1話 狙われた学園
「このへ理屈男! 馬鹿なことばっかり言ってるから、脳も体も退化するのよ!」
数少ない文芸部員の一人、明石瞳の言葉が頭を過ぎった。
キンキンと響く声を出しながら俺に噛み付いてくるのには、もうとっくに慣れたはずだが――今は、眠気に襲われる俺を苦しめる嫌がらせにしか思えなかった。喧しい声に耳を塞ぐ毎日を過ごしていたが、当の本人は、学校を欠席している。
無意識に斜め前方に位置する明石の席に視線を向ける。が、そこには、ぽつりと机と椅子だけが置いてあるだけだ。野放図な暮らしを送っている人物からは想像することもできないが、今日は風邪をひいたらしく、珍しく学校を休んでいる。
――あいつがいないだけでこんなに静かになるんだな。
しみじみと実感すると共に、再度、眠気が襲ってくる。
「学生なんだから、ハキハキしなさいよ。〝おじいちゃん〟じゃないんだから」
重ねて、明石の言葉が俺の脳を揺さぶる。
「いや、今時の年寄りは元気過ぎるぞ。タフ過ぎて、若者から生気を吸い取っていくんだよ。しこたま資産を溜め込んでいる癖に、弱者を労われと若者から金、職、元気を奪っていくんだ。だからこそ、俺が疲れているのも当たり前だろう」
そう言った時、さらに明石の顔が苦々しいものになった。
「馬鹿じゃないの。あんたのくだらない話はいい加減聞き飽きたわよ」一層声を張り上げ、明石は俺を睨みつけた。が、怖くはないので言葉を続けた……はずだ。
「いや、今時の老人は本当におこがましいぞ。婆さん達が集まって女子会と名乗るその根性。孫の顔が見てみたいもんだな」
そう口にしたと思う。反論する気が失せたのか、明石は大げさにため息をついていた。おぼろげに、そんな映像が頭に浮かんでくる。
何度こんなことを繰り返したのだろう。丁々発止のやり取りを半年も続けていれば、喧騒に違和感がなくなる。そして張り合いがなくなれば、一段と眠気が襲ってくる。首がカクンと落ちた。
日差しが厳しさを増し、机を覆い尽くした。いや、机だけではなく、俺自身の体を飲み込んでいく。気だるさを助長するような意識の喪失。とてもじゃないが思考の余裕などなくなる。瞼が重くなり、授業に集中する気が起きない。
「沢登、次の段落から読みなさい」
国語教師の静川正則が、一人の女子生徒を指名した。
不自然なほどに平和である。こんなに同じ時間が流れると、今自分が何をしているのか分からなくなる。
「おい、沢登。聞こえているのか?」
静川の声が少し遅れて俺の耳に届く。無意識に視線を彼女――沢登涼子に向けると、白いワイシャツが目に映った。この時期になると、女子生徒の大半はワイシャツの上から洒落たカーディガンを羽織るが、彼女にそんな気配は一向になかった。細い目、上向いた鼻、化粧っ気のない顔、お世辞にも器量がよいとは言えない。
本当に地味な奴だな、と自分自身を棚に上げ、ぼんやりと思っていると、何だか様子がおかしい。肩を震わせ、顔を下に向けて、何かを呟いているように見える。
「ねえ、沢登さん、大丈夫?」
それは俺の勘違いではなかったらしく、隣の席の女生徒が心配そうに話しかけながら肩に手を当てようとした。だが――沢登は勢いよくその手を払いのけ、顔を上げた。
視線は落ち着きなく辺りを見渡し、一方の手で机の脚を硬く握っている。
「沢登、具合が悪いのか?」
眉を寄せながら、静川が尋ねた時、教室全体に金切り声が響いた。
「もういやああぁ! ふざけてる、ふざけてる、ふざけてる、ふざけてる、ふざけてる、ふざけてる、ふざけてる、ふざけてる、あああああああ」
そう叫んで、沢登は自身の髪の毛を引き千切るかのように、頭を強く掻いた。
何事かと皆が顔を上げ彼女を凝視したが、当の本人は体を震わせながら一心不乱に叫び続けている。
誰もが動揺し、声を発することができずにいると、沢登は急に息を吸い込んだ。そして、嘔吐する直前のように体を縮ませながら肩を上げ、頬を大きく膨らますと、ひどく不快そうな顔をした。そのまま静かに椅子から立ち上がった。
「お、おい。沢登どこに行くんだ!」
我に返った静川が手を伸ばしながら沢登に近づこうとするが、彼女は音もなく教室から飛び出していった。誰もが呆然とし、沢登が出て行った扉を見つめていた。
――その幾ばくかの後、教室の外から物が激しく倒れる音が聞こえてきた。ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、静川は、教室にいる生徒達に待機しておくよう命じた後、慌ただしく教室を出て行った。
静川が飛び出していった後、教室内は微妙な沈黙が生まれたが、沢登の異常な行動を楽しむかのようにニヤつく男子生徒が見えた。特段、彼女に対して何の関心を持っていないようで、それは他の生徒も同様のようだった。
そのためだろうか? 静川の命令を無視し、彼女を追いかける者は一人もいなかった。
その後まもなく、彼女は教師数人が見ている中で、屋上から飛び降りた。