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勇者、或いは化物と呼ばれた少女  作者: 七沢またり


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第三十四話

 ――大結界消失。この驚くべき報せはすぐさま教皇エレナへと届けられた。

 それだけではない。魔物達が下層部より、大移動を始めているという情報までもたらされたのだ。

 道中の魔物を加えながら群れは上を目指し続けていた。他のことには目もくれず、ひたすらに地上を目指して進撃を始めたのだ。

 恐らくは星玉の力を得たイルガチェフの仕業だとエレナは推測する。偶然とはとても思えない。

 大結界の消失、魔物の地上侵攻。あまりにもタイミングが良すぎる。これが意味するのはイコナ達の死だ。残念ながら、派遣した異端審問官は全滅だろう。

 司教ニカラグは言葉を失い、左右に居並ぶ教会幹部達もこの世の終わりの如き顔をしている。

 大結界に“もしも”があったときに備え、研究は行なわれていた。だが、あれほどの大規模な結界だ。作業は難航していた。レケンの所有する魔道書があれば話は別だっただろうが。

 エレナは覚悟を決めて、重々しく口を開く。


「……魔物達が地上に現れるまで、後どの程度の猶予があるか」

「魔物の群れと遭遇した冒険者達は、地下六十階層から何とか帰還したとのこと。群れが休息を取らずに移動し続けると予測しますと、明日の夜明けには地上へ到達するかと思われます」


 希望的観測を排除してティモールが述べる。この男は魔物と何度も立ち会い勝利してきている。魔物達の移動速度もその目で確認しているだろう。ティモールの推測には信頼が置ける。


「そんなに早いか」

「はい。奴等は我々人間とは違いますので。一刻も早く迷宮前広場一帯に防衛線を築く事を提案致します。今より作業を行えば強固なものとなりましょう。本日中に打てる手は打つべきかと」

「……分かった。ティモール、お前はラフロレンシアを率い、直ちに防衛線の構築に当れ! また、各ギルドに要請し義勇兵を招集するように。多くの戦力が必要となろう」

「エレナ様、もうひとつお願いしたきことが御座います。教団兵から決死隊を募る許可を頂きたい。地下迷宮上層部の階段に配置すれば、時間稼ぎとなります」

「……許可する」

「ありがとうございます。決死隊に志願した面々には、必ずや星神の慈悲があることでしょう」


 ティモールが狂信的に口元を歪める。志願しなければ強制的に送り込むつもりだろう。それを理解した上で、エレナは許可した。

 続いてエレナは、嫌悪を浮かべるニカラグに命令を下す。


「ニカラグ。お前はアートの住人の避難誘導を担当しろ。恐らくこの街全域が戦場となる。巻き添えは出来る限り少なくしたい。それと並行して各国に増援要請の使者を送れ。丁度ユーズ王国とキーランド帝国の部隊が近くに駐留していたはずだな」

「はい、エレナ様への表敬の為に訪れております。ですが、彼らの兵力はそれほど多くはありませんぞ。また、各国に少なくない借りを作ることになりましょう」

「構わぬ。全ての責任は私が取る。今は一人でも多くの戦力が欲しい」

「畏まりました。早速使者を送りまする」

「……いざとなったら、教会保有の全魔素を注ぎ込み、魔素収縮装置を暴走させるつもりだ」

「お、お待ち下さい。そのようなことをすれば、この街はただではすみませんぞ!」

「魔物が闊歩する世界になるよりは、街一つ消し飛ぶ方がマシだろう。犠牲者が少なくなるよう、全力を尽くせ。――合図は赤い狼煙だ。手配が終わったら、お前も街からの退避をすませろ。私に何かあれば、お前が教皇代理として指揮を執るのだ」

「エ、エレナ様!」

「教徒達の死出の導きは教皇たるこの私が行わねばなるまい。無論、入り口で押し留めることに全力を尽くすつもりだが。……こうなった以上、仕方がない事なのだ。教皇が今更逃げ出すわけにはいくまい」


 エレナは苦笑すると、懐に隠しておいた薬を大量に飲み干す。クラウには禁じられていた精神安定剤。苦味が口内に広がり、徐々に精神が高揚してくる。こうでもしなければ、重圧に押しつぶされてしまいそうだった。





 ひっそりと静まり返った戦士ギルド。

 教会から避難指示が下ると、所属する大多数は我先にと逃げ出した。

 彼等は生きるため、家族の為の金を稼ぎに来たのだ。間違っても世界を救う英雄として死ぬ為ではない。残ったのは生きることに飽きた奴と、物好きな連中だけである。

 ギルドマスターのロブと、支度を終えた古参の面々が最後の酒を酌み交わしていた。

 この一杯をやったら、防衛線構築に加わる予定である。


「やれやれ、俺がギルドマスターの時に、こんな事態になるとはツイてない。全くやってられん」


 溜息を吐きつつ、一気に酒を呷りテーブルに叩きつける。空になったグラスに、ジャバが酒を注ぎ入れる。


「まぁ運が悪かったと諦めるんだな。普段の行いが悪かったんじゃないのか?」

「お前に言われたらお終いだ」


 ジャバのグラスに酒を注ぎ足す。


「ロブ、お前本当に義勇兵として参加するのか?」

「ギルドマスターだから当然だ。逃げ出したりしたら示しがつかん。……家族は避難させたがな。お前は逃げないのか?」

「ふん。腐れ縁の糞坊主が張り切ってやがってな。俺もそれに付き合わされるって訳だ」


 ジャバが憤慨すると、周りから笑いが漏れる。


「心配するな。きっと何とかなるさ。何しろ、うちのギルドには勇者様がいたんだからな。怒らせるとおっかねぇけどよ」

「あのお嬢ちゃんが起きた時に悔しがらせてやらねぇと。勇者様じゃなく、俺達が街を守ったんだってな」

「その意気だ。……よし、そろそろいくか。魔物は待ってくれねぇぞ!」

『応ッ!』


 ロブとギルド員達はグラスを掲げて一気に飲み干した後、得物を片手に戦士ギルドを後にした。

 

 

 一方、クラウとボーガン率いるレンジャーギルド。

 彼らは少しでも魔物侵攻を遅らせる為に、迷宮上層の至る所に致死性の罠を仕掛けていた。相手はただ闇雲に進んでくるだけなので、小細工をして隠す必要などなかった。

 床を踏むと射出される弓矢、毒針つき落とし穴、釣り天井など、簡単だが効果的なものを大量に作成してばら撒いた。


「頭、姐さん! 持って来た罠は全部仕掛け終えましたぜ!」

「よーし、それじゃあ撤収準備をしろ。忘れ物はするんじゃねぇぞ!」

「へい! それと、あいつらは本当に良いんですかい? あれじゃあ足止めにもなりそうにないですぜ」


 手下が顎で示した方角。階段の側で、槍を構えて隊列を組んでいる教団兵達。足は震え、顔は青褪めている。決死隊と称して防衛にあたるらしいが、あれではクソの役にも立たないだろう。ボーガンもそう思ったが、口には出さない。


「アイツらにはアイツらの事情がある。俺たちは俺たちで出来る事をするんだ。そうだろう、クラウ」

「そういうこったね。まぁ、死ぬのが早いか遅いかの差かもしれない。なら、好きなようにしたほうが後悔しないさ」


 髪をかき上げてクラウが言い切る。相変わらず良い女だとボーガンは思う。ガキ共は信頼出来る手下に任せて既に避難させてある。もう一度顔を見れるかどうかは己の頑張り次第だろう。

 ボーガンは気合を入れる為に、クラウに向かって告白することにした。顔を見つめようとしたが、思わず少しはだけている胸元に目がいってしまった。勘の鋭いクラウに鬼のような形相で睨まれる。


「な、なあ」

「なんだい。最後にヤらせろとかいったら百叩きだよ」

「ち、違う。な、なんだっけ。そうだ、言いたいことがあったんだ」

「なんだい、改まって」

「……お前と会えて良かった。我が最愛の妻よ」


 ボーガンが真顔で告白した瞬間、周りが一斉に囃し立てる。口笛を吹き鳴らし、イヤッホウと声を上げる手下達。静まり返った地下迷宮が騒がしくなった次の瞬間――。

 クラウはボーガンの顔面へ、腰に捻りを加えた渾身の鉄拳をめり込ませてきた。雷鳴の如き素早さだったため、全く対処できなかったボーガン。極めてゆっくりな動作で大の字にひっくり返ると、そのまま昏倒した。


「冗談言ってる場合かい、この大馬鹿野郎が! ほら、お前らさっさと準備しな。戻ったら防護柵の設置だ。グズグズしている奴はぶん殴るよッ!」

「へいっ! もうすぐ終わりますぜ!」


 レンジャーギルドの面々は、何事もなかったかのように帰還作業を再開した。

 クラウは未だ意識を失っている馬鹿男を見下ろす。

 ボーガンはこともあろうに、レンジャーギルドマスターである自分に、子供達と一緒に避難するように言ってきたのだ。クラウは妹分のエレナを見捨ててはいけないと拒否したが。その心遣いは嬉しかった。

 確実に消耗戦になるこの戦い。死ぬのは自分か、この馬鹿か。それとも両方ともか。結果は神のみぞ知るという奴だろう。

 だが、一つだけ、微かな望みがあるとすれば。それはボーガンが畏怖する少女。今は人事不省に陥っているあの娘かもしれない。

 人類の危機に現れ、苦しみから救い出す勇者。それがおとぎ話の英雄だ。

 本当にあの娘が、真の勇者だとすれば。

 ――クラウはあまりに都合の良い想像だと苦笑しながら、転移石を掲げて地上へと帰還した。

 

 

 住民の多くが避難中だというのに、いつもと変わらぬ賑わいを見せる極楽亭。

 だが、客達は無理をして笑っているかのようにも見える。空元気でも笑っていないと、精神がもたないのだ。

 彼等には戻るべき家がない。待つべき家族もいない。かといって義勇兵として戦う気力もない。そんな夢破れた冒険者が選んだ最後の場所は、ここだったのだ。

 マスターは何度目か分からない溜息を吐き、目の前のどうしようもない飲んだくれに声を掛ける。


「なぁ、なんでお前等はまだここにいるんだ?」

「俺たちには行くところなんてないのさ。街の為に戦うなんてのも柄じゃない。かといって逃げたところで何もありゃしない。ここはそれなりに馴染みの店だろ? 今までの礼も兼ねて、最後はここを守ってやることにしたって訳さ。他の連中もそうだろうよ」


 だからツケはチャラにしてくれよなと、飲んだくれは白い歯を見せる。

 死んだらツケもこうもないだろうと思うが、こういう時はノリが大事だ。空元気を出さなくては、怖くて倒れてしまいそうだった。


「仕方ねぇ奴等だな。ほら、もう好きなだけ飲め。お前等も飲み放題だ、遠慮するなよ! 魔物にくれてやるよりはお前らにくれてやらぁ!」


 勿論だ、と各テーブルから声が返ってくる。


「流石は極楽亭のマスターだ。店の馬鹿でかい看板は伊達じゃないな」

「うるせぇ畜生! ようやくこれからって時にこれだ! まったくやってられねぇ!」


 店も軌道に乗り始めてきた矢先の災厄。今更逃げ出して、やり直す気力はない。


「ハハハ! 人生ってのはそんなもんさ、マスター。アンタもさっさと逃げりゃいいのに、馬鹿だなぁ」

「客置いて逃げるほど、俺は落ちぶれちゃいねぇよ」

「そいつはいいや。ここにいる奴等は、最後まで戦うさ。なぁに、その間にマスターは逃げれば良い。それぐらい、俺達だって出来るさ」


 なぁ、と飲んだくれが声を掛けると、そうだそうだと威勢の良い声が続く。

 ネズミばかり狩ってる癖に偉そうにと、つい皮肉が出そうになるが堪える。彼らなりの気遣いだと判ったから。ここに魔物が押し寄せてきたら、逃げ場などある訳がない。


「そういや、リモンシーはどうしたんだ?」

「上で常連客の所だよ。顔見せた後はとっととずらかるそうだぜ。……アイツは上手い事逃げ出しそうな気がするな。何せ世渡り上手な奴だからよ」


 既に、混雑した避難民を押しのける為のいかつい護衛まで雇っているぐらいだ。腹黒く世知辛いリモンシーならば難なく逃げ延びるだろう。

 マスターは自分のグラスに、最高級の酒を注ぐと、もったいなさそうにチビチビと飲み始めた。

 

 

「エーデルさん。リモンシーさん。私はそろそろいきます。陣の構築の手伝いをしなければいけませんから。勇者さんの事、くれぐれもお願いします」

「まかせてー。外までは確実に避難させるわ。もう準備も出来てるし。常連さんだったから、最後まで面倒は見るからー」

「私が責任を持って、勇者ちゃんの面倒は見るわ……貴方の事は、引き止めても無駄かしら」


 エーデルが問いかけてくる。


「申し訳ありません。勘当されたとはいえ、私はアートの一族です。身内の罪は私が償わなければなりません。兄レケンが大結界を消失させたことは最早疑いようがありません。必ず私が始末します」


 地下迷宮を覆う大結界の消失。それがどのような結果に繋がるか、レケンが考えなかった訳ではあるまい。何らかの考えがあるのだ。

 これを機に、己の存在価値を見せ付けようというのが目的かと初めは思った。だが、レケンから送られた小箱を開けてまた分からなくなった。

 中には、レケンが命より大事にしていた魔道書が入っていたのだ。彼がこれを継ぐ為にどれだけの努力をしてきたか、マタリは知っている。その宝というべきものを、なぜ自らが追い出したマタリに預けるのか。どうしても理解できなかった。

 いずれにせよ、会わなければならない。結界を再構築させるよう迫り、断れば斬り捨てる。アート家の血を引くマタリがやらなければならないことだ。兄の不始末は妹が償う。兄妹なのだから当たり前だ。


「マタリちゃん。お兄様のことはあまり気に病まない方が良いわ。貴方が無理をして死んだら、勇者ちゃんが悲しむでしょう」

「分かっていますよ、エーデルさん。でも決めましたから。兄の件が片付いたら、私は防衛戦に参加します。勇者さんの代わりに、魔物を一杯殺して殺して殺しつくします。力尽きるその時まで。これも、決めたことですから」

「……マタリちゃん」


 エーデルは説得を諦めたのか、それ以上喋る事はなかった。

 マタリはベッドで眠り続ける勇者の手を握り締める。とても冷たい両手を、少しでも温まるようにと強く。


「――勇者さん。今までありがとうございました。貴方がいなければ、私はもうこの世にはいないと思います。……本当に、感謝しています。短い間でしたが、ご一緒できて楽しかったです」


 勇者の返事はない。マタリは微笑む。


「きっと大丈夫。すぐに元気になります。平和になった世界で、勇者さんはいつまでも幸せに暮らすんです。勇者さんにはそうなる権利があるんですから。めでたしめでたしで物語は終わりますよ。そうじゃないと、辛すぎますから」


 零れそうになる何かを堪え、マタリはゆっくりと手を離した。


「……命を無駄にしないようにね。人は、死んだら生き返らないのだから」

「そうですね。魔物を駆逐するまで、私は死にませんよ。狂戦士らしく、笑いながら戦うことにします。……それでは、行って来ますね。エーデルさん、無事帰ってこれたらまたご一緒しましょう」


 エーデルに別れを告げ、マタリは紅い大剣を持って部屋を退出する。

 魔物の地上侵攻と同時にレケンは必ず現れるはずだ。己の存在を誇示する為に。その機を逃すわけにはいかない。

 どういう結末になろうとも必ず決着をつける。マタリは強く拳を握り、覚悟を決めた。

 

 

 マタリを見送ったエーデルは、静かに勇者を見下ろす。

 今すぐにでも目覚めてくれないだろうかと淡い期待を抱くが、それは今回も叶いそうにはなかった。


「エーデル。支度を終えたらすぐに下に来て頂戴。もうゆっくりしている時間はないわ。外は大混雑。一応護衛は雇っているとはいえ、移動には時間がかかるから」


 リモンシーがいつになく真剣な表情で告げてくる。


「……そうね。すぐに勇者ちゃんを連れていくわ。先に行って待っていてくれる?」

「それじゃあ。あまり遅いようなら、先にいっちゃうからね」


 おどけながらリモンシーが出て行く。冗談口調だが、恐らく本気だろう。長い付き合いだから分かる。

 エーデルは荷物を抱え、勇者を担ぎ上げる。その拍子に、一冊の古びた魔道書が落ちてしまった。

 標本術師ビーンズが遺した魔道書。エーデルはゆっくりと拾い上げ、袋の中にしまいこむ。

 迷っていた。どうするべきか。人道に反するのは間違いない。だが、このままでは。


「……とりあえず、避難しましょうか。リモンシーに置いていかれちゃうわ」


 返事を待つ事なくエーデルはドアを閉め、階段をゆっくりと降りはじめた。

 外は夜中だというのに、殺気だった避難民で溢れかえっている。誰もが外を目指し、弱いものを押しのけて前へ前へと進んでいく。

 これから自分たちもあの中に加わるのかと思うと、エーデルは酷く憂鬱になった。

 もし勇者が健在であるならば、きっと鼻で笑う光景だろう。

 早く戻ってきて欲しい。エーデルはそう願いながら、夜の喧騒の中へと入り込んでいった。







 息の詰まるような緊張感に包まれた、迷宮前広場。

 待ち構える兵士達は、得物を握り締め、ある一点を見つめ続けている。魔術師達は詠唱を完了し、精神をひたすら研ぎ澄ますことに集中する。

 突貫作業で張り巡らされた防護柵。一段低い地形を活用し、広場を取り囲むように盛られた土塁。

 迷宮の入り口である巨大な階段を見下ろす様にして、陣は組まれている。

 優位な位置からの弓射と魔法攻撃。魔物達の進攻を食止める為の防護柵。地下への階段は元々神殿を模した建物で覆われており、簡易結界と大量の爆破罠が仕掛けられている。これが炸裂した瞬間が、開戦の合図となるだろう。

 正門に続く大通り方面には、精兵ラフロレンシアが配置され最重要防衛拠点とされた。本来ならば、未だ避難民の残る住宅街を守るべきなのだろうが、最も優先されるのは魔物をこの街から出さないことだ。


「――ッ」


 誰かが息を呑む音がする。

 何かを叩きつけるような音が響き渡ったのだ。まるで城門に巨大な槌が打ち付けられているかの如く。その不吉な音は徐々に大きくなっていく。

 長弓を装備したレンジャー達は、クラウの指示に従い、矢に火を着け始める。学者達も己の開発した弩を装備してその時に備える。神殿の周りには火薬と油が大量に撒かれている。

 勇敢かつ哀れな敵の第一陣は、確実に爆死することだろう。


「…………」


 マタリは防護柵の裏から大剣を構え、ただその時を待ち続ける。

 既に死に場所はここと定めている。レケンとの決着をつけ、後は斬りまくるだけだ。


(勇者さん。どうか無事に――)


 空が白み始めてくる。いよいよ夜明け。魔物が到達する時刻。

 マタリが目を瞑った瞬間。何かが崩壊するような音と同時に、建物が爆発した。

 神殿は粉々に砕け散り、撒いてあった油に引火して激しく炎上を始めている。

 黒焦げになった、死体が散乱している。おそらくは魔物だろう。陽の目を見ることなく、勇敢な魔物達は死んだ。

 その哀れな屍を踏みつけながら、露わになった地下階段から魔物の群がゆっくりと姿を見せる。

 戦斧を構えるのは人食い巨人のトロル。醜い形相をさらに歪めて、昇り始めている太陽を忌々しげに睨みつけた。


「グオオオオオオオオオオオオオオオォォォッッ!!!!!!」


 トロルは雄叫びを上げる。

 それに続くように、地下から魔物達が声を轟かせる。今まで押し込められていた怒りを爆発させる。

 広場全体にその声は響き、戦闘経験の浅い者達は身体を竦みあがらせた。


「エレナ様ッ!」

「全隊攻撃開始。姿を見せた魔物から撃ち殺せ!! 傷ついたところを刺し殺せ! 我らに星神の加護があらんことを!!」


 エレナが攻撃命令を下すと、教団兵の指揮官達が怒声を上げる。


「斉射開始! 悪しき物共をを一匹残らず殲滅せよ!」

「一匹も外へいかせるな! ここで押し留めるのだ!」

『応ッ!!』


 中心点たる地下階段目掛けて、一斉に魔法と矢が放たれる。先程雄叫びをあげたトロルは一瞬にして肉塊となり蒸発した。

 魔物達は続々と現れる。目立つのは鼠や地獄猫などの上層部の魔物。これだけで終わるのならば、迎撃は容易い。

 だが、本番は中層部の魔物が現れてからだろう。どこまで堪えられるか。体力、気力、魔力との勝負となる。


「弓隊、撃てッ!! 狙いは適当で良い! どこもかしこも魔物だらけさ!」

「畜生! なんて数だ!!」

「無駄口叩いてないで、さっさと手を動かしな! 火の雨を降らせるんだよ!」

「頭! 準備完了でさ!」

「放て放て、皆殺しにしろ!! 遠慮はいらねぇぞ! おらヘボ学者! いつもの威勢はどうした、手が止まってるぞ!」


 ボーガンが叱咤すると、もたついていた学者が顔を真っ赤にして新型の弩を構える。


「脳筋共、これが我らが学者ギルドが編み出した技術の真髄だ! とくと見るが良い!」


 連続で4発の小型の矢が放たれる。更に装填が行なわれ、間隙なく放たれる連弩。僅か数秒で十匹程度の鼠が射殺された。


「やるじゃねぇか! おい、てめぇらも負けるんじゃねぇぞ!」

「へい!」


 火矢が雨の様に魔物の頭上に降り注ぐ。悲鳴を上げて数十体が倒れ伏すが、それを乗り越えて魔物は進軍してくる。

 何かに操られているかのように、ただ前へと。

 罠が作動し、胴体を裂かれた者。身体が炎上し、顔面が焼け爛れている者。死体を盾にして、前へ。ただ前へと。

 

 いよいよ防護柵へと魔物が接敵する。押し寄せる魔物の群れを睨みつけながら、重装したロブが声を張り上げる。


「いいかてめぇら! さっきも話したとおり、まだ避難は終わってねぇ! 街の外にこいつらを出したら終わりなんだ。つまり、ここで俺達がきっちり始末するしかねぇ! 絶対に死守だ! 焦って一人で当たるな、必ず複数で掛かれ!」

「おうッ!」

「ぶっ殺してやる!」

「決して深追いするなよ! 防護柵を利用して連携して当たるんだ!」


 棍棒を構えたオーガが突撃してくる。その下には目を血走らせた鼠共。滅びたはずのオークの姿まである。残党が無念を晴らすために現れたのだろうか。


「グオオオオオオォォッ!!」

「野郎共! ぶっ殺せ!」


 柵にぶつかった衝撃で、裏に潜んでいた数名の人間が押しつぶされる。ロブはその背後から剣を突き刺し、他の兵士の槍がオーガの急所を貫く。

 あっと言う間に乱戦になる。複数の鼠が飛び掛かり、哀れな男が首筋を食いちぎられる。


「ぎゃあああああああ! だ、誰か助けてくれ!!」

「こいつめ!」


 鼠を払い落とし、一匹ずつ踏みつけて殺す。

 男は手で首を押さえ、血が流れ出るのを必死で止めている。出血は派手だが、致命傷ではない。


「早く後方へ行け! 直ぐに治療すれば助かる! 他の奴等は防護柵を立て直せ! 次がくるぞ、絶対に突破されるな!」

「で、でも数が――」

「うるせぇ! いいからやるんだ! 今更泣き言なんか聞きたくねぇ!」


 剣でオークを突き刺しながら、ロブは怒声を上げる。地下階段からは途切れる事無く魔物が現れている。だが、そこに魔法が直撃しているため、魔物の進軍速度は鈍い。


「押し返せ! 防護柵を突破されるな! ここで足止めしてりゃ矢と魔法で始末できるんだからな!」

「わ、分かった!」


 破損した防護柵を蹴り倒し、新しいものと交換していく。隙間を狙ってくる魔物を盾で防ぐ。後ろから槍が繰り出され魔物を刺殺する。乱戦模様と化してきたが連携はまだ取れている。

 後続の魔物達は魔法と弓の苛烈な攻撃により抑えられている。

 ――今は、まだ。


 

 エレナが厳しい表情で一進一退の戦況を睨んでいると、星塔から激しい爆発音が轟く。


「な、何事か!」

「星塔の方角です!」


 エレナが目を凝らすと、星塔の一角から火の手が上がり、栄えある星教会の旗が何者かの手によって引き摺り下ろされている。

 代わりに掲げられたのは――。


「あれは、アート家の紋章!? レケンの仕業かッ!」

「た、直ちに兵を差し向け取り返しましょう! あそこには魔素収縮装置が!!」


 幹部の一人が進言するが、エレナは首を横に振る。手遅れなのは明白だ。


「イルガチェフに最後の手段は見抜かれていたということだ。既に無力化されているとみて良い。レケンがいるということは、強力な結界が構築されているはず。それに今の我らに兵を差し向ける余裕などない!」


 エレナは口惜しそうに唇を噛み締める。

 多量の魔素が貯蔵してあるのは星塔内部。当然魔素収縮装置も同じ場所で管理している。全兵力をこの場に集結させてしまった以上、星塔が手薄になるのは止むを得なかった。最初から暴走させ自爆する訳にもいかない。見抜かれていた以上、どうしようもなかったということだ。

 そこに伝令が駆けつける。


「エレナ様、朗報です! ユーズ王国軍ヤルダー将軍以下1千名、キーランド帝国軍ボルール中佐以下5百名が援軍に来てくださいました! それぞれアート正門、裏門にて難民回収及び防衛に当って下さっております!」

「……分かった。そのまま待機してくれるよう伝えるのだ。我らだけで押さえるつもりだが、いざという時はくれぐれも頼むと」


 合わせて千五百人。この場にいる防衛部隊が甘めに見積もって3千程度だろうか。アートの全兵力を集めたが、それでも守るには少なすぎる。

 魔物の群れは未だ底が見えない。今は上層部と中層部の混合種族。もしも、下層部の魔物が現れたらその時は終わるだろう。熟練冒険者ですら苦戦する相手なのだ。錬度が滅茶苦茶の寄せ集め部隊で太刀打ちできるとはとても思えない。

 それでも全力で防ぐしかない。願わくばイルガチェフが油断して出てくる事を祈るぐらいだろうか。厳しいが、星玉さえ奪還できればまだ勝ちの目はある。


「エ、エレナ様! 魔物の一団が我らの裏手に現れましたッ!」

「どういうことか!? まだ突破は許してはおらぬ!」

「青い膜と共に突如として現れたのこと! レケンの結界術を応用して転移してきたものと思われます!! 魔物の一団は避難民を掻き分けて一直線に正門を目指しております!!」

「な、なんということか」


 迎撃に向かわせる余力はない。掻き分けられたという避難民は、全て殺されたであろう。それどころか、このままでは魔物を世に放つことになる。外で繁殖でもしようものなら、一体どうなるのか。

 エレナは正気を失い、倒れそうになるのを必死に堪える事しか出来なかった。

 

 



 アートの街、正門。

 ユーズ王国軍指揮官ヤルダーが、1千の兵を率いて防御陣形を組んでいた。事態はかなり逼迫している様子で、正門からは後から後から住民達が退去してくる。

 一隊を誘導役とし、外に天幕を張り回収しているがさばききれる量ではない。病人と女子供の回収を優先し、残りは隣の街へ避難しろと申し渡すしかなかった。勿論受け入れ態勢など整っているはずがない。ただ押し込んでいるだけだ。


「状況は一体どうなっておるのか! 誰か説明しろ!」

「はっ。星教会からの使者によりますと、大結界が消失し地下迷宮から魔物が現れていると。内部では既に戦闘を行なっているようです」

「地下から魔物が湧き出てきただと? あのお伽噺のようにか? 第一、結界が消えたのならばまた張れば良いではないか」

「それが、高名な結界術師が異端共に加担しているとか。しかも地上に魔物を送り込んでいる張本人が星教会の元枢機卿だそうです」

「なんたる不始末か。教会の中枢を担う枢機卿ともあろうものが実に情けない。とはいえ、そのような愚か者を野放しにしていた者も同罪だがな!」


 ヤルダーが激昂しながら首を回す。

 伝令によると、裏手には怨敵キーランド帝国の小隊が待機しているらしい。数は少ないが、帝国槍術師範が指揮しているらしくかなりの錬度とのこと。栄えある王国の名誉に掛けて後塵を拝する訳にはいかない。失態は絶対に犯せない。


「ならば我らも突入し、鎮圧に参加した方が良さそうだな。誰か、この街に詳しい者はいるか!?」


 ヤルダーが声を上げると、一人の若者が進み出る。最近参謀として加わった地方貴族出身の男、名前はシダモ・アート。


「はっ、故あって分家におりましたが、元々私はこのアートの出身です。この街のことでしたら私めにお任せを。必ずやお役に立ってみせます」

「うむ、では――」


 ヤルダーが指示を下そうとしたとき、正門方面から悲鳴が上がる。

 人間を串刺しにして現れたのは八つ目蜂の一群。毒針を発射して奇声を発している。


「ヤルダー閣下! 正門から魔物が――」

「見れば分かるわ、馬鹿者がッ! 直ちに押さえ込め! 魔物共を街から出すでないわ! こんなデカイ虫が我が屋敷に押し寄せたらたまらんからな!」

「了解しました!」


 伝令が駆けて行くと、重装歩兵達が隊列を組んで正門へと突撃していく。八つ目蜂の毒針も重鎧には効果がなく、強引に引き摺り下ろされて踏み潰されていく。避難民達はその隙を突いて命からがら脱出していく。


「シダモ、貴様の故郷の窮地だ。お前は我が側で戦況を観察しろ。意見があれば直ちに具申するのだ。参謀の腕の見せ所だ、期待しているぞ!」

「は、はいっ、お任せを!」

「ベルタ城及びサルバドル、アンティグア両要塞に至急連絡。直ちに兵を編成し、増援を送り込むようにと。死ぬ気で急げとな!」

「し、しかし本国の許可がなければ、そのような大規模な移動は――」


 参謀の一人が遮ろうとするのを、ヤルダーは怒声と共に一蹴する。


「私は栄えある王国第3軍の指揮官だ! そのようなものを呑気に待っていたら魔物が闊歩する世が訪れるわッ! 口答えしている暇があったらさっさと動かぬか!! 一刻も早く送り込めと厳命しろ!」

「りょ、了解しました!!」

「我らユーズ王国第3軍の力を存分に見せつけよ! 魔物如きに遅れをとることは許さんぞ!! 無論帝国の輩にもだ!!」

『応ッ!!』

 

 




 マタリは乱戦の最中で、星塔の爆発音に気付いた。そして最上階にアート家の旗が掲げられるのを目撃。

 レケンが誘っている。そう直感したマタリは魔物を蹴散らしながら星塔へと急行した。

 星教会本拠地たる星塔は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。入り口には青い膜と無残な衛兵の死体。

 レケンにより強力な結界が張られたのだろう。果たして、自分に破る事が出来るだろうか。

 意識を集中し大剣を振りかぶった瞬間、青い膜が突如として弾けて消えた。大結界と同じく消失したのだ。


「…………」


 マタリは警戒しながら中へと突入する。

 恐らくレケンは最上階にいると思われる。豪奢な装飾が施された内部を探索し、ひたすら上を目指して進んでいく。

 途中、魔物の襲撃があるかと思われたが、あったのは死骸だけだった。どれもこれも炭化し、原型を留めている魔物はいない。

 かといって人間の生き残りも見当たらない。魔物と違い、衛兵は叩き潰されたり、引き裂かれている悲惨なものが多かった。

 冥福を祈る暇などない。マタリはそれら全てを捨て置いて、上へと進む。息を押し殺しながら。

 ――そして最も豪奢な装飾が施され、荘厳な空気に包まれた場所へとたどり着く。

 ここが教皇エレナが鎮座する教皇の間なのだろう。その玉座にレケンは座っていた。ひどく憔悴した表情で。


「……マタリか。お前が来るかどうかは賭けだったが、私はどうやら勝ったようだ。賭け事は苦手なんだが、最後に勝てて良かったぞ」

「兄上。なぜこのようなことをしたのかはもう聞きません。今すぐに大結界を再構築してください。そうすれば全てが解決します。魔物を押し返すことが出来ます」

「残念だが、私にはもうそのような魔力は残っていない。残りカスすらない。先程、随伴した魔物を殺すのに使ってしまってな」


 苦笑するレケン。ここまで来るときに見た魔物のことだろう。何故使役している魔物を始末したのかは分からない。だが。

 マタリは剣の切っ先を向ける。


「結界を、大結界を再構築してください。さもなくば兄上、貴方を殺します。私は本気です!」

「無理なのだ、マタリ。今の私にはもう。だから、お前に魔道書を託した。再構築したければそれを力のある魔道師に渡せ。時間はかかるが、いずれは結界を構築出来るだろう。この才能のない私にも出来たのだから。まぁ、多少の被害は出るだろうが、それは仕方のない事だ」


 どうでも良さそうに言ってのけるレケン。この街の人間がどうなろうと最早関係ないといった様子だ。


「……兄上の行動が、私には理解できません。一体、貴方は何をしたかったのですか!?」


 マタリの言葉に、レケンは狂気を含んだ笑みで応える。


「我らが守ってきた大結界がいかに重要かを教えてやりたかったのだ。これで身に沁みて分かったことだろう。私は異端の大罪人になる。だが、結界再構築の手柄を立てるお前は英雄となる。これで良いのだ。私の分不相応な野望が潰えた今、全てはこれで良い」

「野望? アート家の再びの隆盛こそが兄上の夢だったのではないですか。それが、何故このような愚かな真似をッ! 貴方はどれだけの犠牲が出ているか分かっているのですか!!」

「――星玉だ。あれをイルガチェフに見せられてから、私は暗い野心を抱くようになった。あれさえあれば全てが叶う。そう思わせるだけの、私の思考を狂わせるだけの輝きがあったのだ」

「星玉?」

「そうだ。星教会が集めた魔素を凝縮して作り上げた狂気の宝玉。あれに近づく為に、私は進んでイルガチェフに加担した。だが、完成した星玉を見て分かったのさ。あれは、違うと。イルガチェフは気付いていないが、あれは違うのだ。人の手で扱えるような生易しい物ではない。あれは――」


 虚ろな目で呟くレケンの言葉を遮り、マタリが冷たい声で告げる。


「兄上。星玉の件は分かりました。ですが、アート家の不始末は、アート家の者がつけなければなりません。結界再構築が出来ない今、貴方の罪は決して許されない。この意味が、お分かりになられますか?」

「もとよりそのつもりだ。わざわざお前を招き入れたのはその為。魔道書を託したのもだ。……僅かな時間だが、最後の最後でアートの支配者になれたのだ。私に後悔はない。気分は大して晴れなかったがな」

「……兄上」

「殺せ、マタリ。アート家を勘当されていたお前が私を討って、英雄となるのだ。お前を責める者などいないだろうさ。何しろ実の兄をその手にかけるのだから! 嗚呼、なんという素晴らしい結末だろうか!」


 レケンが哄笑しながら周囲に目配せすると、見知った顔の従者達が走り去っていく。何らかの合図かもしれないが、今は構ってはいられない。


「気にする必要はない。彼らはただの喧伝役だ。この愚かなレケンの最後を、そして新しい英雄の誕生を知らせるためのな。さぁ、やれマタリ、大罪人をその手で討ち果たすのだ! 我が憎むべき最愛の妹よ!!」


 遺言を聞き終えるとマタリは無言で大剣を走らせ、レケンの首を刎ねた。兄の血飛沫がマタリの顔に降りかかる。玉座には胴体だけが腰掛けている。

 最後まで満足そうな笑みを浮かべていたレケン。死に顔にまでそれが貼り付いている。全てをやり終えたという狂気の笑み。マタリはぐちゃぐちゃになった感情を必死に堪え、レケンの首へと近寄る。目を閉じさせてやり、首を抱えて胴体の側へと戻す。

 悲しむべきなのかは分からないが、涙は零れる事はなかった。どういう感情を持つのが正解なのだろう。狂戦士の自分にはよく分からなかった。

 今やるべきことは分かる。結界再構築の為、魔道書を渡さなければならない。自分には魔力がないのだから。

 まずはエーデルに相談し、可能であるならば再構築を依頼してみるべきだろう。死体すらも操る彼女になら可能な気がする。

 それが無理ならば魔術師ギルド、もしくは星教会の人間に渡す。行動方針は決まった。

 それと同時に急に外が騒がしくなった。

 何事かとマタリが部屋の窓から見下ろすと、魔物の一団が正門に向かって侵攻している。逃げ遅れた避難民は草を刈るように虐殺されていた。地下迷宮を囲う防衛線が破られたのかと思い、そちらに目をやると押されてはいるが未だ健在。

 いずれにせよあの魔物達はなんとかしなければならない。あの先には勇者やエーデル達がいるのだから。なんとしても阻止せねばならない。マタリはレケンの亡骸を一度だけ振り返ると、全力で駆け始めた。






「…………」


 勇者は、目を覚ました。ひどく硬くなった身体に違和感を覚えながら、ゆっくりと起き上がる。

 全身が痛い。痛みを感じることなどここしばらく忘れていた。とても痛い。針で刺されているように。

 目の前にはエーデルが立ち尽くしていた。

 疲れ切った表情、目の下には恐ろしいほどのくまが出来ている。得意の化粧をしている暇もなかったのだろうか。

 これではピンクの明るさも台無しだ。


「――おはよう。調子は、どう?」


 震える声で、エーデルが挨拶をしてきた。

 人の寝顔をずっと観察していたのだろうか。嫌な趣味をしている奴だ。


「寝起き一発目から、ピンクが目に入ると不吉ね。それに目がピンク色してるわよ。寝不足?」


 喉がからからで声が酷く擦れる。美声でしょと冗談まじりに笑いかけると、エーデルは下を向いた。

 失礼な奴だと思ったが、特に気にしない事にした。

 何故かはわからないけど、涙が出てきたので、

 勇者はバレないように目を擦っておいた。拭った側から涙が零れる。溢れていく。とまらない。

 半身を失ったかのような冷たさが身を包む。じくじくと体の内側から何かが突き上げ始める。

 気を抜くと、今にも弾けてしまいそうな。形容し難い空虚な感じ。取り返しのつかない何かが起きた。

 そんな錯覚すら覚えた。

 

 ――どうやら、自分も寝不足らしい。


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