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閉ざされた学園  作者: 西部止
3章 反撃
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9話 かけがえのない宝物

 ペンを放り投げて静かに息をつく。覚醒した頭が急速に固まっていく。

 しばらく勉強してなかったから、こんなに頭を働かせると脳に負担が掛かるんだ。でも、その疲労感は決して不快なものではなく、むしろ心地よかった。

 推薦入試に合格し、早くから受験を逃れていたため、必死に勉強をしたのが懐かしく感じる。合格した時は不思議な気分だった。ああ、これでお姉ちゃんと同じ学校に通うことになるんだと思うと同時に、実感があまり湧かなかった。学校が改革されつつあり、お姉ちゃんがそこに通っていたということがあまり想像できなかった。

 ――競争って言われてもね。お姉ちゃんとは対極にある考えだし、どちらかというと進んで人に譲る性格の人だった。私自身ともあまり馴染まない考えであるし、なんだか冷たい印象を受けた。

 それでも、兄弟高校を受験しようとしたのは、やっぱりお姉ちゃんがいたからであった。見知らぬ学校を選ぶよりも馴染みのある学校がいい。お姉ちゃんが選んだ学校なんだから間違いない。お姉ちゃん達と一緒の学校に通いたかった。

 でも、どうやら私は周りから冷たい人間に思われているみたいだった。あまり表情を表に出さないせいか「中川さんって何か感じ悪いね」と言われることもある。そんなつもりは決してないんだけどね。ただ、うまく表情に出せないだけで、どうしたらいいのか分からなくなるだけなのに。でも、そのことを口には出せない。

 だから、お姉ちゃんが時々羨ましく感じる。何も言わずとも人の良さが体から溢れ、話をすれば多くの人を和ませる。そのため、私と違ってお姉ちゃんの周りにはよく人が集まっていた。

 でも、嫉妬心は起こらなかった。それどころかお姉ちゃんが私の姉であって本当に嬉しく感じている。小・中と当然同じ学校だったため、お姉ちゃんと同じ担任の先生になることはあった。そのたびに、私がお姉ちゃんの妹だと知ると、その先生全員が顔を綻ばせた。「ああ、中川の妹か!」と嬉しそうな声を出し、私も可愛がってくれた。何だか自分も認められているようで誇らしかった。

 ずっとお姉ちゃんと一緒にいるんだと思っていた。そりゃあ、いつかは私もお姉ちゃんも誰かと結婚して離れて暮らすのだろうけど、お姉ちゃんのいない生活なんて想像もできなかった。

 私が中学三年生になってからのお姉ちゃんは、今までよりも楽しそうに見えた。実際、その感覚は間違いではなく、学校での出来事を嬉しそうに夕食時に語ることが増えた。

「今日もね、白崎君と瞳ちゃんが面白かったの。瞳ちゃんは結構なロマンチストでね。とある小説の『日差しが照り注ぐ朝がとても美しい。必ず暗い夜が明け、輝く朝は毎日美しい』っていう言葉がすごく好きなんだって言ったの……そうしたら白崎君はね、ふふっ、『全然お前は分かってない。朝は最悪だ。特に月曜日の朝は最悪だ。週で五回も気が滅入るのにどうして朝が美しいんだ』ってね。その後、瞳ちゃんがかんかんに怒ってね、笑っちゃうでしょ……」

 会話の中に白崎さんと明石さんという人達が頻繁に出てくるようになった。二人について話すお姉ちゃんの表情は本当に楽しそうで、私まで嬉しくなってしまった。

 明石さんは、明るく真っ直ぐな感じで、聞いているだけで豊かな表情が浮かんでくるようだった。うまく感情を顔に出せない私としては、とっても羨ましい。

 一方の白崎さんは、どこか冷めてるみたいだけれども、何となく面白い。捻くれた感じがするけれども、構ってほしいから憎まれ口を叩いているんじゃないだろうか。お姉ちゃんが話す白崎さんは、まるで自分の弟を可愛がっているお姉さんのように感じる。ちょっと嫉妬してしまう。

 本当に楽しい部活なんだろうな。いつも柔和な笑みを絶やさないお姉ちゃんだけれども、 こんなに嬉しそうに話すのは見たことがなかった。二人とも本当にいい人たちなんだと思った。……だったら、私も入れるかな。口下手で人付き合いもあまり良くない自分だけれども、この中に私も入れたらな、と思うようになった。

 元々、勉強は嫌いじゃなかったけれども、段々と勉強量を増やすようになった。兄弟高校は偏差値が高く、県内でも有数の進学校だったから油断はできなかった。本気で勉強をし、成績は徐々に、だけど着実に伸びていった。クラスで一番になり、学年でも上位一桁に入ることが当たり前になった。担任の先生からも兄弟高校の推薦を狙えると言われ、お父さんとお母さんも、そしてお姉ちゃんもすごく喜んでくれた。「一緒の部活で過ごそうね!」と言われた時は、本当嬉しかった。これで、お姉ちゃんと一緒に部活をすることができるんだ、と初めて実感が湧いて心が踊った。


 そんな矢先だった。今でも信じられない。

 夜中に物凄い音がして、目が覚めた。何が起こったか分からずに、一階に下りると、顔面蒼白になったお母さんがいた。手が震え、受話器がぶらりと釣り下がっている。

 一瞬にして、ただ事ではないなと思ったが、聞かずにはいられなかった。お母さんはうまく言葉にできなく、カタカタと受話器を指すだけであったので、私はゆっくりと受話器を取り上げた。

 電話の相手は警察からであった。身元不明の死体が公園から発見され、誰であるか直ぐには判別できない状態と言われた。ただ、手がかりらしきものがあったそうだ。その死体の制服に生徒手帳が入っていたからだと――「中川静」と書かれた手帳が。

 今日はお姉ちゃんが家に帰ってこなく、お母さんが心配していたのを思い出した。いつも遅くなる前に家に帰り、夜遊びなど行ったことがなかったお姉ちゃんが家に戻ってこない。連絡も全然ないし、お父さんも出張で出かけている。どうしよう、と落ち着かなさそうにため息を何度もついていた。「お姉ちゃんだってたまには遅くなることもあるよ」と私は言ったが、胸騒ぎはした。遅くなるなら、連絡ぐらいはするはずなのに、と。

 たぶん、お母さんも同じだったのだろう。だから、夜中まで起きて居間でお姉ちゃんを待っていたんだと思う。しんとした夜なのに、お母さんの部屋から一階に降りる足音もコール音も聞こえなかった。……電話を切った後、私とお母さんはしばらく何もできなかった。ただ、二人でその場に留まっているだけであった。

 ずっとそのまま何もできずにいたら、お父さんからの電話が入った。「すぐ行くから、決して慌てるなよ! まだそうと決まったわけじゃない」と言っていたが、その声は明らかに動揺していた。

 でも、結果は、予想を裏切らなかった。信じられなかった。お姉ちゃんがこんな姿になるなんて。こんな最後だなんて……。


 時間は一瞬にして過ぎた。葬儀はあっという間に行われ、実感がまるで湧かなかった。

 その時、初めて明石さんに会った。想像していた通り、とても可愛らしい人だった。目を赤くして涙で顔が濡れているにも関わらず、とても可憐であった。意を決して話しかけてみると――明石さんはまた泣きそうな顔をした。きっといつもは明るく笑っているんだな、と思ってしまい、何故か私の胸も張り裂けそうになった。

 また、あの人の姿も探したが、どこにもいないようであった。


 しばらく食事もできなかったが、どうやら世間では兄弟高校にかつてない注目が集まっているようだ。ふと、テレビを眺めていたら、兄弟高校の生徒会長と名乗る男の人がテレビに出演していた。端正な顔立ちに淀みなく話すその姿に魅了される人も多いだろうな、と思ったが、何故か好きになれなかった。

 言っている内容は最もだと思ってしまうのだが、どうも言葉が頭に入ってこない。強気の発言で周りの者を唸らせているが、どこか表面的に感じる。いや、真剣に話しているのは伝わるのだが、必死さがどこにもないように思える。

 既存の問題を取り上げ、巨大な敵を倒そうとしているのは伝わってくる。見るからにやる気のない先生に比べると、意識を高く持っているのも分かる。

 でも、その後、起こり得るであろう弊害に対する危機意識、責任感をこの人は持っているのだろうか? ただの学生にそれを求めるのは、ずるいかもしれないが、私は納得がいかなかった。

 テレビを消し、居間を後にする。


 兄弟高校が大規模に変わるらしい。徹底した効率化と自由主義による学校運営をするとのことである。世間の注目度も高くなり、私はあまり目立つ学校は嫌だな、と思ったが、今更志望校を変える気はなかった。だってお姉ちゃんの学校だから。

 それにあの人にも会ってみたかった。


 無事に兄弟高校に合格し、中学最後の春休みを家で過ごしていた。兄弟高校が大規模に変わるため、分厚いカリキュラムが家に送られてくるとのことだった。そろそろ届く頃であり――家のポストに何かが入った音がした。

 でも、なぜか胸騒ぎがした。高校に入る直前だから不安になったのだろうか? いや、違う。何かいけないものを見てしまうような予感がした。

 急いで郵便ポストに駆けつけると、ポストの中に入っていたのは、小さな携帯電話だった。見覚えのあるものだった。急いで部屋に戻り、電源を入れる。手が震えて、携帯が手からこぼれ落ちてしまう。急いで拾い上げ、ボタンをがむしゃらに操作する。何をすればいいか分からなかったが、ひたすらボタンを押していった。

 ――そして見つけた。重要な手がかりを。


 廊下で手持ち無沙汰にあの人を待つ。聞きたいことは山ほどあったが、言葉にできるか不安であった。本当に会っていいのだろうか? 一抹の不安がよぎり、この場から立ち去りたくなる。

 また明日にしようかな。そう思い、体を動かそうとすると、扉がいきなり開いた。不機嫌そうな顔を下に向け、そそくさと帰ろうとしていた。しかめ面をしているのだが、その顔はとても寂しそうに見えた。実際の顔を見たことはなかったが、私には、すぐに誰か分かった。

 私が「白崎さんですか?」と話しかけると、一瞬びっくりした顔をしたが、すぐに警戒心を露にした。ちょっと怖いと思ってしまったが、そのまま続けて話しかける。白崎さんは警戒を解くことはなかったが、素直に私について来てくれた。

 ただ、文芸部の部室に着き、私がお姉ちゃんの妹だということを話し始めると、顔色が変化したのが分かった。白崎さんが事件に関係していることを確信し、徐々に問い詰めていった。何があったか知りたかったから。

 ――でも、あの人は逃げた。私から逃げた。お姉ちゃんから逃げた。……そんなの絶対に許さなかった。真相を話してもらうまで、絶対に逃がさないと決めた。どんなことが隠されていたって、自分だけで抱え込むのは卑怯だと思った。

 ――でも、あんなにも残酷な真相だったなんて思いもしなかった。私だけじゃない、誰もが想像することなどできやしない。

 嬉しそうに話すあの子どもに一種の狂気を覚えたが、なんでお姉ちゃんだったのか、との気持ちのほうが大きかった……。正直、学校や社会なんてどうでもいい。どう崩れ落ちようが、お姉ちゃんさえいればそれでよかった。

 白崎さんも苦しんでいることが分かった。悲痛な叫びが心から溢れているが心底感じた。なんにも悪いことなどしていないのに、あんな仕打ちを受ければ誰でもああなるだろう。私だってそうなる。無様な姿だなんて思わなかった。

 でも、白崎さんには、逃げてほしくなかった。お姉ちゃんを守ってほしかった。

 あんなにお姉ちゃんが楽しそうに話していたのに……。

 お姉ちゃんの大切な人だったのなら、お姉ちゃんを助けてほしかった。あの空間を守ってほしかった。いつか、私もあの輪に入れてほしかった。

 勝手な期待だということは分かっている。理想を押し付けていることは自分でも自覚していた。でも、許せなかった。理屈では分かっているんだけれども、自分の感情は止められなかった。涙が溢れ、止まらなかった。


 ――はっと現実に意識が戻った。学校の自習室にいたにも関わらず、完全に意識が飛んでいた。恐る恐る周りを見渡し、誰にも見られていないことを素早く確認する。

 良かった。誰にも見られていないようだ。こんな顔、学校では絶対できない。

 お尻が痒くなった。ここから離れたくなり、学校の自習室を出ることにする。何でいつも考えてしまうんだろう。どうにもならないのに。

 もう、こんなこと考えないようにしよう。もう、忘れよう……。どうせ、白崎さんも逃げたんだ。私が何をしようとも何にも変わらない。学校が壊れようが、私も隠れて生きればいい。どうせ私に関心のある人なんて誰もいないのだから。

 と、廊下の窓際に誰か立っているのが分かった。愛想のない顔は以前と変わらなかったが、悲痛な面持ちが消えているように感じた。

 一瞬、誰か分からなかった。この人はこんなに強く見つめることができたんだ。

 私がびっくりして呆けていると、その人は私に近づき、ゆっくりと口を開いた。



                  ▲


 

「久しぶりだな」

 その人はそう口を開くと、左手を頭の後ろに伸ばした。そのまま頭を掻いて息を吐いた。

 ――少し驚いた。まさか、私の前に現れるとは思ってなかったから。

「ちょっといいか。ここじゃあれだから、場所を移したい」

 その人はそう言うと、親指で部室棟のほうを指した。その何気ない仕草に、むっとした。

「いまさら何の用ですか。もう話すことなんてないですよ」

 冷たく突きはなすように口を開いたが、この人は以前のような、動揺した素振りを見せなかった。

「まあ、そう言うな……俺にはあるんだよ」

「………」

 私は返事をしなかったが、その人は勝手に歩き出した。

 仕方がないので一歩遅れて、足音に続く。廊下には吹奏楽部の演奏がかすかに聞こえ、楽しそうな笑い声が響いていた。しかし、私とこの人の周りだけは薄いベールで覆われ、学校から隔離されているようにも感じた。

 文芸部の前に着き、その人は鍵を差し込む。私に入るように顔で促し、私が中に入ると、この人も後に続く。木製の椅子に鞄を置き、私にも腰を掛けるよう目線を送った。

「……えっと、急に呼び出して悪かったな」

 その人は座りながらそう言った。私の表情が固く閉じたままでいると、言いにくそうに口を開いた。

「言いたいことは長くはないんだけどな、え~と……」

 なかなか本題に入ろうとしない。自分で呼び出しておきながら、何も考えていなかったのだろうか? イライラし、私は自ら口を開いた。

「謝罪ならいらないですよ」

「……いらない?」

 疑問で答えが返ってきた。謝れば済むとでも思っているのだろうか。もし、本当にそう考えているのなら、もはや話す価値などはない。

「ええ、別にいりません。もう姉の真相は分かりましたし……あなたが臆病だっていうことも十分知りましたから」

「………」

「……それで用件は終わりですか? もしそうなら帰ります」

 そう言って矢継ぎ早に席を立とうとする。こんな人に期待をしていたなんて自分が恥ずかしくなる。なんで、お姉ちゃんはこんな人と一緒にいたのだろうか。

「待てって。お前に謝ろうとも思っているが、それだけじゃない」

「それだけじゃない?」

 半分腰を浮かせていたが、そこで体が止まった。これ以上何を話すのだろう。言い訳をするのなら、絶対に許さないんだから。

「ああ。ただ、最初に言わせてくれ。もう遅いかもしれないけど……ごめん。お前には許してもらえるとは思えないけれども、これだけは言っておきたかったから」

 そう言って、この人は頭を下げた。

 ははっ、ちょっとでも期待した私が馬鹿だった。ありきたりな謝罪に、私は心底呆れてしまった。殊勝な態度を取ればよいとでも思っているのだろうか。表面上の謝罪なんて、どうでもよかった。

「……くだらない。ただの自己満足じゃないですか。自分だけすっきりしようとするなんて卑怯です」

「……俺もそうだと思う。卑怯者だと思う。だから逃げた。お前から……そして中川先輩からも」

「分かってるじゃないですか」

「………」

「だったら、私の前にもう現れないでください」

 自分の非を認めれば済むとでも思わないでよ。その手には乗らない。鞄を乱暴に掴み、憎しみを込めてこの人に目線を送る。そのまま部室から立ち去ろうとした。でも――。


「――お前の姉さんに会ってきたよ」


 理解できない言葉が耳を流れた。一瞬、耳を疑って、もう一度その言葉の意味を反芻する。駄目だ。やっぱり意味が分からない。足を止め、振り返ってその人を見る。

「……どういうことですか?」

 言ってる意味が分からなかった。お姉ちゃんに会ったとはどういうことなのだろうか? 死後の世界にでも行ってきた……そんな馬鹿なことがあるわけがない。

 でも、突拍子もない発言をしておきながら、その人の表情は変わらなかった。混乱している私を正面から見つめているだけだった。

「……お前には内緒にして悪いと思ったけど、お前の家にお邪魔させてもらった。そしてお前の母親から話を色々聞いてきた」

「えっ?」

「本当に仲が良かったんだな、お前と中川先輩は。話を聞いているだけでそれが伝わってきたよ。話してるだけなのに、お前の母さん泣き出しちゃってさ……」

 そう言って、この人は何ともいえない複雑な顔をした。憂いを帯びた瞳が、地面を見つめていた。だけど――その表情が余計に私を苛立たせた。

 ――信じられない。何てことをしてくれたんだ。人の家に土足で入り込んで、お母さんから色々と聞き出すなんて! そんなことをする権利がどこにあるんだ!

 臆病に逃げておきながら、いまさらお姉ちゃんの前にのうのうと現れるな!

「……だから、何だって言うんですか! いまさら話を聞いてどうするんですか! 人の家族の傷口を抉るような真似して! 全然関係ないくせに、私のいない隙を狙って家に上がるなんて最低です。そんな……そんな、卑怯なことをしないでよ! 自分の罪滅ぼしのために、私の家族をもう巻き込もうとしないで!」

 目眩がした。感情が勝手に溢れる。自分でも驚くほど声を荒げてしまう。あまり大きな声を出すことがないせいか、意識が飛びそうになる。……気持ち悪い。

「……悪かった。ごめん。でも確かめたかったんだ。俺が中川先輩にどう思われていたかを――そして、お前の気持ちを」

「……私の気持ち?」

 この人は何を言おうとしているの?

「ああ。自分で言うのも何だけど、俺は中川先輩になんか好かれていたみたいだからな。恋愛感情とかそういうものじゃないと思うけど、中川先輩、よく文芸部の話を家でしていたみたいだし」

「何を……」

「その時の中川先輩は本当に楽しそうだって、お前のお母さん言ってたよ。その時だけ少し笑ってたな。すごく優しそうな顔で。そして、聞いたよ。嬉しそうにお前と中川先輩が毎日のように話しているのを。そして――お前が文芸部に入りたがってい……」


「やめて!」


 大きな声が部室全体に響いた。悲痛な叫びは、周りを囲んでいた無数の本をなぎ倒すかのように、どこまでも広がっていったように感じた。感情が篭った声は、私のものとは思えなかった。

 嘘! 何でそのことを話すの! 何でそのことを知っているの!

 頭が痺れて、視界が飛んだ。

 だって、それだけは知られたくなかったから。それを知られたら、私の本当の気持ちがばれてしまう。それだけは絶対に避けなければいけなかった。

 動揺から体が震え、いつのまにか頬には涙が流れていた。自分の体がとても小さく感じる。なんで、そんな……ことを。

「なんでそんなこと言うの! 何で今さらそんなこと言うの! やめて……」

 そう叫んで、板状の床に泣き崩れてしまう。呼吸をするのも苦しくなり、喉に手を当てて発作を抑えようとする。もしかしたら、自分の姿はあの時の白崎さんのようになっているのかもしれない。でも――顔を上げられない。

 私は向き合いたくなかった。弱い自分を見たくなかった。人に責任を押し付けて、見ない振りをしていたかった。白崎さんに知られないままでいたかった。

「いや、やめない。俺はお前に応えられなかったからな……。今さら遅いかも知れないけれど、もうお前を失望させたくないんだ」

 そんな言葉を投げかけないでほしい。私を見つめないでほしい。心の中で必死にそう叫ぶ。でも――。

「俺も苦しんでた、なんてことは言い訳にならないのは分かっている。でも、今度こそ、やり直させてくれないか――頼む」

 私の訴えを無視するかのように白崎さんは私の心を抉り取っていく。

 言葉なんて単なる雑音だ。形のない装飾品だ。実態などなく、触れたら消えてしまうものに過ぎないんだ。なのに、そうであるはずなのに、私に強くぶつかってくる。雪球のように冷たく、固く、重い物質が私の体を襲い、弾け飛んで私を包んでいく。

 痛い、痛い、痛いから。ぶつけないで! やめて! 痛いからやめて! もう離して!

「もうやめて……」

 声が枯れて、うまく口に出ない。これ以上聞きたくなかった……

「……本当に悪かった。自分のことしか考えずにいたことが、どんなにお前を苦しめていたか分からなかった……。俺にとって大切な人の妹だったのにな」

 もうやめて……

「でももう逃げないから。お前を裏切らないから……頼むから、中川先輩と一緒にいた俺を信じてくれ」

 精一杯の言葉で私に伝えようと声を発しているのが分かる……でも、それが余計に辛い。

 こんな感情になるなら、一生恨んでいたかった。憎んでいたかった。真剣に向き合いたくなかった。お姉ちゃんの死を受け入れたくなかった。だからなのに――。

 白崎さんだって、単なる罪滅ぼしなのかもしれないし、自己満足で言っているのかもしれない。自分を守るための方便の可能性だって十分ある。

 ――でも、違う。白崎さんは違う。本気で私に向かってきている。私と正面からぶつかりにきている。人に責任を転嫁させることしかできない私なのに、本気で私を分かろうとしてくれている。こんな最低な私なのに……

 私はうなだれたまま動けなくなってしまった。制服は乱れ、涙で顔は濡れ、鞄は皺くちゃになっている。このまま立ち上がることができないじゃないかと思うほど、体が竦んで動かなくなってしまった。

 何でなの? 何でこの人は立ち上がることができたの? あんなに打ちひしがれていたのに、こんなに真っ直ぐ私を見れるの。

「……俺はそんなに強くないよ。一人では何もできない人間だからな。でも、だから同じ顔をしている者は分かるんだ。――そして、そういう奴だからこそ一緒に学校生活を送りたいと思っているんだ」

 私の心を読んでいるかのように白崎さんはそう言った。

 涙が止まらなかった。どこまでも流れていきそうで、私自身も溶けてなくなりそうだった。目に映るのは、雪景色だった。

 ――ああ、これが白崎さんなんだ。

 お姉ちゃんが楽しそうに話していた白崎さんなんだ。

 私も送りたかった。みんなと一緒に学校生活を送りたかった。お姉ちゃんと送りたかった。明石さんと送りたかった……白崎さんと送りたかった。

 涙は枯れ果て、目の前は真っ白だった。


「――最初から分かっていた。白崎先輩が悪いなんて思ってなかった」


 私は、ゆっくりと口を開いた。そのまま顔を上げ、白崎さんの目を見据えようとする。

 もし、白崎さんに威嚇されれば、思わず逸らしてしまうだろう。それほど弱弱しいものであるが、必死に白崎さんを見つめようとした。

 でも――白崎さんの目は綺麗だった。私を包み込むかのような優しい眼差しを浮かべていた。その暖かな光は私の固い殻をゆっくりと壊していく。

「……だから、ごめんなさい。自分を棚に上げて、白崎先輩に全部押し付けてしまって。本当に勝手な自分が嫌になる……」

 そう言って、立ち上がろうとした。だが、うまく立ち上がることができず、よろけてしまう。

 そんな私の前に手が伸びる。まるでスローモーションのようにゆっくり景色が動き、僅かに迷いが起きた。私なんかがこの手を掴んでいいのだろうか。こんな優しい手を握ってもよいのだろうか。不安な感情は消えなかった。

 ――でも掴みたい。私を引っ張っていってほしい。こんなに弱い私を助けてほしかった。お姉ちゃんを失くし、一人ぼっちになってしまった私を助けてくれる、優しい手が本当に欲しかった。

 だから、私は懸命に手を伸ばした。果てしない距離を感じたが、確かに――白崎さんの手を掴んだ。

 ――あったかい。

「別に理想を押し付けられてもいい。ただ、俺がそれに応えられるほど、人間ができてなかっただけだ」

 そう言うと、白崎さんは微かに笑った。

 何だか新鮮だ。この人もこういう表情するんだと思い、ぼーと見つめてしまった。

 私が押し黙ったままだったので「なんだよ、何か言えよ」と、白崎さんが恥ずかしそうに言った。その様子がおかしくて、思わず憎まれ口を叩きたくなった。

「そうですね。あんな無様な姿見せられて、理想もへったくれもないですよね。こんな先輩に期待したのが間違いでした」

「……おい」

 白崎さんが情けない顔をした。意外とおもしろい表情だ。

 ふと、私の中に溜まっていた不安が消えたように感じた。不思議な感じだ。さっきまで、あんなに苦しかったのに。嘘みたいに心のしこりが消えていた。

「でも、私を救ってくれて本当にありがとうございました。お姉ちゃんを大切にしてくれて、本当に嬉しかったです。だから、こんな私でよければ――これからよろしくお願いします」

 ――そう言った瞬間、白崎さんの顔が泣きそうに歪んだ。

 だから分かった。白崎さんも緊張していたんだ。そりゃ、そうだよね。あれだけすごいことを言っても、年齢は私と一つしか変わらない。ただの高校生なんだから当たり前だ。

 ――でも、だから本当にすごいと思う。

 やっぱりお姉ちゃんが認めた人なんだ。お姉ちゃんは間違っていなかったんだ。

 自然と笑みが零れてしまい、白崎さんと目が合った。

 しまった、油断した。人前でこんな顔は滅多に見せたことがなかったので戸惑ってしまう。どうしたらいいのか分からずに顔を逸らす。

「……お前、そっちの顔のほうがいいと思うぞ。むすっとしているより全然いい」

 だけど、白崎さんは自然とそう言った。

 完璧な不意打ちだった。思わず顔が赤くなってしまう。さらりとなんてことを言うんだ、この人は!

「な、何言っているんですか。自分で苦しませておきながら、そんなこと言うなんて最低です。やっぱり極悪人ですね」

「…………すまん」

 私がそう言うと本気で凹んでしまった。おそらく「俺の責任でこうなった」とでも思っているのだろう。本当に私の気持ちを分かっているのだろうか?

「……面倒くさい人ですね。自分で言って凹まないでください」

 私が言うのも何だけど、本当に難儀な人だ。

 でもだからこそ心が引き付けられる。お姉ちゃんの気持ちが分かった気がする。こういう人間臭さは、意外にも持っている人は少ない。外見だけ気にする人達にとって、感情の発露は恥ずかしいものだからだ。だからこそ、素直に自分を表現できる人は、一緒にいて心地よく感じる。

 ――きっとこれからうまくいく、そんな予感が抑えられない。白崎さんと一緒なら、私は前に進める気がする。このままどこへでもいけそうだ。

 ふと気がつくと、部室の窓からそよ風が入り込み、中の濁った空気と溶けて交じり合った。爽やかな風は、これから忘れられない季節を運んできてくれるような予感がした。

 ちらっと白崎さんを見ると、目を細めていた。たぶん、私と一緒だ。風を楽しんでいる。

 ――お姉ちゃん、私、頑張るよ。私が望んでいた未来と違かったけど、なんとか歩いていけそうだよ。今を大切にして、未来に向けて一歩一歩踏みしめる喜びが分かった気がするから。

 ――だから、見守っていてね。私を、明石さんを、そして、白崎さんを。


 今までありがとう、お姉ちゃん――お姉ちゃんの妹で本当に良かった。



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