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「驚かせてしまってすまなかった。他人の空似だったようだ」とシンは言った。
お詫びに、とシンは、広いテラス席のある喫茶店で、ハレたちにお茶を奢ってくれた。
「お、俺はこっちの席で」
シンが連れている土のアーツと隣り合わせになりそうだったハレは、その席をトーマへと譲った。「どうかしたのか?」というシンの問いには、トーマが答えた。
「こいつは訳あって、ちょっとアーツが苦手なんです。すみません」
「そうか。別に構わないが」
「色んな人がいるだな。ごめんだ、ハレ」
びくり、と身体を震わせて、緊張に表情を歪ませると、「い、いやあ」とハレは言った。「こっちこそ、気を遣わせてすまねえ。えっと……」
口ごもるハレに対し、横に長い口を縫い合わせるようにぴったりと閉じて、アーツは笑いかけた。「ドボロだ」
「お、おう! ドボロ!」
喫茶店までの移動中に、ハレたちは簡単な自己紹介は済ませていた。また、ハレたちがまさにシンを探し求めて、帝都からこのファンテーヌまでやってきた、ということも。
注文を取りに来たウェイターに、人数分の飲み物を頼み終えると、店内へと戻っていくウェイターを見送ってから、「さてと」とシンは仕切り直した。
「改めて、俺がお前たちの探している、帝都の孤児院出身で、今はファンテーヌの研究者のシンだ。俺に聞きたいことがある、と言ったな」
一呼吸を置くと、「話してみろ」とシンは言った。
ようやくシンまで辿り着いたという達成感と、アーロンの行方を知ることが出来るかもしれないという緊張感に見舞われて、ハレは口の中が乾いていくのを感じた。唾を一つ飲み込むと、「まずは事実の確認をしたい」とハレは言った。シンが頷き返すのを確認すると、ハレは次のように尋ねた。
「今から八年前、アルバティクスの修道院に、当時十五歳だったアーロンという男が運び込まれてる。紅い髪に緑の瞳を持った男だ。アーロンを運び込んだのは、シン。アンタで間違いないか?」
ハレの言葉に、シンは八年前の記憶に思いを巡らせた。当時、シンは十二歳だった。シンの記憶の中に、確かにその出来事は存在した。
何かの用事で帝都の外れを訪れていたシンは、傷だらけの身体で行き倒れていた紅い髪の男を見つけ、自身の暮らす孤児院へと運び込んだのだ。憔悴しきっていた彼は一言も言葉を発することはなかったが、自分よりも幾らか年上らしく、体格が大きかったので運ぶのには苦労したことを、シンは覚えていた。後日になって、彼の体調が良くなったことをシスターから聞いたことまで、シンはしっかりと記憶していた。
「ああ、それなら俺で間違いないな。それがどうかしたのか?」
シンの返答に、ハレは一つ、鼓動が高鳴るのを感じた。シスターの話は本当だったのだ。
「そのアーロンが、五年前の或る真夜中に、アーツに攫われて姿を消したんだ。俺もアンタと同じ孤児院育ちで、アーロンにはスゲーよくしてもらってた。アーロンを連れ戻す為に、俺はトーマと一緒に孤児院を抜け出してここに来た。アーロンを連れてきたアンタなら、アーロンの行方の手がかりになるようなことを、何か知ってるんじゃないかと思って!」
暫し沈黙して、シンは再度、記憶を巡らせた。八年前、あの青年を――アーロンを孤児院に運び込んでからの三年間、及びそれ以前やそれ以降に、彼の誘拐に関連しそうな出来事があったかどうか、ということについて。が、記憶を巡らせる前からシンの中では、残念ながらハレたちの役には立てそうにない、という見立てのほうが強かった。
確かに、彼を孤児院に運び込んだのは自分だ。然し、実のところでは彼のアーロンという名前すら、シンは今、ハレの口から聞くまでは知らなかった。そして、やはり記憶を遡っても、あの日以来アーロンの姿が、シンの記憶に現れることはなかった。シンにとってのアーロンは、ただ単に『倒れていたから孤児院に運び込んだ、悲運な青年』に過ぎなかったのだ。
一分ほどに渡るの沈黙の中で、一度だけノアは咳き込んで、「すみません」と謝った。飲み物を持ってきたウェイターが、テーブルにグラスを並べて去って行くと、シンは静かに目を閉じて俯き、小さく首を横に振るった。
「申し訳ないが、力になれそうにはないな。俺はあれ以来、そのアーロンという男には会っていないし、彼に関する話題も、俺の周りにはなかったはずだ。すまないが、俺にはアーロンの行方は分からない」
落胆を隠すことが出来ずに、「そっか……」と悲しげな声でハレは言った。
ウェイターが運んできたアイスコーヒーを小さく一口、喉へと流し込むと、「そう落ち込むな」とシンは言った。
「何か思い出したり、関係ありそうな情報が入れば連絡くらいはしてやるさ」
「ああ、ありがとよ。ただ正直、アンタだけが頼りだったから、ここからまた振り出しだぜ」
「他に、何か宛てになりそうなものはないのか? 次の行き先はどうするんだ?」
「事実上ねーな。ま、こっから先は虱潰しだ。まずはファンテーヌの界隈で、何か知ってる奴がいないか聞いて回ってみるだな」
「そうか」とシンは、それを聞くと気が遠くなる、というような表情を見せた。それから、何かを思い出したようにハッとして顔を上げると、シンは今度は、ハレの隣に座るノアに目をやって、「そういえば、俺も一つ聞いておきたいことがある」と言った。
ノアには、人に目を向けられると爪を隠す癖がついている。この時もノアはいつもと同じく、(テーブルの下なのでいずれにしても、向かいに座るシンからは見えないが)グローブを失った左手を覆い隠すような形で、右の掌をそこに重ねた。然し――。
「ハレとトーマの旅の目的は分かった。ノア、と言ったか。お前は何故、二人の旅に同行している? 服装を見る限り、あの孤児院の出身というわけではなさそうだが」
「私は、その……、或る、森を探しているんです。ただ、何処にあるのかも分からなくて」
「ほう」とシンは不可解そうに、然し思い当たる節があるような表情で目を細めると、「間違っていたらすまないが」と断った上で、ノアから視線を逸らすことはなく、次のように尋ねた。
「――エンデラの森、か?」
エンデラの森、と確かにシンはそう言った。ハレはその言葉には聞き覚えがなかったので表情を歪ませた。トーマも同じ様子で、それが何なのかを判断する吟味の目で、シンとノアへと目をやっている。
ノアだけがただ一人、その言葉に驚いたように目を見張り、再度テーブルの下で、左手を更に覆い隠すような仕草をした。ノアにとってそれは図星、ということらしいのがハレにも分かった。
「ああすまない」とシン。「ここまで歩いてくる途中、その黒い爪が目に入ってしまってな。見間違いか、塗り爪かとも思ったが、ハレとトーマの二人とは別の目的で旅をしているとなると、自然と可能性は絞られてくる。危害を加えたりするつもりはないから安心してくれ。ただ、もしも本当にエンデラの森を探しているのなら、こちらに関しては少しは力になれるかも知れないし、俺自身も、力を貸してほしいことがある。その爪が、本当の意味で黒いのならば。ノア、お前が本当に――」
一拍を置くと、シンは続きを引き取った。
「――黒き爪の巫女ならば」
シンのことを信用していいとは分かりつつも、突如自分の正体と目的を言い当てられたことに対するパニックで、ノアは本能的に「逃げねば」という衝動に駆られてしまった。が、ここに来るまでの疲労と体調不良に、この混乱は一気に拍車をかけたらしい。焦りに身を任せて立ち上がったノアは、強い眩暈に襲われて、その場でふらりと立ち眩んだ。
「ノア!」「おい、ノア!」
地面に身体を打ち付けるような感覚と、遠くから自分を呼ぶ、ハレとトーマの声の中で、ノアの意識はゆっくりと、暗闇の底へと遠のいていった。深く、何処までも美しく、全てを飲み込む、闇の中へ。