第一章 虎殺しの少女 八
伽羅はまた、父の去っていったその方向を見やった。
風に吹かれ、まだ色づいてもいない葉が一枚、ひらひらと舞って落ちた。
「お父様のことは大好きですのよ。尊敬もしているけれど、こと男女の事柄に関しては気が合わないと言う外ないですわ」
伽羅は一人ごちてため息をつく。
しかし実は、一瞬だけ伽羅の心は動いていた。
女帝となる……それは確かに面白そうな話ではあったのだ。
書には様々な英傑が出てくる。
ある者は勇猛に悪を平らげ、ある者は知恵を尽くして戦う。
その有様は、文字という存在を超えて読み手である伽羅の心をたかぶらせた。
しかし書を読むだけでなく、皇帝を通じて悪臣を討ち取り、更には自分の手で政治を動かし、太平の世を造ることが出来るやもしれぬのだ。まことに心惹かれる話であった。
「でも、女帝だなんて……所詮は『怪しのやから』の言葉から始まっている夢物語ですものね。
結局は後宮で他の妃と寵を争うことに明け暮れねばならないのですわ。
馬を駆って虎狩りに参加せよ――――というお話とかでしたら、喜んで乗りましたのに。
お父様も何を考えていらっしゃるのかしら」
素性も知れぬインチキ道士が時の皇帝や高官に近づき、政治が乱れた事は枚挙にいとまがない。
北周の太保である父に吹き込むその占術師を信じてみようという気には、到底なれぬのだ。
ただし、伽羅は術師の力を一切信じていないわけではない。
いるのだ。一族の中にもそのたぐいの『怪しの術』を使うやからが。
伽羅には『独孤陀』とういう異母弟がいる。
しかし、その母方の家系がよろしくない。
代々『猫鬼』を祀っているのだ。
『猫鬼』というのはもちろん、悪しき妖だ。
蠱毒(人を呪い殺すための術)の一種であり、猫を締め殺して作るのだという。
四十九日の間『猫鬼』を祭壇に祀り、子の刻(二十三時から一時)に、標的とする人間にとり憑かせると、猫鬼は、標的の体にすうっ、と入り込んで密かに臓腑の気を喰らう。
すると標的は病気になって苦しみ、ついに死んでしまうのだ。
ここからが肝心なところだが、猫鬼は殺した人間の『財』を術者の家に人知れず運ぶという。
今はまだ使い手も僅かだが、この邪悪な術は一部の呪術師たちの間で大変重宝されていた。
異母弟・独孤陀の母は、もちろん正妻ではなく、伽羅の住まう屋敷に同居すらしていない。
だから独孤陀は母と共に母方の実家に住まい、祖母や母から術を学びながら育っているという。
その異母弟が母親と共に館を訪れたときは伽羅も必ず呼ばれた。
父の心をひと時母から奪った美しい妾を見ると、伽羅の心は大いに波立ったが、彼女も父が愛しただけあって中々の人品ではあった。
普通の呪術師とは違い、彼女は悪人からの依頼は決して受けないのだ。
悪人に騙し取られた財を取り返すという頼みごとのみを吟味して受けているのだという。
また『善人不殺』の誓いを立てているのだとも聞いた。
幼き異母弟・独孤陀の方も、性格は優しく穏やかだ。
父親似の大きな瞳を輝かせて、いつも無邪気に美しい姉を慕う。
その様は、思いのほか愛らしくて憎むことなど到底出来なかった。
それでも伽羅は、呪術師の類は好きにはなれない。
また、術に失敗すると、その呪いは術師のところに戻って術師を喰らうと言われている。
できれば異母弟をそんな世界から引き離し、いずれ手元に置きたいと考えていた。
そこで、さりげなく文のやり取りをしてみたり、小間使いを迎えに行かせ、たびたび館に呼んで遊ぶのだった。
そうこうするうちに父は、いつのまにか—————伽羅の縁談を一つ取りまとめてきた。