第六話
マタリが重い目蓋を開けると、見覚えのある薄汚れた天井が視界に入った。
霞んでいた視界が徐々に晴れていくことで、それが宿屋の一室であることを理解する。
身体が重い。頭が痛い。風邪をひいたときのように節々が痛む。
(……あれ、私は確か迷宮にいたような)
疑問に思いながら寝返りをうつと、机に向かう勇者の姿があった。
その表情はいつもの勝気なものとは違い、人違いかと思うほどの真剣なものであった。
これで言葉遣いが丁寧だったなら、ほぼ別人と思えるほどだ。
マタリが彼女のそのような表情を見るのは初めてであり、興味を覚える。
一体何を書いているのだろうかと、目を凝らしてみる。
ベッドからでは良く見えない。何やら本のようなものに、ペンで記入しているようだが。
勇者は時折悩みながらも紙面にペンを走らせていった。
(もう少し近づけば、何をしているか分かるかな?)
そう考えたマタリが身を乗り出すと、ベッドから枕が落ちてしまった。
その物音で勇者が本を静かに閉じる。作業をやめ、マタリの下へと近づいてきた。
「――おはよう。体調はどうかしら?」
「え、ええと。あまり良く分かりません。でも、少し休めばすぐに治ると思います」
「そう、まぁ慌てることはないわ。ゆっくり身体を休めなさい。戦士には休息も必要だし。特にアンタは倒れるまで突っ走りそうだからね」
意地悪げに微笑むと、机の上においてあった果物の載った皿を持ってくる。
色々な果物が、食べやすいように一口ぐらいの大きさに切り分けられている。
瑞々しくて美味しそうだと、喉が渇ききっているマタリは思った。
「丸一日寝込んでいたのだから、お腹が空いたでしょう。さぁ好きなだけ食べなさい。アンタのお金で買ったから遠慮はいらないわ」
勇者がさぁさぁと押し付けてくるので、適当に選び口に投げ入れる。
果汁が口内に広がる。ほど良い酸味が染み渡り、靄のかかっている脳を刺激する。
「……ありがとうございます。とても美味しいです」
「一つ貰ったけど、ちょっと酸味が強すぎない? マスターに見繕ってもらったんだけどね」
「い、いえ大丈夫です。ありがとうございます」
「水もそこに置いてあるわ。ああ、アンタの着替えは勝手にやらせてもらったから」
マタリが自分の格好を眺めると、見覚えのない服を身に着けている。何時の間に着替えさせられたのだろうか。
「あ、あれ」
「それを食べたら、しばらくは安静にしていることね。無理をしてまたぶっ倒れたりしたら迷惑だから」
そう言うと、勇者はベッドから離れ再び椅子に腰掛けペンを握る。
「……あの、何を書いているんですか?」
「ああ、これ? 日記よ日記。別に面白くもなんともないんだけどさ。これをやらないとどうも落ち着かなくてね」
近づいてきて本を見せてくる。こういっては悪いが、似つかわしくないなとマタリは思ってしまった。
中身は本当に日記だった。何を見て、何をして、自分がどう思ったか。ありふれたただの日記。
常に強気で、傲岸不遜、自ら勇者を名乗り魔法を駆使する少女。
それが大人しくペンを握って、日々の出来事を纏めているのに違和感を覚えたのだ。
「……ずっと、それは続けてるんですか?」
「…………ええ、まぁそうね。本当につまらない日課よ」
少し返答に詰まった後、勇者は答えた。そして続ける。
「私は、これを書くことで自分の生きた証を刻んでいる。誰も読む事がないと分かっていても。自分でもきっと読み返さない。それでも良いと思う。私が消えてなくなっても、この日記だけは暫くは残る。それで十分だと私は思う。形として残す事が出来るから」
「ゆ、勇者さん?」
マタリが声を上げると、勇者は溜息と共に苦笑する。十七という年齢に相応しくない疲れきった表情で。そこからは諦観しか読み取ることが出来なかった。
「なんでもないわ。忘れなさい。くだらない独り言よ」
そう言い切り、勇者はもう話すつもりはないと視線を机に戻す。
暫くの間、沈黙が部屋を包む。ペンで日記に刻み込まれていく微かな音だけが響いている。
「…………」
マタリは再びベッドに横になる。そして記憶の糸を手繰る作業を開始する。
自分は、一体何故倒れている。流行病に掛かり、突然倒れたのだろうか。違う気がする。
記憶に空白がある。極楽亭に戻ってくるまでの記憶がすっぽりと抜け落ちている。
マタリは現時点から記憶を手繰るのを諦め、勇者と行動を共にしてからを思い出すことにした。
二日酔いの勇者を引っ張り出し、極楽亭を出発。戦士ギルド。地下迷宮への挑戦。魔物との遭遇。そしてジャバ達との出会い。
――黄色い矢印。赤い矢印。
マタリの頭が疼き始める。身体が痛みを訴える。傷一つないのに。不安になり、勇者に問いかける。
「勇者さん。私は、何故倒れているんですか?」
「疲労で倒れたんじゃない。アンタ、無意味に緊張してたし。精神的なもんでしょ」
素っ気ない勇者の言葉が返ってくる。
(……疲労? いや、私は確か)
マタリの脳裏に、ある光景が蘇ってくる。赤い色と共に。
勇者の警告を聞かずに、小部屋に勢い良く突入したマタリ。
空気の抜ける音が複数響いた。四方から掃射される鋭利な物体。
体中を貫かれる自分。口から流れ出る真っ赤な液体。箱の上から嘲笑する不気味な男。
(確かに、私は矢で貫かれたはず。それなのに、私の体には怪我ひとつない)
マタリはもう一度身体を確認する。
見慣れぬ寝巻きに着替えさせられてはいるが、身体にはなんら変わったところはない。頭と身体は非常に重いが、それ以外には異常はないように思える。
「勇者さん。私は――」
「うるさい。アンタの精神力が回復するまで、お説教は後回し。今はグダグダ言わずに大人しく寝てなさい」
勇者は不機嫌そうな表情を浮かべ、強い口調で告げる。
マタリは、あの部屋で何かがあったと確信する。それが何か。知るのは怖い。だが確認しなければならない。
ベッドから立ち上がると、勇者の元へ歩き始める。ふらついた身体が卓にぶつかり、置かれていた果物が落下する。ぐちゃぐちゃになってしまった果物。潰れた果物から染み出る果汁が、何故か人間の血に見えた。視界が歪む。
「勇者さん、私は、何故生きてるんです? 確かに私は致命傷を。なのに、どうして生きてるんでしょうか」
「何故生きてるって、死んでないからでしょ。アンタは間違いなく生きている。ゾンビやらグールにしては顔が脳天気すぎる。だから大丈夫。アンタは生きてるよ」
「私は、あの部屋で罠に嵌って、それで、それでッ!」
マタリは両手で顔を抑える。瞳から何かが流れ出るのを感じる。身体が寒い。凍えるように寒い。
最期の瞬間を思い出す。段々と意識が薄れていくあの感覚。迫りくる死の恐怖。忘れようとしても忘れられない。
「やかましい。私は寝ろと言ったはずよ。話は完全にアンタが回復してから。嫌だと言ってもその猪並みの頭に叩き込んでやる。だから心配せず寝てろ」
勇者がマタリを強引にベッドまで押し戻す。抵抗しようとするマタリを押さえつける。
「で、でも!」
「でもじゃないのよ。一時的に体力を回復できても、精神までは癒せない。睡眠は精神力を回復させる一番の手段なのよ。つまり、アンタに必要なのは一心不乱に眠ること。何も考えるなくて良い。わかったら――」
「癒す? 勇者さんが私を助けてくれたんですか? でも、一体どうやって!?」
言葉を途中で遮り、マタリは矢継ぎ早に質問を投げつける。
いつになく必死だった。藁をもつかみたいというマタリの表情。生きていると確認したかった。誰かと話していないと、死の恐怖が押し寄せてきそうだった。だから、マタリは勇者の身体を全力で掴んだ。勇者の両腕を握り、爪を立て決して離さないように。
目は常軌を逸しており、傍から見れば気が触れていると思われるだろう。マタリの精神は錯乱する直前。危険な域にあった。
「アンタは本当に話を聞かないわね。これから矯正してやるから覚悟しておきなさい。でも、まずは――」
勇者は拘束されたまま、マタリの目を見据える。焦点の定まらないそれを捕らえる。
勇者の青い瞳に捕らわれたマタリの身体が硬直する。徐々に力が抜けていく。だが、先ほどのような死の恐怖はない。凍えるような寒さが消えていく。温かい安堵が心を包んでいく。
目を見開き、勇者は一言だけ呟いた。
「眠れ」
◆
戦闘が終わり、先程までの喧騒が嘘のように室内は静まり返っている。
血の臭いと人間の焼ける臭いで充満している。
「やりすぎた。まぁ一匹も逃がすつもりはなかったから構わないか。しかし、身体がなまってる」
外道の首領格は、最初にぶちぬいた時に終わらせるつもりだった。それが中途半端な一撃となってしまった。
どうも身体のキレが悪い。本調子になるまで無手はやめておくかと嘆息する。
勇者は武器を選ばない。使い潰したら他のを探せば良い。という訳で、勇者は外道の使っていたダガーナイフを頂いておいた。
刃こぼれもなく、中々質も良さそうである。
勇者はダガーナイフを腰に携えると、端に倒れているマタリの元へ近づいていく。
隣に膝をついて、その身体を観察する。鋭利な矢が数十本刺さっている。出血も多い。衝撃で骨も砕けている。
――心臓への一矢が致命傷のようだ。
開かれたままの虚ろな瞳に、明るい光が灯る事はもう永久にない。
普通ならば。
「…………」
勇者は無表情で一本ずつ矢を抜き取っていく。抜いた瞬間の、肉を削り取るような感触が不快だった。
鏃が骨に引っ掛かる。強引に抜き取ると皮膚に肉片がこびりついていた。壊れた鎧を外しながら、背部も片付けていく。
力なく転がるマタリの頭。その虚ろな目が勇者の方向を捉える。
勇者は反射的に手を翳し、マタリの目を閉ざした。呼吸が荒くなる。死体に長く触れていると、気が狂いそうになる。
その口から、いつ勇者への恨み言が呟かれるか分からない。
『何故こうなるまえに助けてくれなかった。どうしてお前は生きている。何故、何故、何故?』
勇者は吐き気を堪えながら、最後の矢を抜き取り放り投げる。
精神を落ち着かせる為に、一度目を瞑り呼吸を整える。
「…………」
本当にこれからする行為が正しいのかどうか。自分には良く分からない。判断が出来ない。
このまま死んだ方が、この娘にとっては安楽ではないのか。
だが、自分がどうしたいのかは分かっている。ならば、そうするべきなのだろう。自分の道は、常に自分で選ぶ。だから後悔はしない。あの時、そう決めたのだから。
――『余は、この結末に悔いはない。運命などというものに身を託したのではない。全ては余が決めた。そう、余が選択し、この結末を迎えたのだ。悔いなどあろうはずがないッ』――
勇者はマタリを仰向けにして、その冷たくなった手を中央で組ませる。祈りの態勢を取るかのように。
「精神を統一し、引き込まれないように発動する。私は生きている。私は生きている。私は確かにここにいる」
口に出して確認する。決して引き込まれてはいけない。勇者といえど例外ではない。死者の声を聞いてはならない。
左手を自らの胸に当て、右手をマタリの胸に当てる。淡い光が勇者の身体から発せられる。
「――彷徨える哀れな魂よ、我が祈りに応じ、再びこの器に舞い戻り給え」
勇者の身体を伝い、淡い光がマタリへと流れ込んでいく。
同時に勇者の顔から生気が失われていく。呼吸が荒く、心臓の鼓動が激しくなる。意識が遠ざかりそうになると、勇者は唇を噛んで耐える。背後を振り返らせようとする嫌な感触も無視する。耳元の甘い囁きを決して受け入れない。
続けて激痛が訪れる。マタリが死に至った矢の嵐。同等の痛みが勇者の精神を削っていく。
――まだか。まだ来ないか。早く。そろそろ危ない。だから早く。もう駄目だ。さぁ早くしろ。今すぐにッ!
「戻って来い猪娘ッ!!」
叫び声をあげてマタリの胸を叩きつけると、淡かった光が眩いまでの閃光を発した。
勇者が後方に弾き飛ばされる。途切れそうになる意識で踏ん張り、ふらつきながらマタリの下へとたどり着く。光は収まっているが、勇者の目はまだチカチカしている。
心臓に耳を当てる。鼓動が聞こえる。口元へ手をやる。呼吸をしている。身体の傷は完全に塞がっている。身体に赤みが混じり始めた。
「なんとか成功か。むしろ、私が、死にそうだ」
今までに数えるぐらいしか使ったことがない魔法。死者を蘇生させるという禁忌を犯すもの。
但し、病気や寿命による死には効果がない。時間が経過しすぎても駄目。器が残っていなくても駄目。訪れる死の痛みに耐え切れなければ、蘇生は失敗する。
賭け金は自らの魂。彷徨っている死者の魂を再び引き摺りこむのだ。その際は自らのそれも無防備となる。生ある者を引き込もうとするあの声に答えてしまったら、おそらく死ぬだろう。あの甘い囁きに、精神が屈服してしまったら。
「もう二度と使わない。次は、多分死ぬ」
以前より声が近くなっているのが分かった。今までは耳元までは来なかった。次は“それ”が正面に現れる気がする。
今回は耐えることは出来たが、消耗は激しい。精神力が切れそうだ。魂が擦り切れている感じがする。
早く打つ鼓動が収まらない。視界が歪む。
もう無理と声を上げ、勇者は床へと寝転んだ。外道の首なし死体が目に入ったので、更に気分が滅入った。
マタリの方へ視線を向ける。まだ意識は戻らないようだ。鎧はもう使い物にはならないだろう。普通ならば、使用者は死んでいるだろう損壊具合だ。どう誤魔化すか考えるのも勇者は億劫だった。
(ベッドで今すぐ横になりたい。本当にだるい。もう戻るのもしんどい)
勇者は心から嘆息する。何でこんなに疲れているのだったか。
原因であるマタリの意識は、当分戻らないだろう。世の中そんなに甘いものではない。
蘇生して肉体の傷は癒せても、傷ついた精神までは癒すことは出来ない。寝るのが唯一の回復手段だ。
そして自分も精神を著しく消耗して、身動き出来ない。
ということは、死体やら肉片やらが散乱しまくったこの部屋で、時間まで待機しなければならないということだ。
左手の星を確認する。後三十分程度だろうか。今ネズミの大群がきたら困るなと、勇者はぼーっと考えた。
(そういえば、戻る転移呪文があるなら、地下の途中まで転移も可能なのかな。んー、分からん)
今度マタリか横柄な門番に聞いてみようと決め、勇者は上半身を起こそうとした。
――その瞬間、小部屋の入り口からパチパチと手を叩く音がする。
どこの馬鹿が拍手なんかしているのだろうかと勇者は眉を顰めた。さっきの屑共がゾンビとして蘇ったのかもしれない。きちっと燃やしておくべきだったと、少しだけ後悔する。
後悔は正すべきと考え、即座に実行すべく気配がする方向へ振り返る。
目に優しくないピンク色が視界に飛び込んできた。迷宮内だというのに何故か光っている。自己主張するように。
うわっと叫び、思わず目を覆った勇者が少しずつ腕を下げていく。
ピンクのとんがり帽子にピンクの魔術師風のローブが確認できた。とんがり帽子の下からは、銀の長髪が腰まで伸びている。
勇者は、手入れが大変なのでショートカット以外はしたことがない。魔物と戦うのに精一杯でそんな余裕はなかった。
そんなピンキーな衣装に身を包み、髑髏水晶の杖を持っている変な女。歳は二十代後半から三十前半か。
美人といって良いとは思うが、趣味と性格は悪そうだ。
第一印象は『趣味と性格の悪いピンキー』に決めた。
「あまりに悲しく感動的な光景に、思わず言葉を失っていましたわ。仲間の死を悼み、悲しみを堪えながら鎮魂の儀式を行う少女。なんと悲劇的なのでしょう。ああ、涙が出てしまいそう」
演技ぶったわざとらしい口調で、形だけの同情の視線を送ってくる。手に持ったハンカチで、目元を拭う仕草をする。
その口元の笑みを隠すことが出来ておらず、本心では小馬鹿にしているのがバレバレだ。隠す気もないようである。
――性格が腐っている。性根が捻くれていると自覚している勇者には直ぐ分かった。
こういう手合いは、関わると碌なことがない。よって即座に追い返すのが正解だ。
「そう、それじゃあ満足したでしょう。気が済んだら出て行ってくれる? 目障りだから」
「あらあらつれないわねぇ。お仲間が死んだから感傷的になっているのかしらぁ?」
一つ返事をすると、二つムカつく言葉が返ってくる。会話を続ける意欲が急速に減っていくのが分かる。勇者の僅かな精神力が磨り減っていく。
ピンキーな魔術師は杖を回しながら、頭部とおさらばした外道の首領に近寄っていく。頭はいくら探しても絶対に見つからない。勇者が自慢の拳で消し飛ばしてやったからだ。残骸なら床一面に転がっている。
ツンツンと杖で胴体を玩びながら、うーんと不思議そうな声を上げる。どうやら装束を確認しているようだ。
「ねぇ、貴方がサルバド達を殺したの? 貴方みたいな餓鬼が殺せるような相手じゃないと思うんだけど。何が起こったのかしら」
「転んだ拍子に、勢い余って首を弾き飛ばしちゃったの。事故ってやつね。悪いことしちゃったわ」
「へぇ、そう。凄いわねぇ」
「それで今お悔やみ申し上げているところなのよ。屑共が早く地獄に落ちますようにって。分かったらさっさと出ていけ」
「フフ、面白い子ねぇ」
薄く笑みを浮かべると、ピンキーが杖で胴体を弾き飛ばした。首なし死体が壁に打ち付けられ、黒い血がぶちまけられる。
血飛沫をまた浴びてしまった勇者は文句を言うことにした。
「ちょっと、血が飛び散るからやめて頂戴。臭いから」
「私は大丈夫よ。魔法のお化粧で血飛沫がつかないようにしているから。やっぱり女は美しさが大切よ。そのためなら投資は惜しまないわぁ」
「あっそ。もういいから出て行け」
勇者は軽く流した。そして入り口を指差すが、ピンキーは動じない。
「それで、この『罠師サルバド』をどうやって殺したのか教えてくれる? たかだか『仮許可証』の駆け出しに討ち取られるような奴じゃないのよ。賞金狙いの冒険者を何人も返り討ちにしてるからね。一体どうやったのか、実に興味がそそられるわぁ」
ピンキーが笑いながら、徐々に距離を詰めて来る。
勇者は残り時間を確認する。まだ先ほどから変化がない。残念ながら付き合わなければならないようだった。
「だから、転んだ拍子に――」
「その割には、周りの手下がバラバラになって死んでいるのはどうしてかしら。とても芸術的な殺り方ね。まるで内部から爆発したような」
ピンキーは部屋をゆっくりと歩き回り、一つ一つ死骸を確認している。
どれもこれも酷い有様だと、勇者は他人事に思った。だが外道の末路はあんなものである。
「飲んでた酒に引火して吹っ飛んだんじゃないの? ほら、度数高いと火つくじゃない。多分そうよ。私、この目で見たもの」
何も考えず勇者は適当に返答する。言い訳するのも精神力がいるのだ。何も考えないとこんなもんである。
ピンキーは段々イラついてきたのか、視線が鋭くなってきている。
「……素直に教えては貰えなさそうね。――ちょっと試してみようかしら」
「やるの? 別に良いけど、今は手加減出来ないからそのつもりで。そうそう、遺言は考えとけよ」
挑発的な女の視線に、勇者は口元を歪ませて答える。口調が変わり始めた。攻撃行動を仕掛けてきたら、半殺し以上は確定だ。
数秒程視線がぶつかり合い、一触即発の空気が漂う。
暫くするとピンキーは視線を外し、軽く肩を竦めた。
「……今日は、止めておくわ。何らかの手段でサルバドを殺した危険人物。たとえ糞餓鬼だとしても、警戒するに越したことはない。いきなり仕掛けるのはお利口さんとは言えないものね」
「その方がこっちも助かるわ。今日はもうしんどいから。オバさんの相手は疲れるのよ。粘々としつこくて」
手をひらひら振って、勇者が答える。ピンキーの表情が一瞬だけ悪魔のように変化したが、すぐに戻った。
性格と趣味は悪いが、顔は面白いと勇者はピンキーの評価を少しだけ上げた。
「それじゃ、お邪魔する前に、商談と行きましょうか。私も忙しいしねぇ」
「……商談?」
勇者の訝しげな視線に、ピンキーは笑みを浮かべながら左手の甲を見せてくる。
そこには六芒星の刻印があり、怪しげな赤い光を放っている。
「私は魔術師エーデル・ワイス。またの名を死霊術師エーデル。扱うのは“炎”と“死体”」
ピンキーことエーデル・ワイスの身体から、人魂のようなものが滲み出る。
エーデルの周りをふわふわと浮遊し、不気味な青白い光を放っている。
これが死体に乗り移るのだろうと勇者は予測した。魔物にも似たような奴がいたから記憶にある。
「……外法術師か」
わざわざ手の内を明かすということは、実力に自信のある証拠だ。
この女、ただのピンクではないようだと警戒態勢に入り、奇襲に備える。
「そういう呼び方は嫌いよ。私は悪いことは一切していないもの」
「良いこともしてないでしょうが。外法使いはどいつもこいつも……」
「してるわよ。人間なんて死ねばただの肉塊。それを回収して掃除してあげるのだから。肉塊を使って魔物を倒す。抽出した魔素を教会へちゃんと納める。私はギルドから高い評価を得る。故に、私はギルドを除名されることもないのよ」
左手を下ろすと、エーデルは杖を両手で握り締める。漂う人魂が髑髏水晶に宿り、空虚な瞳に光を灯す。
「それで、その変態魔術師さんは一体どんな商談がしたいのかしら。死体の押し売りはお断りよ」
「話は簡単よ。そこのサルバドの死体と、貴方のお仲間の死体を売って欲しいの」
「はぁ?」
いきなりの提案に勇者は呆然とする。
「本当は、サルバドに肉壁用の死体を売ってもらうつもりだったの。サルバドは首だけ集めて胴体はうち捨てるから。でも相手が変わっちゃったから、こうして貴方にお願いしてるわけ。理解してくれた?」
横たわっているマタリへと視線を送ると、ニヤリと薄気味悪い笑みを浮かべるエーデル。
やはりこの女は変態だと勇者は強く思った。ピンキーで十分である。
「そのサルバドだかサルマタだかはどうでも良いけど、この娘は駄目よ。だって生きてるからね」
勇者の言葉に、馬鹿馬鹿しいという表情を浮かべるピンキー。全く信じてはいないようだ。
装備している鎧の惨状を見れば、生きてると思うほうが可笑しい。
(まぁ、意味ありげに両手も組んでるし。死体にしか見えないけどね)
「生きていて欲しいと願う気持ちは分かるけど、どう見ても死んでるじゃない。早く現実を見ることね。そんなんじゃこの先やっていけないわよ。この迷宮で大事なのは切り替え。前を向いて歩かなくちゃ駄目よ」
「そうなんだ」
ピンキーのありがたいお説教に、勇者は棒読み口調で返事をした。
「そうなのよ。私の言うことに間違いはないわ。で、金額だけど。サルバドは銀貨一枚。その金髪の娘は銀貨十枚で買い取るわ。たかが死体に破格の値段でしょう。感謝してもらいたいわぁ」
「はぁ」
「サルバドは首なしの上、損傷が激しいから肉壁用の使い捨て。傷がもう少しすくなければねぇ。彼結構鍛えてたから。それにひきかえ、金髪の娘は顔も綺麗だし中々良い感じよ。ぶっ壊れるまで使い潰してあげる」
「笑顔で何言ってんのアンタ」
「死ねば誰もが肉の塊になるでしょ。腐敗して蛆が湧き、朽ち果てて骨になる。私はその循環を早めてあげてるのよ。何にも悪いとは思わないわぁ」
「アンタの頭に蛆が沸いてるんじゃないかな。死んだら確認してやるわ」
「それはどうもありがとう。じゃあこれがお金よ。ありがたく受け取りなさい」
そう呟くと、勇者に銀貨が入った袋を投げてくる。勇者はそれを掴み、銀貨を一枚だけ抜いて投げ返した。
マタリを売る気は全くない。精神を疲弊してまで蘇らせたのだから。
だが、迷惑料として受け取っておいても良かったかもしれないと勇者は思った。
「銀貨一枚だけ受け取るわ。その首なしは好きにしなさい。だけどマタリは駄目よ。これで二回目だけど、この娘は生きているのよ。だから絶対に売れない。疑うならこっちに来て確かめなさい」
「本当にしつこいわねぇ。まぁ良いわ。それで納得するなら確認してあげるわよ。確認ついでにお祈りもしてあげる。感謝しなさいよぉ」
両手をわざとらしく上げ呆れて見せると、マタリの傍に屈み、目を細めて観察を始めるエーデル。少しして、『あれ?』と怪訝そうな表情を浮かべる。
「どう? ちゃんと呼吸もしているし、脈もあるでしょう。ちなみに私はアンタらと違って外法は使わないから」
「……う、うそ。なんで生きてるの。こんな深そうな傷をこれだけ受けて、治癒が間に合うわけがない」
破損している鎧の状況から、肉体への損傷を予測するエーデル。身体を触り、傷がないことを確認すると呆然と呟く。
「――あ、ありえないわ」
「運が良かったんじゃないの?」
勇者がすっ呆けると、エーデルが睨みつけてくる。
「運で何とかなるわけないでしょう。致命傷は治癒することは不可能。そんなの常識よ! ……一体どういうこと」
エーデルが片目を瞑り、思考に耽る。
「まぁとにかく諦めてよ。生きている人間を連れていくのは誘拐だもの。強行しようとしたらアンタを殺す」
勇者が冷たく言い放つが、エーデルは納得していない。どうしてもマタリが生きている事実に納得がいかないらしい。
勇者の言葉を無視して、思考の渦に入り込んでいる。
「……そういえば、何か妙な光りが。この餓鬼、まさか。でも、そんなことは――」
「人の話を聞きなさいよ」
「……はぁ、仕方ない。この首なしのサルバドだけで我慢するわぁ。折角活きの良い、小奇麗な死体が手に入ると思ったのに。本当に残念」
変態が変態に相応しい言葉を吐いていると、勇者は軽く聞き流した。
エーデルが杖の先端を床に叩きつけると、魔力の刃が放たれる。それはサルバドの右手を切り飛ばし、勇者の前にポトリと落ちた。 手首の切断面からは赤黒い液体が流れている。嫌がらせだろうかと勇者はその意図を探る。
「……何のつもり?」
「私は人の手柄を奪うようなことはしないのよ。それは貴方の戦利品。私のじゃないわ」
右手をよく見ると、ナイフと鍵が交差した刻印がされている。恐らく職業を表すものだろうと勇者は考えた。
エーデルの手には赤い六芒星がついていたから。
「この手をどうしろっていうのよ。まさかこれで装飾品を作れとか?」
「お馬鹿さんねぇ。賞金首を討ち取ったら、職業刻印の入った部位を持ち帰ることになってるでしょう。ギルドに帰ったら自慢してあげなさい。きっと皆驚くわよぉ」
怪しげに微笑むと、エーデルは杖を華麗に回して詠唱を始めだす。
その間に勇者は手首をつまみ上げ、尻尾が腐るほど詰った皮袋へと放り投げる。ドブ臭い尻尾の山に、外道の手首。
勇者の気持ちが暗澹となる。もう金はいらないから今すぐ爽快に焼却したい気分に駆られる。
が、頑張って堪えた。色々と入用になりそうだったから。
「さて、それじゃあ行くわね。貴方の顔しっかり覚えたわぁ。またゆっくりと聞きたい事もあるし。必ずまた会いましょう。再会の日まで、無事に生きている事をお祈りしてるわねぇ」
語尾を延ばしながら、エーデルが杖を突く。髑髏水晶から赤い光りが迸り、首なしサルバドを包む。
暫くすると胴体がのっそりと起き上がり、小部屋の入り口へとふらふらと歩き出す。
「……それ、持って帰るの?」
「少し操作して慣れておくのよぉ。街に持って帰ったりはしないわ。ある場所に送り飛ばして、必要な時は召喚するの」
「……あっそ」
「では、御機嫌よう。また会う日まで」
去り際に恭しく一礼すると、エーデルは鼻歌交じりに出て行った。その後を首なしサルバドが追いかけていく。
勇者はガクッと頭を垂れる。倒れこまなかっただけ大した物だと自分を褒めていた。
「嵐みたいな女だった。しかも顔を覚えられてしまったし。当分ピンクは見たくないわ。それにとっとと帰りたい。後何分かしら」
勇者がぶつぶつと独り言を呟く。マタリはまだ目を覚まさない。
結局、勇者は転移呪文が発動する時間までその場で待機していた。幸運なことに魔物が現れなかったのだ。
これは、エーデルが首なしサルバドと共に通路を片っ端から掃除していたからなのだが、勇者は知る由もない。
時間になると、勇者とマタリは地上へと送り飛ばされる。ヘロヘロなのを堪えてマタリを気合で担ぎ上げ、街へ戻ろうとする勇者。当然ながら服装は血みどろなので、門番に見つかり厳重注意を受ける。
『治安の乱れにつながるので、血塗れで街を歩く事は許されない。着替えが欲しければお布施するように。嫌なら水場で洗い落とせ』と、勇者はありがたいお言葉を頂いてしまった。
嫌々ながら銅貨百を再び支払い、勇者は星教会の白いローブに身を包む。マタリは怪我人なので見逃してくれたようだ。
横柄な門番は鎧の状況を見て、なぜ生きているんだと怪訝な表情を浮かべるが、特に事情を尋ねてはこなかった。
数多くいる冒険者の事など、一々気にしてはいられないのだろう。
マタリを背中に乗せ、勇者はゆっくりと極楽亭へと向かい始める。その後は戦士ギルドに行って部位を換金しなくてはならない。
「なんだか、色々あった一日だった。明日はゆっくりしよう。酒飲んでぐったりしよう。そうしよう」
太陽はすっかり沈んでいる。アートの街は冒険者や旅人で賑わいを見せていた。
――勇者達の長い一日がようやく終わった。
ピンキーがあらわれた