13
「なあ、ハレ」
あの日、アーロンの声は震えていたのかもしれない。
「……もしも」
あの日、アーロンは何を見つめていたのだろう。
「いや、なんでもない」
ハレにはもう、思い出すことは出来なかった。然し――。
「――待って!」
『もしも』の先に何があったのか。その先に、攫われたアーロンの行方を知るヒントがあったのではないか。あれ以来、ハレにはそう思えて仕方がなかった。彼は、自分が攫われることを知っていて、その上で自分に、何かを伝えようとしていたのではないか、と。
「待てよ、アーロン! 待てってば!」
暗闇の中へと向かっていくアーロンの背中を、ハレは追いかけた。まるで水の底を歩かされるように、身体は思うようには動かない。紅い髪を靡かせるアーロンの姿は、やがて完全に闇に溶けて、ハレからは見えなくなった。その場に立ち止まり、膝に手をつくようにして項垂れながら、ハレは呼吸を整える。
「なんでだよ……。アーロン……、――うわっ!!」
突如、目の前に現れた細身の巨人に、ハレは吹き飛ばされた。「ああ、いつものパターンだ」とハレが思うと、そこで決まってその夢は終わる。
ハッと目を覚ますと、もう見慣れたテントの天井がハレの視界には映った。夢から覚めても、息は切れたままだった。背中が汗でじんわりと湿っていて、気持ちが悪い。テントの外はまだぼんやりと暗い。明け方だろうか。
(……また、この夢だ)
ゆっくりと身体を起こすと、いつも通りの光景にハレは幾らかの安堵を覚えた。トーマはもう起きているらしく、テントの外からは焚火の音と、トーマの欠伸が聞こえてくる。左隣には静かに寝息を立てて眠るノアの姿があった。
ひとつ溜め息を吹き出すと、ハレは自身の両手を見つめて、自分自身の身体も(当たり前だが)そこにあることを、念の為確認した。
アーロンが姿を消してから、ハレは時々、今見たような夢を見るようになった。「もしも」とアーロンが語り、その先を濁した日のことを。その続きを無理矢理にでも聞き出せなかったことを、ハレはあの日以来、心の何処かでずっと後悔しているのだ。
(アーロン……。何処にいるんだよ……)
この日の昼過ぎには、ハレたちは湖の上に佇む、フォックシャル帝国第二の都市へと辿り着いていた。
ファンテーヌの街並みは、湖の上に形成された人工島の上に立ち並んでいる。湖に架けられた、人工島へと続く石造りの橋を渡ると、ハレたちはひとまず、街の中心地を目指して正面の大通りを上った。
街の中の地面は、表面が平たく削られた白い石畳になっており、立ち並ぶ建物はその全てが、白い土の壁と、鮮やかな青の瓦屋根を有している。街の入り口付近には住宅のほか、商店や宿屋も多く、通りを奥に進むにつれて、それらは研究所のような施設に切り替わっていくようであった。
「きっれーな街なんだな。研究者の街って聞いてたから、もっと陰気な感じか、ひたすらゴツいのを想像してたぜ」
ひとまずは感心といった様子で、ハレは口をあんぐりと開けてそう言った。「そうですね。とても綺麗です」とノアも同じく、その街並みに視線をやりながら、驚くように目を見張った。
「その昔、ファンテーヌが街として発展し始めた頃、フェンデルという有名な建築家が主導となって、この街並みを造り上げたらしい。フェンデルは建築家でありながら、この街に根付く研究者でもあったそうだ」
「へ~~」とハレはトーマの話に、ますます感心といった様子で返した。
まずはノアのグローブが買える店を探そう、とハレたちは決めていた。また、街に入る少し前から、ノアの体調が再び崩れ始めていたので、グローブが手に入り次第、その後は病院へ向かおう、とも。
大通りには一般の家族連れや、専業主婦とみられる女性のほか、白衣を纏った研究者らしき男たちも、昼時だというのに闊歩していた。街には或る程度の活気があった。丁度良い服飾店を探して歩き回りながら、例によってトーマは、次のように解説をしてくれた。
「湖上の研究都市・ファンテーヌ。テーヌ湖の湖上に栄えた、帝都アルバティクスに次ぐ、フォックシャル帝国第二の都市だな。世界でも類を見ない学問の街として知られ、国内最大の学校、王立ファンテーヌ学院を、街の中心に有している」
自分たちが歩を進める大通りの先を、トーマは言いながら指差した。その先には、ハレたちのいる街の入り口付近からでもよく見える、城のように巨大な建築物がある。ロロキア旧水脈の出口から見えた時計塔を含め、何棟かの建物で構成される、王立ファンテーヌ学院だ。
「学院は学生課と研究課の二課に大きく分かれていて、学生たちの勉強の場としてだけではなく、卒業後の学生の研究の場としての役割も持っている。研究課では常に、世界でも最先端の研究が行われており、卒業した学生以外にも、分野を問わず世界中から研究者や学者が集まるらしい」
王立学院に関しては、ハレも或る程度の下調べは済ませていた。なんといってもこの学院には、自分が探し求める、アーロンの手がかりを持つかも知れない人物が、通っているはずなのだから。
トーマの解説は今少し続いた。
「街全体には湖から汲み上げられた水路が張り巡らされていて、ファンテーヌはその景観の豊かさでも有名だ。水路だけでなく、ファンテーヌに存在するほぼ全ての建物は、学院を中心に放射状に並んでいて、その並びの美しさにも定評がある。上空から見ると切り分けられたケーキのようにも見えることから、デザートシティ、などと呼ばれることもあるらしい」
基本的に、ハレはトーマの説明を聞くのが好きだったが、それが長く続くと集中力が途切れ、飽きてしまうこともあった。集中力が途切れるとハレは決まって、「御託はいいけどよ」と言う。この日も例外ではなかった。
「御託はいいけどよ」
首から提げたゴーグルのアイカップを両手の指で摘み上げ、ハレはそれを額にかけると、左隣を歩くトーマにニヒルな笑みを浮かべて見せた。「勉強ばっかしてると、いつか頭がパンクしちまうぜ? トーマさん」
何故か自慢げなハレに対し「お前はな、ハレ」と、トーマは呆れ顔で返す。
「なんだと~?」と、ハレは眉間に皺を寄せて下唇を突き出すと、「どういう意味だトーマ」と不満そうに言った。
「どういうも何も、そのままの意味だよ」
「そのままの意味を聞いてんだよ~」
「人に聞いてばっかりいないで、パンクしそうな頭で少しは考えてみたらどうだ?」
「っだーもう! いっつもいっつも嫌味な言い方しやがって!」
地団駄でも踏み出しそうなハレを見て、「ふふふ」とノアは笑った。
「笑うな、ノア!」
「すみません、面白くて」
「まったく、二人して馬鹿にしやがってよ~」
ハレは目を細めて、文句ありげにそう言った。とその瞬間、細めた視線の先に、ハレは何かを見つけたらしい。悔しそうな表情を一転、目を見張り、「おっ」と嬉しそうに声を漏らすと、その頬に無邪気な笑みを浮かべて、「あの店なんか良いんじゃねーか?」とハレは言った。
ハレの視線の先には、ノアの衣装には合いそうな、ゴシック系の衣服を取り扱う服飾店があった。ハレの視線を追ったトーマもそれに気が付くと、眼鏡のブリッジを指で持ち上げながら、ノアへと尋ねた。
「俺は女物は分からないが……、どうなんだ? ノア」
「正直、私もファッションには疎いのですが……、大丈夫だと思います」
「ヨッシャ!」とハレは数歩駆けて二人の前方に踊り出ると、トーマを振り返ったそのままの体勢で、後ろ向きに歩を進めながら彼を挑発した。
「あの店まで競争だ、トーマ! 負けたほうは勝ったほうの頼み事、なんでも一つ聞く! いいな!」
「危ないから前を見て歩け。それが俺の頼みだよ」
「ビビってんのか~? 頼み事は勝ってから言いな! よーい、ド――」
ドン、と言いかけながら正面を向き直って走り出そうとしたハレは、ドン、と鈍い音を立てて人にぶつかり、ドン、とその場に尻もちをついた。
「言ってる傍から」と、トーマはハレへと駆け足で歩み寄ると、ハレがぶつかってしまった白衣の男に「すみません」と軽く頭を下げた。駆け寄ったトーマがハレを抱き起す前に、男はスマートな立ち振る舞いで、くるりとこちらを振り向くと、ハレへと手を差し出して「大丈夫か?」と尋ねた。
「いてててて……」とハレは左手で尻を摩りつつ、男へと右手を差し出すと、「わ、悪かった」と謝った。ハレの右手を掴むと、乱暴ともいえるほどの勢いで、引っ張り上げるようにハレをその場に立ち上がらせるなり、粗雑な言葉遣いで、然し優しい口調で、彼は言った。
「大変だな、田舎者は」
年齢は二十歳前後だろうか、自分たちよりは幾らか年上だろうという印象を、男の姿を傍目から見ていたトーマとノアは抱いた。
白衣の中に、彼は黒地に白い雲の紋様の入った、変わった形状の衣服を着用している。深緑をした彼の髪は、前髪だけが僅かに長く、黒い瞳を持つ目にかかりかけていた。腰には緑と白を基調とした楕円体を携え、彼はその背後に、(二メートルほどで肥満体系の肉体に、緋色のマントと浅縹色のズボンを纏い、土の皮膚と、頭部からは左右に二本の角、横に広い顔にはギョロリとした丸く黒い目、芥子色の大きな鼻、半開きになった横長の口を持つ)土の属性のアーツと思しき人影をも連れていた。
「さ、サンキュー。ごめ――」
ごめんな、とハレは言うつもりだった。が、ハレの顔付きを認識した男の顔が、みるみるうちに驚きか、恐怖のような感情に染まっていくのを見て、ハレは言葉を紡ぐのを中断せざるを得なくなった。男につられるようにして、彼の背後のアーツの表情も、やはりハレの顔立ちを認識するとともに、愕然とした表情へと変わっていく。
もちろん、何が起こったのかが分からないハレには、キョトンとした表情になって、「え?」と自分でも間抜けとしか思えない声を絞り出すので精一杯だった。
「な……」と言葉にならない声を、口の端から漏らしながらも、男は微かに震える両の手で、ハレの両肩を掴んだ。目の前の現実を、少なくとも受け入れることが出来ないという様子で、彼は言った。
「何故、お前がここに……! 三年前……、あの日お前は、俺たちを庇って――」
男の背後から、どすどすと足音を立てて歩み寄りながら、彼の名を呼ぶアーツの声が、その言葉を遮った。
「――シン!」
その名には勿論、ハレもトーマも耳を疑った。然し、この状況下でそれを問い質すことが出来るほど、ハレたちの神経は図太くはなかった。少なくとも、自分たちの驚きとは比べ物にならないほどの衝撃を、彼らは受けているらしいのだから。
自分たちは、シンという男がここにいることを知っていて会いに来た。だからこのタイミングでその人物に会えるのは、偶然とはいえ有り得ないことではない。然し、彼らの表情から感じ取れる驚きは寧ろその逆で、それはまるで『ここにいるはずのない』、『会えるわけのない』人間にでも、意図せず遭遇してしまったかのような――超常現象にでも見舞われたかのようなそれだった。勿論、何が彼らをそうさせるのか、ということは、ハレやトーマには分からなかった。
やがて男の隣にやってきて、震える彼の腕を優しく掴むと、「落ち着くだ」と野太い声でアーツは言った。
「落ち着いて、よく見てみるだ。似てるけどよく見ると違うだよ。この男の子は――」
アーツの言葉に、我に返ったようにハッとして、男はハレの両肩から自身の両手を離した。ハレはそこでようやく、強張った身体の力を抜くことが叶った。言葉の続きを、土の巨人は静かな声で引き取った。
「――ミドじゃない」