13話 生真面目な戯れ
A組とH組の抗争から一ヶ月が経とうとしていた。
あの事件が勃発したことは、本来であれば生徒会に大打撃を与えただろう。勝ち組であるA組と、負け組と揶揄もされるH組の大規模な乱闘。兄弟高校の改革による副作用であるのは明らかだった。
今までは、絶対的な高坂への支持と、マスコミによる世論形成で、改革に対する反対意見は表に出てこなかった。しかし、学校の雰囲気が悪い意味で変わっていたのは事実だ。だからこそ、押さえつけられていた不満が爆発して、惨事に発展したのだろう。
A組とH組による総勢三十名の乱闘。十一名の負傷者を出し、内一名は左腕の骨折と角膜損傷――軽傷では済まなかった。当然、このような事件を隠すことなどできず、兄弟高校はまたしてもマスコミの絶好の餌食となった。
だが厄介なことに、生徒会、いや――高坂は、この出来事を見事に逆転させた。
H組を諸悪の根源として、たこ殴りにしたことで、責任を回避することに成功した。自由な校風と自主独立を重んじるこの学校で、起こった騒乱は全てH組の嫉妬と妬みによるものと抗弁した。皆が努力する機会が与えられていて、誰にも制限されていないにも関わらず、勉学に勤しまないのは怠けているだけだと――。
そして、自分が努力していないだけではなく、精魂を傾けている生徒の足まで引っ張ろうとしていると喝破した。現に、無抵抗で少数な生徒会を大多数のH組で殴りかかろうとし、こちらの言葉に耳を貸さずに暴行したじゃないか。そんな生徒に正義はあるわけがないと。
「僕は必死に話し合おうと努めた。殴られる覚悟で彼らの前面に立ちましたが、駄目でした。暴力の嵐の中で、それでも気持ちだけは捨てませんでした。そして、そんな思いが通じたのか、周りの生徒がH組を取り押さえ、僕を、学校を守ってくれました……。だから、僕は兄弟学校のみんなに感謝しています。中には、暴動と言っていい行動を起こす生徒もいましたが、それ以上に素晴らしい生徒は沢山います。この学校を変革したからには、襲い掛かる敵を前面から立ち向かいます」
高坂は、テレビで、新聞で、インターネットで、学校で、こうした発言を繰り返し、H組を敵に仕立て上げ、自分を――自分が設計した学校を肯定した。
そして、人々の理解が追いつかない間に、畳み掛けるように俺達の公開討論も利用された。
「とある生徒から公開討論の申し込みがありました。少なからず、僕達、生徒会の運営に異議があるとのことです。ただ、この申し込みがあった後に、あの乱闘が起きました。憶測でものを言うことはできませんが、これは偶然なのでしょうか? 真偽は不明なので断定はしません。それに、彼らも真剣にこの学校を考えています。憶測や風評でものを言うのではなく、彼らの要求を前面に受けて公開討論に臨むことが僕のするべきことだと考えています」
高坂は明言しなかったが、暗に、あの騒乱を引き起こしたのは俺達だと世論を誘導していた。さらに公開討論で、自分の正当性を確固たるものにしようとしているのは明白だった。H組だけではなく、俺達を槍玉に挙げ、公開討論で勝利することによって、自分の地位を磐石にするつもりなのだろう。
大規模な情報発信手段を持たない俺達にとって、戦う前から勝負は決していた。
「――で、どうすんの。もう公開討論まで三日切ったわよ」
明石が目を細めながら、こちらを見る。
現在、文芸部の部室には、三名の生徒が集まっていた。明石瞳・中川かなで・そして俺、白崎立也は、机を囲みながら作戦を練っていた。鈴木純一は、いつものごとくフラフラと外に出ていた。こんな状況にも関わらず、自分の調子を崩さないのは感嘆に値するのかもしれない。
「どうもこうも、やるしかないだろ。盛り上げて公開討論に持ち込むのが、俺達の目標だったろ」
ふんぞり返って言うと、明石の目が一層つり上がった。
「状況が全然違うでしょ。私達完全にアウェーじゃない。もう圧倒的不利よ!」
「つべこべ言うな。俺は最初からアウェーなんだから状況は一緒だ」
「……あんた、自分で言っていて悲しくならないの」
呆れた顔で明石はため息をついた。とんとんと指先で机を叩き、苛立ちが体に表れている。
「でも、高坂会長があれだけ宣伝したせいで、私たちの評判はこれ以上ないぐらい地に落ちてますね」
中川が表情を暗くした。一見、無表情に見えるが、最近では、中川が何を考えているのか多少分かるようになった。その負の雰囲気は消えないのか、明石が再び重い口を開いた。
「……でも、あそこに青沼君がいたのはタイミングが悪かったわね」
珍しく明石の声の調子が下がっている。こういう表情はあまりしない。結構なショックを受けたのだろう。俺も同じだったから何となく分かってしまう。
「……いや、俺がけりをつけてないから、つけが回ってきたんだろ。……そう簡単に上手くはいかないさ」
だが、あの時に青沼がいたことは完全に予想外だった。明石や中川には言えない事実があり、あの時点で、俺には弱みがあったことは事実だった。最悪の状況が重なり、一気に高坂に押し切られてしまった。
あの時の青沼の表情は忘れられない。本気で俺を憎んで、必死で潰そうとしていた。
簡単に許してもらえるなんて思っていなかったが、それほどまでに恨まれていたとは想像しなかった。自分の甘さを再認識させられた。
中川とは違うのがはっきりと分かった。だから間違いなく、俺に好意が向くことはもうないだろう。あの日から、胸のしこりが大きくなる。あんな顔を向けられ、俺は青沼に筋を通すことができるのだろうか。
「今はやるべきことに集中しないと」
そんな俺の心境を読んだかのように明石は言った。返事をしなかったが、そんな俺の気持ちの弱さを受け止めるように、宙を見つめた。
高坂にとっても悪い状況だったのは確かだった。だが、高坂はうまく切り抜け、俺は失敗した。俺と高坂の力量の差が明暗を分けた。負けた。喉下に胃液が戻ったように感じ、慌てて唾を飲む。
……恐ろしく頭が回る。本当に勝てるのだろうか。
依然として複雑な顔を浮かべていると、中川は口を開いた。
「いまさら文句を言っても仕方ありません。こっちだって、公開討論に向けて努力してきたんですから、今さら引く気はありませんよ」
あの日の弱さはない。中川の言葉に、明石は「そうね」と答え、小さく笑った。
俺達はこの数ヶ月間、できるだけのことをやった。膨大な文献の数々を当たり、政治学・経済学・社会学・教育学等、各方面から兄弟高校の改革の妥当性を調べ続けた。
大津武彦・伊藤敏正が中心となっている社会競争力会議の方針・思想を分析する。過去の事象と現実の動きの共通性を探り当てる。自らの頭を使って考える。
社会競争力会議の議事録は政府のホームページで公開されている。また、同会議の参加者は有名な奴らばかりのため、会議のメンバーの言論、思想、動向も調べようと思えばいくらでも検索できた。
大事なのは、情報を探り当て自分自身で考えること。機密情報が分からなくとも、公開情報を調べるだけで膨大な量になる。また、機密情報だって本当に真実だとは限らない。情報の欠如を言い訳にすることはできなかった。
だから、俺達は、調査できる限りを尽くして、考えの妥当性を検証した。そうして真剣に考え続けていると、今まで常識と思っていたことが、どれほど不確かであったかが分かった。
生徒会のメンバーについても調べ上げた。戦うにはまず敵を知らなければいけない。高坂翼を筆頭として、山崎遼・西園寺由美・西島智子。四人の性格・趣味・家族構成・友人関係・思考を丹念に調査し、生徒会に立候補した動機も探った。
そうして調べていくうちに『信者』というべきか、高坂のシンパが少なからずいることを見つけた。表面上はそのような態度を出していないが、気付かれないように生徒会を持ち上げるよう生徒を誘導している。
あの騒動の時に、H組が興奮している中で、その信者達が後ろで待機していた。高坂が手を出されたら、即、H組を捉えるよう指示が出ていたんだろう。全てが計算されていた。
「でも、高坂会長って怖いですね。あの騒動が起きたときは、明らかに生徒会は窮地に追い込まれたはずなのに。まんまと利用されましたね」
「……だよね。知ってたけど、あれだけ人を惹きつけている奴はそう簡単には倒せないわね。――でも、だからこそ燃えるけど」
深刻そうに中川が言うと、明石は嬉しそうな顔を浮かべて応答した。口元を上げ、目に炎が灯っている。さっきまで落ち込んでいたのに頼もしい奴だ。
が、そう嬉しそうな顔を見せられると、口答えしたくなるのが、性だ。
当然、明石の話の腰を折ることにした。
「倒すって表現は正確じゃないな。俺達には高坂は倒せない」
「はあ~、倒さないと意味ないでしょ?」
俺の言葉に、明石は怪訝そうな顔をした。
「残念ながら理屈はいくらでもつけられる。逆に言えば、高坂の論理だって崩そうと思えばできる。どんな理論にも正論が含まれ、欠陥があるからな」
俺の言葉に中川が頷いた。
「しかも高坂会長は、デメリットを隠し、一部のメリットだけを強調するのが異様に上手いですよね」
口に手を当てながら、中川は言った。中川が同意したので、話を続ける。
「そうだな。特に自由主義者は議論に強いんだよ、厄介なことに。ここが保守主義者と違う。なぜなら規制を撤廃するのは簡単だが、正当化するのは難しいからな。様々な利害関係があり、それらを調整していくのは至難の技だし、100%の正解はない。だから、規制を作るには一本の綱を渡るような平衡感覚が不可欠になるし、優れた能力が必要だ。……でも自由主義に難しい論理はいらない。つべこべ言わず、自由に反対するほうがおかしいって簡単に主張できる」
規制は悪という風潮は根強くあるが、それはあまりにも単純な見方だ。
大事なのは、自由と規制の中で折り合いをつけていく意識だ。だから、もしその意識を置き忘れてしまうと、秩序が崩壊する可能性だってある。
だが、俺の力説にも関わらず、明石はつまらなそうにため息をついた。
「そんな悲観的なことばっかり言っているから、暗くなるのよ。そんなんだと、黙って札幌ビールばっかり飲んでる人間になるわよ」
思わず額を押さえる。せっかく丁寧に説明したのに、頭が痛くなる。
というか、お前は何歳なんだ。そんなフレーズ誰も使わねーぞ。俺が目を細めて疑惑の視線を向けると、中川が口を開いた。
「でも、どうしたらいいんですか。議論で勝てなきゃ意味がないんじゃないですか?」
一方、明石と違って、中川は真面目な顔をしていた。目の前のじゃじゃ馬とは対照的である。気持ちが凪ぎ、自然と諭すような声になる。
「別に勝つだけが方法じゃない。俺たちと高坂たちの意見が違えば違うほど、論点が明確に際立つ。俺たちにできるのは、少しでも多くの人が俺たちに同意してくれるように話すしかない。だから高坂を説得しようなんて思わないほうがいい」
そう、勝ち負けは俺たちが決めるものでもないし、誰かが決定するものでもない。聴衆一人一人が自分で考え、どちらが現実味があるかを判断するための材料を与えるだけである。
「……でもそうなると問題が。もしそうするしかないとすると、聴衆全員が狂ったように騒ぎ、冷静さを欠いていたとしたら――どうなるんですか?」
一段と、表情を固くし、問いかけられた。
――鋭いな。
中川の疑問は最もである。こんな学校で真っ当な意見に耳を傾けてくれる生徒はほとんどいないだろう。まして支持は圧倒的に高坂翼に、だ。
あまつさえ、俺達は学生である。冷静な判断を期待するほうが間違っている。味方はいない。
だから、不安を払拭するように、わざと俺は明るい声を出した。
「そりゃあ、高坂に流れるだろう。俺たちの意見なんて簡単に吹っ飛ぶ」
「……駄目じゃん」
明石が落胆する。中川も天井を見上げ瞼を閉じた。明石だけではなく、中川まで――こいつは何も考えずに生徒会に喧嘩を売ったのか、そんな疑いの目を二人は向けてきた。
「でも、手がないわけじゃない」
そう言うと、中川は「えっ」と声に出した。だが、一方の明石は「どうせ、くだらない冗談でしょ」と言いたげな目線を向けている。
俺は気付かない振りをし、話を続ける。
「熱狂した人間になってしまうのは、人が感情で生きる動物だからだ。経済学者が言うような環境と切り離された存在でもないし、独立した単体で生きてるわけじゃない。人にはどうしても大儀や理想とは分離できないようにできているからな」
そっぽを向いていた明石の顔の向きが変わった。どうやら、俺がまともなことを言ったことに驚いたのか、明石は目を見開いた。
「でもそれだと、理想論を言ってる高坂に分があるんじゃない? 人の感情に訴えかけるって意味では」
「いや、理想論といっても、高坂は独立した個人を想定している。口では聞こえのいいことを言っても、自己利益に重点を置いているのは明らかだ。……そしてそこが弱点にもなる」
「弱点?」
「そうだ、あの騒動の時も、状況がコロコロ変わっただろ。A組を敵にしたと思ったら、次は生徒会に矛先が向いた。と思ったら、俺が標的になった」
「でも、その後、また生徒会に標的が変わりそうだった」
明石は、胸を張ってそう答えた。あたかも「頼りにならない白崎を助けてやったけど、どうだった」って顔をしている。ちょっと憎たらしくなった。
だが、悔しいことにそれは事実である。明石が真剣に訴え、明石の人柄を多くの生徒が知っていたからこそ状況が一変した。俺の理屈も高坂の理屈も正当でありながら欠陥があったため、あいつらは何を信じたらいいか分からなくなった。
そんな時、多くの生徒の判断材料になったのは、明石の真剣な表情、姿、言葉であった。
人間の感性を舐めてはいけない。その人の微妙な仕草、機微、態度によって違和感を感じたり、信じたりする能力を持っている。適当な嘘をついても最後にはばれてしまう。冷静さを欠いた状態では、その能力が落ちてしまうことは、高坂の絶大な支持と今回の騒動で痛いほど分かったが、明石の言葉は確かに届いていた。たとえ僅かだとしても、まだ兄弟高校の生徒にも、真っ当な感情が残っていた。
「そうか、大事なのは真剣に伝えたい気持ちってことかな」
腕を大げさに組み、うんうんと明石は一人で頷いた。
「ああ、やっぱり嘘をつくと、どこかおかしな仕草として体や言葉に出てしまうと思う。あの時の俺もそうだったしな」
俺はそう言って、明石を一瞥した。
「確かにそうかもしれないですね。言葉だって単なる意志伝達の道具じゃなくて、何か伝えたいって真摯に思って発言した時に、気持ちが乗っているように感じますし」
そう言って中川は小さく息を吐いた。
「じゃあ、あんまり難しいこと考えてもしょうがないわね。私達が真剣に伝えれば絶対に伝わるって考えればいいだけね」
「いや、期待はするな。あんまり期待すると失敗したときが怖いぞ。どうせ始まる前からほとんど負けているんだ。期待するだけ失敗した時の落ち込みは大きいんだから、期待を持つのは論外だ。負け続けた俺が言うんだから間違いない。……だから、この決戦――負けると思う」
俺がそう言うと、二人の視線がより厳しくなった。
「最悪ね、あんた」
「正直、幻滅です」
だが、その後、二人ともぷっと噴き出した。その後、目を輝かせながら好き勝手俺への罵詈雑言を浴びせ続ける。それは、これから起こることに対しての不安を消そうとする抵抗だったのかもしれないが、実に楽しそうだった。
また、二人の表情を見る限り、現実から逃げようと思っている表情ではなかった。
「別に負けても、社会的に死ぬだけだ」
俺がそう言うと、何度目か分からないほど同じ表情を明石は作った。
「それは死と同じでしょ。人との関わりがなくなってしまったら、もう生きられないでしょ」
「そうしたら自殺すればいい。生きて無駄なりゃ、死んでしまったほうがいいからな……なあ、知ってるか。自殺が多い時期って、寒々しい冬じゃないんだぜ。それどころか春から夏にかけての時期に、人は一番自殺するんだ」
明石の目が見開く。
「え、そうなの? その時期って草木がいきいき伸びていくし、活動的になりそうだけど?」
驚いた声を上げるが、俺は大真面目な顔で言葉を続けた。
「何も不思議じゃない。自殺するにも労力がいるからな。疲れていたら自殺する気力も起きないだろう。だから、夏真っ盛りの今の時期こそ、自殺するには絶好の季節だ。普段は気力のない俺でも安らかに死ねるはずだ」
俺は、そう断言した。
が、時間が止まったまま誰も動かなかった。口も開かない。
数秒遅れて、明石が心底呆れた顔をしながら「……なにそれ」と呟いた。いまさら得意げな顔を崩すこともできず、俺は顔を逸らしてやり過ごそうとした。
「……ふふっ」
だが、中川が笑った。普段は見ることのない、表情豊かな顔だった。
そして、それにつられるように、明石も笑った。
笑い声は大きく広がっていき、小さな部室では収まらないように響き渡った。音楽を奏でるように、辺りに心地よい音色を響かせていた。
なんだか懐かしい。こんな光景は昔あった気がする。
夏真っ盛りだからか、日差しを浴びた高木が光を反射しながら揺れている。光と影が混ざりながら黒く、艶やかにそよぐ姿は、朽ち果てる未来を想像させない。
切実に思う。この空間を二度とは壊したくはない、と。
一度は壊れた。
改めて実感した。僅かな味方であるが、こいつらがいなければ今の俺はなかったと確信できる。おそらく、勝算は限りなく低いだろう。それは、この二人も分かっている。
だが、必死に努力すれば後悔だけはしないことに気付いた。そして、どんなに困難な状況だって、陽気に笑っていれば心の平穏は守られた。はぐれ者だからこそ、この貴重な状況を楽しまなきゃならない。
だから、俺はあなたの守りたかったこの空間を絶対に守っていきます。
あなたのように立派な人間じゃないけれども、せめて、あなたが生きていたこの社会だけは守りたいから。
だから、ちゃんと見ていてください――――中川先輩。
3章「反撃」(終) 4章「決戦」に続く