脱獄犯
王都クペルチノ イスマイル留置所
留置所と言いつつ牢獄のようだと評判のイスマイル留置所。一度脱獄を試みた伯爵だったが、失敗後この留置所のさらに独房にぶちこまれてしまっていた。四方を灰色のレンガで囲まれる圧倒的な圧迫感。ほの暗い独房の中での唯一の明かりは高い鉄格子の窓から差し込む太陽の光だった。
伯爵はしかし悲しいかな娑婆にいた頃よりも生活水準が低いとは言えなかった。一日ちゃんと三食出てくるし、風呂や運動の時間もある。借金取りに眠りを妨げられることもなく、新聞も捨てられたやつでなく綺麗なのが読める。お陰で伯爵は考える時間がたくさんできた。というよりも孤独になり考えざるを得なかった。
これまで伯爵は自分のことしか考えてこなかったような気がした。借金が、領土が、ばかりだった。周りの幸せのことを考えていたか?自分は貴族としてなすべきことをしてきたか?答えはノーだった。エスメラルダ、リューリクのことを考えていなかった。領民がどのような生活を送っているのか、自分は考えたこともなかった。
「これじゃ領主として失格だな」
廊下に気配がする。
「やあ、元気かい?」
出入り口の鉄門扉には顔に当たる部分が鉄格子になっていて、そこに顔を現したのはレインボだった。
「お主も相当暇だな」
「知ってますかな?外は大変な騒ぎになっているんですよ。耳を澄まして御覧なさい」
「伯爵を帰せ!」
「良き領主様を帰せ!」
留置所の高い鉄格子の窓を通じても伯爵の耳にもその言葉は入ってきた。
「旦那ー!聞こえますか!民衆が旦那を慕ってここまで来ましたよ!」
「あれはリューリクか」
「貴様ら勝手に集会をしおって!反乱軍と見なすぞ!」
騎馬隊の音。人々が悲鳴を上げている。伯爵は心配になった。
「外じゃあなたを留置所から出そうと大変な剣幕の連中がいましてね。いやはや慕われておりますなあ」
「こんなわしでも慕ってくれる者がいるのはありがたいことだ」
「王様も特赦を考えているという話ですな」
「イシス伯領はどうなっただろうか」
「ご安心なさい。あなたはイシス伯を剥奪されたんですよ」
「……」
「今は代わりの人が治めているんでしょうな」
「……」
この状況から抜け出すことはできるのだろうか。伯爵は考えてみたがここから抜け出すことのできる手段が思いつかない。一度脱獄に失敗したので独房に入れられ、24時間監視体制で見張られている。まったく身動きが取れないとはこのことだった。
しかし誰が脱走を諦めるというのだ、と伯爵は考えた。伯爵は少しだけ生まれ変わったような心持だった。領民の幸せのために。まずは現実的な一歩を踏み出そう。部屋を見回す。狙いはやはり一箇所しかない。高い鉄格子の窓だ。
伯爵は辛抱強く準備を進めた。食事で出てくるバターを毎日鉄格子に塗りこめた。塩分で錆びさせる作戦である。案の定続けていると根元が錆び始めた。全ての鉄格子が錆び付くまでそれほど日数はいらなかった。
ある日。伯爵は心を決めた。太陽が沈み、空が夕闇にまどろむとき、それは人間の視界が最も妨げられるときである。筵をゆっくりとまくり、起き上がる。高窓を見上げる。ジャンプし鉄格子に体重をかけてもたれると、わずかに音を残してポッキリと折れた。その要領で何本も鉄格子を折る。ドアに耳を押し付け伯爵は独房の廊下を伺う。
「大丈夫だ。誰もいない」
巡回が来る時間を外したのだから当然だったが、それでも伯爵は5分待ってみた。相変わらず人の気配はない。
高窓は人一人が通れるくらいのスペースが空いていた。伯爵は高く飛びつき、窓の隅に体重をかけなんとかよじ登る。穴をくぐる。どさりと落ちた。そこは草むらになっていた。監視塔が夕闇の中に浮かび上がっている。姿を隠しつつ、伯爵はさらに周囲に注意を向けた。三人の監視員が外を巡回しているようだ。目の前を通り過ぎる。草むらで伯爵は息を殺してやり過ごした。まだ独房がもぬけの殻になっていることはばれていないようだ。看守達に動きはない。
「伯爵を解放しろ!」
「良き領主を取り戻せ!」
丁度良いタイミングで外ではアジテーションが始まっていた。伯爵は天を仰いだ。これが天佑というものか。看守達の注意が完全に外に向けられる。監視塔の人間も留置所の外を向いている。
伯爵は草むらから走り出た。姿をぴったりと独房の壁沿いにつけながら、できるだけ広いところを避けて走り去る。しかしそううまくはいかなかった。
「おい、音がしないか!」
声。伯爵は完全に停止した。それは丁度次の草むらに飛び込んだときだった。一発アウトではない。姿は一応隠れている。
「調べてみろ。そこの草むらの方から音がした気がする」
伯爵は潅木にさえぎられ周囲が見通せない。がさがさという音が近づいてくる。草を踏みしめる足音が聞こえる。呼吸の音が聞こえてくる。
「いたか?」
相手は一人ではない。少なくとも二、三人いる。伯爵には格闘の心得はなかった。また一回目と同じく失敗してしまうのか。
「ここか?」
伯爵の目の前の潅木が動く。男の顔が見えた。その視線は伯爵をはっきりと射すくめた。伯爵は黙ってその顔を見つめていた。
「いたか?」
相手の目線は完全に伯爵を捕らえている。声を上げられれば一巻の終わりだ。伯爵は観念した。今度こそもう外界への道は絶たれた。男の口が開く。しかし声は出なかった。代わりにその後ろから声が聞こえた。
「いや、いないぞ」
男は音もなく倒れた。その後ろには覆面の男が立っていた。
「おい!それよりあっちの草むらで人影が見えたぞ!」
「本当か!やはり脱獄犯がいるのか!」
足音があわただしくなる。しかしそれらは遠かった。覆面の男は黙って指である方向を指し示した。
「真っ直ぐこの方向へ進め。さすれば道は開かれん」
そしてすっと消えてしまった。伯爵に躊躇している暇はない。音が出るのも構わず全力でそちらの方向へ走り出した。木々が引っかかる。低木が足を取る。鋭い草が伯爵の体を切り裂いた。しかしそんなことに構っている余裕はなかった。
それでも進むと壁にぶつかった。伯爵は驚いた。なんとそこには人一人もぐりくめる程度の穴が開いていたのだ。
「伯爵を返せ!」
「良き領主を返せ!」
懐かしい声が近づいてきた。帰ってきたぞ。伯爵はそう大声で叫びたかった。突然草むらから現れた人影にどよめきが広がった。
「旦那!旦那じゃありませんか!」
「旦那様!」
リューリクとエスメラルダの顔が涙で崩れている。伯爵も泣きたかったが堪えた。
「一緒に帰ろう!ポバティー村へ!」