔からの、自分の癖だったとすらハレは思う。目を開け。笑え。笑えばどんなことだって、たちまちに楽しくなってくる。
開いた口の隙間から、強がった言葉が漏れ出してくる。その言葉を嘘にしないよう、ハレは笑ってみせた。強張る表情筋を痙攣させながら、片方の口角と細めた目だけで、死者がするような笑みをハレは浮かべた。
「なあ、最高の旅にしようぜ」