第八章 女帝 九
尉遅迥は悪皇帝を恨んでいたが、王都に残されながらのうのうと暮らしていた楊堅のことも、良く思ってはいなかった。
悪皇帝に抗議ひとつせずおもねって、幼帝の補佐の座を手に入れたように見えたのである。
もちろん、楊堅は『のうのう』と過していたわけではなかった。
政務は丸投げされるが『抗議』などは許される立場に無かった。
根が真面目で優秀なので政務はきっちりこなすが、悪皇帝が日を置かずして散々なことをしでかしたので、後始末だけでも大変な作業であった。
内には王朝を恨む者が多々潜み、周囲の国々を見渡せば、これまた外敵は強かった。
楊堅自身は悪皇帝に愛娘をいたぶられ、妻が額を割るよう強要されても臣下の身では逆らいようもなかった程である。
いくら有能でも臣下は臣下。宮中で出来ることは知れていた。
そこまではまあ良い。
尉遅迥も孫娘を人質に取られているも同然の身である。
楊堅に同情するべきところもあった。
しかし許せぬのは悪皇帝が崩じた後。
特に、孫娘の剃髪である。
当時の慣習として、寡婦となった皇妃たちは、次の皇帝の生母及び皇后以外はすべて尼とならねばならなかった。
しかし、熾繁は皇太后の一人である。
当然、このまま剃髪などせず、皇太后としての身分を保証されて敬われて暮らすのだと信じていた。
いや、そうでないと孫娘があまりにも哀れである。
しかし熾繁は正式な皇太后とはなれずに慣習通り、十四歳にして仏尼となった。
そもそも、皇后や皇太后が五人も並び立つのは異常なことである。
麗華の力量もあって今回は事なきを得たが、ここで正しておかねば後の世の後宮は修羅の場となるだろう。
加えて五人の皇后の実家がそれぞれに競い争うことが予想できる。
そうなれば国を割っての闘争に繋がること間違い無しである。
太子妃から皇后になった麗華は幼帝の養母に選ばれて、正式な皇太后として立てられた。
順当な選別で、反対意見は全く無かった。武帝(皇帝邕)に選ばれた特別な妃だから当然である。
皇帝闡の生母である朱満月は罪人の娘で元宮婢。有力な実家も後ろ盾もおらず、出自があまりにも低かったので、皇太后とするには無理がある。
ただし、朱満月もまた、皇帝の生母として帝太后と称され尼になることは免れた。
北周の前身ともいえる北魏時代であれば、皇帝の生母は外戚の専横を避けるために死を賜っていたが、あまりに酷いことであり、また、歴史的に見てもそぐわぬので北周の頃には廃止されていた。
ゆえに今、朱満月は麗華の計らいで、気配りの出来る宮女を集めてもらい、静かに療養生活を送っている。
残り三人の皇后は良い口実もなく、楊堅たち重臣は頭を寄せ合ったが、慣例通り剃髪することとした。
それも尉遅迥の怒りに火をつけた。
孫娘はまだ若く美しい。
髪は女の命なのである。娘がいる楊堅なら、わかろうものだ。
剃髪などさせず、そこを何とか尽力するのが筋であろう。
かわゆらしく流れる黒髪が削がれ、涙と共にハラハラと床に落ちていく様を夢に見て、爺様は夜ごと飛び起きた。
尉遅迥に若さが残っていればまだ良かった。
しかし老いを感じる日々、遠隔地に追いやられたという事実に強烈な焦りがあった。
そこで戦える年であるうちに、進軍して幼帝を抱き込み、あわよくば楊堅にとって代わろう考えたのだ。
「幼帝を操る楊堅討つべし」
この言葉の下に王都に自軍を引き入れて、楊堅を討ち取れば、孫娘の熾繁を還俗させることができる。
後ろ盾を失った麗華の代わりに熾繁を皇太后に立て、現皇帝の養母とすれば――――楊堅に取って代わることも可能。
それどころか今なら、功績も人望も無い幼帝を廃して自身が帝位に就くことすら可能であった。
孫娘をはじめとし、一族を辱め、約束を覆し、良き婿であった宇文温すらも討ち取った『こんな王朝』に、何で忠誠を誓おうものか。
とはいえ、悪皇帝の被害に直接合っていない地方では、まだまだ皇帝の威光は輝いていた。
まずは本心を隠し『幼帝のため』と騙っておけば、味方となってくれる将は多い。
なにしろ尉遅迥は、今まで誠実に生きて来たのだ。
楊堅を廃した後は、逆臣・宇文護がやったように、ゆっくりと幼帝を傀儡と化してゆけばよい。
尉遅迥なら宇文護よりも良き方法で人心を掌握することができる。
人望も、能力も、人々から寄せられる同情心さえも彼はすでに持っているのだから。
この辺はさすが老将。まことにしたたかであった。
お詫び。
『費也利進』の読み方がわかりませんでした(^_^;)
匈奴系の名前だと思うのですが、ご存知の方がいらしたら教えて下さると助かります。(ぺこり)




