5鐘
やがてお時は泣き止み、ハコを見た。ハコの瞳は優しく光っていた。
ハコへと手を伸ばすと、ハコはお時に体を預けた。
ふわふわとした触感が、お時の胸を優しく撫でてくれた気がして、
お時はまた泣きそうになった。
「あんな、私な……飯盛旅籠に行くねん」
胸を締め付けていた言葉を出してしまえば、後は次々に溢れ出した。
「昨日な、与平いう男に襲われてな、怖かってん。
あんな、恐ろしい思いを明日……もしかしたら今日からせなあかんのやろか……」
震える声に反応してか、一滴の涙が頬を流れた。
ハコはお時の手に顔をうずめながら、静かにお時を見ていた。
「でもな、ここについた時にな、何か……なんやろな……」
言い表せない気持ちに苦笑し、ハコから手を放した。
その手に追いすがるように駆けて、ハコはお時の膝の上に飛び乗った。
「……あのな、お願いがあるんや」
お時の膝の上で、背筋を伸ばして座っているハコの瞳をじっと見つめながら、
お時は呟いた。ハコもまた、真剣な眼差しでお時を見つめた。
「ハコ、明日も、ここで会ってよ。そうしたら、私頑張れる気がするわ」
寂しげに笑うお時に、ハコは
「ニャア~」
と、長く鳴いて答えた。
その姿に、無性に愛しくなって、お時はハコの体に顔をうずめた。
ハコは逃げなかった。
……
しばらくして、最後の鐘が低く鳴った。
ハコはお時の膝から離れ、名残惜しそうに振り返って、森に消えた。
その後姿にお時は小さく手を振った。
「また、明日な」
お時のその小さな声を、ハコは聞き届けただろうか。
……
ハコが森の中を走っていると、やかましい声が響いた。
猫の聴覚は人間より鋭く、遠くの音でも聞く事が出来る。
ハコは少し離れた場所にいる、聞きなれた人物の声にそっと近づいた。
藪の中でじっと身を潜める。
そこにいたのは、三人の少年だった。
そう、お時をいじめている少年達だ。
少年達は丘の方へと向っていた。
丘の方角からは、サクサクと草を踏む足音。
聞き覚えのある、優しい音だ。
このまま少年達が進めば、その音の持ち主と出くわすだろう。
ハコは少年達の目の前に、ピョンと飛び出した。
「あ!猫だ!」
一人の少年が叫び、二人の少年がハコに気づいた。そして、恰幅の良い少年が声を荒げた。
「今日こそは捕まえるぞ!」
その声を合図に少年達は楽しそうに走り出した。
ハコは少年達を引き連れるように、脇道に逸れて駆け出した。
数分後、お時は数分前に少年達がいた道を通って街へと入って行った。
罵倒される事も、暴力を振るわれる事もなく……。
……
白い猫、ことハコは、飼い主もいなければ、家族もいない。
完全なる野良猫であった。
三年前に産まれ、生後三ヶ月で親に追い出された。
他の兄弟も一緒だ。
今どこで何をしているかは分からない。
追い出されてから、町へ出て、人間という生き物がいることに驚き、
犬という生き物とケンカし、その鼻っ柱を引っかいてやった。
ハコは暫く町で暮らした。
数年はゴミを拾って食べたり、こっそり魚屋から盗んだり、
人間に愛想を振りまいてご飯を貰ったりしていた。
しかし、敵が現われた。
ハコの縄張りに、体のでかいブチ猫がやってきたのだ。
ハコは戦ったが、結局縄張りを追い出されてしまった。
仕方なく他の縄張りを探す事にしたハコは、森の中へと入っていた。
それが約一ヶ月前の事だ。
ハコは寝床をどこにしようかと歩き回った。
中々気に入る場所が見つからず、ふてくされた気分のまま歩き続けると、
開けた場所へとたどり着いた。
そこには一人の人間がいた。
その人間は、綺麗な黒髪を下ろし、ぼうっと町を見渡していた。
暮れてきたオレンジ色の光に照らされ、
長い黒い髪が、頬を掠めながら、空へふわりと舞った。
幼い姿の女の子。
その姿は儚げで、夕陽の光が瞳に映りきらきら輝いていた。
(ああ、まるで、泣いているみたいだ……)
ハコはそう思った。
そして、強く心を奪われた。
生まれて初めて、餌目当てではなく、人間に近づいてみたいと思ってしまった。
ハコはそろそろと少女に近づいて行った。
少女はハコに気がつくと、花のように可憐に笑った。
その日から、ハコは丘に行くのが日課となった。
森の中に寝床を見つけ、そこを縄張りとした。
もちろんハコの縄張りには、あの丘も入っている。
だが通い始めて四日目で、ハコは驚く光景を目にした。
あの少女が、少年三人にいじめられていたのだ。
何て事をするやつらだ! と、ハコは憤慨したが、止めには入らなかった。
飛び出す前に、少女は少年達から解放されたからだ。
少女は薄っすらと涙を浮かべながら、あの丘へと歩き出した。
ハコはその後を追った。
低い鐘の音が鳴り響き始めるのとほぼ同時に、ハコは少女に追いついた。
少女はハコが姿を現すと、必ず優しく微笑むのだ。
ハコはそれが嬉しくて、何度も見たくて、少女の横に座るのだ。
少女は優しくハコをなでてくれる。
その手は他の人間よりも尊いものに思えた。
今まで人間には、餌を貰うためになでさせてやっていたが、彼女は違う。
自分がなでて欲しいから、なでて貰うのだ。
でも同時に、自分をなでることで、彼女の役に立っているような気がした。
そうしてなでられていると、最後の鐘が鳴った。
鐘の音の余韻が終わらぬ中、ハコの耳はやかましい声を捉えた。
先程少女に罵声を浴びせていた、あの声だった。
その声はどんどんと近づいてくる。
このままではまた、彼女は傷つけられてしまうだろう。
ハコはゆっくりと少女の手から離れた。
残念そうな少女を置いて、森の中へと入って行った。
丘へと続く道を、意気揚々と歩いている少年三人を見つけたハコは、
彼らの前へと飛び出した。
少年達は声を上げて、猫だ! と叫んだ。
そして、ハコに触ろうと一人の少年が手を伸ばした途端、
ハコは少年の手を引っ掻いた。
少年は痛みに顔を歪める。
ハコはそれを見て、挑発するような目つきをした。
手を掻かれた少年は怒りをあらわにし、ハコを追いかけ始めた。
しかし、素早く駆ける事の出来るハコに、少年達が追いつく事はなかった。
こうして、ハコは少女こと、お時を陰ながら守る事にしたのだ。
時には間に合わず、お時がいじめられてしまう事もあったが、
お時が家路に着く時は完璧に守れていたように思う。
本当ならば、ハコはもっとお時と一緒にいたかったのだが、
少年達がきてしまうのだからしょうがない。
唯一、ハコが名前を貰った日は、少年達は丘へとやってこようとはしなかった。
なので、ハコはお時と長く時間を共に出来たのだった。
あんなに嬉しかった日は、ハコには今までなかった。
お時に名前をつけてもらった。
ハコにはそれまで名前はなかった。
餌を貰う時でも猫、とか、ニャーとかしか呼ばれてはいなかった。
初めハコと聞いた時、お時はセンスがないなとハコは思った。
鳩は他の鳥よりもおっとりというか、のんびりしている気がする。
ハコはよく鳩を獲って食べていた。
他の鳥は中々捕まらなかったが、鳩はわりと簡単に捕まえる事ができた。
よりによって、のろまな鳩の名前から採るのか、と、ハコは思ったが、
そんな気持ちはすぐに消えた。
名前を呼ばれるたびに、自分を認識してもらえたような、嬉しい気持ちに包まれた。
自分に名前をつけてくれた、あの優しい少女のために、
明日もまた、あの丘へと行こう。
ハコはそう、心に決めた。
……
翌日、日が暮れ始め、瓦がオレンジ色の光を放ち始めた頃、
街を行く人々は戸惑っていた。
一人の少女が、髪を乱し、よたよたと頼りなく歩くのを目にしたからだ。
よく見ると、着物もどこかしら乱れていた。
少女を目撃した者は皆、何かあったのではないかと頭を過ぎったが、
多くの者が声をかけなかった。
少女の異様さに声をかけるのがはばかれたのだろう。
それでも中には声をかける者もあった。
しかし、少女の耳には届かず、少女はふらふらとした歩みを止めなかった。
彼女が向った先は、森だった。
そう、彼女はお時であった。
お時は虚ろな瞳のまま、森へと入って行った。
お時が呆然と歩いていると、騒がしい声が耳に届いた。
森の奥の方で、何やら叫んでいる者がいた。
その声は喜びに満ちていた。
お時は一瞬そちらに気をとられたが、とても行く気にはなれなかった。
とにかく、早く、一刻も早く、あの丘へと行きたかった。
あの丘へ行って、ハコを抱きしめてすがりつきたかった。
お時はあの丘へと抜けて、やわらかな風に吹かれながら町を見下ろした。
何の感慨もなかった。
ただ、お時は呆然と町を眺めていた。
何も映さない、虚ろな瞳で……。
……
ハコはいつものように丘へと向う道の途中にいた。
あの少年達を見つけたら、お時に会わないようにさせるため、
少年達を遠ざけ、撒こうと道中で座っていたのだ。
するとやかましい声が響いてきた。
やつらだ! と、ハコは身構えた。
少年三人が、丘へと続く道を鼻歌交じりで歩いてきていた。
ハコはいつものように草陰へと潜み、少年達の前に飛び出した。
少年達はいつものように、猫だ! と叫び、追いかけ出した。
そこで、いつもと違う事が起こった。
少年達は追いかけながら、石を投げ始めたのだ。
道中で拾ってきたのか、懐から大小入り混じった石を取り出し、ハコに向って投げた。
油断していたハコは、最初の攻撃に当たってしまった。
「ギャ!」
小さく悲鳴を上げて、崩れ落ちそうになったが、踏ん張って走り続けた。
ここで止ってしまっては、狙い撃ちの的になってしまうと本能的に判断したのだ。
ハコは走り続けた。
少年達が追いつく速度で。
途中何度か当たりそうになったが、最初の攻撃を受けて以来、
当たらずに避けられていた。今の今までは……。
ハコは、逃げる最中、ぼんやりとした音を捉えた。
サクサクと草を踏む音……お時だ。
しかし、その音にはいつものような軽快さが感じられなかった。
足取り重く、淀み、生気が感じられない。
お時に何かあったのだ、とハコは直感した。
彼女の元に駆けていかなければという衝動に駆られた。
しかし、これが隙を生んだ。
お時の身を案じた瞬間、少年の放った手のひら程ある石が、ハコの頭に命中した。
「やったぞ!」
ハコに命中させた少年は、歓喜のあまり叫びに似た声を放った。
わっ! と沸く少年達。
「死んだか?」
倒れこむハコを見て、少年の一人が呟く。
少年達はハコを覗き込んだ。
「うわ! 血が出てる!」
ハコの頭からは血が流れ出ていた。
少年達はそれを見て、急に恐ろしくなったのか、
どうしようかと話し始めた。しかし、恰幅の良い少年が
「放っておけ!」
と小さく叫んで走り出した。二人の少年もそれに続いた。
彼らは恐ろしくなって逃げ出したのだ。
ハコは意識が遠くなって行くのを感じながら、強く思った。
(早く行かなくちゃ……)
しかし、鐘の音を待たずして、ハコの瞳は閉じられた。
……
ゴーン……と、一つ目の鐘が鳴った。
その瞬間お時の虚ろだった瞳に、希望の色が薄っすらと走った。
ゴーン……と、二つ目の鐘が響いた。
お時は辺りを見渡す。その顔には、期待が張り付いていた。
ゴーン……、三つ目の鐘が低く響いた。
不安が顔にくっきりと浮かび上がる。
ゴーン……。
四つ目の鐘の余韻が響く頃、お時の瞳に色が失せた。
ゴーン……と五つ目の鐘が悲しげに鳴る。
お時の瞳はまた、虚ろい、彼女はうつむいた。
――ゴーン……。
無常にも六つ目の鐘が鳴る。
お時は顔を上げた。
その瞳には、やはり色はなかった。
何も映さず、ただ町を見下ろした。
六つ目の鐘の余韻が終わる頃、彼女の虚ろな瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
……
夕日がすっかり落ちて、星が輝き、丸い月が辺りを照らす頃、
あの丘に一匹の猫の姿があった。
白い毛を月に光らせ、頭には血の痕がこびりついている。
ハコだ。
ハコの瞳は町を映し、月の光に反射して、キラキラと輝いていた。
まるで瞳に涙を溜めているようだった。
お時の姿はどこにもない。
――そして、この先ハコがお時に会う事は終ぞなかった。