19話 顔のない独裁者
青沼紀夫は、居間に置いてあるテレビの前で、思わず脱力してしまった。体に力が入らず、自分の体ではないように感じる。震えが止まらない。
最初は、卑しい感情でテレビを見ようと思っただけであった。白崎の惨めな姿を見物するために、テレビを点けただけだった。どうせ、大したことも言えないままに会場の奴らから攻撃されるだけだと思っていた。あいつに人前で論戦を挑む度胸があるとは到底考えられなかった。
だが、ニヤつきながら見ているにつれて、顔が強張っていった。生徒会側に対して、必死に戦おうとするあいつら、いや、あいつの姿は、決して笑えなかった。明石と一年の女は、百歩譲れば分からないこともなかった。あれだけ頑張ろうとする姿は、明石の性格や、一年の女の境遇を考えれば、納得はいった。
だが、白崎の姿は信じられなかった。あいつがあんなに必死に戦う姿は想像もしていなかった。よそ目には表情を崩していなかったが、俺には見えた。あいつの必死な形相が。感情が。俺と違って、現実から逃げ出すことなく、いや、むしろ俺の思いも背負っていたように感じた。俺と同類であるはずなのに、全く俺と違っていた。
俺が奴の立場なら、俺のことを馬鹿にしていただけであろう。そのほうが自分を傷つけずにすむし、俺を見下せたはずだ……。あんな行為まで白崎にやったのだから。
一歩間違えば、俺と同じ道に堕ちるか。
そんな考えをする奴は、やっぱり俺とは違う人間なんだろう。とてもじゃないが、同格ではなかった。自分と同類と思っていた奴が遥かに上にいると知ってしまった時には、えらく不快だった。
けど、なぜだろう。今回だけは、なぜか心がすっきりとしていた。今まではそんな奴らに惨めに負け続けていたせいで、常に劣等感に苛まれていたはずなのに、ついさっきまであった陰湿な感情が消えている……なぜだ? 一つの疑問が心を襲う。
答えを手探りに探そうと考える。おぼろげに、何かが見えてきそうな予感がした。
――ああ、そうか……。俺は認められたかったんだ。
自然と一つの答えに辿り着いた。
単純すぎて嫌になるが、俺はただ分かってもらいたかっただけだったんだ。誰にも理解されなかったために、それを誤魔化すようにおどけた振りをしていたから気付かなかった。親にも、教師にも、友人にさえも疎んじられ、敗者の烙印を押されているのが辛かった。ただ、誰かに分かってもらいたかっただけなんだ。
――だったら、俺もなれるのだろうか? あいつみたいに。
俺が取り返しのつかないことをしでかしても、それでもあいつは弱音を見せなかった。かつてはそんな人間じゃなかったのに、必死に頑張っていた。
だから、多分あいつも見つけたんだろう。自分を認めてくれる奴らを……。俺にそれがないことには残念だが、不思議と嫉妬心は生じなかった。
もうちょっとだけやってみよう。こんな俺が、成功するなんて思ってはいないけれども、人に顔向けできるような人間になりたい。ただ、それだけでいいから……
そうして、あいつに……
テレビの画面に映し出される映像とは対照的に、居間の中はいやに落ち着いていた。
▲
会場は静まり返ったままの状態が続いていた。誰もが口を開かない。が、少しでも僅かな動きを見せれば怒涛の勢いで自分達を襲ってくる気配をひしひしと感じた。私は、ただ事が起こらないように体を縮こまらせるだけであった。
でも、やはり――そんな状態は長くは続かなかった。
「……ふざけるなよ! 高坂! 今までそんな考えで俺達を見ていたのか! よくもまあ抜け抜けと綺麗ごとを言ってくれたな!」
体を震わせて、一人の男が怒鳴り声を上げた。薄氷が激しく割れた。その衝撃が周りに伝わり、次々と瓦解する。底の見えない冷徹な湖に沈んでいく。
「そうよ! 信じていた私達を裏切るなんて、酷すぎる! 何が学校改革よ!」
「くたばれ高坂! 二度と俺達の前に姿を現すな!」
「よくもまあ、聞こえのいいことばっかり言ってて恥ずかしくなかったのか! 裏では俺達を見下していたくせによお!」
物凄い怒鳴り声が私達を襲ってくる。今までの心強さが嘘のように、状況が一変してしまった。何だこの状況は? 目眩がし、視界がぼやける。
どこかでこんな光景を見たことがある。あれはテレビの映像だったか? どこかの電力会社が大変な事態を引き起こしてしまって、日本中からこれ以上ぐらい叩かれていた。鬱憤を晴らそうとしたのか、一人の人間が、その会社の社長に土下座を要求し、当の自分は椅子にふんぞり返っていた。その様子は、どちらが悪役なのか分からなかった。
でも、私も悪いのは電力会社だって思っていた。だって、あんなに叩かれているんだ。当然のことだ。みんなが怒っているのだから。
「……山崎、お前もだ! 生徒会全員が関与してんのか! これは!」
そう叫び声が上がった。知らない。私は知らない! こんなことしているなんて知ってるわけないだろう! 何で私までそんなことを言われなきゃならなんだ!
いい加減なこと言わないで!
「俺達が分からないのをいいことに好き放題やってくれたな! とんでもない奴らだ!」
でも、そんな私の思いは決して届かない。いや発せられない。誰も耳を傾けてくれないから。
何で私がこんなに責められるんだ! 今まで支持してくれたじゃないか!
こんな結果になるなんて思いもしなかった! こんなことになるなら出場なんてしなかったのに。生徒会に入らなかったのに……。私って一体なんだったんだ……
「――いいから黙ったらどうだ」
その時だった。恥も外聞もなく叫ぶ声と違って、その冷めた声はマイクを通して響いてきた。
「何だって?」聴衆の一人が聞いた。水を差すなと目が訴えている。さもなければ、お前も潰すぞ、と脅している。私に向けられた視線ではないのに――怖い。
が、心底くだらないものを見るかのような、この男の表情は、先ほどと全く変わらなかった。
「自分の責任を棚に上げて、好き勝手言ってるのはどっちなんだ。感情に流されるままに高坂を支持した自分を反省する気はないのか」
あくまで落ち着いた声で言った。でも、そんなことを言ってもいいのだろうか? そんな言葉、私達に向けられていた憎しみが自分に向かってしまうだけだ。下手な正論を振りかざしたって、私は感謝なんかしない。馬鹿なのか、こいつは?
そんな私の思いに反応したように、観客の一人がまた怒鳴った。
「はあ~、こんなことするなんて想像もできないだろ! 盗聴なんて犯罪だ! まるで管理社会じゃないか。全部自分の手に収めて支配しようとする。恐怖政治じゃねえか!」
その言葉に反応するように、一人の女子生徒が呟いた。「……独裁者」と。
「そうだ! あいつは独裁者じゃねえか! 自由なんて聞こえのいいこと言っておきながら、裏では管理社会を作っていた。全てを牛耳ろうと、裏で汚く動いていた……だったら、俺達は悪くねえじゃねえか! むしろ、あいつの目論見が成功する前に気付いてるんだから、俺達はむしろ止めたんだよ! 独裁者を生み出す前にな!」
――よくもそんなことを言う。
確かに高坂会長はとんでもないことをやってしまったが、あなた達だって支持したんじゃないか。今まで好き放題騒いでいて、直前で手のひらを返すなんてひどいんじゃないのか。騙されるあんた達だって同罪だ。あんた達だって十分醜い。
白崎がどんな表情をしているか、視線を向けると――冷笑していた。
わざわざ皆に聞こえるように「ふふっ」と口に出した。その嘲笑は、観客だけはなく私までも含まれている気がする。まるで、こいつだけ違うものを見ているようだった。
「高坂が独裁者だ? 馬鹿なことを言うな。こいつにそんな資格なんてないだろう。大衆に持ち上げられればいい気になって、落とされれば無残な姿を晒す。お前らの言動だけに右往左往される奴にそんな力はない。高坂なんて、そこらへんにいる単なる高校生だ。多くの人間が支持しているから自分を正当だと頑なに信じている。辻褄が合わなくなったら、そいつらと一緒になって槍玉を見つけるだけの男なんだよ……。だとすると――本当の独裁者ってのは誰なんだろうな?」
そう言って、腕を放り投げた。そのまま会場全体を見渡すように睨みつけた。その迷いのない姿に、怒鳴り声を上げていた生徒達が目を逸らしたのが分かった。黒岩卓は顔をしかめた。大津武彦は――白崎立也を憎憎しげに見た。
僅かな沈黙が生じたが、その瞬間を逃さないように「帰る」と白崎は呟いた。そのまま席を立ち、静まり返った会場を背に歩き出した。「ほら行くぞ」と隣に声を掛け、横の二人も白崎に続いた。その颯爽とした姿を止める者は一人もいなかった。誰も口を開かない中、響き亘る音がやけに心地良かった。
――まるで、強烈な台風だ。はた迷惑に辺りを散々荒らし回ったにも関わらず、過ぎ去った後には、これまでの負の情景を飛ばすかのように光を照らし続ける。絶望と希望を交互にもたらしていく。
その矛盾に満ちた存在は、まるでこれから起こる暗い未来を知っているようであった。