第二章 動乱の世と新妻 二
そんな新婚間もない頃、世をひっくり返すような大事件が起こった。
西暦にして五五七年。伽羅と楊堅の婚儀と同年であるので、本当に早々のことである。
「伽羅よ。大変なことが起こった!」
宮殿に出仕していた楊堅が、夕刻になって屋敷に駆け戻ってきた。
この頃の官吏は五日ごとに一日、洗沐名目の休暇があるだけである。
勤務期間は名門の子弟と言えども、その他の官吏同様に官舎に滞在することが多い。
しかし、皇帝の住まう皇宮勤めの者は官舎に家族を伴うことを許されていなかった。
楊堅は新婚であるが皇宮勤めなので、伽羅に会えるのは基本五日ごとに一日だけである。
ただし、下級官僚はともかくとして、楊家のような名門の邸宅は宮殿からほど近い一等地にある。
年も若く、早朝から行われる『朝政』に備えて官舎で寝起きしなければ辛いというわけでもない。
新婚の妻と過ごすため、障りのなさそうな日には早々に帰宅することもあったのだ。
また、この頃の休暇は金銭で買うことも出来た。楊堅は根がまじめなので休暇を買うことは、ほとんどなかったが。
さて、駆け戻ってきた楊堅の様子は尋常ではなかった。
凍えるような寒さであるのに、うっすらと汗をかいている。余程急いで来たのだろう。
それとも冷や汗なのか。
目元には、涙まで浮かんでいるではないか。
楊堅はまず馬を家人に預け、人払いをしてから伽羅の待つ部屋に入った。
伽羅は、相談事を外にもらすことはない。その上博識で頼りになる。
楊堅にとっては読書を共にするに留まらず、日頃から一番の相談相手であったのだ。
しかし今度ばかりは、気まずそうに話を切り出した。
「……陛下が廃位されることとなった。
陛下の指南役――太保であられる伽羅のお父上様も、おそらくは連座で責任を取らされることだろう」
その言葉に、さすがの伽羅も驚きを隠せない。
美しい瞳が大きく見開かれた。
「陛下にどのような不徳があったのでございましょう。
まだお若くていらっしゃるうえに、即位なさってから、一年も経っておりませぬ。
目立った失策はなかったように思います。
さては――――宇文護の仕業でありましょうか?」
宇文護は、自国皇帝を傀儡とするほどの大物である。
目上の者に対して諱(本名のこと)で呼ぶことは不敬とされるため、伽羅の立場なら『宇文護』ではなく、役職名を取って『晋公』と呼ぶべきだろう。
だが、あえて本名を呼び捨てたところからも怒りのほどが窺える。
伽羅の問いに、楊堅はやつれた面持ちでうなずいた。
実は、宇文護が皇帝を廃すのはこれで二度目なのである。
さて、これほどまでの権力を持った『宇文護』とはどういう人物か。
まず、彼は四十ほどの齢で、独孤信より十は若い。恰幅が良く、福々しい善人顔をしているが、腹の中は真っ黒と評判であった。
贅沢を極める愚息たちにも激烈に甘い。
ただし、政治的には凄腕であった。
興隆していた隣国『北斉』との国力差が、この男の手腕であっという間に逆転したのだから大したものだ。
何度か本文にも出てきたが、宇文護の叔父に『宇文泰』とういう者がいる。
これがまた才覚に優れ、文武共にこなす男であった。
もうすでに没しているが、そもそも今の北周王朝と、その前身である西魏王朝の基礎を作ったのはこの叔父である。
彼は大冢宰(宰相)であり、比類なき功臣であったため、皇帝ですら彼の前では圧倒されていた。
『宇文泰』も宇文護同様、強引な手段を用いて宮廷を牛耳るタイプではあったが、違うところの方が多い。
自身を律する力が非常に強いのだ。
巨大な権力を持ちながらも清貧を好み、他の臣が酒や女、贅沢に溺れても、彼だけはそういうことは無かった。
宮中から自邸に帰れば『継ぎの当たったボロ』を着て己の慢心を戒めていたというのだから凄まじい。
ただし、彼の能力で一番高いものを上げるなら、人を見る目と部下の心を掴む手腕であろう。
伽羅の父を見出して、出世させたのも宇文泰であり、楊堅の父・楊忠が命がけで虎から守ったのも実はこの宇文泰であった。
父が宇文泰のことを褒めあげるので、伽羅も多分に影響を受けた。
お洒落で派手好み、時に女物の衣装を引っ掛けて戦場に立ったことさえある独孤信が壮年期以降、多少地味になったのも、もちろんこの人物の影響である。
宇文泰のために命まで賭ける有能な子飼いはいくらでも居た。
ただし、この宇文泰、病を得てからはその目も少々曇ってしまったとみえる。
そうして悲劇は起こったのだ。




