3話 マッチポンプ
「何だか凄かったね」
文芸部の部室に行くと、一つ年上で部長の中川静先輩が声を掛けてきた。
「ほんと、とんでもないですよ」
あの後は、大変な騒ぎとなった。
結局、生徒の熱狂に包まれた状況を必死に教師が押さえつける構図となったが、なかなか止まらなかった。高坂は生徒投票で決めることをマスコミや政府に通知文で送ると告げ、これには教師陣が激昂した。
生徒投票で支持されたとしても、あの提言を実現できるとは高坂も考えていないのだろう。だが、社会全体を巻き込むことによって実現することは不可能ではないと考えたのかもしれない。特に社会を覆う空気を味方に付けることができれば、可能性はあると踏んだ。到底無理な提案だと思うのだが、その算段がないままで、あんな馬鹿な真似はしないだろう。
結局、学年集会は混乱状態のまま終わった。急遽、職員会議が行われるとのことで今日の授業は全学年中止となり、解散となった。
「白崎君はあの騒動、どう思う?」
中川先輩がインスタントコーヒーの入ったカップを俺の手元に置きながら、言葉を投げかけた。俺が作ると泥水のようで飲めたものじゃないのだが、中川先輩が作ると不思議と旨かった。単なるインスタントなのに、こうも違うとは何か細工でもしてあるんじゃないだろうか? 湯気が立ち上るカップに手に取りながら答えた。
「まあ、俺の印象としては、危ないって思いましたけどね。不穏な感じっていうか、何か胡散臭い。でも高坂に熱を上げる生徒も結構出てくるんじゃないですか」
「顔も端正だし、あのしゃべりだもんね。人気出ても不思議じゃないよ」
「へえ、中川先輩もそう思うんですか?」
そう言うと、中川先輩はきょとんとした顔をした。
「私? 私は違うよ。自ら人前に立とうとする人はちょっと苦手かな。よくあんな大変そうなことできるなって思っちゃって、かえって萎縮しちゃう」
「いやいや、中川先輩だって、輝かしい伝統ある文芸部の部長じゃないですか。負けてませんよ、たぶん」
真顔で俺がそう言うと、中川先輩は上品に口元を手で押さえた。
「ふふ、何言ってるの。君も含め部員三人しかいないのに」
「いや、常識人の俺はともかく、猛獣のように暴れまわる奴を管理できるだけで立派だと思いますよ」
「猛獣って瞳ちゃんのこと? あー言ってやろう」
どうぞお好きに、と余裕しゃくしゃくの表情でカップに口をつけると、中川先輩は急に真剣な表情となった。
「でも、本気でまずいかも」
「まずい?」
「うん。白崎君、『1984年』って小説知っているでしょ?」
「1984年? ジョージ・オーウェルの?」
唐突な言葉に一瞬、返答が遅れてしまった。俺が怪訝な顔で答えると、中川先輩は言葉を続ける。
「そう。その登場人物に『ビックブラザー』っていう独裁者が出てくるじゃない。何だか、高坂君を見ていると連想しちゃって………」
そう言った中川先輩の表情に影が差した。心優しい先輩のことだ、同級生を悪く言ってしまった嫌悪感も混じって、言葉が続かないのだろう。
「でもあの小説って、旧ソ連を連想させる管理社会や全体主義を揶揄したものですよね。高坂が、壊れた玩具のように連呼していた自由な学校とは違うんじゃないですか?」
『1984年』ほど有名な政治小説はないだろう。世界中で、今もなお多大な影響力を与えているオーエルの代表作だが、その登場人物、ビックブラザーと比べれば、高坂にその器があるとは思えない。
「……そうなんだけど、何か高坂君の態度と、あの会場の熱狂の空気が……どうも結びついちゃって……」
うまく表現できないようで、中川先輩は必死に言葉をまとめようとしている。
「うーん、まあ先輩の言うことも分かりますよ。俺もなんか違和感ありますし」
高坂のあの異様な言動と明らかに計算された演説を鑑みるに、意図的に会場を煽ろうとしていた。となると、崇高な目的を持った単なる善人には到底思えない。大体、進んで人前に立とうとする奴にろくな人間はいないのだから、そうも疑いたくなる。
「高坂って普段はどんな感じなんですか?」
ふと、思いついたことを口に出すと、高坂先輩でしょ、と中川先輩に窘められた。
「私も同じクラスになったことがないから良く知らないけど、あんな演説できる人だとは思わなかったわ。成績は常に上位で名前と顔ぐらいは知っていたけど、目立つタイプの人だとは全然……」
ふーん、それでよく会長に立候補しましたね、と俺が言葉を挟むと、中川先輩は大きく頷いた。
「そうそう、だから今回、生徒会長に立候補した時は、ちょっと驚いたのよ。えー、そういう人だったんだって。まるで別人に見えたわ」
口元に左手を当てながら、中川先輩は少し興奮気味な声を出した。
――別人か。しかし、人の根本は変わろうと思っても容易に変われやしない。記憶喪失にでもなって過去を否定できれば別であろうが、それでも無意識のうちに自己は形成されている。認知症により記憶が消えてしまっても、潜在している感情がいつまでも消えないのが良い例である。それこそ高坂が別人だと話が早いのだが、イケメンのそっくりさんがそう何人もいるわけないだろう。
ぼんやりと思いながら、コーヒーカップを口につけた時に、突如として扉が勢いよく開いた。肩に掛かるほどの髪を大きくなびかせ、活発な印象を与える勝気な目が視界に入った。その印象を覆すことなく、ずんずんと俺の前まで歩いてくる。
「白崎~、よくもサボったわね!」
何のことだ? と一瞬考えてしまったが、そういえば委員会の雑用をこのつり目の女に押し付けていたことをすっかり忘れていた。
俺の表情を読んだのだろう。「今、思い出した!」という顔を見て、この女、明石瞳はもの凄い形相になった。
「何で私だけが体育館の掃除をしなければならないのよ。『白崎君なら気分が悪いから明石に任せたって言ってたよ』って他の子が言うし」
「……悪いな、部室の掃除があったんだ」
言い訳が思いつかず、俺が開き直って答えると、「そのゴミみたいな性根を掃除したら」と声を荒げ、乱暴に鞄を置いた。その振動で、机に置いたコーヒーがこぼれそうになってしまい、慌てて手で押さえる。だが、熱々の水滴が少し手にこぼれてしまい、悶絶してしまう。
なんて攻撃的な女だ、と嘆くと、本当にゴミを見るような冷たい目線が俺に向かっていた……本当に殺しそうな目つきである。誰だよ、この女に仕事押し付けたのは。
「死ね」
明石は美しい言葉を吐いた後、百八十度表情を変え「こんにちわ、中川先輩!」と、挨拶をした。ある意味、清清しい。
「人によって態度を変えるとは最低だな」ボソッと呟くと、「あんたはそもそも真っ当な人間に値しないのよ」と冷たく言われる。が、その声とは対照的に、体から熱気が溢れていた。灼熱の炎で木製の椅子が燃え上がるのではと思ったが、明石は気にも留めることも無く、勢いよく席についた。
「ふう、……ああ! それで大変なのよ!」座ったと思ったら、机を両手で押した反動を利用しながら、また立ち上がった。
「ばたばたと忙しい奴だな。もう少し落ち着いたらどうだ」と、今度はコーヒーを守りながら口を開くと、「そもそもあんたのせいで忘れたんじゃない!」と甲高い声が上がった。
――本当にけたたましい。
間髪を容れずに、明石は、強引に俺と中川先輩の間に体を入れ込ませた。
「これ見て。学校掲示板とかツイッターが大変なことになってんの!」
そう言って明石は、スマートフォンを俺たちの前で開いて見せた。
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蒲焼太郎 十月一日 高坂やべええええええええええええええ
田中さんプラザ 十月一日 学校に行く意味ないんじゃね~、何なのあ る体たらくwww
Mkgufcij 十月一日 教師は低脳
+エクスリバー+ 十月一日 でも、会長の言うことは最もだと思うよ。 今の学校教育現場なんて不祥事だらけだし。
俺たちが改革しないと腐った世の中なんて
変わらない。
正義の鉄槌ll 十月一日 視ね死ね市ね詩ね士ね詞ね史ね視ね死ね市 ね詩ね士ね詞ね史ね視ね死ね市ね詩ね士ね
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「……凄いね、これ。学校裏サイトっていうもの?」
中川先輩が目を見開いてそう呟いた。
「書き込み数も物凄いな、学校への罵詈雑言の嵐だ」
「そうなの! どこもかしこもこんな感じで、何だかこのままだと歯止めが利かないんじゃないかな……」
確かに、猛烈な勢いで書き込みが増えている。まるで不衛生な場所に虫が沸くような気持ち悪さで文字が増殖していく。こんな狭い空間で、これだけ能動的に活動する人が多数いることが不思議に感じる。
匿名の弊害なのかは分からないが、ネット上では人の気分を高揚させる。大の大人でもそうなのだから、状況に流れやすい若者は尚更である。そのため、ネット上で犯罪自慢をしたり、よく知りもしない芸能人のブログを荒らしたりすることは度々起こる。
そうなると、刺激に対する反応ではないが、瞬間的に起きた事件に対して即座に飛びつく奴は、ほとんど反射に近いものであろう。熟慮する暇などなく、その時、その場所での気分で書き込んでいくだけであり、結果として間違いを起こす。
俺は、自分の頭で考えて発言しようとすればするほど考えが修正されてしまうので、簡単に書き込むことなんて到底できない。文芸部ならではの職業病と言うべきか、些細な表現や言動にこだわりを持ってしまう。だから、ある意味、簡単に書き込める奴が羨ましい限りであるが……。
「一時の感情に流されることなんてよくあることだろ。別に俺たちに関係ないし」
俺が投げやりにそう言うと、中川先輩が口元に手を当てながら考え込む仕草をした。
「……そうなのかな? 高坂君が主張していたことって、この学校の根幹に関わることなんだよ。このまま熱狂的に支持されれば、あの提案が実現する可能性だってあるかもしれないし」
「でも、提案自体は正論の部分があるんじゃないですか。向上心のある人が頑張れる環境を作ることは大切ですし」
明石もそう反論すると、中川先輩は少し顔をしかめた。
「そんなんだけど、内容が極端でしょ。実力主義を過度に助長するような提案だったから、後々大きな問題に発展しそうな気がするの」
そう言って中川先輩は押し黙ってしまった。いつもなら、空気を乱すことなく場を和ませる人なのだが、今日は少しおかしい。
中川先輩の真剣な空気を呼んだのか、明石がスマホをいじり、何かを検索した。
「……確かに、先輩の危惧も分かるかもしれない。ほらこの書き込み見て!」
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シュナイダーX 十月一日 高坂会長の信念が教師に弾圧されることを防ぐた
め、我々は立ち上がらなければならない。
そのためには共に戦ってくれる仲間が必要である。
私のようなごく普通の学生でも会長の力になり学校
生活の改革のため、同士を募集する。詳しくは次の
ブログで説明するので、希望する者は進みなさい。
htttps://www.kyoudaikokodousinokaico.jp/
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ずいぶん偉そうな文章だなと思ったが、明石は躊躇いもなくリンク先に飛ぶと、仰々しいサイトが画面一杯に現われた。
黒と灰色をベースとした怪しげな雰囲気を漂わせつつも、文字やデザインの配置を丁寧に施している。「兄弟高校同士の会」と上部にでかでかと表示されているが目立っている。
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兄弟高校同士の会
設立目的
低迷から抜け出せない日本の現状。年金や介護といった社会保障費が膨れ上がり、若者の未来は暗い。そんな若者の惨状を見てもなお、状況は何も変わらない。
だとすると、我々学生の力を駆使して未来を切り開いていかなければならないのである。
1889年のフランス革命では、何の権力もない一般市民が立ち上がり、自由・平等・友愛・人権・民主主義を確立した。ならば、我々一学生が立ち上がっても社会は変えられる。
そして、そのきっかけを高坂翼生徒会長が作り上げた。僕たちに希望を与え、退屈な毎日を壊すため今こそ前に進むのである。
いまこそ我が同士達よ、立ち上がれ! そして学校を変革していこう!
改革のための提言
①学力テストによる絶対評価
~平常点の廃止と学力テストによる成績評価~
②学力成績によるクラス編成
~中間テスト・期末テスト等の学力試験の点数によって、進級した際のクラスを決定する~
③ビジネス教育の導入と英語教育の強化
~美術・音楽・家庭・体育・情報といった副教科の必修を廃止し、社会に出ても活用できる新たな教科を導入する。(案)ビジネス英語、株式教育・IT教育(情報教育の拡大版)・経済学(マクロ、ミクロ)・法学(民法・商法・刑法・憲法)を導入する~
④服装、髪型の自由化
~制服着用義務の撤廃、茶髪、ロン毛といった髪型の自由化~
会員資格
兄弟高校の学生(ただし、教師からの圧力から守るため、会員の個人情報は秘匿する)
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「……凄いな、こんなサイトまで出来てるなんて。まだあの騒動から数時間も経ってねーぞ」
俺が苦笑いしながら口を開くと、中川先輩の表情がますます陰鬱なものになる。
「まるで新興宗教のような雰囲気よね。自分の考えに一直線に進んでいる感じ」
自分で開いておきながら、この熱狂ぶりにドン引きしたようで、明石は体をぎゅっと抱えた。
「でも、この内容は支持する人がいることも確かよ。だからこそのあの異様な盛り上がりだし……」
確かにネット上だけではなく、高坂を称える声が体育館のあちこちから上がっていた。冷静になってみれば、あんな演説だって世間知らずのガキの戯言だと片付けられることだが、場の空気が支配する影響力と学生特有の馬鹿騒ぎが相まって、もっともらしく聞こえてしまった。いつの時も、未熟ゆえに理想を追い求め、極端に流れるのが若者の特徴であろうし、それは、情報社会の到来によって、知識の収集が容易になっている現在でも変わらないだろう。
いや、簡単に情報を集められるからこそ、世の中を知ったような気になって、既存の仕組みを叩きたがるのだろうか。
「ただ、こんな過激なサイトに熱中するのなんてごく少数だろう。どうせ大半は酔いやすく醒め易い奴らだ。そのうち面倒臭くなって飽きてしまうじゃないですかね」
俺がそう言うと、明石の奴も珍しく俺に同意した。
「そうね、私も体育館で会長の演説を聞いたときは『すごいな!』なんて思っちゃったけど、冷静にこういうサイト見れば、やっぱり危ないって思うしね」
「特にネットでは過激な表現が目立つから、皆が支持してるように感じるしな。実際には、面白がってるのがほとんどだろ」
俺と同じく明石も大した問題と捉えていない感じで発言しているが、中川先輩の表情はまだ硬いままである。
「そうだといいんだけどね。私の考えすぎかもしれないけど、ちょっと不安なの」
過剰な心配は、物事を知らない、若しくは得体の知れない何かに怯えることから来る場合が多い。とすると、中川先輩の心境もそうなのだろうか? 聡明かつ博識であり、いつも落ち着いている中川先輩を見ているので、今日の言動には違和感がある。
「……あれですよ。中川先輩は、明石と違ってこういう下品なサイト見ないから、免疫が出来てないんですよ。アレルギーの経口免疫療法みたいに、ちょっとづつ試すのがいいのかもしれませんね」
「馬鹿じゃないの」明石は冷めた目で俺を一瞥したが、その様子を見て中川先輩はクスクスと笑った。
「何か瞳ちゃんと白崎君を見ていたら、大丈夫かもしれないね。それなりにみんな落ち着いているし」
そう言って中川先輩は笑みを作っていたが、表情は和らいでいなかった。
▲
朝、教室に入った後、喧々たる話し声に包まれていた。
普段と違い、好奇心に満ちた表情を出しながら、同級生と会話している奴らが多く見受けられる。今日は何かイベントでもあったかと一瞬考えるが、特に何も思いつかなかった。中身のほとんど入っていないバックを机に下ろし、辺りの様子を伺うと、甲高い声が聞こえてきた。
「だから、マジだって! 高坂先輩がテレビに出るんだって!」
「え~うっそ! 何で出るの~」
高坂がテレビ? どういうことだ? 無意識に、発言した女の方に首が動いてしまった。女子生徒数人で盛り上がっている姿が見える。両手で顔を押し付け、大げさな反応をしていた。キョロキョロと首を動かし、落ち着きがない。
その女は、周りの生徒に聞かせるように、なお声を張り上げている。チラチラと辺りを見渡しながら得意げに話す様子は、まるで自分に光が当たっているように感じているのかもしれない。そんなことはまるでないのだが、当の本人は全く気付いていない様子だ。
俺には関心がないだろうが、こいつの思惑に乗るのも癪なので、視線を逸らし興味を失った様子を出す。そのまま「随分な騒ぎだな」と、近寄ってきた奴に声を掛けると、「本当にね」と、明石は眠そうに返してきた。後二時間ほどすると、耳を覆いたくなるほどの喧しい声を上げるのだが、どうやら朝は滅法弱いらしい。こんな調子がずっと続けばよいのにと、しみじみ思ってしまう。
「今日の夜九時から『テレビ夜日』の討論番組に出るんだって! やばい! まじで録画しちゃおう!」
顔を背けているにも関わらず、キンキンの声が耳に入ってくる。何が〝やばい〟のか、さっぱり理解できないが、その連中は実に楽しそうだった。
しかし、テレビか……。疑念は深まるばかりだ。
本当にマスコミや政府に通知文でも送ったのだろうか? あの現実味のない提言を? 普通は有り得ない。いや、それよりも、たかが高校生の稚拙な主張にテレビ局が反応するものなのかが理解できなかった。近年では、ただでさえ視聴率の低迷で悩んでいるテレビ業界だ。得体の知れない高校生を出すほど落ちぶれてはいないだろう。視聴率が取れるとなれば、過激な内容でも放送するだろうが、高坂の主張にテレビ受けするほどの斬新な面はない。弁も立つのも確かだが、ただそれだけである。出演させる理由が見つからない。何故か――。
状況が全く読み取れなく、この日の授業はいつもに増して集中力を欠いていた。
学校が終わり自宅に戻る。バックを床に放り投げる。乱雑になっている部屋を気にもせず、椅子に腰を掛けることにした。時刻は九時を少し回っている。噂では、高坂のテレビ出演について教師陣も寝耳に水だったそうだ。例の演説もあり、高坂にとってみれば当然反対される可能性が高く、出演を隠すだろうが、普通はテレビ局から学校に連絡するだろう。……全くどうなってるんだ。
リモコンが見当たらなく、本体部分の電源ボタンを押すが、――電源が入らない。一瞬、故障か? と不安を感じたが、……どうやら違ったようだ。ほとんどテレビなど見ないために、電源コードを抜いたままだった。電源コードをコンセントに繋ぎ、再度電源ボタンを押すと、電源ランプの色が緑色に変わった。
「――兄弟高校で生徒会長をしている高坂翼と申します。本日はよろしくお願いします」
ボタンを押してから数秒遅れ、画面に見知った顔が表示された。その端正な顔立ちは、一度見たはずなのに、目を惹きつける形容しがたい雰囲気を漂わせている。
どうやら出演者の自己紹介をしているようだ。高坂の簡単な挨拶の後、会場から拍手が起こる。中年ばかりの男性陣の中で、ただ一人、高校の制服を着用しているためか、やけに映える。騒がしい会場内の雰囲気と一線を画していた。
「今回は、皺と白髪が目立つオジサン達の他に、こんなイケメン君が登場してくれました! オジサン達の口喧嘩にも辟易していたので、……まあ大興奮!」
五十代ほどの司会の女性がそう言うと、会場から笑い声が上がった。出演者の男性陣は、わざとらしくしかめっ面を作っている。その中の一人が、「あんただって、ほうれい線が目立つオバサンじゃないか!」と、大げさな表情を作りながら反論し、場を盛り上げている。テレビ慣れしているからこその行動であろうが、その軽薄さに不快な気分になる。こんな番組ばかりが世間を賑わせていると考えると、――将来は暗いな。部屋には誰もいないが、小さく舌打ちをして抗議する。
一方、高坂はというと、困ったようにはにかんでいるだけである。普通に考えれば、慣れないテレビ出演に戸惑う高校生と勘違いしてしまうが、おそらく計算しているのだろう。その初々しい様子は、かえって視聴者に好印象を与える。
「まあまあ、雑談はこれぐらいにして、本題に入りましょうよ。今回は、特に重要な時期の放送ですからね」
その男、大津武彦は灰色の背広を身に纏っていた。政治に無知な俺でも分かる人物だ。保守党の有力議員達と深く関わりを持ち、テレビ出演も頻繁にしていた。机の上で手を組むその姿勢は、軽薄さとは無縁に感じる。腕時計には詳しくないが、会場の照明を独占するように銀色に輝く装飾品は、その印象を一層深めていた。
「大津さんにとって、そりゃあ重要な時期でしょう。保守党のブレーンとして、議席を少しでも多くとっておきたいだろうからな!」
どこかで見たことがある顔だ。……議員だったか?
「僻みはよくないですよ、石山さん。改革党にとっては面白くないと思いますが、一番困っているのは国民なんですからね」
司会の女性がそう言うと、その男は、露骨に顔をしかめた。髪の毛は真っ黒だったが、皺とシミが目立つ。あまり良い印象を与えない顔だ。が、見覚えはあった。
――ああ、こんな奴もいたな。頭にピンと針が刺さった気がした。どこか見覚えがあると思ったら、改革党の衆議院議員、石山伸俊だった。大臣経験もあったはずだが、確か、失言で大臣を辞任することになったとの記憶が頭に浮かんだ。だが、内容はいまいち覚えていない。失言で辞職に追い込まれたのは、石山に留まらない。就任したと思ったら、すぐに不祥事を起こしてすぐさま辞任する。それが改革党だった。もう議員全員が大臣に就任するのでは、と思うほど目まぐるしく人物が変わり、まともに職務を遂行した者は皆無だろう。
「確かに私達は責められる立場にあるかもしれませんが、それは保守党も同じでしょう。保守党の負の遺産を受け継ぎながら、我々は懸命にやってきたんですよ!今週末に総理は解散すると言いましたがね、我々には圧倒的に時間が足りなかった」
言い訳がましい。あれだけの政治的失態を起こしておきながら、よくもまあ言えたもんだ。が、その根性は、むしろ感嘆に値する。
だが、もう潮時だろう。当初はマスコミの絶大な支持の下に、改革党は好き勝手振舞っていたが、手のひらを返したかのように、各報道機関は攻撃に転じた。あの熱狂的な盛り上がりはマスコミの責任ではと思うのだが、彼らは決して反省することはないだろう。
欺瞞に満ちた圧力に押し潰される中で、内閣総理大臣、野中達郎は今週末に衆議院を解散すると宣言した。
「まあまあ、あまり熱くならないで。大事なのは国民の生活、そうでしょう?」
そんな石山を抑えるように、大津が発言した。いつの間にか、肘を机の上に置き指を組んでいる。その優雅な仕草は、石山の風貌をひときわ不透明にした。
「確かにそうだ。でも、保守党にできるのかね。改革党は本当に酷かったが、それは保守党も同じだろう。この前の三党合意では、消費増税を決めた。昨年も上げたばかりなのに、再度、増税となると、国民に対する裏切りとなるんじゃないのかな?」
が、すかさず、また別の男が発言した。テレビの画面下に、その男の経歴が表示される。ずらずらとご立派な肩書きが並び、――評論家、社会学者、丸谷隆夫。東洋新聞記者、同社論説委員を経て、H大社会学部教授。
「消費増税は将来世代に負担を強いないためにも必要不可欠です。加えて、財政規律を正さない限り、長期金利が上昇し、国債が暴落する恐れがある。家計の資産は千五百兆ほどありますが、国家の借金はついに一千兆円を超えました。先延ばしはできないのです」
大津が反論する。適度に手を交えながら、しっかりと相手を見据える瞳に弱さはない。保守党の党首の懐刀と称されるだけの威厳が感じられる。
「また、過去の保守党の政権運営に対し、国民から激しい批判があったことも事実です。そのため改革党に政権を奪われた。……でも、だからこそ、私は保守党を改革するために、ここにいる。既得権益を壊し、抜本的に保守党を変え、日本の政治を転換させるために、真摯な政治を行いたい」
臭い台詞だ。が、大津が言うと自然に映る。嘲りの視線は会場にはない。
何か方法をあるんですかと、司会の女が問いかけると、立て板に水のごとく、大津は言葉を続けた。
「現在の日本には『自由』が足りない。規制に縛られ、思うように行動できないことが多いのです。例えば、医学部の新設ですが、ここ三十年以上も行われていないんですよ。70年代に沖縄の大学に新設されたのが最新です。医師不足で困っているのに、信じられないでしょう?」
そこで、また別の男が口を開いた。元M県知事、宇野道貞。細身だが、眼鏡の奥に秘めた眼光鋭い眼差しは、なかなかの迫力がある。
「ただ、安全基準の問題もあるでしょう。簡単に医師免許が取れることになると、国民の生命や身体に悪影響を与えてしまう。確かに今は医師不足で悩んでいますが、それで安易に医師を増やしては本末転倒でしょう」
「確かに、その懸念もあるでしょう。ただ、現在の日本社会はあまりに規制が多い。そのため、若い世代が新規参入するのも難しく、起業率も他国と比べると低いという問題もあります」
若い世代と言った時に、大津は高坂を一瞥した。その合図を受け取ったかのように、司会の女が高坂に目を向けた。
「高坂君はどう思いますか?」
そう問われた時、会場に先ほどとは違う空気が流れた。異例の出演ということで、一般の高校生が何を喋るのか興味があるのだろう。騒々しかった奴らが、連携するように口を閉じた。艶やかな肌を晒している高校生に皆の視線が集まった。
だが、その雰囲気を気にも留めることなく、その〝高校生〟は口を開いた。
「そうですね。僕も大津さんの意見に同感です。今の社会には規制が多すぎる。自由がなく、活力がなくなり、倦怠感に包まれてしまう。雁字搦めのルールの中では、個人の能力や才能を伸ばせないし、不満が溜まっていく側面があります。その溜め込んだエネルギーが外に向けばよいのですが、中々上手くはいきません。これは、――僕が通っている学校も例外ではありません。……だから、自殺が起きた」
おい、何を。
そう思ったが、画面上に映るその端正な顔に変化はなかった。そして、その意味深な言葉を待っていたかのように、大津が「どういうことかな?」と問う。
「個人名は本人の名誉のため出しませんが、僕の通う高校で一人の生徒が飛び降り自殺を行いました。悲しい出来事でしたが、そこに彼女の切実な訴えが残っていたのです。彼女は日記をつけていましたが、そこには『つまらない』『退屈』『縛られた生活』『自由がない』などと、書かれていたのです。僕はこれが日本を覆う深刻な問題を現していると思います」
無意識に、眉間に皺が寄った。……いいのか、こんな話題を出して。あの事件は、マスコミが飛びつくような不祥事ではない。が――厄介な面がある。突如として教室で発狂し、屋上から飛び降りた。そんなケースは稀であろう。漫画などではあるかもしれないが、だからこそ目を引く。マスコミが取り上げることで火がつく恐れがないとも限らない。
ここで発言することで思わぬ事態に発展することだってある。
――いや、それが狙いなのか?
「……なるほど。つまり要約すると、彼女は締め付けられた学校の中で生活していたからこそ、自殺へ繋がったということだね」
まるで教師と生徒のように、大津が高坂を補助する。間髪いれずに、「そういうことです」高坂が答えると、大津は小さく笑みを浮かべた。これは――。
「今の話からも分かるように、日本の社会にはしがらみが多すぎるのです。そのため、特に若い世代の活力が奪われてしまっている。現に、大企業を対象にした経済団体協力会の調査では、最近の若者の特徴として、『覇気がなく、リスクを取る者が少ない』と答えたケースが最も多かったのです。これも、日本社会の弊害を如実に表しているものと言えるでしょう。規制の多さが若者のやる気を奪っているのです。だから、日本には自由がないとの結論が導き出せるのです」
読めた気がする。だから高坂を呼んだのか。利用できると考えたからこそ、高坂を出演させた。どんな手を使ったのか不思議だったが、高坂の方も抜け目がない。誰がどの程度の力を持ち、何を望んでいるかを的確に判断した上で、大津に近づいたのだろう。二人の思惑が一致し、結果として、この討論だ。
あの時と同じだ。急に寒気が襲ってくる。その不安を深めるように、大津と高坂は沢登の自殺の話を続けている。今まで波風立たずに海は凪いでいたが、曇天の鈍い空に変わり、頼りない船は暗礁に乗り上げる。羅針盤は壊れている。そんな光景が脳裏に浮かび、心が波立った。
気味が悪くなり、テレビを消すが、現実はもう止まらないのか? ……今さら蒸し返してどうする。そんなことをしても混乱が起こるだけじゃないのか?
本当に俺には関係ないのか?
ドン。部屋の窓が強風で音を立てた。音の鳴った窓に向かう。カーテンを開け、暗闇を見つめた。風はなかった。
剣呑な思いを胸に、毛布に包まったが――その悪い予感は当たることになった。
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例のテレビ番組は、兄弟高校に衝撃を与えた。
その後も、番組の中で兄弟高校に対する議論が続いたらしいが、すぐに議題は別の話題に移った。世間的にも、重大な論点は衆議院の解散についてだ。石山を筆頭に、目立ちたがり屋ばかりがいる中では、高坂に発言権はほとんどなく、大げさな身振りを交え、声を張り上げる知識人達による、保守党と改革党の是非を問うものに変わった。
だが、テレビが与える影響は今なお強い。インターネットの普及で、テレビ離れが進んでいる現状を以ってしても、数百万人以上の国民が視聴している。数分ほどしか取り上げられなかったが、沢登の自殺に対して、兄弟高校に取材が殺到した。
社会の歪みが生み出した産物。そんなことを言い出す評論家も続々と出てきた。
俺の懸念を覆すことも無く、突如として発狂し、現実で屋上からの飛び降りが起きたという衝撃と、社会全体を覆う空気がぴたりと当てはまったのが原因なのか、彼女の自殺の衝撃は、再燃するように、全国ニュースで連日流れるほどの話題にまで発展した。ただ、いくら衝撃的な事件といっても、自殺直後は特別注目されるほどの出来事ではなかった。故意に話題にさせられたのは明白だった。
利用されたのだ。
あのテレビ番組に留まらず、沢登の自殺は、衆議院選挙の戦略に使われた。世界的な経済危機、大規模な自然災害、与党である『改革党』のあまりに酷い政権運営が相まって、旧政権『保守党』が与党の座を取り戻すことが有力視されていた選挙ではあった。改革党が議席を大きく減らすことは確実だったが、保守党が参議院での議席の過半数を占めていない以上、衆議院選挙で議席を多く確保することは保守党にとって死活問題だった。現政権を批判しながらも、旧政権の古い体質のイメージを覆す目的もあったのだろう。保守党の打ち出したスローガンは「取り壊す」であった。
曰く「既得権益を打破するために岩盤規制を取り壊す」
曰く「国家のしがらみから個人の自由を守るため、大きな政府を取り壊す」
曰く「国際競争力を高めるために、国境の壁を取り壊す」
「規制緩和」、「小さな政府」、「開放経済」の三本柱を掲げ、結果として、保守党は衆議院議席の三分の二を占めるほどの圧勝となった。また、保守党のブレーンである大津武彦は、選挙期間中、彼女の自殺を巧妙に利用した。
「彼女の死と社会全体を覆っている閉塞感は無関係ではありません。80年代以降、欧米は自由化を急速に進め、繁栄を築き上げました。その成果もあって、90年と比較してアメリカの名目GDPは3倍弱までに成長しましたが、日本のGDPはどうでしょうか? 結果はご存知のとおり、ほとんど成長していないんですよ」
例のテレビ番組と同様に、洗練され、流れるように話す大津の仕草は、見るものに好印象を与える。
「そうなのですか。ですが……それが彼女の死と何が関係あるのでしょうか?」
アナウンサーが首を傾げながら質問すると、大津は淀みなく口を動かした。
「日本全体を覆っているしがらみが強すぎるのです。そのため個人の自由が奪われている。そして不自由の極みは思考の停止をもたらします。行動できることが限られてしまうので、刺激が薄れてしまうのです。これは非常に良くないことであり、倦怠感を招き、生きる活力を失わせます」
ほうと、アナウンサーがわざとらしく息を吐いた。
「なるほど。つまり学校という鳥かごに閉じ込められたからこそ、彼女の選択の自由を奪い、自殺に向かわせたとのことですね」
「そうです。彼女の部屋から出てきた日記にも、束縛された毎日が嫌で嫌で退屈であるとの記述も見られます。だからこそ、彼女のような社会の犠牲者を出さないためにも、個人の自由に寛容な社会を作り上げる必要があるのです。刺激を与え、自発的に競争を活性化させることで、行く行くは日本経済の成長にも繋がるのです」
大津は、テレビ、新聞、雑誌に登場するたびに、繰り返し繰り返し同様の発言をした。『自由』この言葉を強調し、最も守られなければならないことであり、重要であると。また、大津に呼応するように、保守党議員も同様の宣伝を徹底的に行い、世論を喚起していった。結果として、その戦略が保守党の圧勝に繋がったとされている。
しかし、この主張に反発はなかったのか? 社会の構造は複雑化し、様々な利害関係、圧力団体がひしめき合う現代において、既存の仕組みを取り外すことは容易とは考えられない。抵抗が起こるのはごく自然なものと思われる。
ただ、結論だけ先に述べると、反対意見はほとんどなかった。いや、あったのかもしれないが、マスメディアに登場する政治家・評論家・学者・エコノミスト・コメンテーターといった知識人の多くは『改革』という主張を支持した。
物価が継続して下落するデフレーションが15年以上も続き、それに付随するように国民の平均給与は下落していた。そんな最中に起こった世界的な金融危機は今もなお尾を引いている。
それに追い討ちをかけるように、1000年に一度と言われる大地震が日本列島を襲い、1万人以上の死者を出した。公共事業費を大幅に削減し、土建業者が大量に倒産している現在において、復旧すらままならない状況が続いている。
軍事的にも経済的にも米国の信用が失墜し、覇権国家としての体制が揺らいでいる。その隙を突くように中国の台頭し、日本に露骨な圧力をかけてくるが、軍事費を削り続け、米国の軍事力に頼りきっていた日本人になす術はなかった。
政治・経済・安全保障の崩壊が剥き出しになり、社会の閉塞感がより一層高まっている現状。そんな時に求められるのは、社会の抜本的な改革しかない。そのため、改革を掲げる『保守党』の主張を拒む知識人はほとんどいなかった。
前政権であった『改革党』はどうかというと「前政権からの脱却と既存の思考に囚われない抜本的改革」を柱にし、政権の座に就いたために、保守党のスローガンに対し明快に反論することはできなかった。『改革』に重点を置いている以上、根本は同じであった。
そのため、古い規制を槍玉に挙げ、既存の規制を悪とする、知識人の多くの言論によって、彼女の死は不自由に付随するものとの認識が出来始めた。
ただ、冷静に考えてみると、彼女の自殺は歪んだ社会の産物であったかは不明である。
しかし、不明であるが、――不明だからであろうか? 社会全体を覆う空気は、自由を求める改革に染められていった。
そして、俺にとって決して忘れることのできない、――最悪の事件が起きた。




