店主は泡を吹いて倒れた
エスカドロン公国 フルーゼン市
「いらっしゃい」
フルーゼン中央市場の片隅、ズベルスカ通りにとある店がある。白と黒を基調とした店内は整理整頓され清潔な印象を与えるが、それは食品関係の店にとってなくてはならない要素だった。
売り物があることを知らせる値札は店内のどこにもなく、というより売り物自体置いていない。がらんどうの店に入ってきた三人の男女は皆襤褸のようなものを身にまとっていて、そして間違えて人の家に入ったかのようにうろたえていた。
「うちは小売はやってないよ」
穏やかそうな店主が残念そうにそう告げると、襤褸をまとった者達は安心したように顔を見合わせなぜかほっと息をついた。事情が良く飲み込めない店主だったが、相手はどんな見た目であろうと客は客であるという見上げたホスピタリティ(おもてなしの心)を持っていた。
「何がいくら入用で?」
「砂糖はあるかい?」
店主は頷いた。
「あるけども、最近は少し値上がりしてるよ」
「砂糖をもらいたいんだ」
「うちは小売はやってないんだが、まあ仕方ない。小分けにしてあげるよ」
何が仕方ないのか店主にもわからなかったが、とにかく最大限の思いやりを持ったその言葉は次の瞬間地面に叩きつけられた。
「店の……」
店の?
「いや、ここにある砂糖をありったけ持って来い!」
最初店主は人を呼ぼうと声を上げそうになった。強盗か何かだと思ったからである。
「金ならある」
一人の男がすぐにそう告げた。よく見るとその端整な顔つきには気品があるような気がする。
「し、しかし全部って」
店主は二の句を継げなかった。ここは知る人ぞ知るフルーゼン中央市場で最大の仲介卸業者、エピスリー商店なのである。
「全部だ」
「おい、旦那が全部だと言っているんでさ!」
もう一人の襤褸をまとった男が高らかに告げる。大きな算盤を小脇に抱えていて、今にもピシパシと弾くぞという顔をしている。
「ぜ、全部って、いくらになるのかわかってるのか?」
「で、実際いくらかかるんですの?」
と襤褸をまとった女が不思議そうに声を上げた。まったくばかげた質問だった。
「1キロ当たり60フローリンで、1,000トンを超える玉(商品)をすぐにでも用意できる。60フローリンあれば、1ケ月暮らしには困らない。これがどういう意味かわかったかい?」
わかったらさっさと帰っておくれ、そう言おうとした店主だったが再び妨害された。一人の男が胸元から紙切れと立派なペンを取り出したからである。
「リューリク、1,000トン買うとして、全部でいくらだ?」
その瞬間算盤を弾く音が店内に鳴り響く。まさか。正確無比なその手さばきはやがて一つの解答にたどり着いた。
「しめて6,000万フローリンなり!」
「店主よ、手数料は何パーだ?」
「い、1.5%ですが」
再び算盤が激しく鳴り響く。
「しめて6,090万フローリン!」
男のペンがすばやく紙の上を走る。まさか。店主は信じられぬものを見たかのような目つきになっていた。男は金額を書き終えた後、長々とサインを書き添えている。その書きなれた感じ、その身なりとは似ても似つかないものだった。まさか。本当に買うつもりなのか。このフルーゼン中央市場きっての卸問屋が、こんな貧相な男に敗れるとでもいうのか!
そして男は書き終えた紙をほとんど投げるようにして店主によこした。
「た、確かに……」
そこには6,090万フローリンと大書されていた。6,090万フローリンの小切手。店主ですらここまでのものは滅多に見ない。それが、ほとんど乞食のような男の手から……
店主ははっとして小切手の支払人を確認した。男の正体を知るかすかな手がかりになるかもしれない。しかしそこには店主もよく使う見慣れた銀行名が記載されているに過ぎなかった。
「な、何回払いになさいますか、お、お客様……」
それが店主の最後の抵抗であった。そしてこれこそ馬鹿げた問いでもあった。
「一括で!」
店主は泡を吹いて倒れた。1,000トンの砂糖がこうして隠密裏に動いたのである。