2鐘
コン コン コン。
戸を三回ノックする音で、お時は目が覚めた。
「うう……朝や」
まだ眠い目をこすって戸を開けると、五十代くらいの無骨な男が立っていた。
「おはよう」
男は低い声で誰にも聞こえないようにぼそぼそと挨拶をした。
「おはようございます。重之助さん」
重之助と呼ばれた男は軽く会釈をすると、何も言わずにすぐに行ってしまった。
戸を叩く音が三回、それが起床を告げる合図だった。
まだ濱末屋にきたばかりの頃、一度だけ寝坊してしまったお時は、
調理場で女将にこっぴどく怒られた事があった。
その様子を見ていた料理長の重之助は、
それから毎日お時が遅れないようにと合図を出してくれていた。
(無口やけど、重之助さんは優しいんやなぁ)と、お時は毎朝しみじみ思う。
お時の朝は早く、夜が開けきらないうちに目覚め、
廊下の掃除に始まり厠掃除に配膳、客室掃除、
布団干しにお膳のお皿荒いなど仕事は山ほどあり、暮れ六つまじかまで息つく暇もない。
日暮れもまじかになってやっとお時の仕事は一息ついて、自分の時間が持てる。
といってもこの頃になると日が落ちるまで三十分くらしいしかなく、
自室で休もうにも旅籠の中は旅人や従業員など様々な人の声や足音が行きかって落ち着かない。
だからお時は外に出るようになった。
女将に見つかると小言を言われるので、こっそりと裏口から出ている。
この日もそうだった。
裏口からそっと出て、丘を目指して走った。
走っていると自然とわくわくしてきて、弾んだ気持ちで街を駆けて行く。
この町は宿場町で、街道には多くの旅籠屋ののれんがひしめいている。
旅傘をさした旅人がせわしなく歩いたり、
ほっと息をついたようにのんびりと街を眺めたりしている。
客引きをする従業員の活気のある声、
そんな人ごみを掻き分けるようにしてお時は走った。
丘へと続く森の中に入ると、静かで、空気がひんやりとしていて心地良い。
いったん止まって大きく息を吸う。
すると突然後ろから声がかかった。
「おい!」
お時は一瞬嫌な予感がして振り返ると、
そこにいたのはお時と同じくらいの年齢の三人の少年達だった。
「やい!この醜女!」
リーダー格でありそうな、少し恰幅の良い少年がお時を「ブス」だと侮辱した。すると、子分らしき二人の少年がリーダーの真似をする。
「し~こめ~!!」
「シコメ!」
「まだココに来てんのかよ!? この森は俺達の遊び場なんだぞ!」
「わ、私は、別にこの森にきてるわけじゃ……」
「じゃあ何で今いるんだよ!」
「そ、それは――」
森を抜けた先の、街を見渡せる丘に行きたいから――そう言い終る前に、
お時は痛みに襲われた。
恰幅の良い少年が、お時の髪を無造作に力任せに引っ張ったからだ。
痛みで声をあげる前にその手は放された。
ほっと息つく暇もなく、今度は子分の二人に髪を引っ張られた。
先ほどよりも若干控えめだが、容赦がないのは変わりなかった。
「痛い!やめてや!」
「うるせー!変な言葉使いやがって!」
「ばーか、ばーか!」
お時の懇願にも耳を貸さずに、
二人の少年はお時の髪をぐしゃぐしゃにして罵声を浴びせた。
やっと手が離された頃には、せっかく苦労して結った髪は、ばさばさに乱れ、
お時の黒曜石のような黒髪は、痛んで色を失くしたようだった。
お時が涙が流れるのを我慢していると、少年三人はからかうように声を上げて、哂いながら去って行った。捨て台詞に「もう来んなよ!」と言い残して。
お時は悲しい気持ちで髪を下ろした。いや、下ろさざるを得なかった。
髪を直して帰ろうにも、鏡もクシもなければ整えようもないし、
このままの髪で帰れば、いじめられている事を知られる事になる。
いじめられている自分を他人に知られるのは、なんだか屈辱的だった。
自分が悪い事をしているわけではないのに、悪い事をしているような気にもなった。
お時がたまに髪を下ろしている訳は、こういう理由からだった。
お時があの丘を知るようになって二年になるが、
この二年の間、毎日ではないにしても、多くの日々に、
丘への往復の道中で彼らに遭遇し、ひどい目にあっていた。
しかし、ここ一ヶ月程で彼らに出遭う回数は格段に減ったように思う。
特に、丘からの帰り道で彼らに遭う回数はないに等しかった。
お時があの丘に行きたがるのには、理由があった。
あの丘から街を見ていると、
なんだか寂しさが薄く溶けて消えていくような気がしたのだ。
そして最近では、あの丘にいれば、あの猫がやってくる。
暮れ六つ時の、短い間の触れ合いだけが、彼女の心を躍らせてくれた。
優しい、暖かな気持ちにしてくれた。
あの猫を見るだけで、自然と微笑がこぼれ落ちる。
まるで恋のように――。
「ふう……」
お時は静かに一息ついて、森の中を歩き始めた。
静かで、凛とした空気の森を抜けると、青臭い草の香りが、
風に乗ってお時の髪をふわりと駆け抜けた。
目の前には、足首まで伸びた草原、その向こうには夕日に照らされて、
ぴかぴかと光る街。瓦が夕日に反射して黄金色に輝く。
お時はうっとりと街を眺めた。ゆっくりと足を進める。
シャキリと、草を踏む音。青臭くて、良い匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
崖の端まで着くと、お時は草の上に座り込んだ。
それと同時に、ゴーン……。ゴーン……。と、鐘の音が鳴る。
暮れ六つの時間だ。
お時はきょろきょろと辺りを見回した。
すると、草むらの中からがさがさと音がした。
お時は期待に胸を抱いて草むらを見やる。
「ニャア!」
顔をのぞかせたのは、やはりあの猫だった。
お時は顔中に嬉しさをいっぱいにした。
「お前!」
「ニャア」
お時に答えるように、猫はお時のそばへ駆け寄る。
「こんばんは! 今日も会ったな!」
「ニャ!」
猫が弾むように鳴くと、お時は思い出したかのように声を上げた。
「そういえば、あんさんの名前は何て言うん?」
「ニャ~?」
お時の質問に、猫は首を傾げた。
「名前ないん?」
猫は答えずにお時の顔を眺めた。
お時はしばらく何かを考えて、よし! と手を叩く。
「お前の名前はハコや! 鳩みたいに白い子だから、ハコや!」
お時は自信満々に猫を指差した。
指を差された猫は、若干迷惑そうな瞳を浮かべたが、
お時の笑顔に感じるものがあったのか、
甘えるように長く鳴いて、お時の脚に擦り寄った。
「気に入った?」
嬉しそうに猫の頭を撫でると、猫はお時の膝の上に乗って丸まった。
お時は、猫――いや、ハコを愛しく撫でる。
すると、ゴーン……と、最後の鐘が鳴り終えた。
(今日もこれでお別れやろか?)
残念そうに眉をひそめたお時だったが、猫はお時の膝の上から動こうとはしなかった。
驚いたと同時に嬉しさがこみ上げてくる。
お時は満たされた表情で、猫を撫で続けた。