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閉ざされた学園  作者: 西部止
2章 崩壊
7/20

7話 もはや、これまで

 翌日、教室に入ると、喧騒に包まれていた。クラス替えから一日置いて、なんとなく落ち着いてきたのだろう。何人かで談笑する姿がちらほら見える。俺はカバンを机の脇のフックに掛け、様子を伺った。


「昨日、凄かったみたいだね」

「A組とH組の奴らが揉めたんだって」

「え、なになに。何か起きたの?」


 どうやら昨日の件は、もう知れ渡っているらしい。

 会話の糸口を掴みたいこの時期にとって、この出来事は格好の餌食だったのだろう。あちらこちらで話題に上っている。学生にとって、他人の不祥事は純粋な好奇心に変わる。非常事態にも関わらず、非日常な状況に興奮する感じに似ているのだろうか。責任がなく自分と関係ない状況であるが故に、無邪気な興奮を覚えるのかもしれない。

 俺はそんな輪に加わりたくもなかったので、手持ち無沙汰にしていたら、教室の前のほうから「あっ」と声が上がった。


「青沼じゃん、うわっ、顔腫れているよ」

「うへぇ、痛そう」


 どうやら教室から青沼が見えたらしい。前の扉に手と顔を引っ付け、ガラス越しに覗き込む奴もいる。


「あいつ一週間の停学だって」

「まじかよ~。でも3対1だったんだろ。頑張ったんじゃね」


 クラスの奴らは好き勝手言ってるが、当の青沼は仏頂面のまま歩き続ける。荷物でも取りに来たのだろう。このまま授業を受けようとする格好ではない。赤いパーカーとジーンズを身につけ、気だるげにバックを片方の肩に掛けている。誰を見ているわけではないが、周り全員が敵であるかのように目を据わらせていた。俺としては特に何を思うことなく、ぼんやりと青沼を見ていると、ガラス越しに一瞬目が合った。

 ――その瞬間、青沼は眉の間に皺を寄せたかと思うと、にわかに目に敵意が篭った。

「しらさきぃ!」

 扉を乱暴に開け、青沼がなだれ込んできた。

 最初、何が起こったのか分からなかった。いきなり俺の肩を掴み、そのまま強引に押し倒される。周りにあった机や椅子が滑り落ちるように広がった。視界がぐるりと回転する。風景がおぼろげに変化する中で、口元に手を当て、大きく目を見開いている女子が一瞬見えた。

「――お前、見捨てたな」

 馬乗りになりながら、青沼は口を開いた。

 その一言で、俺は青沼が何を言っているのかすぐに理解した。ただ確証はなく後ろめたい気持ちもあったので、わざと眉を中心に寄せ怪訝そうな表情を作った。

「見捨てたって、何が?」

「すっとぼけんじゃねえ。お前昨日の喧嘩、隠れて見てただろ!」

 ――気付かれていたのか……面倒なことになった。自分の姿を見られたとは思っていなかったので、何の準備もしてなかった。今となっては遅いが、細心の注意を払って行動すればよかったと後悔する。

 言い訳が見つからず無言でいると、青沼のこめかみに青筋が浮かんだ。

「だんまりかよ、この卑怯者。コソコソ影で様子伺いやがってよ~。男の風上にも置けねえ奴だな!」

「………」

「お前は前から気に入らなかったんだよ。冷めた感じで格好つけやがってよ。傍観者気取りの根暗野郎! てめえが格好つけても寒いだけなんだよ!」

 完全に頭に血が上っている。正直関わりたくもなかったが、自分で招いた事態なのに責任転嫁されたことに腹が立った。

 ――言ってくれる。脳筋野郎が何ほざいてんだ!

「てめえが勝手に仕掛けたことだろうが。自分の始末ぐらい自分でつけろ」

「なんだと、こらぁ! こっちは被害者だろうが!」

「……馬鹿じゃないのか。最初に殴っておきながら被害者も糞もあるかよ」

「は~あ、あれだけ言われて黙ってられるか。3対1だぞ、こらぁ!」

「暴力に訴えた時点で、お前も同罪だ。俺に八つ当たりをするな、負け犬」

 その言葉を発した瞬間、青沼の顔が噴火直前の火山のように赤くなった。青沼の拳が俺の顔目掛けて襲い掛かる。咄嗟に左手を前に差し出した。ジワジワと痺れと熱さが左手全体に広がる。そのたぎりが伝播するように俺の腕にも赤みが増した。

 手で隠れてよく見えないが、青沼の表情は憎しみが篭り、ハアハアと大きく息を荒げているのがぼんやりと分かった。

 ――おそらく負け犬という言葉が昨日の冷罵と重なったのだろう。言うべき言葉ではなかったかもしれない。そもそものいざこざは劣等感から生じたものだったのに。

 後ろめたい気持ちになり、すっと顔を逸らしたところ、大声が教室に響いた。

「何をやってるんだ、貴様ら! どういうことだこれは」

 皆の視線が前方に集まる。そこには厳しい形相をした黒岩が立っていた。一気に教室中が静まりかえる。

「……当事者は誰だ」

 そう言って、俺の元に近づいてくる。後悔する気持ちがあるためか、黒岩が一段と大きく見えた。

「白崎と……はあ、またお前か。昨日に続いて、今度は何だ。反省しているのか」

 青沼は何も言わず、悔しそうに口をつぐんでいる。拳を震わせ、溢れ出ようとする感情を必死に押し留めようとするその姿は、その大きな体躯と反するように、とても小さなものに見えた。

 一方、俺はいつ自分に非難の声がくるか恐れていた。悪意のある好奇心がある中で、羞恥に耐えられるように強靭な精神はできていない。青沼のことは、哀れには思ったが、同情心は瞬く間になくなった。

 だが、そんな俺の心境とは裏腹に、黒岩は信じられないことを口走った。


「事情は知らんが、ここじゃ邪魔だ。やるなら外でやれ。授業の邪魔になる」


 一瞬、何を言っているのか分からなかった。学校という管理下で、生徒が争っているんだぞ。何だ、その言葉は……。教師としてあるまじき考え方だ。

 俺は言葉を失ってしまったが、それは青沼も同じようだった。さっきまで悔しそうに閉じられていた口が半開きになっている。

「他人を巻き込む喧嘩は論外だがな、――人の迷惑にならなければどうでもいい。勝手にやってろ」

 そう言って、黒岩は手を振って俺たちを追い払おうとした。いや、追い払おうともしていない。徹底した無関心。教師としてはあるまじき行為だが、生徒の心情をまるで見ていない。

 ――まるで隠居した老人のような気分に陥る。何か事を起こせば鬱陶しがられ、掛けなければ誰の関心も得られない。誰にも受け入れられず、ただ衰えていく自分をただ見ているだけ。誰にも認められない中で、自己の意識、精神を消滅させられない恐怖。

 認知症とはこういうことか。一般的に、不健康な生活習慣や刺激の欠如が原因の一つと考えられている。が、根本の理由は、精神喪失への渇望ではないのだろうか。徹底した自意識による反動。自己中心的な人や塞ぎこみがちな人が認知症を発症させる危険性が高いことも、この仮説の裏づけになる。自意識の高さがあればあるほど、崩された時はその事実をなかったことにしなければ耐え切れない。自己の否を認めてしまえば自我が崩壊してしまう。そのため、記憶を失わせれば絶望から開放される。いや、自我を崩壊させれば開放される。

 ――だったら、自分をなくせばいい。

 そんなことが頭に浮かび、思わずぞっとした。

「何呆けてんだ。早く決めろ」

 黒岩の言葉で意識が現実に戻った。青沼も気分がそぎ落とされたのだろう。嫌悪感を露にしながらも、静かに立ち上がり、教室から出て行った。

 気分は最悪である。青沼と言い合った時よりも圧倒的に不快である。

 ふと、放課後、賭けマージャンをして担任に怒られたことを思い出した。「次やったら停学だからな」とその担任に脅しを掛けられたが、正直鬱陶しい気持ちが大きかった。賭けマージャンぐらいでガミガミ言うなよ、とその時は感じたが、今はその出来事が懐かしく感じる。

 怒られたほうが良かったなんて思う日が来るとは思わなかった。まるでいない者のように扱われることが、これほど自分を否定されているように感じるなんて思わなかった。お前なんてどうでもいいと言われることがこれほど辛いだなんて信じられなかった。

 何で自分ばかりこんな目に合うのか理解できなくなった。本当に俺が何をしたんだと思ってしまう。確かに青沼の喧嘩を止めなかったが、それがそんなに悪いことなのだろうか。虐めたり、蔑んだりしたわけじゃなかったのに。

 ――もう十分だろう。この学校があいつのいうように最悪の方向に進んでいることなんて十分理解した。ただでさえ未熟な精神しか持たない俺たちを解放すればどうなるかは理解した。束縛しない教師を求めればどうなるかは理解した。教師にしろ、生徒にしろ、騒乱と無関心の渦に飲み込まれ、静かに狂っていくだけなのはもう十分理解した。

 ――だからか。俺ばかりにしわ寄せが来るのは。崩壊に向かっているにも関わらず何もしないからか? いやしなかったからか!

 あの日の言葉は決して忘れていなかったが、自分にこれほど火の粉が降ってくることは想定してなかった。ただ、皆が恐怖し絶望するものだと信じ込んでいた。俺を攻めた立てる復讐は、皆がいるものだと思っていた。


「ほ~ら、やっぱり君は何もしない」


 そんな声が聞こえてくるような気がする。薄気味悪い笑みを浮かべながらも、あの殺気に満ちた目で俺を見ている。血一滴残さず食らい尽くすまで、この俺を苦しめているのが分かる。

 ……勘弁してくれ! 俺が本当に何したんだよ。もっと屑みたいな奴なんて腐るほどいるじゃないか! 何で俺なんだよ……何で俺ばっかりなんだよ!

 

 誰か助けてくれ!



                  ▲



 青沼とのいざこざがあった後、完全に俺は腫れ物状態だった。放課後まで話しかけてくる者はおらず、一人塞ぎこんでいた。何を言われているわけでもないのに、不快な感情が俺に向かってくる。低劣な目線と歪んだ好奇心、顔を向けなくともはっきりと分かる。あまりの居た堪れなさに、早くこの場を抜け出したかった。

 ホームルームが終わると、俺はすぐさま教室を出る。人に会いたくない、その一心から裏門を出ることとする。小走りにならない程度に歩く速度を速め、あくまで自然に振る舞いながら足を動かす。

 もう何も考えたくない。早く家に帰ってシャワーを浴びよう。そしてそのままベットに飛び込もう。それはとても気持ちが良いだろう。

 そして後は眠るだけ。煩わしい世俗を忘れ、そのまま思考は放出される。束縛から解放される。さあ、帰ろう。


「――随分早いお帰りですね」


 だが現実はそう甘くはなかった。できるなら目を逸らしたかったが、その行為に何の意味も成さないことは分かっていた。眼球は彼女を捕らえているが、体が認識を拒絶している。小さいながらも静かに佇む彼女の姿は、俺が見てよいものとは思えなかった。

 この場から逃げ出したいという臆病な気持ちと、下級生に怯えることを許さない小さなプライドがぶつかり合い、結局、中途半端にその場に留まるしかなかった。

「…………」

 俺はどう行動を取ればいいか判断がつかず、目を細め半端な威嚇をする。だが、彼女にはそんな半端な仕草は通用しない。カバンを掴んでいるため、彼女の両手は塞がっているが、大きな壁が彼女を覆っているように感じた。巨大な怪物を使役するかのような彼女の姿に威圧される。俺を逃すまいとの気持ちが体の所々から溢れ出ていた。

「……今日はちゃんと話をしてくれますよね、先輩」

 冷めた目は相変わらずだったが、俺を捕らえる瞳は闇を彩る炎のように真紅に染まっていた。

「いいかげんにしろ、俺は疲れているんだ」

「時間は長くは取らせませんよ」

「セールスの常套文句だな。高校生からそんなテクを使っていると、ろくな大人にならない」

「……別に構いませんよ。立派な大人にならなくても」

「あ?」

「もう私の時間は止まっていますし。あの日から、私の心には過去しか見えなくなりましたから」

 そう言って、ふっと中川は笑った。全てのものに期待していないような表情であった。

「……とにかく俺に付きまとうのは止めろ」

 一瞬、中川先輩の顔が頭を過ぎった。あんな無残な殺され方をしても、俺の中にある中川先輩は、あの頃のように柔和な笑みを浮かべていた。その純粋な笑顔に胸が痛み、目の前の彼女を直視できなかった。もう我慢ができず、中川の横を素早く通り抜けようとしたが、華奢な手が問いかけるように俺の腕を掴んだ。

「やめろ」

 その弱弱しい力に一瞬躊躇してしまうが、なんとか振り払い、そのまま立ち去ろうと全身に力を込める。もう理屈もへったくれもなかった。臆病な自分自身に情けなくもなったが、それ以上に俺の心を抉る彼女に苛立ちを覚えた。自分が傷つけられたことを逆手にとって、強気に発言する曲がった根性が許せなかった。それゆえに、眼球に映る彼女の顔は整っているはずなのに、今はひどく歪んで見えた。

 ――さっさと消えてしまえ!

 心の中で叫び声を上げる。声に出さずにしか攻撃できない俺にとって、中川の姿はいやに大きく見えた。

 いや、頼むから俺の目の前に現れないでくれ! これ以上、俺を苦しめるものを見たくはなかった。もう限界だ。

 ――と、肩が跳ね上がるような強烈な振動が体を襲った。俺の意思とは無関係に、そのまま地面に崩れ落ちてしまう。

 なんだ、この悪寒は? 体に力が入らず、まるでアル中患者のように腕を震わせてしまう。巨大な地震に身を竦まされ、必死に収まるのを願うような恐怖心が体を襲ってくる。脅えが継続し、終わる気配が見当たらない。何だこれは?

 ――いや、違う。俺はこの背筋が凍りつく悪寒を知っている。

 

「――また逃げるの」


 死人を見た顔とはこのことだろうか。自分の顔を見ることはできないが、間違いなく今の俺の表情はそれだった。恐れていたものが現実になった時の絶望。心の中にしこりとなって残っていたのだが、必死に自分に言い聞かせていた。「大丈夫。もう何も起こらないし、あいつも現れない。何の心配もいらない」と。

 しかし、実際そんな甘いことはなかった。警告を無視し続けてきた報いというべきか、何の防具も持たない俺にとって、こいつの出現は俺の精神を揺さぶるには十分過ぎた。

「やっぱり君は君のままだね」

 そう言って、こいつは笑った。前と変わらず、子どもじみた姿は、その面貌と対照的であり、その落差が余計にこいつの存在感を高まらせていた。

「半年振りの再会にも関わらず、全然時間が経ったように感じないよ。だって、まるで変わっていないんだもん。臆病で弱虫で自分で何にもできないところなんて失笑ものだったよ。危機意識の欠如。ただ、慌てふためいて顔を歪ませる姿は哀れすぎるよ……そんなんだから同級生に殴られそうになるんだよ。先生にも見捨てられるんだよ。自分が無価値だって自覚した?」

 あの時と変わらず、奴は淀みなく言葉を続ける。

「だから妹ちゃんにも責められるし、彼女を守れなかったんだよ。いや、守ろうともしてないね。自己保身で精一杯だったしね。でも、だからこそ君のせいで殺されたんだよ……中川ちゃんは」

 こいつがそう言った瞬間、中川の目が見開いた。不穏な雰囲気を醸し出す奴に戸惑っていた様子が一気に消え失せ、身を前に乗り出すように体を動かした。

「それは、どういうことですか?」

 混乱している中で、咄嗟に口を開いたことが分かる。忙しなくまばたきをしながら、そいつを必死に見つめる様子は、どこにでもいる女の子のようだった。

 そんな中川の様子を楽しむかのように、奴は軽快なリズムを取りながら応えた。

「言葉のとおりだよ。彼が君のお姉さんを殺したんだよ」

「え、言っている意味が分からないんだけど……」

「くふっ、そうだよね……冗~談。だって彼に人を殺す勇気なんてあるはずもないし」

「……冗談? そういう……ちょっと何を言ってるのか分からない」

 そう言って中川は俺のほうに顔を向ける。不安と混乱の入り混じった表情は、さっきまでの敵意を見事に隠していた。

「彼に訴えても無駄だよ。自分を守るので一杯一杯だからね。でもそんなんだから僕は救ったんだよ……君のお姉さんを」

「救った?」

「そう、悲惨な運命から救ったんだよ。彼に殺される前にね――僕が殺したんだ」



                   ▲



 俺が最も聞きたくない言葉を呟いた後、こいつは滔々とあの夜の内容を語った。

 顔を歪めながら嬉しそうに話すこいつと、黙って話に耳を傾ける中川の姿は対照的であった。徐々に中川の顔から血の気が失せていき、小さな体が微かに震えている。内容が突飛なだけに簡単に信じられないだろう。完全に言葉を失い、今にも倒れそうな様子は、今の俺と同じであった。


「……信じられない、そんなこと」

 そう中川が言った。体が震えているのが、端から見ても分かる。

「でも事実だよ。幻滅した? 僕にも……彼にも」

「………」

 意外にも中川の表情は変わらなかった。そのため、どれほどの感情が浮かんでいるのか読み取れなかった。

「……携帯電話を家のポストに入れたのもあなたですか?」

「そうだよ。試したかったからね」

「試す?」

「そう、彼が変わったか見てみたかったからね……でも残念。予想通り君から逃げるだけだったよ」

「っ、やっぱりあれはお前の仕業か」

 咄嗟に俺が口を開くと、こいつは「やっとしゃべったね」と言わんばかりの不快な表情を出した。

「そういう反応を見ると余計に意地悪したくなっちゃうんだよね~、僕は! だから、君が中川ちゃんの携帯電話の相手だって分からないように警察を誘導するのは手間がかかったけど、全然苦痛じゃなかった! 警察の事情聴取で終わってしまったら、かなでちゃんが君を問い詰められないからね……だから僕は頑張ったよ……しかも、皮肉にも幸運に恵まれているのか、A組の子達と青沼君が喧嘩しているところに、君が遭遇した時は信じられなかったよ♪ 本当に残~念!」

 もはや言葉にならない。携帯電話についての不可解な点は、こいつの仕業かと疑っていたが、実際にそうであると余計に気が滅入ってしまう。しかもこのタイミングで、あの事件に巻き込まれるとは、――本当にあり得ない。

 こいつは心底俺を軽蔑しているのだろう。俺が苦しむことが最上の喜びであり、襲い掛かかり、痛めつけることが至福の時間なのは疑いようもない。

「……そんなに俺が憎いのか」

「憎いよ。ただそれ以上に嬉しいんだよ」

「嬉しい? お前の計画が順調に進んでいるからか?」

「それもあるけど、一番は君が相変わらず弱虫だってことだよ!」

「…………」

「不良が改心するとなぜか美談になるでしょ……それと一緒かな。クズが改心したところなんて見たくないよ、絶対に。あ~あやっぱり白崎君はクズなんだって思えることが僕の心の平穏を支えているんだよ……僕みたいに君に痛めつけられた人間にとっては」

 どこまでも後ろ向きである考えだ。負の感情が辺りに飛び散っている。

 どうやったらこういう人間になれるんだ? いや、意識してなれるものじゃないだろう。

 これが、壊れた未来がもたらしたものなのか?

「……俺は不良かよ」

「それより性質が悪いよ。あいつらはクズなだけだけど、そんな人間に彼女は負けない。一番悪いのは、不良にすらなれない臆病者にも関わらず、周りの人間を劣化させる者なんだよ。善良な人間が敗北を認めるのは身近な人間による無関心がとてつもなく大きいからね…………白崎君、君は何のために生きてるの?」

「………」

「青沼君もかわいそうだよね。去年まで親しくしていた同級生に見捨てられるなんて。しかも喧嘩を止めるどころか、馬鹿にしてたでしょ、君は……。僕はそういう人間が一番嫌いなんだよ。他者を見下す者は見下される。まずは自分を客観視しなよ」

 俺は何も言い返すことができなかった。

 だが――。

 

「――ふざけないで」


 突如として静かな声が辺りに広がった。声の方向に目を向けると、中川が拳を震わせ、佇んでいた。

 まるでテレビの画面から中川が現れたかのような感覚であった。映像として認識してはいるが、実際には実物がそこにあるわけではない。その感覚に似ている。だから、映像だった中川が突如として画面から現れたように錯覚してしまった。

「白崎さん、今の話は本当ですか?」

 はっきりと中川が見える。これを逃したら取り戻すことができないと本能が叫んでいるようだ。体中を思考が飛びかい、それらを必死にまとめ上げようと手を伸ばす。

 手探りで何を掴んでいるかも分からないが、がむしゃらに掴み取る。中川はまだ俺に完全に失望しているわけではない。俺の言葉で取り返せる。俺の尊厳を。

 俺は……

「そうだよ。白崎君はそういう人間なのは、話していて分かるでしょ。人を見下すくせに、自分がいざその立場になると何もできない……だから友人が複数人に痛めつけられていても見捨てるし、――そして、君からも逃げた。自分が一番可愛いんだよ」

 一瞬にして思考が砂粒化してしまいそうだ。砂で築き上げた楼閣が一気に崩れてしまう恐怖に駆られる。今まで何とか踏ん張りを利かせていたが、こいつの言葉で躊躇してしまった。顔面が痙攣を起こし、引きつっているのが自分でも分かる。

 ――自分が可愛いか、そうなのかもしれない。どこか周りから一歩引いて物事を見る自分が何となく好きだったが、今考えれば、それは単なる自己愛なのだろう。自意識が強すぎて無様な自分を見つめることができなかった反動が起きただけなのだろう。

 こいつの言葉を決して認めたくはないが、間違いなく図星であった。

「あなたには聞いていない」

 だが、中川は違っていた。奴の言葉が竜巻のように俺の心を削り取っていったが、毅然とした態度と厳しい表情は、俺の本心を見ようと必死に足掻いていた。こいつだって得体の知れないものに脅えているだろうに、懸命に頑張っている。

 ――たぶん中川の中には、大好きな姉と仲良くしていた俺の印象があるのだろう。僅かな希望を求めて、俺を真剣に見つめようとしている。

「白崎さん……答えてください」

 間違いなく、これが最後通牒である。中川は事件の真相ではなく、俺という人間がどういうものかを知りたがっている。姉の大切な友人だった俺がどういう人物だったかを知りたがっている……俺の答えを知りたがっている。

 俺は、中川先輩を殺され、こいつに打ち負かされる中で、見事にさらけ出された自分の弱さがどういうものなのか認識させれられた。だとしたら、その上で俺は答えなければならない。俺がどういう人間なのかを。俺がどう考えているかを。俺の答えを……


「…………それが答えですね。分かりました」


 だが、俺は何も言うことができなかった。どうしても自分という人間が正しいと思えなかった。いくら自分を正当化したところで欺瞞にしかならないだろうと体が訴えていた。

「……さよなら。私はあなたを絶対に許さない」

 中川はそう言って静かに立ち去った。蔑みの目線を直接浴びて、俺の精神は限界であった。その場に崩れ落ちてしまう。

「――また一人になったね、残念!」

 そんな俺をあざ笑うかのように、未だにこいつはそこに立っていた。俺は一生こいつから離れられないのかもしれない。消えない傷がいつまでも残る予感がした。

「……頼むから、もう俺に近づかないでくれ。十分だろ、もう十分、分かったから」

 俺は渾身の力を振り絞って言葉を発したが、か細い声にしかならなかった。自分の存在がちっぽけに感じる。自分の姿が醜く見える。崩れ落ちた俺は、こいつの小さな体を見上げることしかできなかった。

 そんな俺の姿を哀れむようにこいつは口を開いた。

「……近づくな、か。そうだよね、白崎君にとって僕は憎むべき存在だろうね。これだけ君を苦しめたから当然かな……ただ、一つ言っておくよ」

 そう言って奴は悲しそうな顔をした。


「それはね……………………僕も君とは話したくないんだよ! 吐き気がするのは白崎君だけじゃないんだよ! 嫌悪される対象はぼくだけじゃないんだよ! だからね、僕にとって君と話すのが何よりも辛いんだ……分かってなかったでしょ、君は。自分だけしか見ていなかったからね」

 そう言ってこいつは無言になった。俺が驚愕の表情を顔に出し、体を硬くしたままでいると、つまらないものを見るかのように目を細めた。上から見下ろすような目線が、体に突き刺さった。…………ははっ、もう笑ってすらいない。俺を貫く鋭利な眼球は、俺の体の外に向いていた。

「……この世界から君は不要なんだよ。誰も君を見ていないんだよ……だから、そのまま一生後悔するといいよ。心底そう思うよ……もう、君ともう二度と会うことはないからね…………さよなら」

 そう言って奴も立ち去った。ここから逃がさないように大きくそびえ立っていた壁が、いつのまにか消え果ていた。辺りは、乾燥し、ひび割れた荒野のように萎びていた。目に映る景色から色が消え、俺はただ呆然と宙を見つめているだけであった。



                  ▲



 いつからだろう、俺がこんな人間になったのは。ガキの頃は純粋だった気がする。カブトムシを必死で追いかけ、クリスマスにはサンタクロースがプレゼントを持ってきてくれると信じていた。親の行為全てが正しく、親が選択することが最上のものだと思っていた。

 それがいつのまにか変わってしまった。カブトムシだろうが蝶だろうが、昆虫と称されるものを見るたびに嫌悪感を覚え、クリスマスは強迫観念に支配された恋人達の集いと揶揄するだけだ。

 親を尊敬するどころか、尊敬する奴自体を軽蔑する。過去、現在、未来と大量生産された人間が腐るほどいて、そんな無限に近い中から偶然生まれただけで、尊敬できるほうが異常である。「尊敬しているのは両親です」なんて言っている学生を見るたびに「自分を客観視できる大人に近づいている自分って凄いでしょ」と、アピールするための自己陶酔に思えてならない。

 戻れるなら戻りたい。あの頃のように原っぱを走り回っているだけで楽しかった時に。

 でも戻りたくもない。何も知らずに右往左往する哀れな存在に。

 ――我ながら面倒くさい人間だ。どっちにしろ何もできないこと無能には変わらないのに現状にしがみついてしまう。やはり俺は自意識が強いのだろう。

 やらない善よりやる偽善か。以前は蔑視してやまない言葉だったが、今思うと俺よりはましなものなんだろう。「不要」その言葉が何よりもきつい。憎まれるのもつらいが、そもそも存在を認識してくれるだけ良いのかも知れない。

 ふと、沢登が頭に浮かんだ。あいつもこんな気持ちだったんだろうか。誰にも関心を持ってもらえず、自分の存在が認識できなくなってしまう恐怖。ぼんやりと何も考えることができず、ただ劣化していくだけの状態。

 ――もう勘弁してほしい。どうしてこうなったのか分からない。俺はただ何もしなかっただけなのに。 

 目の焦点が合わず、まるで砂漠に迷い込んだ気分になる。出口が見えない中で足掻き続ける自分の姿を想像してしまい、戦慄が襲う。誰でもいいから人を探すが、無限に広がる砂地が続いているだけで、完全に俺だけが取り残されてしまった。

 ――でも、だったらいいか。誰からも求められていないなら、もうこんな世界はいらない。いてもいなくても一緒なら、いっそのこと……


 

「――何やってんのよ」



 堕ちようとした時だった。急に突風が吹き荒れた。冷たい風が体に染み込むが、同時に、淀んだ空気を取っ払うような力強さがその風にはあった。

 顔を上げると、うずくまって顔を伏せていた俺の前に、その女は立っていた。

 腕を組み、堂々と佇むその姿は今まで見たどんなものよりも大きく見える。しなやかに髪をなびかせ、以前と変わらない瞳は意志の強さを表している。その期待を裏切ることなく、はっきりとした声で言葉を続けた。

「死んだ魚みたいな目をして。いつも以上に覇気がないわよ」

 そう言って、どこかやりにくそうに肩を上げた。

 俺が死人のように黙ったままでいると「といっても最近は会ってないか」と、この女、明石瞳は続けて呟いた。それでも反応がない俺を見て、大げさにため息をつきながら隣に腰をかけた。

「何か言いなさいよ」

「………」

「辛いのはあんただけじゃないんだから。いつまでもウジウジしてるんじゃないわよ」

「………」

「はあ~本当に怒るわよ」

 俺が反応がないと見ても、明石はここを去る様子は伺えない。どうやら、中川先輩のことで俺が悩んでいるとでも思っているのだろう。半分正解ではあるが、もう半分は不正解である。そして、その不正解に相当頭を悩ましていることを明石は想像もできないだろう。

 だが、先ほどの出来事からすると、明石の存在はとても不思議なものに感じた。どこか偽りのものであり、簡単に壊れてしまいそうだった。夕日が眩しく感じ、無意識に目を細める。それでも明石はそこに座り込んでいる。

 沈黙を保つのにも辛くなり、仕方なく「どうせ俺は弱虫だよ」と呟いた。

「何があったの? あんた明らかにおかしいわよ」

 明石は俺の言葉に即座に反応し、声を強めながら言った。俺が塞ぎこんでいる原因を聞きたがっているのは明らかであったが、話す気には到底なれなかった。

「……別に、何も」

 そう言うと、明石の目が一層つり上がった。

「……いい加減にしなさいよ! そんな顔して何もないわけないでしょ!」

 打ちのめされた心に怒号は堪える。そのため、相手が明石であるにも関わらず体が一瞬萎縮してしまった。……恐る恐る明石の顔を覗き込むと、意外にも、そこには予想外な表情が浮かんでいた。般若のような顔を想像していが、正面にある顔は心配そうに俺を見つめているだけであった。いつも喧しげな表情を目にしているせいか、そのギャップに戸惑ってしまう。

「……なんでお前がそんな顔してるんだよ」

 そう言うと、明石はゆっくりと口を開いた。見たことのない姿だった。

「……あんた今日、青沼と揉めたんだって。『俺を見捨てた!』って青沼が叫んで騒動になったみたいだけど」

 やはり噂になっているのか。特に明石はA組だからなおさら情報が早いのだろう。遅かれ早かれ知ることになるだろうが、明石がその騒動を知っていることにチクリと胸に痛みが刺した。今は普通に接してくれているが、明石の心境は決して良いものではないだろう。今日のような失態だけではなく、ただでさえ中川先輩の葬式にも顔を出していない。不安そうな顔をしているが、本当の俺を知ったら蔑みの目に変わることは容易に想像できる。

 ――でも、だからこそ言わなければならないのかもしれない。もう誰からも認めてもらえない俺が期待をしてはいけない。明石に縋っても結局のところ、裏切られるだけだろう。いや、裏切りではない。単に俺に失望し、見放されるだけだろう。無様な言い訳をして明石をごまかし続け、余計に心を痛めたくはなかった。

 もう言ってしまっていいのかもしれない。


「……ああ、そうだよ。俺は青沼を見捨てた」


 ――そう言った瞬間、俺の体にスーと清涼感のある風が流れた気がした。体を束縛していた悪玉が外に放出されたように感じる。何だこの感覚は?

 明石はどんな表情をしているのだろう。若干生まれた余裕から、微かに動くようになった顔を明石に向けようとすると、――いつもと変わらない、いや、普段よりも心地よい声が耳に入ってきた。

「……そっか。ねえ、あんたと初めて話した時のこと覚えてる?」

「初めて話した時? いや……」

「一年の最初に委員会を決める時あったでしょ。図書委員とか緑化委員とか楽な委員をみんな狙うけど、学級委員のような面倒臭い仕事なんて誰も立候補しないでしょ。だから、最終的に学級委員はじゃんけんで決めることになったじゃん」

「そうだったか?」俺が言うと「そうなの」と明石は言った。

「でもそれで最終的に木山君が負けてしまったの。ただ彼って分かるでしょ……人見知りな感じで、『俺が俺が』ってタイプじゃないでしょ。だから予想通り、学級委員に決まった時は顔が青ざめていたわ。どうしようって感じで。幸いなのか不幸なのか分からないけど、他の人たちは自分がなった委員について周りと話すのに夢中だったから、木山君の動揺にもほとんどの人が気付いてなかった」

 俺は木山の顔を思い浮かべたが、あまり印象にない。おぼろげに輪郭を思い出そうとするが、特徴らしき姿は浮かんでこなかった。

「でもその時、こそっと木山君に話しかけた人がいたの。そしたら木山君の表情が変わってね。私は木山君と一緒に学級委員をやるのか~と思ったら、なぜか黒板の学級委員欄にあんたの名前があったの」

 ――ああ、そういえばそんなこともあったな。薄っすらと記憶が蘇っていく。

「だからちょっと見直したのよね。誰が見てるわけでもないのにああいうことができるのを。それから話すようになったでしょ」

 そう言った後、明石は小さく笑った。だが、らしくない話をしたせいか「でもあんたサボってばっかりだったから木山君のほうが良かったけどね」と付け加えた。

 確かにその時から明石と話始めた気がする。意外にも明石は本に造詣が深く、最初の印象と反して話しやすかったことを覚えている。その後、明石に誘われて文芸部に入ることになったんだった。

「だからね。今のあんたを見てるとおかしいの。確かにあんたは無愛想で面白みもないけれども、性根までは腐っていない。あんまり認めたくもないけれども、困っている人を助けようとする気持ちを持っているしね……だから――ねえ、どうしてなの?」

 ――こいつのこんな表情を見るのは初めてだった。真剣な眼差しは、今まで受けた好奇心に満ちたものでもなく、憎しみに染まったものでもなかった。ただ、俺を心配している。

 ――こいつになら話してもいいのかもしれない。臆病な俺に間違いなく幻滅するだろうが、それ以上に話を聞いてもらいたい。惨めな自分を見られたくなかったがそれ以上に、一人にはなりたくなかった。


 そうして俺は一連の経緯を話し始めた。



                   ▲



「――なるほどね。何となく納得したわ」

 あっさりとした口調で明石は言った。

 表情はいつもと変わらず、俺が懸念していたような態度ではない。今までが今までだったために拍子抜けしてしまう。だから、俺は恐る恐る明石に尋ねた。

「……信じてくれるのか?」

 そう口にすると、明石はふうと息を吐いた。

「にわかには信じられないけどね……ただ、あんたの表情を見る限り、嘘は言っていないと思うし」

「ああ……」

 口調から動揺した様子はなかったが、何となく明石が消えてしまうような焦燥感に襲われた。こんな突拍子もない話をしたのに簡単に受け入れられる胆力。とてもじゃないが、俺が並んでよい存在なのか分からなくなった。

 そんな俺の不安に気付いているのか、明石は続けて言った。

「それで、あんたはどうしたいの?」

 明石の目はまっすぐと俺を捉え、微動だにしなかった。

「……どうしたい?」

「中川先輩のいない未来は崩壊に向かっているんでしょ。いいの、このままで?」

 未来か。ただ自分のことしか考えていなかった俺にとって、想像もしなかったことだ。特に中川先輩が殺され、目の前が真っ暗になった後はなおさらである。あいつの言葉に精神が破壊され、偽りの殻に篭っているだけだった。今まで閉じ込めていた欺瞞が一気に開放され、受け入れることは死と同義であった。

 俺は本当はどうしたいんだ。中川先輩の妹が救いを求めていたにも関わらず、俺は逃げてしまった。また、俺は逃げるのか? 逃げていいのか?

 いや、今度こそ答えを出さなければならない。

 俺は……


「……俺は、まず中川先輩の妹と青沼に謝りたい。臆病な自分を謝りたい。許してくれないかもしれないけど……学校とか社会とかそういう想像もできないことの前に、身近な出来事にけじめをつけなければいけないと思う」


 自然と言葉が口から出た。俺には自殺願望があるのかもしれない。受け入れは自意識の喪失をもたらす。自己を破壊する。徹底した過去の自分を否定する。

 しかし自分を殺さなければ、俺は自己を保てなかった。矛盾しているようだが、そうしなければ自己を破壊から防げなかった……もう逃げてはいけないと心が告げていた。

 必死に考えをまとめようとしている俺に「そう……」と呟きながら、明石は静かに続きを促した。だったら、俺は応えなければならない。

「ああ、俺は臆病で自己愛が強かった。だから、周りのことも考えずに逃げてばかりいた。他人を知ろうともせず、自分だけを求めていた。だから自分でそのことに気付かないことが、どれだけ恥ずべきことかつくづく分かったよ。何事にも興味ない振りをしながら自分だけを見ていることに気付かないなんてね、本当に笑えねーよ…………ただ、今考えても俺が中川先輩にどれぐらいの影響を与えたかは分からない。分からないけれども、あいつが心の底から恨むぐらいだ。多分俺が想像している遥か上にあると思う。おこがましいかもしれないが、俺の欺瞞が甚大な被害をもたらしたんだと思う。だとしたら、そんな俺が中川先輩のように社会を修正することなんて不可能だ」

 明石は何も言わない。

「でも、逃げていいってわけじゃない。経験して分かったが、逃げ続けても悪い方向にしか進まない。戦う覚悟のない者に未来なんて決して訪れなかった」

 今、分かった。やはり俺は蔑視していた人間だった。日本を貶め、知識人振る人間と同じだった。本土決戦を覚悟し、いざ行う直前で取り止め降伏した日本人の血が確かに俺には流れている。

 本土決戦を遂行すれば甚大な被害をもたらし、国家消滅の恐れすらある。だが、だとしても逃げたことには変わりない。特に戦死していった日本人、特に必死に戦った軍人への裏切りの誹りは免れられない。己に筋を通すのならば、本土決戦を米国としなければならなかった。

 しかし、本土決戦は行うことはなかった。あれだけ口では叫んでいても筋を通すことはできなかった。だからこそ、その事実を直視してしまうと、素晴らしいと思っていた自己が簡単に崩れてしまう。そして戦後に築き上げた虚構の繁栄が消滅してしまう。だから、日本人の多くは戦前を全否定し、戦後を無条件に肯定する。かといって、もう残りの日本人が正しいものではまるでない。単に戦後を全否定し、戦前を無条件に肯定するだけの、子どもっぽい反動に過ぎない。戦前も戦後も同じ日本人であるのに変わりがないのだが、そのことを受け入れることは自己破壊の帰結しかない。だから避ける。ごまかす。逃げようとする。自ら困難を背負う覚悟のない者は自分すら守れない。

 俺は逃げたくない。

「……でも、今以上に辛くなるかもしれないよ」

 明石の目がかすかに揺れ動いた――が、その瞳をまっすぐ捉える。俺は答えなければならなかった。明石に応えなければなかった。どんなに隠し通そうとしても躊躇や欺瞞を明石は見抜いてしまう。俺の本当の気持ちを伝えなければ言葉は絶対に伝わらない。

 その場しのぎの理屈は絶対に言いたくなかった。

「……いいよ、それでも。どうせ俺はもう人の輪から外れてしまったんだ。だったら苦しい重荷を背負うとしても、真っ当に生きていきたい。人から虐げられようが、嘲笑されようが、俺が俺であるためにも自分に嘘をつきたくない。学校や社会は滅びたるかもしれないが、死してでも守ろうとしない限り、当たり前の生活すら失われるんだけなんだ」

 熱くたぎり、引き千切れそうな心臓を懸命に押し留めながら、必死に言葉を紡ぐ。全身が火照るが、――明石は小さく笑った。

 ――俺の思いは伝わったのだろうか? 

 はにかんだ表情は、困っているようにも見えてしまう。なんだかんだで、こいつは優しいからな。幻滅されているのかもしれないと、微かに不安がよぎる。



「……そっか……そっか……じゃあ、しょうがないけど…………協力してあげようかな。どうせあんたに味方なんていないんでしょ」



 だが、明石はそう言った。

 その表情はとても優しげなものであった。憎まれ口を叩くことは相変わらずだったが、今は何よりその言葉が嬉しかった。俺を受け入れてくれる存在がありがたかった。自己を失くしてみて、自分が受け入れられるなんて思いもしなかった。

「ちょ、ちょっと。何泣いてるのよ。あんたみたいな奴が泣いたって余計に惨めなだけよ」

 自分でも気付かないうちに頬に雫が流れていた。だが、こんなみっともない姿を見せても心地良さは失われなかった。自分をさらけ出すことができることが、こんなにも温かいものだとは思わなかった。

 ただ、やはり気恥ずかしさも同時にあり「じゃあ、どうすればいいんだ」とぶっきらぼうに聞いた。明石は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに相好を崩し、自信たっぷりに言った。

「そんなの簡単。笑ってればいいのよ。あんたみたいな根暗な人間がしかめっ面してたって気味が悪いだけよ」

 涙で目が霞み、夕日と相まって、明石が眩しく見えた。

 ――そんな顔で笑うのは反則だろう。そんな顔見せられたら、一発でやられてしまう。

 だが同時に、悔しい気持ちも湧き起こり、その悔しさを紛らわすために「お前だっていつもきつい顔してんじゃねえか」と憎まれ口を叩いた。――が、俺の予想に反して、より一層、明石は得意げに胸を張った。

「私みたいな美少女が笑ったら、かえって嫌みったらしいでしょ。美人で愛嬌もあるなんて不公平じゃない。神様に逆らってでも、私は自分を否定し肯定するわ!」

 ――もう笑うしかなかった。顔を斜めに傾けながら、鼻で笑って誤魔化すしかない。本当に、こいつは……

 信じられないほど急激に視界に光が広がった。

 今まで、絆や人情といったお涙頂戴的なものは馬鹿にしていたが、初めて人の関係がどれほど大切かということが分かった気がする。テクノロジーが発展しようが、ITが革命を起こそうが、この社会は人の感情と行動によって成り立っているのには変わりない。人は社会でしか生きられないことが初めて実感できた。

「悪いな、明石。巻き込んで」

 自然と言葉が溢れてくる。何を考えることなく、自分の思ったままの言葉を発することができる。それが、とてつもなく心地よい。

「べ、別にあんたのためじゃないわよ。私だってこのままでいいなんて思わないからね。知ってしまったからには逃げないわ」

 そう言って、明石はぷいっと顔を背けた。……いつものこいつだ。

 久しぶりにこんな会話をした気がする。働かなかった脳が急激に動き出し、視界が広がっていくのが分かった。もっと話をしたいという欲求が止まらない。

「あんたはゆっくりと一歩一歩進んでいけばいいのよ。すぐに許してもらえることはないかもしれないけど、いつかは分かってくれるわよ。学校云々はそれから考えればいいと思うわ……しょうがないから、それまで支えてあげるから」


 夕暮れの春の空には、赤く染まった雲がゆっくりと流れていた。握れば今にも壊せそうな様子にも関わらず、悠々と漂うその姿は決して消えそうにもない度量を感じさせた。もう崩壊は止められないのかもしれない。失望の瞳は変わらないのかもしれない。

 しかし、不思議と諦めようとする気持ちは消えようとしていた。


                   2章「崩壊」(終)3章「反撃」に続く


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