第六章 楊麗華と幼妻 十一
さて、太子の問題は戦後に必ずと熾繁の関係者に確約し、皇帝邕は、突厥へと親征することにした。
太子を再度赴かせたいところだが、前回の事例を鑑みればろくに役には立たないであろう。
このような重要な戦いを任せることは到底出来ぬのだ。
まず、先発として柱国大将軍の一人、原国公姫願と東平公神挙を出陣させ、追って皇帝邕も親征することにした。
やはり皇帝が共に戦うと、将兵の意気が違うのである。
邕の体調はかなり良くなっていた。通常の生活であれば、もう支障はない。
だがまだ本調子ではなかった。
宮殿内でかしづかれて過すのと、野外での行軍は天地ほどの差があるのだから、本来なら、そのことを考慮に入れて養生に努めるべきだった。
しかし三十代の若さが彼に己を過信させた。
彼は馬車にさえ乗らず、騎乗して行軍したのだ。
「必ずや蛮族どもを屈服させて、幽州の民の無念を晴らして見せようぞ。
奪略された民も必ず取り戻す。
さあ、者ども、朕に続けい!」
邕の性格では、重要な戦いを将兵に任せっきりにし、宮中でじっとしているなど出来ようはずもない。
雌伏の期間が長かっただけに、枷を解かれた彼は凄まじく行動的だったのだ。
しかし勇ましく出立したものの、間もなく体調を崩し、高熱が続くようになってしまった。
「陛下、このまま行軍しては体調は悪化するばかりでございます。
近くに雲陽宮がございますゆえ、そこでご養生なさるのはいかがでございましょうか」
さすがにこの頃には専用馬車の中であったが、従軍医師が皇帝の脈をとりながら上言した。
皇帝はしばし逡巡したが、高熱の中でうなずいた。
「よかろう。
……しかし朕の病はしばらくは伏せておけ。
士気に……かかわる」
こうして皇帝邕は雲陽宮にて玉体を休めることとなった。
雲陽宮は、皇帝の避暑地として建てられた古宮殿のひとつである。
皇帝邕はそこにて養生することにした。
ただし、ひと月たっても熱は上下を繰り返すばかり。
そこで仕方なく、諸軍へ進軍停止の命令を出しすことにした。
皇帝邕は突厥を下して国を安定させた後、太子廃嫡の機会を窺いつつ、幼い皇子たちの成長を待つつもりであったが、それらはもう叶いそうもない。
なにしろ、長子も駄目だが、やっと十四歳になったばかりの次男も駄目。
その次となればわずか八歳で、この三男にこそ期待をかけていたのだが、もうどうしようもない。
「亡き父も……このような、心持であったのか、のう……。
まだ朕は、若い……やり残したこと、も……ある。
死に、とう、ない、のう……」
皇帝の父・宇文泰も都より離れた地を巡回中、突如熱病にかかり、卒して(亡くなって)いる。
邕の喉より細く漏れたうめきに、従者たちは何も答えられず俯くばかりであった。
夏六月には病は更に重くなった。
すっかり瘦せ果ててしまい、頬の肉どころか、隆々としていた筋肉も全て削げ落ちてしまった。
髪には若さに似合わぬ白いものが混じり、実際の年齢より十五は老けて見える。
国都から次々派遣されてきた医師たちにも、病の原因は全くわからなかった。
それでも熱が下がり、やや体調が持ち直したと思われる時期が有ったので、皇帝の強い希望により、彼を長安に戻すための特別馬車が用意された。
「陛下、ご気分はいかがでありましょうか。
この馬車は最大限揺れを押さえるよう作られてはおりますが、吐き気などはございませんでしょうか」
皇帝馬車に同乗した医師が時折尋ねるも、目はうつろで食も進まない。
常より大型にしつらえた馬車の、中央に固定された寝台に横たわったままである。
熱が下がったので快方に向かったかと誤解されていたが、実際にはもう、熱を発することも出来ぬほど体の機能が衰えていたのだ。
「長安に……帰りたい、のう。まだ……やる、ことが、朕には……」
そんなうわごとを時折漏らすが、戦馬を駆けさせるように皇帝馬車を駆けさせるわけにもゆかず、国都はまだ遠い。
車体はなるべく揺れぬように工夫されてはいるが、それでも急がせると大きく揺れる。
それは即ち、重病人の負担となる。
「陛下、お心を強く持たれませ。
心身頑強であられた陛下でございます。住み慣れた長安の地に戻られましたら、すぐに良くなりますとも」
それはただの慰めの言葉であったのやもしれない。
もはや皇帝邕の面には死相が現れていた。
それでも進むしかないのだ。
従者たちは皇帝の様子を見ながらゆるゆると馬を走らせた。
通常の数倍の時間がかかったが、それでもついに――――ついに国都にたどり着いたのだ。
ところがである。
ホッとしたのか、なんと皇帝邕はその夜のうちに崩御してしまった。
当時の平均寿命は決して長くはないが、在位期間は十八年。これまた三十四歳の若さであった。
そのとき息子の『悪太子』は、どうしたか。
やつれはてた父の姿を目にして、少しは泣き、孝行しなかったことを後悔したであろうか?
いや彼は、かつて皇帝邕に懲罰用の杖で打たれた痕を撫でながら、
「やれやれ、やっとくたばったか。
もっと早く死ねばよかったのに」
と、遺骸に向かって罵ったと史書には残されている。
皇帝邕の一番の心残りは、間違いなくこの太子のことであったろう。
これで第六章は終わりです。
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それにしても、古代の結婚は恐ろしいですね。
気の強い武則天も後宮に入ったのは十四歳のときです。相手は皇帝とはいえもう老人。しかも皇帝が亡くなれば尼になって一生を寺暮らしですから大変です。(武則天は美貌と才覚でそこからのし上がりましたが)
指腹婚は後漢の頃からあったようですが、最初は貴族間でしか行われていませんでした。
しかし宋・元の頃には民間にも広がったようです。
そのことを憂える人は当時にもいたみたいで後に法律で禁じられました。
また、人口を増やすために独身を迫害する法律を制定した方もおられました。
臥薪嘗胆で有名な越王勾踐です。
女性なら十七歳、男性なら二十歳になってもまだ結婚していないなら、その両親が罪に問われるのです。(教育が悪い!! ということでしょうか?)
とんでもないことですね。うちの両親も私も確実にしょっ引かれますね。
現代で良かったです(^_^;)




