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「すみません。ご迷惑をおかけしてしまって」
王立学院に併設された病院の一室で、ベッドに横たわったノアは、ハレたち四人(ハレ、トーマと、連れ添ってくれたシンとドボロ)にそう謝った。
「俺たちはなんでもねーけどよ。……ごめんな、無理させちまってたみたいで」
まだ少しだけ苦しそうなノアの顔を、心配そうに覗き込みながらハレはそう返した。
「俺からも謝らせてくれ」とシン。「前振りもなく、配慮のないことを言ってしまった。すまなかった」
首を小さく横に振るって、「いえ」とノアは答えた。
医師によれば、「肉体の疲労と極度の心労が、頭痛や眩暈のような症状として出ているのみであり、病気などではない。数日間安静にしていればよくなるだろう」とのことであった。
苦痛に顔を歪ませながらも、ノアはゆっくりとその身体を起こすと、ベッドから両の脚を降ろして、そこに腰を掛ける形を取った。ふう、と小さな溜め息を吹き漏らすと、「実は」と彼女は小さく静かに言った。
「いつも街に入ると体調を崩すんです。おばあさまは私のことを、『人の悪い気を吸い込む体質』なんだと言っていました。ハレさん、トーマさん。ここまで私に隠し事を許してくれて、ありがとうございました。勿論お二人のことは信頼出来ているのですが、話せば更なるご迷惑をおかけすると思い、黙っていようと思っていました。ですが、私のこの体質のことも含め、この先も隠し通し続けるのには、少々無理が出てきました」
静かに一つ、唾を飲み込むと、ハレとトーマへとまっすぐに視線を向けて、ノアは言った。
「本当のことを、お話しします」
ノアにとって、少なくともそれが安全策とは言えないことは、ハレにも分かった。理由が何であれ、彼女は何らかの目的を持った組織に追われる身であることには違いなく、また彼女自身も、目的を持って或る場所を目指している、謂わば追われつつ、別の何かを追う立場の人間だ。逃げる足と追う足の、どちらかでも緩めれば彼女の目的の達成は出来ないだろう。それを誰かに明かすということには、デメリットは多いがメリットは少ない。ハイリスクにしてローリターン――ノーガードで繰り出す、賭けの一手ということになる。
ノアの瞳には、決心の火が灯っていた。最早、後戻りはできないとでも言うような。「シンさん、あなたの言う通りです」と、ノアは言った。
「私の探している森は、エンデラの森。この世の果ての地にあるという、黒き魔女の眠る森です」
ノアの語りは、小一時間続いた。ハレは殆ど、何も言えずにそれを聞いていた。
十五年前、このアンモス大陸の何処かにある、山間の或る家屋でノアは生まれた。父はいなく、母はノアを生んで間もなく死に、ノアは母方の祖母と二人で、長らく暮らしていた。幼い頃から、ノアは頻繁に体調を崩した。人の悪い気を吸い取る体質なのだと、人の街には近付かないほうがいいと、祖母はその度に話したという。そしてその体質の由縁は、自分たち一族の爪が黒いことと同じく、その血の縁を辿ったところにあるのだと、ノアは彼女から聞かされていた。
「かつて、人の負の感情を喰らい浄化する、特別の力を持った人外の魔女がいたといいます。魔女にはその眷族となる人の一族があり、一族は魔女の持つ力の一部を扱うことが出来たとされています。ですが、力の使役は人体には大きな負担となり、彼らの髪、瞳、そして爪は、魔女の力の使役によって、黒く染まってしまったと言われています」
女性ばかりが生まれたこの一族の中でも、特に魔女の近縁の者たちはその力が強く、『巫女の一族』と呼ばれた。巫女の一族は魔女を守護し、魔女はその力を以て、人の世の平和を支えた。人々は、魔女と巫女の一族、延いては黒き爪の部族への感謝の念を以て、生活を送っていた。
「そこから先は皆さんもご存知の通り、この『黒き爪の者』への迫害の時代です。或る時、黒い爪は先祖の悪行の顕れだとされ、彼らは住む土地を追われるようになる。魔女らは人里離れた荒れ地に移り住みますが、間もなくその土地までもが人々に追われ、やがて軍勢によって、一族の多くが殺され、魔女はその地に封印された、とされています」
現在にまで伝わる黒き爪の者の言い伝えと、ノアの話の内容は概ね一致した。ハレやトーマにとって初耳であったのは、一族の中心的位置付けである、『魔女』と呼ばれる者の存在だ。然し、トーマにはその存在というよりも、その存在を聞いても、それをも自分は知っていると言わんばかりに微動だにしない、シンの姿のほうが印象的であった。彼が何を、何処まで知っているのかということが、トーマには気になった。
「人々への怒りに燃えた魔女は、封印の直前、その地に呪いをかけたといいます。本来ならば浄化して放つべき、喰らって溜め込んだ負の力を、浄化せずにそのままの状態で放ったのだとか。草一つなかった荒れ地には森が生まれ、森の中心には、魔女が自身の棺とするための泉が湧いたとされています」
森は黒き爪を持つ者以外の侵入を許さず、通常の人種が立ち入ろうとすれば、蠢く木々の餌食となった。生き残った黒き爪の者は各地に散り散りとなったが、現代までにその多くが、理由なき迫害の犠牲となっている。彼女自身のことを、末裔といってもいいのかもしれないとまで、ノアは言った。
「真実かどうかは分かりません。ただ、私のこの爪が生まれた時から黒かったことは確かです。黒き爪の者の――、更に言えば、巫女の一族の直縁に連なる、謂わば最後の巫女。おばあさまは私のことを、そう言っていました」
魔女が封印されている現代に於いても、巫女は魔女の力を、自分の意思とは無関係に使役してしまう。若き十代の巫女は特にその傾向が顕著で、ノアの祖母も母も、一時はそれに苦しめられたという。それに加えて元々身体の弱いノアは、人の多い土地に近づくと、そこに住む人々の負の感情(祖母は『穢れ』とも言った)を吸い取って、体調を崩してしまう。そして、それを防ぐ為の手立ては一つだけあるのだと、ノアは言った。
「一年ほど前、夜明けの月光と名乗る白いローブの方々が、祖母と私の暮らす家を襲撃しました。私を庇って、彼らの攻撃を受けた祖母は死にました。彼女の亡骸を、私は置いていかざるを得なかった。カミナに乗って私は逃げました。逝き際、祖母は私にこう言ったんです。それだけを頼りに、私はこうして、今も旅を続けている」
一呼吸を空けると、ノアは静かに、然し語気を強めてこう言った。心なしか、彼女が涙を堪えているようにも、ハレには見えた。その涙を、流させてはいけないとハレは強く感じた。
「森を探せ。泉に眠る魔女を目覚めさせなさい。魔女が目覚めれば、流れ込む穢れにも制御が効くはずだ、と。……森の名はエンデラ。魔女の名前は、……――『プリマギア』」