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閉ざされた学園  作者: 西部止
3章 反撃
10/20

10話 オルテガのため息

 つまんねえな。

 学校は変わったらしいが、本質は何も変わっていないだろう。いや、悪化しているのが目に見えている。このまま完全に失敗したらいいのに。そうしたらあの野郎も慌てふためくだろうに。

 いや、そりゃねえか。あいつならそんなこと関係なく、また新たな獲物を求めるだけだろうな。

 あいつの元を離れて暮らし始めたが、何にも変われやしねえ。……いや、変わらないために逃げたのだから、俺は正しいのだろう。よくもまあ、コロコロと新しいものばかりに手を出すもんだ、と感心してしまう。もういい年なのに頭の中が破裂しねえのだろうか。

 少なくとも、あいつが成功したところを見たことはない。グローバリズムとか、創造的破壊とかと騒いでいるが、どう考えても悪化しかしていない。

 革新党が政権を握った時は「日本で初めて民主主義が実現した」と大げさなことを言っておきながら、数年も経たずに「日本を覆う既得権益を壊すためには、力と知がある保守党しかない」と嘯く。

 どう考えても矛盾しているのだが、なぜかあいつは持て囃されている。

 多分、誰も真面目に聞いてないんだろうな。いや、聞いた振りをし、自分では判断していないのだろう。判断要素は、あいつの背景だけ。誰も言論に気を配っていない。

 ――くそったれ。

 そう思って、乱暴にベンチに肩を掛ける。浜風が吹き、斜張橋が静かに揺れているように錯覚する。さっき買った缶コーヒーの熱が抜けていく。もうすぐ夏が始まるというのに、強い風が熱気をさらっていく。

 昨年もあまり良いとは言えなかったが、今年はサボりに拍車が掛かった。学校に出る気は起きず、外をぶらつくことが多かった。特に何をすることもなかったが、この場所に来るのは、けっこう好きだった。綺麗に整備された歩道と、輝くように揺れる波が絶妙に交じり合っている。頻繁にフェリーが波止場に着き、人々を、荷物を、下ろしていく。悠々と時間が流れ、皆が穏やかな顔をしている。

 自然のままが美しい、なんて言うやつは腐るほどいるけど、俺はそう思わない。むしろ、むき出しの自然は怖い。何か得たいの知れないものが潜んでいそうで不気味に思える。草木が生い茂り、無数の虫が飛び交う中に入ることを想像しただけで鳥肌が立つ。

 かといって、都会のビルの群れも決して好きじゃない。あんな箱の中に閉じ込められて、一日を過ごすなんて目眩がする。息を吸いに外に出ても、ガラスに覆われた壁面に圧迫されるだけだ。あんなところで働く気など未来永劫起きないだろう。

 ――だから、美しいのは、自然と人工が調和した世界に限る。

 綺麗に区分けされた田園、小川に掛けられた小さな橋梁、海から砂浜を守るテトラポット。なんとか自然と折り合いをつけながら人類が作り上げた世界は美しい。如何ともしがたい自然から身を守りながら、自分たちに適合するように自然を傲慢に変えていく。この絶妙な均衡に俺は惹かれてしまう。

 だけど、そんなことを言ってもアホには分からんだろう。ITが全てを動かすと信じ、過度に科学を重視する。大したことなどできないのに、得意げにパソコンをいじる同級生を見ると、いつも笑っちまう。オカルトじみた占いを信じている馬鹿も嫌いだが、科学至上主義が宗教だとは思わないのだろうか? 表面ではノリ良く振舞っているが、こんな奴らとつるんでいても全然面白くなかった。

 ――だから、珍しいこともあるんだ。

 学校外では奴らとはあまり遊ぶこともなく、俺に連絡を寄こす同級生は、ほとんどいなかった。そのため、差出人を見て、おやっと思った。

 見覚えのないアドレスだったが、題名に『白崎立也』と書いてあった。名前を見てもピンとこなかったが、どこかで聞いた名前である。本文を見ても「話したいことがあるから、会えないか」と端的に打ってあるだけで、意図が分からない。誰だこいつは?

 だが、少し考えて、はっと頭に浮かんだ。


 白崎立也! 青沼といざこざを起こした奴か!


 あの事件はけっこうな騒ぎになった。新学期早々の問題だったため、噂は面白おかしく広がっていった。A組とH組の対立が発端らしいが、詳しいことは分からない。どうせ、くだらねえ喧嘩だと思うが、この白崎という男が当事者となった経緯が分からなかった。

 大概、こういう騒ぎを起こす奴は普段から嫌でも目に付く。人前に出るのが快感かのように、常に人目を気にしながら目立とうとする、そんな奴らが多い。

 だが、白崎というこの男は一年間、学校生活を過ごした後でも知らなかった。特徴がない人物の不可解な行動。想像できない世界。……急に興味が湧いた。

 なんだか分からないが、会ったほうがいいと俺の本能が騒いでいる。すぐさまメールを返すと、すぐに白崎から「すぐに行く」と返答がくる。今は授業中のはずだ。学校に出てないのか?

 ……が、考えても分からん。直接本人に聞けばいいだけの話だ。白崎が学校に出ようが出ないが俺には関係ない。思考を放棄し、両手をぐっと体の後方に伸ばす。小鳥のさえずりがどことなく聞こえ、そのまま睡魔に襲われる。……最近、眠れなかったからな。

 ここ最近は、あの時よりも体調が優れない。あいつから離れて生活できれば変わるかと思ったが、最初からつまずいてしまった。

 その後は幾分回復したが、最近、ぶり返してきた。

 瞼を閉じ、少し体を傾ける。ベンチが固く反っているため、うまく体勢が取れない。それでも無理やり体を預け、上半身を休める。決して楽な姿勢ではなったが、太陽の日差しが気持ちいい。少し眠ろう――。

 

 ――近くで足音が聞こえた。うたた寝をしていたら、思ったより時間が過ぎていたようだ。大きく欠伸をし、目をゆっくりと開ける。

 そこに一人の男が立っていた。

 薄っすらと目の下にクマができていて、顔色はあまり良くない。しかし、冷めた目をしているのに頬は火照っていた。相当疲れているようだ。

 その顔をぼーと見つめていると、「鈴木純一だろ。隣いいか」と、聞かれた。が――頭が働かず、返答できずにいると、返事を待たずにそいつは座った。そのまま大きく息を吐いて、静かに瞬いた。

「お前が白崎?」

 俺がそう言うと、「ああ」と短い言葉が返ってきた。一瞥するが、白崎は正面を向いたまま、微動だにしていなかった。話す気配がないので、仕方なくこちらから口を開く。

「で、俺に何の用?」

 再度、横を見るが、白崎は聞いているのか分からない様子だった。

「……ちょっと、お前に頼みたいことがあってな」

 少し遅れて返事が返ってくる。が、頼みたいことといっても、俺と白崎には特別な接点はない。だから、何を聞かれるのか検討もつくこともなく、とりあえず「はあ」と答える。

 俺の言葉に対して、白崎の顔が一瞬曇ったが、その後、平静さを装うようにわざと顔をしかめたように感じた。

 そして、ゆっくりと口を開いた。


「お前の父親を利用させてくれないか?」



                  ▲



 日差しの強さが増した。それに伴い、隣の男の相貌が太陽に覆い隠された。

 おもしろいことを言う。父親を利用? ……こいつは自分が何を言っているのか分かっているのだろうか?

 いや、今までも俺の父親を利用しようとする者は腐るほどいた。利用というよりも媚びへつらっているだけであったが……。己の矜持を捨て、自分の権威を高めようとするアホどもばかりが親父の下に集まってきた。

 しかし、そいつらは、決まって脂の乗った汚い肌をした奴しかいなかった。そして俺が相手でも、恥ずかしいほど下手に出る。その見え透いた態度は、裏で他の人を陥れ、乱暴に振舞っているのは明らかだった。

 だから、白崎みたいな奴がこう言ったことには、素直に驚いた。しかも、面と向かって口にされたことはない。俺の周りに集まってくる奴らは本音を隠し、下種な本性を決して見せない。なおさら、単なる学生からこんなことを言われるなんて初めてだった。

「利用って……お前みたいな奴が親父になんの用があるんだよ?」

 はっきり言って、ただの学生が俺の親父に興味を持つことはまずない。いや、あるとすれば、下賎な嫉妬ぐらいだ。それは底辺と呼ばれる奴からもそうだったが、むしろ、裕福な奴の方が露骨だった。

 こいつはどうなのだろう。まじまじと外見を観察するが、平凡な学生にしか見えない。ただ、その姿はとても自然で、こいつの風体からは、嫉妬や嫉みといったつまらない感情を、どこかに置き忘れてきたように感じた。

「お前、父親と仲が悪いんだろ。だから、こっちに逃げてきた。違うか?」

 白崎は何気なく言った。

 脳が揺れた。完全に不意を突かれ、中にある感情が爆発しそうになった。

 だが、必死で押し潰す。平静を装うために、わざと目を細め口元を歪ませる。

「……だったら。あんな屑と一緒にいるのはやばいぜ。お前には分からんだろうけれども、死ぬほど吐き気がする」

 そう冷やかに言ったが、白崎は目線を逸らさなかった。そこに同情の瞳があったが、決して悪意は感じさせなかった。

 そして、俺の言葉を気に留めることなく、白崎は言葉を続けた。

「ここ最近、お勉強をする機会が急激に増えてね。お前の親父さんの著作も何冊か読ませてもらったよ」

「親父の? 何で? あんなくだらねえのに価値なんてないだろ」

「何でくだらない?」

「何でって……お前みたいな奴には分からんだろうけど、ご立派なことを言ってる奴に限って裏がある」

「たとえば?」

「……なんでそんなことを気にする。お前には関係ねえだろ」

 試されているようでいい気がしない。俺は眉を寄せ、白崎を正面から見据える。だが、白崎は怯むことなく、沈黙を恐れなかった。

 雲間から見えていた太陽が隠れる。影が差したが、以前として白崎の目は、続きを促すだけである。……仕方なく俺は口を開いた。

「FITって知ってるか?」

「FIT?」

「正式名称を再生可能エネルギー固定価格買い取り制度っていうんだけどな……要するに、太陽光とか風力とかで発電したエネルギーを電力会社に買い取ってもらえる制度のことだ。だから、買い取りを進めることで再生可能エネルギーの普及が進むと言われている」

「……それは、いいことじゃないのか?」

「と、思うだろ。でも、違う。買取り費用を電力会社から出すってことは、どういうことか理解できるだろ?」

「俺達の電気料金から徴収されるってことだ」

 どうせ答えられないと思っていたら、白崎は間髪容れずに答えた。

 意外だ。思ったよりも頭は悪くないのかもしれない。

「……正解。ただでさえ電気料金が上昇しているところで、一般国民から金を吸い上げて、その流れる先は大企業と富裕層だけ。しかも太陽光パネルの製造も外国製ばかりで国内の雇用も生まれない」

「……でも、技術開発は進むんだろ?」

「進まない。実際に環境先進国のドイツですら失敗している。考えてもみろ、発電すれば必ず国が買い取ってくれる制度の中で、必死に企業が技術開発しようと思うか」

「………」

「しかもおかしなことに、いつも規制緩和や小さな政府を唱えていた奴らから反対論は出ていないんだよ。はっ、面白えぞ。反対どころか、この制度で恩恵を被っているのは、誰だと思う?」

 くだけた口調で話すが、白崎の表情は変わらなかった。

 そのまま口を開かなかったので、沈黙を無理解とみなし、答えを披露した。

「実は、そいつら自身なんだよ。馬鹿らしくなるだろ。綺麗ごとを言っておきながら、結局、こいつらは私利私欲のために行動しているんだよ。……こういうの、何て言うのか分かるか?」

 俺が得意げに言うと、迷わず白崎は答えた。

「……レントシーキング。権力者が自分の都合のいいように規制を歪め、利益を独占しようとすることだろ」

 そう言って白崎は、顔を歪めて笑った。

 ……こいつは予想外だ。信じられないが、どうやらこいつは分かっている。

 ――どういうことだ? 俺は動揺を見せないように慎重に話題を選んだ。

「へえ、分かってるじゃねえか。自由を重視する奴らは腐るほどいるが、そいつらを大別すると二つになるんだよ。知ってるか?」

 白崎から返答がないので、俺は続けて言う。

「一つ目は、本当に自由こそが素晴らしいと考えている救いようのない理想主義者。人ってのは、何も考えなければリベラルに流れやすいからな、こっちの人間が圧倒的多数だ。まあ、仕方ねえといえばそれまでだけどな。見下しはするけれども、性根は腐ってねえはずだ。だが――二つ目が問題だ。こいつらは自由こそが至高であるとはまるで考えていない。ただ自己の利益を最大限高めるためにそう振舞っているだけのハイエナ。死肉を漁っていながら、表向きは尊敬される奴が多いけどな。面白くもねえが……。ハッ、俺の親父はどっちだろうな」

 そう言って足を放り投げる。気分が悪くなる。何でこんなマジな話をしてるんだ、言ったところでどうにもなる訳ではないのに。

「似てないか。今の俺達に」

 だが、恨み節に応えることなく白崎はそう呟いた。俺に目線を向けることなく、ベンチに置きっぱなしになっていた缶コーヒーをゴミ箱に向かって投げた。

 その空っぽの缶は、鮮やかな弧を描いて吸い込まれていく。

 何を言いたいか分かった気がする。だがなぜ? こいつみたいな奴が……

「お前、何があった。悪いが、俺はお前みたいな奴は知らない。それほど分かっていながら、俺が認識できなかったなんてあり得ない。青沼との件が関係しているのか?」

 不思議だった。何でこいつみたいな奴が俺の話について来れる。そこらへんの学生では太刀打ちできない領域だぞ。

「関係しているといえば、そうかもしれない。青沼の一件がなければ俺は気付かなかったからな。多分、青沼は俺を許さないだろうけど、あの出来事がなければ俺は最低なままだった」

「何をしたんだ。お前は?」

「……何もしてない。ただ、青沼を見捨てただけだ」

 そう言って白崎は悲しそうに笑った。

 ただ、その顔はひどく辛い出来事を経験してきたことを物語っていた。青沼だけじゃない。こいつはかなりの凄惨たる光景を見た。

 それでも顔を上げようとする理由が理解できなかった。

「俺の親父を利用するったって無理な話だ。俺と親父はかなり険悪な関係だからな」

「だからお前に頼んでいるんだ。お前が父親と仲違いしているからこそ、お前の親父はこの話に乗ってくる」

 予感が確信に変わる。間違いなくこいつは親父だけではなく俺も利用しようとしている。気に食わないが、どうやら的確に見抜いている。親父のことも、そして、俺の感情も。俺の核心を作っている情念を。


 T大学経済学部教授。その肩書きが意味するものはあまりにも大きい。

 日本最上位の大学にして、そこの教授に就任しているだけで与える影響力は、他に類を見ない。他の大学の研究員はこぞって論文を引用し、一般人にとっては雲上人だ。

 だから、親父が属する学会は名実ともに日本の最高位に格付けされていて、この学会で発表、主張されたものが、他の学会のみならず、政府、企業、そして国民の考えを左右している。


『経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合も誤ってる場合も、通常考えられている以上に強力である。実際、世界を支配しているのはまずこれ以外のものではない。誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である』


 ジョン・メイナード・ケインズの有名な言葉だが、この言葉以上に、現在の日本を表しているものはない。思想の力は俺達が思っている以上に強力であり、無意識のうちに俺達の価値観を形成している。それは、実務家も、政治家も、主婦も、犯罪者も、狂人も、同じだ。例外はない。そして、たとえそれが間違っていたとしても。

 親父の持つ権威は抜群だが、奴の言論に賛同したことはない。いや、ガキの頃は、純粋に親父を尊敬していた。皆から羨望の眼差しを浴びる親父は俺にとって絶対的な存在だった。

 しかし、少しづつ違和感を覚え始め、親父の言動に不審を抱くようになった。

 最初の疑問は、些細なことだった。

 親父は、企業は怠けているからいつまで経っても景気が回復しないんだと常に言っていた。だから、規制を緩和し、政府介入を縮小し、グローバル化に適応できるようにすることが必要だと主張していた。

 俺も「確かにそうだな」と思い、親父の言うことを鵜呑みにしていた。

 しかし、景気はいつまで経っても良くならなかった。それどころか、国民の平均給与や消費者物価指数は親父の主張を大幅に取り入れてから、急速に悪化していた。少々企業の業績が回復しようとも、配当金の分配の増加と内部留保が積み上がるだけであり、海外との競争に勝つために、労働者に企業が利益を回さなかった。グローバリズムを推し進めれば、企業の利益と国民の利益の乖離が促進されるだけであった。

 次は法人税の主張だった。親父は、企業の国際競争力を高めるために法人税減税を主張していた。だが、雇用減税や投資減税に限定せず、投資家のみが恩恵を受けるように推進しようとしているのは、どう考えてもおかしかった。七割の企業が赤字のため法人税を払えず苦しんでいる状況で、減税のつけを赤字企業に払わせようとしているのは納得がいかなかった。

 おかしい。徐々に疑惑は膨れ上がり、やがて確信に変わろうとしていた。

 最近でも、景気がほとんど回復していない状況で消費増税を強力に主張した。以前の失敗を踏まえることのない増税は、比較できる九十四年からの統計以降、消費支出を最も押し下げることとなった。消費増税は、財政均衡を達するために必要不可欠とのことだったが、前回の増税と全く同様に景気後退をもたらし、税収全体をかえって下げた。国民の実質賃金を減らし、以前と同様に事態を悪化させるだけであり、何の利点もなかった。

 でも、彼らは困らないことを知った。彼らにとって国内の消費が落ち込んでも海外に出ればいいからだ。しかも、ほとんど知られていないが、消費税を上げれば上げるほど輸出還付金という形で輸出企業に国から資金が提供される仕組みになっている。だから大企業で構成される経済団体は、消費増税に賛成する。

 増税が儲けの手段になっていることをどれほどの国民が知っているのだろうか。

 くだらない。全ては奴らの金儲けのためじゃないか。

 中学を卒業する頃にはもう、親父を信じられなくなっていた。そして、奴が再生可能エネルギー推進法人の理事に就任したことは決定的だった。

 一緒に暮らしているから分かる。長く寝食を共にし、言葉、表情、体躯を長い間見てきたからこそ、奴の言動、主張が欺瞞だったと分かってしまう。

 ショックだった。今まで理想としていた存在が偽りのものだった時の衝撃は大きかったが、それとは裏腹に安心もしていた。

 理由は明白である。できの良い兄貴がいたからである。そんな奴と比べ続ければ人格も歪む。常に俺の上をいく存在がいれば劣等感に苛まれる。でも、だから気付いた。親父と兄貴と距離が徐々にできていき、親父が全てじゃないと思わざるを得なかったから。

 裏を返せば、兄貴は未だに気付いていない。今でも、自分が正しいと思い、理性で社会が統治できると信じている。T大学で親父と同様のことをしているらしいが、所詮は机上の空論に過ぎない。奴らの思うように社会は動かず、経済政策は失策を重ねているだけだ。

 いや、もしかしたら兄貴は気付いているのかもしれない。自分も、親父も間違っていることを。でも気付いていたとしても、考えを改めようとはしないだろう。一旦享受した名誉、地位、権力を手放すことはできないはずだ。それが大きなものになればなるほど。

 俺は耐えられなかった。親父と兄貴もそうだが、周りの奴は皆親父に賛同する。褒め称える。馬鹿な奴に、もっと馬鹿な奴が集まる。

「純一君もいつかはお父さんのように立派になるんだよ」そう言われ続けた。

 俺は期待に応えられなかったが、兄貴のそう言われた時の表情は得意げだった。普通の人間とは違う、僕は特別な存在なんだ、そんな表情がにじみ出ていた。

 兄弟で徐々に差が明白に広がり、皆の羨望が失望に変わり始めた。それを誤魔化すために、髪を染め、奇抜な言動で周りをもっと迷わせた。親父達を苦しめようと問題を起こすが、蔑みの目が余計に俺を苦しめた。

 もう耐えられなかった。俺は逃げるように県外の高校を選び、一人暮らしを始めた。

 これで、開放される。自由になれる。そう思った矢先だった。


「――お前の親父、T大の教授なんだって! ……でもその割には頭悪いな!」


 そいつは、悪意があってそう言ったわけじゃないのは分かっていた。自分と同様にひどい点数を取ったのを自虐し、自分と一緒になって笑わせようとしているのは明らかだった。

 だが、咄嗟に手が出てしまった。急に頭の中が真っ赤に染まって、気がついたら拳に血が滲んでいた。殴られたほうは訳が分からなかっただろう。なぜなら、俺も分からなかったから。

 こっちに来てまで、親父が俺を追ってくるのか。そんな意識が予想以上に俺を覆っていたのかもしれない。急に脳が固まり、気付いたら手が出ていた。

 結局、そいつとは大喧嘩になり、当時の兄弟高校としては珍しい不祥事となった。笑いながら殴り続けた俺は、ここでも奇怪なものとして見られるようになった。

 おそらく、白崎が声を掛けてきたのは、この出来事があったからだろう。俺が親父と良い関係ではないと知っていたからこそ、利用できると考えた。……本当に食えない奴だ。

「親父が俺を嫌っているから、俺が挑発すれば乗ってくるってことか」

 俺がそう言うと、白崎は「ああ」と短く言葉を発した。

「お前の親父、鈴木敏正は社会競争力会議のメンバーでもあるよな。政府、企業に絶大な影響力を持っている会議の一員であるのに加えて、あの肩書きだ。それに大津武彦もその中に入っている。必ずマスコミも食いついてくる」

 白崎が一呼吸置いて、遠くを眺めた。かもめの鳴き声が上空を飛び交い、雲に交じるように青空が広がっている。顔を白崎に向け、続きを促す。

「俺は生徒会に公開討論を申し込む。この学校の改革の是非を巡って――だから逃げられないように、この公開討論を盛り上げたい」

 そう言った白崎の顔は少し不安そうだった。……逃げられないのはどっちを指しているのだろうか。

「なるほど。社会競争力会議に近い思想を持つ生徒会、いや、高坂との直接対決を申し込むってわけね。そのために俺と親父の対立を利用するって訳か。……随分頭が働くじゃねえか」

 唾を地面に吐き捨てる。不快な気分が腹から襲ってきた。

「だが、悪いがごめんだ。そんなことには興味がねえ……いや、違うな。そんなことをしても無意味だ」

「無意味とは?」

 ――分かっていってやがるだろ、こいつは。表情に迷いがなく、むしろ試すような視線に腹が立つ。

「一度壊れた社会はもう戻せない。人がぶっ壊れた時に取る行動は、更なる破壊への衝動だ。そこに善も悪もねえ。一度堕ちた人間は、向上するよりも人を引きずり込もうとするからな。『何で俺ばっかりこんな目に合う。おかしい。それにも関わらず、お前が恵まれているのは不公平だ!』とか言ってな。……だから、急激な改革がもたらすものは破壊の連鎖だ。大衆社会が到来した以上、この運命からは逃れられない」

 そう、逃れられない。この運命に抗う者は嘲笑され、ごみ屑のように潰される。馬鹿正直に生きたって、食われるだけだ。わざわざそんな役割を演じるなんて、ごめんだった。

「いいだろ。潰されたって。どうせお前はもう失敗しているんだ。親父に見捨てられた時点で、お前に夢のような未来があるわけないだろ」

 思わず不快感が顔に出てしまった。

 ――この野郎。よく分からずに一端の口を利きやがって。お前は知らねえだろ。ぶん殴りたくなる衝動を必死で押しとどめる。

「馬鹿か。奴らに敵うわけないだろ。お前がどんなに正しくても勝てねえんだよ。馬鹿は論破できないからな。恥を捨てれば、理屈なんていくらでも付けられる」

 そう、俺が最後に親父に挑んだときもそうだった。

 兄貴に臨んだときもそうだった。

 主張を誤魔化し、煙に巻き、単純な議論に巻き込む。そして、周りの者も期待している。親父が正しいことを。俺が敗北する姿を。そんなの議論ですらない。

「くだらねえ」吐き捨てると、白崎は小さく笑った。

「それでもいい。たとえ勝てなくても、俺にとってはやらなければいけないんだ」

「……何でそうなるんだよ。青沼の件だって、単なる他人の喧嘩を止めなかっただけなんだろ。別に責められることじゃないだろ」

 訳が分からん。お前は現実を知らないガキじゃないだろうが。何でそんな馬鹿なことをするんだ?

 そんな俺の疑問が顔に表れたのか、白崎は誤魔化すように左手で後頭部をポリポリ掻いた。

「悪いが、俺も青沼がいいとは言わんし、周りの奴らも馬鹿ばっかりだって分かっている。認めたくはないが、心の中では奴らを見下している面もある」

「……じゃあ、なんで」

「それでも、俺が青沼に負い目を感じているのは事実だからな。それを認めないと、本当に嫌な奴になっちまう。それにな、それを受け入れないと、俺なんかと一緒にいてくれる奴らに顔向けできない」

 頬には赤みが残っていた。が、余計な表情は浮かんでいなかった。 

 ――何言ってんだ。ふざんけなよ。そんな偉そうなことを言うんじゃねえよ。大層なことを言っても事態は好転しねえんだぞ。

 しかもそんなことを言われたら、今までの俺は何だって話になる。周りを見下し、自尊心を高めるだけだった俺は! くだらねえ現実を見たんだろ、お前は。だったら、諦めろよ、俺と違って立ち向かおうとする姿を見せるなよ。そうじゃないと、俺が馬鹿みてえだろ。

 諦めるのが最善だろうが。

「親父を殺したいほど憎いんだろ。だったら俺に協力しろ。そうしないと、永遠に父親から逃れられねえぞ」

 なぜか、こいつが親父の姿に重なって見えた。いや、今の親父じゃない。俺が幼少期に見ていた親父に……。不快な気分だった。だが――。

「……後戻りはできねえぞ」

 仕方なくそう言うと、白崎は口元を吊り上げて笑った。

 負けじと、口の端を持ち上げる。

 互角か? 同格か? 分からない。だが――。 


 影を背負ったその顔は、世間知らずの親父と比べると遥かに大人びていた。

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