表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

4鐘。

 この三日は心軽やかに過ごした。

 重之助と会った時は寂しさが過ぎったが、女将の小言も受け流すことが出来た。

 

 女将の話によると、新しい奉公先は、この町にあるらしい。

 翌日に新しい奉公先の者が迎えに来てくれると女将は言っていた。

 

 旅籠の名前は教えてもらっていないが、この町にあるのならば、

 ハコとも離れずにすむ。

 重之助の顔をこっそりと見に来ることも出来るだろう。

 

 お時は仕事を終えると、いつものように丘へと走った。

 今日はいじわるな少年達には会わずにすんだ。


 草の匂いをかぎながら、鐘が鳴るのを待つと、ゴーン…… と低い音が響いてきた。


「ニャ!」


 鐘の音と同時にハコが草むらから顔を出した。


「ハコ!」


 お時が嬉しさをいっぱいにして両手を広げると、ハコはお時の膝に駆け寄ってきた。

 スリスリとお時の膝や太ももに体をすりつける。

 甘えているのだ。


 お時はもっと嬉しくなって、ハコを撫で回した。

 ハコは仰向けになりながら「やめんか!」と言うようにお時の手を両手で掴む。


 爪が出ていたので、お時は少し痛かったが、皮が切れる事はなかった。

 ハコは手を離し、くるりと素早く立った。


 そして、お時の膝の上に乗ってうずくまる。

 お時は愛しく、ハコを撫でた。その手は優しさで満ちていた。


 ゴーン……。


 最後の鐘が鳴る。

 ハコはハッとしたように顔を上げ、勢い良くお時の太ももを蹴って、

 森の中に走り去って行った。


「あっ」


 お時は残念そうに声を上げて、少し間を置いて立ち上がった。

 若干肩を落としながら帰路についた。




 濱茉屋へと帰ったお時は、

 いつものように女将に小言を言われてから皿洗いを終わらせた。


 日が暮れて、辺りはもう暗くなっていた。

 棚から魚油の行灯を取り出し、灯台のろうそくの火から火種をもらって行灯に火を灯す。

 灯台の火をふっと吹き消そうとした時だった。


「お時ちゃん」


 調理場の戸が開いて、お時を呼ぶものが現われた。与平だ。


「与平さん」


 お時は首をかしげた。何の用だろうか? と。

 すると、与平は静かに戸を閉めた。

 いつものようにニコリと笑顔が張り付いている。


「お時ちゃん、知ってるかい?」


 突然の問いかけに、お時はさらに首を傾げる。

 怪訝な様子のお時に、与平はさらに続けた。


「お時ちゃんが明日行く旅籠なんだけどね、女将から説明されているのかい?」

「……説明?」


 何のだろうか? と、お時は考えた。業務内容の事だろうか。


「仕事の内容は、ここと変わらないと言われました」

「それだけ?」

「はい……」


 神妙な顔で訊く与平に、お時はますます怪訝に思う。すると、与平の細い目が開かれた。


「飯盛旅籠だよ」


 静かに、どこか面白がるようにして発音されたその言葉に、お時は唖然とした。


 〝飯盛旅籠〟 濱茉屋のように、旅人を泊め、食事を出す旅籠は平旅籠と呼ばれる。その一方で、飯盛旅籠という旅籠もある。


 飯盛旅籠とは、旅人を泊め、食事を出し、飯盛女という女を置く旅籠屋の事だ。飯盛女とは、客の夜の相手をする女の事を言う。


「そこに奉公に行くという事は……解るよね?」


 探るように、細い目でお時を見る与平の唇の端が、にやりと曲がった。

 そんな、まさか……。そんな思いがお時の胸を埋める。

 動揺を隠せないお時に、与平は容赦なく告げた。


「本当ならキミは、遊女屋に売られたって文句は言えないんだよ。

 引き取り手のない、天涯孤独の身の上なのだからね。

 良いじゃないか、別に飯盛女くらい。

 遊女になって外に出られない生活よりずっと楽だよ」


 やる事は同じだしね。と、薄く笑う。

 やる事は同じ? 冗談ではない! お時は絶望を通り越して憤慨した。


 与平に食って掛かろうと、声を荒げようとした時だ。

 お時の肩に与平の大きな手が置かれた。


 そしてそのまま、与平は体重を預けてきた。

 お時はよろめき、崩れるように倒れる。


 その途中で、手にしていた行灯の火が、風圧で消えたのが見えた。

 ドン! と強かに背中を打って、お時は床に倒れた。


 その瞬間、当然のように、与平がお時の上にかぶさる。

 一瞬の出来事にお時の頭は打たれたように真っ白になったが、

 一瞬が過ぎたのち、本能的に理解した。

 これから、悪いことが起きるのだ、と。


「やめて、ください……」


 思わずお時の小さな唇から、恐怖が湧き出た。


「やめて? これから何が起きるか解っているのかい?」


 与平は細い目を開いて、口の端を上げた。

 その顔には酷薄が張り付いているようだった。


 お時が答えられないでいると、

 与平は無遠慮に着物の上からお時の小さな胸をまさぐった。


「ひっ」


 思わず小さく悲鳴が上がる。

 お時の心臓は恐怖で大きく高鳴った。


「お時ちゃんだって、いきなり知らない男を客にとるのは嫌だろう?」


 自分を正当化するように、同意を求めようとする与平に、

 お時はただ、ガクガクと震える事しかできない。


 ふっ、ふっ、と息が上がる。

 そんなお時を、与平はさもおかしそうに見ていた。

 そしてそのまま、お時の太ももに手をかけようとした時だ。


「たすけてぇえ!」


 お時は悲鳴を上げていた。

 その声は頼りなく、渇いた喉から発せられたために、かすれてしまって、

 思ったより響かなかった。

 しかし与平は慌てて、思わずお時の口を塞ぐ。


「このっ!」


 与平はお時が助けを呼ぶとは思っていなかったのだろう。

 いつものように萎縮して何も出来ず、

 せいぜいすすり泣くだけだろうと思っていた。

 だからか与平はすっかり狼狽していた。

 そしてそれを鎮めようと、お時を殴りつけようとした時だった。

 

 勢いよく戸が開かれ、お時に馬乗りになっている与平が後ろへ吹っ飛ばされた。仰ぎ見ると、そこには重之助の姿があった。


 普段表情を変えない男が、怒りをあらわにし、

 鬼のような形相で、尻餅をついている与平を睨みつけている。

 今にも殴りかかりそうな重之助に与平は言った。


「何ですかい? あんたも女将に言われたんで?」


 そうでないことは承知している言い方だった。

 しかし、重之助もお時も二の句が告げなかった。

 女将に言われた、とはどういう事なのか、と。


「……女将?」


 察したように重之助は聞いた。


「頼まれたんですよ。お時も知らないやつといきなりじゃ可愛そうだろうって」

「彼女はまだ子供だぞ!」


 恥じた様子のない与平に、重之助は怒鳴りつけた。


「何をバカな。吉原のかむろじゃあるまいし、

 お稽古つけて育ててから客をとらせるとでも? 

 飯盛女ですよ、そんな面倒を誰がしますか」

「そういう事を言っているんじゃない!」


 重之助はさらに声を荒げたが、与平に響く事はなかった。


「彼女の処遇に反対なら、女将に直接言いなさいな。

 私は頼まれただけでね。そんな鶏がら興味もない」


 与平は抑揚のない声でそう言うと、お時を一瞥して去った。

 呆然とするお時に、重之助は手を差し伸べる。

 一瞬お時は身をすくめて、重之助の手を取った。


「大丈夫だ。俺が、何とかしてやるから」


 重之助は意志を固めたように呟いて、お時の髪をそっとなでた。

 そのまま重之助は行灯に火を灯し、廊下の暗闇に消えていった。


 残されたお時は半ば呆然としながら、倒れた行灯を拾った。

 魚油が皿から流れ出て、床が魚臭くなっていた。


 気づけば、お時の小さな手も、それと同じ匂いがした。

 油が手にかかっていたのだ。

 

 お時は感情を失くしたまま、床を布で拭いて手を洗った。

 手を洗っていると、痛みで意識が戻るのを感じた。


 どうやら、軽く火傷をしていたらしい。

 お時はそのまま行灯に火をつけ、調理場を出た。


 火傷した手を水につける気にはなれなかった。

 一刻も早く、調理場を出てしまいたかった。


 自分の身に何が起きたのか、何が起きてしまうのかを思い出した時、

 恐ろしくて恐ろしくて、とてもあの場には留まっていられなかった。


 自室に戻り、暗い、狭い、部屋の中で、お時は一晩中震えて過ごした。

 目を見開き、瞬きもせずに、

 あの男がやってくるのではないかという不安だけを抱えて、

 ただ戸を見続けた。



 夜が明ける頃、お時は違和感に気がついた。

 いつも起こしにきてくれる重之助が来ないのだ。


 お時は恐怖を胸に抱いたまま、戸を開けた。

 調理場に慎重に赴き、そっと覗いてみたが、誰もいなかった。

 

 重之助は朝食を作る頃になっても、昼になっても、やってこなかった。

 お時はその日、与平とも女将とも顔を合わせないようにして過ごしていたが、

 どうにも重之助が気になり、女将にそっと聞いてみた。

 すると女将はあっさりと、言い放ったのだ。


「重之助? クビにしたよ」


 重之助は直談判に行き、職を追われたのだ。

 つまりは事実上、お時を助けてくれる者は、誰一人としていなくなってしまった。


(俺が何とかしてやるって、言ったのに!)


 重之助に申し訳ない気持ちも、確かにあった。

 だが、裏切られたような、最後の希望をたたれたような、

 そんな気持ちでいっぱいになった。


 これでもう、お時は飯盛旅籠に行くしかないのだ。

 お時は絶望した気持ちを抱えたまま、仕事を終えた。

 仕事を終えてしまえば、後は新しい奉公先の迎えを待つしかない。


 お時は夢中で駆け出した。

 そして、あの丘へと向った。


 無我夢中で森を抜け、開けた視界が目に飛び込んだ時、お時の中で、

 何かが弾けた。


 頬をゆっくりと伝う雫。

 お時は陰り行く街を見ていた。


 ゴーン……。


 暫くして、鐘の音が響いた。

 暮れ六つだろう。


 その鐘の音を合図に草むらから、白い耳がピョコンと飛び出した。

 いつもならば、それを嬉しく思うお時も、この時ばかりは感情が湧かなかった。


「ニャ?」


 頬を伝う涙を拭おうともしないお時に、ハコは不思議そうに首をかしげた。


 その様子を見て、お時に「ふっ」と笑いが漏れた。

 そのどこか自嘲めいた、哀しげな笑みに、ハコは近寄る。


「ハコ、あんな、私な……」


 ハコに何か言おうとし、お時の顔は崩れた。

 そのまま泣き崩れるお時に、ハコは一瞬ビクリとし、遠ざかろうとしたが、止めた。

 そのままそこにじっと座り、お時が落ち着くまで、ずっとそばを離れなかった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ