12
その日、生憎の曇り空であった。生憎――つまり残念だ、ということになるが、とはいえ、自分は家族と買い物に来たわけでも、友人と遊びに来たわけでもなく、人気のない廃墟を、ただの一人で訪れているに過ぎない。そんな背景を考えれば、寧ろ相応しい天候かも知れないと、シンは思った。
ハレたちの旅路からは二ヶ月ほど遡り、アシリア歴二〇五二年、三の月某日。アンモス大陸北東の海岸線に存在する、とある廃墟群をシンは訪れていた。
(まさか、自らの足でこの地を訪れる日が来ようとはな。ここが――)
かつて、秀逸なデザインセンスと優れた武術の腕を持つ人々による国家が、この場所には栄えていたという。長き歴史を持つ国であったが、二十年と少し前、軍によるクーデターが起因して内乱が起こり、その結果滅んだ。国の名はリ・ウェン。二十年前、打ち捨てられて廃墟となったこの地に置き去りにされたシンの、生まれ故郷だった国である。
「――リ・ウェン廃墟群」
シンの眼前には、赤い壁に緑の瓦屋根を持つ、住居や商店などの建築物――だったもの――が無数に並んでいた。シンの視線の先には、その中でも最も大きい建物――このリ・ウェンの王宮が、寂れながらも、厳格な雰囲気を以て佇んでいる。王宮を目指して、シンは歩いた。
建築物の多くは、柱や基礎などの部分が明らかになっており、予告なくこの国を襲ったのであろう内乱の激しさをそれは物語っていた。住居の中に見える子供の遊び道具や、生活感の残る家具の数々に、シンは居たたまれない気持ちになった。
「クーラン」とシンは呟くように言いながら、腰のベルトに取り付けた、緑と白を基調とした楕円体に触れた。シンの使役する風のアーツである、クーランのドルミールだ。
高音と共に、浅緑の光を放ちながらドルミールは肥大化し、あっという間にそれは、二メートルほどの背丈を持つ巨人の姿へと変化した。
流線型ですらりとした肉体は、浅く白い羽毛に覆われている。頭から肩、そして背中にかけて、彼は深緑のマントを被っていた。マントのフードに覆われて、顔の上半分は隠れてしまっているが、フードの向こう側から微かに覗く眼光と嘴は、鋭く金に輝いており明らかである。太い腕の先からは、橙色で鱗の皮膚を持つ五本の指が生えており、それらは鋭利な爪を有してもいた。膝から下も手指と同じく、鱗の皮膚に覆われており、ほっそりとしたその脚の先からは、二本が前方を、一本が後方を向いた、三本の指が生えている。彼が持つ嘴や足指などの特徴は、鳥類などに見られるそれを、見る者には想起させた。
「どうした、シン」
音もなく、彼はシンの隣に並んで歩き出した。
「お前にも、見ておいてもらおうと思ってな」
「ああ」とクーランは前方の王宮を仰ぎ見ると、静かに一つ頷いて、「そうだな」と言った。
一方のシンの格好はというと、彼はこのリ・ウェン独自の文化であった、カンフーと呼ばれる格闘技の武道着をその身に纏っていた。立ち襟と、足元にまで伸びる長い裾を持つその上衣は、黒地に白い雲の紋様が入ったデザインをしている。前方はボタンで留められているほか、長裾には腰ほどまである深いスリットが入っており、然程動きづらくはなさそうだ。黒にも近い深緑の髪を、彼は前方に垂れ流すようにしており、その前髪は黒い瞳を持つ、つり上がった目にかかりかけている。
「それにしても」とクーラン。「酷い荒れ様だな」
「ああ。目的のものが見つかればいいんだが」
目配せもなく、前方に聳え立つ王宮だけをその視線の先には見据えながら、二人はただ静かに、そして真っ直ぐにその歩みを進めた。
元来、シンは友情や家族愛といったものには無頓着だった。四年前の冒険の中で、仲間たちの(特に或る人物の)影響を受けその考え方は大きく変わったが、それでもそれは、主にその仲間たちへと向けられるのみであり、自分の、ましてや自分を捨てた両親に対して、何か思い入れだとか、例えば『何処かで生きているのなら会いたい』といった感情はなどは、シンの中にはなかった。そんなシンがこの地を訪れることになったのは、それとは全く異なる或る理由があったからだ。
「入ろう、クーラン」と、シンは崩れかけた王宮の門をくぐった。「ああ」とクーランがそれに続く。
『記憶にはない生まれ故郷を、一度この目で見ておきたい』という興味さえなかったとはシンには言えなかった。それもまた否定の出来ない事実ではある。ただしそれも、このリ・ウェン探訪の本当の目的ではない。
数十分間、王宮を探索したシンは、王宮の中の或る一室にて、一冊の文書を手に取ると、「これか」と呟くように言った。
数十枚に渡る白い紙の文書は、左側が黒い紐で留められている。経年によってかかなり草臥れてしまっているが、文字の部分ははっきりとしており、読めなくなったりなどはしていない。ただしそこに書いてある文字は、通常このアシリアのほぼ全土で使われるアシリア文字とは異なり、シンにも読み取ることの出来ない特殊な文字だった。かつて、このリ・ウェン国内で使われていたとされる『リ・ウェン文字』だ。
背中に背負った黒い鞄から資料を取り出すと、シンは文書表紙の文字と交互に見合わせた。鞄から取り出した資料は、リ・ウェン文字とアシリア文字を照合する為のものだ。それぞれの文字を、何度か交互に目で追った後で顔を上げると、「間違いない」とシンは言った。
「共鳴武装について、とある」
「お目当てのブツだな」
「ああ」
シンがこのリ・ウェンを訪れた目的。それはリ・ウェンの国家が崩壊する前に、この国が軍事目的で研究していたとされている、或る技術の資料を手に入れる為だった。
シンはこの時、それまで通っていた王立ファンテーヌ学院の学生課を間もなく卒業し、四の月からは同学院の研究課へと移籍することが決まっている状態であった。研究課での所属先は、今ファンテーヌで最も熱いと言われている『元素機構』の研究室だ。
元素機構とは、フォルスを操るアーツのメカニズムを分解して部分的に利用する、自我を持たないアーツのようなものである。例えば、空気中に存在する火のフォルスを、ガラス球の中に構築された元素機構の仕組みが顕現し、灯りとして光を放つ(これは既に実現されている元素機構の一つで、『フォルス灯』と呼ばれるものである)、といった具合にだ。
一方で、在りし日のリ・ウェンで研究されていた技術もまた、基礎の部分は元素機構にほど近いものであった。技術の名は『共鳴武装』。元素機構と同じく、アーツがフォルスを顕現するメカニズムを部分的に利用し、且つ、戦闘を想定して性能を特化させたような内容のものであった。シンは今、この技術を欲していた。
「四年前の戦いでは、アーツの平和利用を望んだ連中を相手に戦って勝ち、その平和な未来を約束した人間が、こうして再び、アーツを元に造られた戦闘の為の技術を手に入れようとしているんだ。まったく皮肉なものだな。運命という奴には、心底うんざりさせられる」
「仕方ないさ。俺たちはなりふり構っていられる状況ではないんだ。対応が後手に回れば、必然的にこちらが不利になる。そう言ったのはお前だろう、シン」
「まあ、な」とシンはクーランの言葉に、仕方のなさそうに頷いた。事の発端は、三年前の秋ごろまで遡る。当時シンは、『フォルスの流れ』についての研究をしていた。
アシリア上に存在するフォルスは通常、薄まっており目には見えない。が、フォルスは基本的にその場に留まることはなく、複数の流れを持って世界中を流動している。アーツや精霊などによって消費されたフォルスは、付近に存在するフォルスの流れへと乗り、流れの中で再使用可能になる時を待つ。使用可能なフォルスが増えて流れが飽和すると、流れの終着点であるフォルススポットから、フォルスは噴出し、噴出したフォルスはまた別の流れへと乗る。これが、フォルスの流れの循環である。
今では最早常識とされているが、三年前の冬、学院でのシンの師であり先輩でもある、フランクという男が、『フォルスの流れについて』という論文を発表するまで、フォルスの流れには否定的な意見が多かった。結果として、この論文に基づくフォルスの流れの証明は、精霊術やアーツの研究には大きな躍進を齎すこととなった。が、それはまた別の話である。
論文発表前の秋ごろ、シンはこのフォルスの流れの研究中に、通常の流れの中に突発的に混じることがある、或る特異物質を発見した。フランクとシンが共同で開発した『フォルスの流れの計測器』は、流れに含まれるフォルスの濃度と、各属性のフォルスが、流れの中にどのような割合で存在するかを測ることが出来る。その計測器が、火、水、風、土の四属性の、どれとも違うフォルスを感知したのである。
シンは始め、『フォルスとして消費された後、まだ使用可能になっていないフォルスが、計測器にはこのように認識されるのではないか』と考え、これをフォルスの『ノイズ』と呼んだ。然し、実際にはシンが直感したのは、単純に四つの属性とは別の属性のフォルスが、(発見されていないだけで)まだこのアシリア上にあるのではないか、ということだった。それは四年前の戦いの中で明らかになった、宇宙空間を流れるという『宙のフォルス』と『刻のフォルス』の存在を、シン自身が知っていたからかもしれない。論文の発表までに実証が出来なかったので、この『ノイズ』の存在が、フランクの論文に載ることはなかった。シンは単身、その後もノイズの研究を続けた。
結果、ノイズの正体はやはりというべきか、シンが初めに直感した通り、四つの属性とは異なる、まったく新しい属性のフォルスであった。この五番目の属性を持つフォルスを、シンは便宜的に『第五フォルス』と名付け、研究の対象とした。普段は精霊学を専門としているフランクに、シンがこの第五フォルスについて相談をしてみたところ、彼は次のように語った。
「もしも君の言うように、五番目のフォルスが本当に存在するのだとしたら、私としてはそれを司る、謂わば『五番目の大精霊』とでも呼ぶべき存在がいるのかどうか、というところが気になってしまいますね。もしもそれが実証されれば、精霊学としても放ってはおけない話題になります。私に手伝えるようなことがあれば、何でも言ってください」
その後シンは、(孤児だったシンの面倒を見てくれていた、このフォックシャル帝国の国王)ライラットや(四年前の旅で知り合った、古くからの精霊信仰を大切にするニルバニアという里の族長)カレタカにも協力を仰ぎ、第五フォルスと共に、この五番目の大精霊なるものが実在するのかどうか、ということをも、元素機構研究の片手間に探り始めた。そして今から一年と少し前、或る古い文献の中の一節に、シンはそれらしき記述を発見することとなる。その本は、太陽王の時代かそれ以前に描かれたとされる御伽噺で、アルバティクスの王立図書館の片隅で、分厚い埃を被っていた。
それは、或る『魔女』の物語だった。魔女は強大な力を持っており、人々はその恩恵を受けて生活していた。魔女の近縁の者は『巫女の一族』と呼ばれ、魔女の力の一部を使うことが出来た。或る時、魔女は巫女の一族と共に人々に迫害されるようになり、それまで暮らしていた土地を追われる。人里離れた荒れ地に移り住み、新しい暮らしを始めようとするも、それを追ってきた人々により、一族は殺され、魔女はその地に封印された。封印の直前、魔女は怒り、本来人々の平和の為に使うべき力を、人々を殺める為に使ってしまう。有り余った力は荒れ野に泉と森を生み、以来、巫女以外の者が近付けば、森の木々はそれを襲い、喰らうようになったという。
資料が古すぎる上、御伽噺である為に信憑性は薄かったが、カレタカの言うところの『精霊信仰の基本的な考え方』と、物語の中の魔女と人々の関係性は一致しており、また、『近縁の者が力の一部を使うことが出来る』というところにシンは、アーツや精霊の使役にも共通するものを感じ、それが気になった。この魔女なる存在が、第五フォルスと対を為す五番目の大精霊であると暫定的に仮定し、シンは魔女に関する記述をしているものが他にもないか、古い文献を中心に調査した。然し、成果はそれ以来、ほとんど上がらなかった。
シンはまた、この御伽噺に登場する巫女の一族に、現代でも迫害の対象となっている黒き爪の者と呼ばれる人々との共通点を見出してもいた。彼らを見つけ、話を聞くことが出来れば、この研究は進展するかもしれないとシンは思ったが、ここ数十年の間に黒き爪の者は根絶やしになったという見方が、基本的には有力であった。
いずれにしても、シンの主な研究課題は元素機構だ。一見して成果の上がらなさそうな研究に費やすほどの時間は、シンにはなかった。第五フォルスについては、進展がありそうな時が来るまでは研究を中断し、今は元素機構の研究に集中しよう――そう考えたシンは、第五フォルスへの関心をどうにか押し殺して、自分の研究に専念した。それが一年ほど前のことだ。
そんな矢先のことである。世界の各地で、『黒き爪の巫女』を探しているという、『夜明けの月光』という組織が目撃され始めたのは。その組織の名前に、シンは嫌な既視感を覚えていた。
「全部リ・ウェンの文字で書かれているのか。読み解くのには時間がかかりそうだな」
手に取った文書をぱらぱらとめくるシンの背後から、クーランはそう声をかけた。
「まあ、リ・ウェンで研究されていたのだから、当然と言えば当然だな。翻訳版があることを期待していなかったわけではないが」
「参考になりそうか?」
クーランの問いに、パタリ、と文書を閉じ、その表紙の文字に再度視線をやると、「するさ」とシンは答えた。「その為にここへ来た。これが、奴らに対抗する新しい力になる」
四年前の旅を終えた時、これで自分の戦いは終わったのだと、シンは思っていた。夜明けの月光が目撃され始めた時も、シンはこの嫌な予感は、ただの思い違いなんだと自分に言い聞かせようとした。然し、そうしようと思えば思うほど、それはシンの中で強い確信へと変わっていった。
丁度三年前、旅の最後にシンたちが打ち倒した或る男は、刻のフォルスをその身に宿す天才的な精霊術師、兼アーツ使いであり、『月光神』とされる『刻の極精霊・セレーネ』と、刻のフォルスを操る『刻のアーツ・リュンヌ』を使役していた。月をその名に冠するという点で、夜明けの月光は彼らと一致していたのだ。然し、それだけならば思い違いだと、シンにも納得することが出来た。シンにとっての問題は、彼らが黒き爪の巫女を探しているということだった。
何故、このタイミングで夜明けの月光という組織が動き出したのか。何故、彼らは巫女を探しているのか。シンの仮説が正しければ、巫女は五番目の大精霊と同じく、第五フォルスを操る力を持っている。彼らの真なる目的こそ謎に包まれたままではあるが、シンには彼らが、第五フォルスを操る力を欲しているのでは――と、そう思えてならなかった。
シンは第五フォルスの存在を、まだ公には発表していない。その存在を知っているのはそれこそ、フランク、ライラット、カレタカなどのごく限られた人間であり、シンには彼らが、ましてやシン自身を裏切るような形で、組織を率いてその力を求めようするとは思えなかった。ともすればそれらの可能性を除外して、彼らのほかに第五フォルスの存在を知り得る人間がいるとするならば、それは自分と同じく、この星を巡るフォルスについて、究極に研究を重ねた経験を持つ人物くらいなものであると、シンは考えた。残念ながらその人物に、シンは思い当たる節があったのだ。
「なあシン。本当に、奴が生きていると思うのか?」
「それは分からない。分からないからこそ確かめる必要がある。例え徒労に終わったとしても、手遅れになるよりはマシだ」
その人物は、千年前のこの星で、四頭の大精霊を揃えて従え、彼らの力を借りて精霊を模した生命体を造り上げた、まさに天才と呼ぶべき存在だ。そしてその男が、本当に第五フォルスを求めているとするならば、理由はさておきとして、それを未然に防ぐのに越したことはなかった。彼はこれまで、二度もこの世界を終わらせようと企てた男なのだから。
「違いないな」とクーランは、不安そうに頷いた。
シンの脳裏には、三年前の光景が思い起こされていた。あの日――三年前の戦いが終わった日、〝彼〟があの男を倒すところを、シンはその目で見たわけではなかった。シンがあの場所に辿り着いた時、既にあの男の存在は消えてなくなっており、あの城の中庭には、彼一人しかいなかったのだから。然し、本当にあの男は死んだのか。ただ単に、あの決戦の場から、彼には自分が死んだように見せかけた上で姿を消した、という可能性はなかったか(その男にそのような能力があるかどうかは分からないが、少なくとも一般に不可能とされることを、平気でやってのける人物であることは確かだった)。
それを確かめる手段は、ただ一つだけあった。あの男を倒した張本人である彼に、直接会って裏を取ることだ。
数週間後の四の月某日、ファンテーヌへと戻っていたシンは、学院傍に借りた小さな部屋で、彼へと宛てた手紙を書いていた。手紙を書いた経験など碌になかったから、執筆は酷く難航した。
「この三年間、ずっと心の何処かしらに、後ろめたいような気持ちがあった。デロス島での夜、俺はあいつの背中を押してやろう、というくらいの気持ちだった。取り返しのつかないことをしたと思ってる。俺はあいつに、ドボロとの別れを選ばせてしまったんだ。取り返すことも、謝ることも出来ない。謝ったらそれこそ、あいつやドボロの選択を、俺は無下にすることになる」
書き終えた手紙を封筒にしまいながら、シンはクーランにそう語った。クーランは、何も言わずにその話を聞いていた。
「俺のことを許してくれなくてもいいんだ。嫌われたって仕方ない。俺だけがこの気持ちを、ずっと背負って生きていくしかないのさ。いつかあいつが負った傷が、綺麗さっぱりになくなるまでは。いや、なくなったとしても」
ぴたり、と封筒の口を閉じて、小さな溜め息を一つ吹き漏らすと、窓の外に広がる景色を見つめて、シンは言った。ここより遥か西――アンモス大陸の西端の、遺跡の村に暮らす、彼に向けて。
「なあ、リリ」