第三話
マタリ・アートは、アートの街ならば知らぬ者のない、アート一族の人間である。
二百年前、地下迷宮の周囲に結界を構築したのは彼女の先祖に当るG・アートという人物だ。
魔物の地上侵攻を阻止した功績が讃えられ、“アート”という名前が残された。
それ程由緒ある一族の娘が、何故単身剣を持ち、危険な迷宮探索に乗り出したのか。
答えは簡単だ。彼女が妾の娘だからである。
アート家の当主候補は三人いた。長兄レケン、末弟のシダモ、そして万が一に備えてのマタリ。
腹違いの兄に当るレケン・アートが当主の座に就くと、程なくしてマタリはアート家を追い出されてしまった。
無事に当主が誕生した瞬間、マタリの役目は終わったのだ。皆の視線が、お前は用済みであると告げていた。
レケンからは次の通り申し渡された。
――アートの一族として認めてもらいたいのならば、相応しき名声を獲得すべし。栄誉を得るまで戻るに及ばず。
餞別として渡されたのは、埃に塗れた武具一式と銀貨十枚。
金を稼ぐ手段を持たないマタリは途方にくれた。たかだか十代半ばの娘が、一人で生きていけるほど甘いご時勢ではない。
だが、生来の明るさと人の良さが幸いしたらしく、『行くところがないなら家に来なさい』とアート家に仕える家政婦に強引に連れていかれたのだった。
マタリは家事や農作業、子守などを手伝う傍ら、独学で剣術の鍛錬にも打ち込み始めた。刃こぼれした剣で素振りを繰り返し、身体を鍛え、鎧を着込んで走りこみを毎日行なった。晴れの日も、雨の日も、毎日の仕事の合間に欠かさずに鍛錬を行なった。
家政婦の世話になり始めてから一年が経ったある日。マタリは家政婦からロブという男を紹介された。
ロブは戦士ギルドのマスターを務めており、柄は悪いが剣を教わるのには不足のない男だと。
ロブという色黒に日焼けした男は、全く気乗りしていないようだったが、家政婦が睨みつけるとしぶしぶといった様子で了承した。
ロブはマタリに剣術の基礎から叩き込み始めた。
試しにとやらせてみた剣術があまりにも酷かったので、まずやるべきは素人剣術の矯正作業であった。
構えや足の動かし方、藁人形を使っての斬撃の繰り返し。それと並行しての苛酷な体力作り。マタリは毎日倒れそうになりながらも、必死で喰らいついた。
最初は全くやる気のなかったロブも、マタリの体格の良さ、剣筋の鋭さに、戦士としての素養を認めて本腰を入れることを決める。なによりも意気込みの強さが気に入ったのだった。
次の日から、ロブは稽古の質を一段階上げ始めた。
攻守の基本、間合いの計り方、盾を使った連携攻撃、得物を変えての立会い、複数の敵との戦い方――。
ロブとの模擬戦をいやというほど繰り返し、マタリは剣術を上達させていった。
ロブが剣術の師になってくれたのは、マタリにとって僥倖ともいえた。どうしてここまで熱心に鍛えてくれるのか尋ねると『お前と同じで、俺もあの婆さんに世話になったんだ。若かりし日の思い出って奴だ』と照れくさそうに答えた。
ちなみにロブは既婚者である。家政婦の姪がロブの妻だという話をマタリは後から聞いた。
マタリが二十になったとき、ロブから『迷宮に入っても一週間で死ぬ事はないだろう』というお墨付きを貰う事ができた。
いよいよだと、マタリは思った。名声を得るならば、うってつけの場所がアートにはある。魔物の巣食う地下迷宮だ。
当主の座を早々に諦め、分家へと出て行った弟のシダモ・アートは、ユーズ王国軍へと身を投じたらしい。シダモはとても頭がよく、マタリも時折勉強を教えてもらっていた。その才覚を活かしていつか名声を獲得するに違いない。マタリは信じている。
一方のマタリは頭が良いとはお世辞にもいえない。魔法も使えない。自慢できるのは女にしては長身の体格、そして病を患ったことがない丈夫な身体である。
ならば、やはりこれしかない。自分の進むべきは、剣の道。地下迷宮の最深部まで到達し、最も優れた戦士であると証明してみせる。そうすれば、アートの家に戻る事が出来る。長兄レケンも認めてくれるだろう。そして、兄妹で没落したと陰口を叩かれる、アートの家を盛り立てていこう。ユーズ王国に行ったシダモもきっと協力してくれる。家族みんなで、また暮らす事が出来るのだ。
マタリは決心した。
家政婦に今までの感謝とわずかばかりのお礼、そして別れの挨拶を行なうと、マタリは五年間世話になった家を元気良く飛び出した。
『いつでも戻っておいで』。身体を震わせる家政婦の涙声に後ろ髪をひかれながらも、マタリは振り返らない。目的を達成するまでは、決して振り返らないと決めたから。
迷いを断ち切るように全力で星教会へと駆け始める。迷宮に挑むには、ギルドに加入するための紹介状を貰わなくてはならないからだ。当然戦士ギルドを選ぶつもりだ。ロブにはお世話になったので、少しでも借りを返したいとも考えている。
星教会に到着したマタリは、勇者を名乗る自信過剰で勝気な少女と出会う事になる。
その出会いが、マタリにとって幸だったのか不幸だったのか。――それはまだ分からない。
◆
突然態勢を崩し、地面に転がり込んだ勇者を、マタリは慌てて助け起した。勇者の表情はいつもの勝気なものではなく、弱々しく目はどこか虚ろであった。マタリが肩を掴んで声をかけると、勇者は我を取り戻したようで、誤魔化すように軽口を叩く。
「悪いわね。二日酔いのせいで、足がふらついただけ。でももう大丈夫。派手に転がったおかげで酒がとんでったわ」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫に決まってるでしょ。ほら、必要な道具を買ってから迷宮に行くんでしょう。ちゃっちゃと案内よろしくッ!」
勇者はマタリの鎧を力強く叩くと、強引にその背中を押し始めた。納得いかないながらも、マタリは顔馴染みの道具屋へと案内を始める。
その道具屋はマタリが買い物をする際、贔屓にしている店である。特に品揃えが良いわけではないが、店主が薬草や道具の使い方を丁寧に教えてくれるのだ。しかもたまにオマケをしてくれる。
様々な店舗が混在する大都市アートにおいて、こういった良心的な店を探すのは意外と大変なのだ。マタリも何度か身をもって味わっている。薬草と騙されてただの雑草をつかまされこともある。
紛い物を売りつけられたり、法外な値段を吹っかけ、ただ同然で買い叩く。店主同士が談合を行なっての値段の釣り上げ。盗品を買い取り、正規品として販売する。このような事はアートでは日常茶飯事である。
他国の干渉を受けない、星教会のお膝元。教会に対し多額のお布施を行なえば、ある程度の自由が認められる。それが発展に繋がると同時に、治安の乱れにも結びついてしまっていた。
ならず者、野盗崩れが冒険者を名乗り街を闊歩する。娼婦に捨てられた子供達が徒党を組んで、綱渡りの日々を生き抜く。
隙あらば懐の金を奪い取ろうという人間は数え切れない。金のためならば、人の命すら奪っても構わないという者も。
光と影。大都市には賑やかさの裏に潜む、沈殿した悪意が必ず存在するのだから。
その当たり前の事を勉強できただけでも、マタリはアートの家を出た甲斐があったと確信していた。
「ここです。私がいつも買い物をしている店は。店構えは古いですが、店主さんが凄い物知りなんです」
地下迷宮へと続くのがアートの街大通り。酒場や店舗が隙間なく立ち並ぶ繁華街である。夜になると迷宮帰りの冒険者の目当てに客引きの人間が煩いほど現れる。マタリも一度客を取らないかと誘われたが、丁重にお断りしておいた。
そんな人の往来激しい主要通路から一本外れた場所に、目的の道具屋はある。
一見普通の住居と変わらないが、店舗の前のに看板があり、雑貨の絵が一応描いてある。年季が入っており色あせてしまっているが。
「ふーん。まぁ店が古かろうと新しかろうと、目的の物があれば問題ないわ。それじゃあ買い物が終わったら、店の前で集合で」
「? 一緒に買えば良いじゃないですか。これから共に戦う仲間、格好良く言うと生死を共にする仲間ですから!」
「……別に格好良く言わなくても良いんだけど」
「買った物はちゃんと記録しておきますから大丈夫です。後で報酬から経費として差っ引きますから。そこから山分けにしましょう!」
「アンタ、意外としっかりしてるのね」
「この数年で色々と勉強してきましたから。それよりも、入った入った! 今日は迷宮初挑戦ということでオマケしてくれるかもしれません!」
「ちょ、ちょっと押さないで! 猪じゃないんだから落ち着きなさい! 押すなこの馬鹿!」
マタリはがっしりと勇者の肩を掴んで、店へと押し入る。思ったより小さく頼りない体つきに、本当にこれで戦えるのかと一瞬疑問に思った。勇者を名乗るには余りにも貧弱だ。だが、戦士ギルドの古参を叩きのめした実力者なのは間違いない。それに相応しい気迫もこの少女には備わっていた。木の棒一本の勇者と戦って勝てるかどうか、マタリには自信がなかった。今、この瞬間に背後から不意打ちしても、即座に振り返られてぶん殴られそうな気がする。否、実際そうなるだろう。
本音を言えば、マタリとてこの少女を『勇者』と呼ぶのに抵抗がないわけではない。その職業名を呼ぶたびに、周りの視線が少し痛い。生暖かい視線も混じっている。流石にごっこ遊びをする年齢ではないからだ。
どうして勇者は名前を教えてくれないのか。記憶喪失と本人は言っているが、俄かには信じることは出来ない。自分が信頼に足る存在になれば名前を教えてくれるのかもしれない。その時が早く来ると良いななどと考えながら、マタリは籠に薬草やら包帯を放り込んでいった。
道具を皮袋にしまいながら、マタリと勇者は大通りへと戻り地下迷宮へと向かう。
勇者は星教会の紋章と百という数字が記された紙幣を胡散臭そうに弄んでいる。
「未だに違和感が取れないわ。こんなぺらぺらの紙切れがお金の代わりなんて」
「違和感と言われましても。ずっと昔からその銅札は使われてますけど。何か変ですか?」
記された数字分だけ、銅貨との交換を保障する紙幣。それが銅札。アートの街だけではなく、各国でも似たようなものは流通している。許可を受けた両替商が、幾らかの手数料と引き換えに銅貨との交換を行なっている。巧妙に偽造されたものも数多く出回っているため、両替商には長年の経験、幅広い知識、卓越した目利き能力が求められる。
「なんだかねぇ。重みが感じられないわ。こんなぺらぺらじゃ」
「銅貨一万枚分の重みは感じたくないです。潰れちゃいますよ」
銅貨一万枚で銀貨一枚相当。銀貨百枚で、金貨一枚相当。雑貨や食料の購入には通常銅札が用いられる。パンを買うのに金貨で支払うのは、嫌がらせ以外の何物でもないだろう。
「じゃあなんで銀札やら金札はないわけ? 便利なんでしょ」
「そんな大金、紙で保管なんてしてたら危ないじゃないですか」
金貨一枚などといったら、数カ月は遊んで暮らせるだろう。それが紙切れ一枚というのはなんとも心細い。破れたりしたら泣くに泣けない。
「やっぱり所詮は紙って訳ね」
「……ま、まぁなんというか。でもこの銅札は凄いんですよ。汚れにくい、水に強い、破れにくいと三拍子揃ってます。特殊な加工がされてるみたいで」
「とにかく、私は出来る限り現物が良いわ。ある程度溜まったらすぐに換金よ。こんな紙切れで保障されても何にもならないし。第一、保障してるのがなんたら教会とかいう胡散臭いやつでしょ。いつぶっ潰れるか分からないわ。そうしたらこんなの鼻紙にもならないじゃない!」
非常に危険な発言を白昼堂々と行なう勇者。あまりに挑戦的な演説内容にマタリの顔が即座に青くなる。自分達は地下迷宮入り口目指して歩いてきた。話しながら歩いてきたので、現在地点は既に地下迷宮大門前。
星教会にとって最重要施設にあたるここには、当然ながら警護する教団兵がいる訳で。
「気のせいかな。何やら異端めいた邪な発言が聞こえてきたような気がするが……」
星印付きの僧衣を着た男が、重そうなメイスを片手に語りかけてくる。重厚な兜の隙間からは、剣呑な視線が見えている。
勇者が何かを言い返そうとしたので、それを遮ってマタリが弁解する。
「き、気のせいです。私達は敬虔な星教徒ですから! そ、それより迷宮に入りたいんですけど」
「そうか、気のせいか。俺も前途のある奴を異端審問局に引き渡すのは気が引けるからな。よし、『探索許可証』か『仮許可証』を見せろ。まぁ見る限り、ギルドに入ったばかりの新人にしか見えんがな」
腕を組んだ教団兵が面倒くさそうに促してくる。その態度に勇者がぼそっと呟く。
「やたらと横柄ね。たかだか門番のくせに」
「何か言ったか? また異端めいた言葉が聞こえたぞ」
「ううん、別に何も」
「え、ええと。これで良いですか?」
マタリが素直に手の甲を差し出す。勇者もそれに続く。
手の甲には、黒い星と小さな剣の刻印がされている。これがギルドに所属した証であり、仮許可証となるそうだ。『仮許可証』の間は、これを付け続けなければならない。
職業を正式に認定されると、この星印が職業に関連したものに変化するらしい。
刺青ではないので、永久に残るものではない。引退したくなったら申し出れば、外してくれるそうだ。
「二人とも戦士ギルドか。早いうちに魔法を扱える奴を上手い事引き入れるんだな。迷宮は剣だけで進むのは厳しい。魔法がなければ、いずれ頭打ちになる。まぁ、足元を見られるだろうが」
「は、はい。助言ありがとうございます」
マタリは魔法が使えない。恐らく勇者も使えないだろう。魔術師や聖職者は引く手あまたであり、同行してもらうのは非常に難しいと思われる。その貴重な才能は各国がこぞって勧誘の手を伸ばしている。それに相応しい技術、経験を積む為に彼らはこの迷宮都市に滞在しているのだ。新人にわざわざついてきてくれるとは到底思えない。賃金を支払えば話は別であろうが。
「なぁに、お前らが稼いでくれると我らが潤うからな。お前らが魔物を倒し、星教会はますます栄える。だからポックリ死なれては勿体無い。命の無駄遣いだ」
兜の隙間から、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる教団兵。お節介なのか単に性格が悪いのかは判断に悩むところである。
「はいはい、分かったからとっとと中に入れてよ。いつまで腕を差し出してれば良いわけ?」
「慌てるな。『仮許可証』の連中には、特別に『お布施』をする機会が与えられているんだ。――と、いう訳で、迷宮に入りたいならば銅貨百枚支払え。ちなみに毎回だ」
「な、何よそれ! ぼったくりじゃない!」
激昂した勇者が叫ぶ。マタリはその勇気に別の意味で感心してしまった。
「当たり前だろう。三時間後に地上へ連れ戻してやる奇跡をかけてやるんだ。命の値段と考えたら安すぎる。銀貨一枚でも良いぐらいだ」
「こ、この野郎!」
勇者の顔が真っ赤に染まる。教団兵はこの分かりやすい少女を面白そうに眺めている。今までにない反応を取るので、怒るというより悪戯心が湧いてくるのだろう。放って置けば更にからかいの言葉を投げかけそうである。
「仕方ありません、素直に支払いましょう。その分魔物を倒して稼げば良いじゃないですか。私も頑張りますから」
「だ、だって銅貨百あれば美味しい物や酒が――」
「そこの“アート”の嬢ちゃんの言う通りだ。しっかり稼げば何の問題もない。頑張ればかつての栄光を取り戻すことも叶うだろうよ。――おっと、これは失言だったかな」
教団兵は嘲笑うと、小馬鹿にしたように見下してくる。
マタリは悔しさで思わず歯噛みするが、言い返さずに無言で堪える。黙って百銅札を差し出すと、勇者も首を回しながらそれに続いた。
「よろしい。確かにお前達の信仰心を見届けた。――敬虔な星教徒に、慈悲深き星神の導きがあらんことを」
教団兵が祝詞を唱えると、マタリと勇者の黒い星が輝き始め、白いものへと変化する。熱さや痛みは感じない。どうやら魔力か何かの効力のようだ。魔術知識に疎いマタリは、素直に尋ねる。
「これは?」
「迷宮を覆う結界を通過できるようになった証だ。お前達は迷宮へと入る事ができる。その白い星が、完全に黒になったら転移魔法が発動する。きっかり三時間だ。既に時間の経過は始まっている。無駄にしたくなかったら急ぐんだな」
「そういう事は先に言え!」
「ゆ、勇者さん、早く行きましょう!」
文句を言おうとする勇者の手を引き、マタリは大門をくぐって走りだす。大門を抜けると、芝生の生えた広場があり、汚れを洗い流すための水場が備わっていた。冒険者と思われる人間達が、武具や道具の点検や準備を行なっている。焦っていないところを見ると、既に探索許可証を入手済みなのだろう。慌てているのは仮許可証の人間という訳だ。
最後に待ち受けるのが、厳かな神殿のような建物。ここから魔物が溢れ出てきたというのだから、世の中何が起こるか分からない。
神殿を球で包み込むように、青白い膜が覆っている。これがマタリの先祖、G・アートが構築したという結界だ。こんなに間近で見たのはマタリも初めてであり、思わず感動してしまう。この神々しい結界こそが魔物の地上侵攻を防いだのだから。
「走り出したと思ったら、急に止まって。見とれるのは後にしなさい!」
「ご、ごめんなさい! 行きましょう!」
神殿へと入る途中、統一された装備に身を包む集団とすれ違う。鎧に記されているのはユーズ王国の紋章。隊長格と思われる人間が何か、石のようなものを翳すと集団は光に包まれ、瞬く間に姿を掻き消した。
どういうことなのかマタリには分からなかったが、移動用の特殊な魔道具でもあるのだろうと推測する。でなければ毎回一階から出発ということになるのだから。
神殿内部には地下へと続く巨大な階段があるだけだった。同時に数百人は降れそうな階段だ。古びてはいるが、材質は頑丈そうで壊すのは非常に難しそうだ。ここから魔物の群れが出てきたのだから、当たり前ではある。
他の冒険者は幸いなのか、生憎というべきか、一人も見当たらなかった。結界を通ったのだから、魔物はどこから現れてもおかしくない。マタリは慎重に歩を進めていく。勇者は木の棒片手に気楽そうに先へと進んでいく。
「ゆ、勇者さん。もうちょっとゆっくり進んだほうが」
「たったの三時間しかないのに何言ってんのよ。ずんずん行くわよ」
長い階段を降り終えると、三方向に続く通路に分かれている。壁は石作りで、所々に明かりが備わっている。明かりは冒険者か、教団兵が設置しているのかもしれない。よく考えてみると、松明もなしに来たのは無謀であったとマタリは反省する。明かりがなければ真っ暗なのは当たり前だ。この呪われた迷宮に、太陽の光は決して入りはしないのだから。
通路はそれなりに広がっており、大きめの馬車が余裕ですれ違うことができるだろう。戦闘には不便はないが、当然相手も同条件だ。高い天井から襲い掛かられる危険性もある。
「ねぇ、マタリ。ここは、魔物が出る危険な迷宮なのよね。確かにそう聞いた気がするんだけど」
「ええ、間違いありません」
「じゃあ、これは何?」
勇者は石畳の地面に記された黄色い矢印を踏みつける。何と言われても、矢印としか答えようがないだろう。
「矢印です。色は黄色ですね」
「そんなのは見りゃ分かるわよッ! 何? 『こちらへお進みください?』みたいな? アホらしくなってきたから、帰ろうかな」
「ま、まだ来たばっかりですよ! ちょ、ちょっと待って下さい」
明らかにやる気を失った勇者。これはまずいとマタリは道具袋からあるものを取り出し、素早く目を通す。
「ええと、地下二階への道順みたいですよ。熟練の親切で暇な冒険者が、仮許可証の駆け出し向けに自主的に塗ったそうです。これによると」
「何それ」
「迷宮探索初級編です。教会本部で売ってたので買っちゃいました!」
「いくらしたの?」
「銀貨一枚です」
中級編は銀貨十枚だったので流石に手はでなかった。どれも在庫が積み重なっていたのが気になるところだったが、情報は武器とどこかで小耳に挟んでいたマタリは慌てて手に取ったのだった。
「……頭痛くなってきたわ。それで、他に何か良い情報載ってるの?」
「出現する魔物の種類とか。もって行くと便利な道具とか。そこそこ安全に休める場所とか」
表紙には『これさえあれば探索許可証入手は間違いなし!』と大きく書いてある。
「魔物の種類だけは参考になりそうね。どれどれ――」
――上層部に出現する魔物(一部)
・ネズミ 銅貨二枚 抽出用部位 尾 ※大量発生した場合は、撤退推奨。侮るなかれ。
・地獄猫 銀貨一枚 尾 ※見かける事は稀だが、素早く、獰猛。
・首狩兎 銀貨一枚 尾 ※鋭い爪を持つ。首を執念深く狙ってくる為、警戒が必要。
・スライム 銀貨十枚 中心核 ※剣撃が通用しない。魔法耐性あり。
「なんか色々と出るんですね」
「まぁ大体分かったわ。とりあえず、ぶらついて魔物を狩りましょう。時間も限られているしね」
「そうですね。では行きましょう!」
マタリは剣を抜き放ち、盾を前に出して歩き始める。勇者は相変わらず木の棒をプラプラと振り回している。
どの通路を選んでも良かっただが、取りあえず矢印の通りに進んで見る事になった。
代わり映えしない通路を歩き続けると、一匹の薄汚れたネズミが現れた。こちらに向かい、威嚇の姿勢を示している。目が真っ赤に充血し、それなりに鋭いツメを持っているようだ。攻撃手段はツメなのだろう。警戒すべきはその体躯の大きさか。
地上に現れる小さなネズミとは程遠い、大型犬ぐらいの大きさ。これが集団で現れたとしたら、一人で捌き切れるかどうか。
仲間を呼ばれたら厄介。マタリは先手を取る事を素早く決めた。悩んでる暇があったら、突撃すべし。マタリの思考の要である。
「こいつら結構でかいわね。数が揃うと結構面倒くさいかも」
「行きます!」
「――え?」
勇者の言葉を待つことなく、マタリは既に突進を開始していた。
迎え撃つネズミが奇声を発して飛び掛るが、マタリは左手の盾で強引に叩き落とす。
『ギョェ!』
「覚悟ッ!」
態勢を崩して柔らかそうな腹を見せたネズミに、マタリは勢いをつけた剣を振り下ろした。
『ギェェエエエエッ!!』
串刺しになったネズミは断末魔の叫びを上げ、やがて動かなくなった。
「……お見事」
「ありがとうございます!」
剣を抜くと軽く振り払い、血を払い落とす。鎧や顔には血飛沫がべっとりと付着している。
マタリは全く気にした様子はない。敵を傷つければ血が流れる。それを浴びるのは当たり前のことだ。
「アンタ、人の話を最後まで聞かない性格でしょ」
「? 良く分かりません」
良く分からなかったマタリは首を傾ける。
「まぁいいわ」
「それじゃ、早速抽出部位を切り取りますね」
跪き、始末したネズミの解体へと取りかかる。無防備に剣を床へと置き、小型のナイフを取り出す。
勇者は一瞬顔を顰めるが何も言わなかった。
「うーん、中々切れませんね。この尻尾凄く堅いです」
「思い切り引きちぎったら?」
「やってみます」
マタリはネズミの尻尾をピンと張り、ナイフを前後させて切り裂いていく。
作業に没頭するマタリを尻目に、勇者は天井へと視線を向けた。
「マタリ。そのまま動かないでね」
「――え?」
「いいから動くな!」
勇者は手から炎の球を作り出すと、天井目掛けて投げつける。マタリがつられて天井を見上げる。
――そこには。無防備な得物に飛び掛ろうと、五匹のでかいネズミが張り付いて隙を伺っていた。開けた口からは鋭利な歯と汚い涎が垂れかかっている。
驚いたマタリが慌てて立ち上がろうとした瞬間、群れの一匹に炎の球が炸裂した。瞬く間にネズミの身体を火が包み込む。
『ギャギャアアアアアッ!!』
「――せーのっと!」
火達磨になりながら落下してきたそれを、勇者は思い切り勢いをつけて木の棒で横薙ぎにする。
呆然としているマタリの頭上で。
パシャっという奇妙な音と共に、ネズミは完全に四散する。残ったのは黒焦げた肉片と千切れた尻尾だけ。
仲間の惨状を見たネズミは一目散に逃げ始める。弱さを自覚しているネズミは、逃げるのに一切の逡巡がない。
「私が魔物を見逃す訳ないでしょ。死ねッ!」
勇者は右手を翳すと、ネズミ達の先頭目掛けて火炎を放射する。先ほどのような小さな球ではない。火炎の熱波がネズミ達を飲みこんでいく。
身動きすることさえ許されず、ネズミ達はたちまち焼け死んでいった。鼻の奥へ突きささる不快な臭いに、マタリは思わず鼻を腕で隠す。勇者は手を叩き埃を払うしぐさをすると、一息ついたとばかりに呟く。
「ふー、ゴミ掃除完了っと」
「て、天井にいたなんて。全然気付きませんでした」
解体作業に気をとられ、全く警戒していなかった。勇者がいなければ、マタリは奇襲を受け危機に陥っていたかもしれない。ネズミに食い殺されるために今まで鍛錬してきたのではない。そんな死に方だけは嫌だった。
「油断しちゃ駄目よ。四方八方気を張っていないとね。どんな奴でも、死ぬときなんて呆気ないものよ。だから、絶対に油断するな」
勇者が厳しくマタリを叱り付ける。勇者は『マタリが気付くか試すため、敢えて様子を見ていた』と眉を顰めて語る。案の定気付かなかったわねとマタリは指で額を突かれた。
「わ、わかりました。二度とないようにします!」
「よろしい。それじゃ、いきましょう」
「は、はい! ……そ、そういえば。勇者さん魔法使えたんですね。本当に驚きました」
魔法が使えるならば、戦士ギルドにいる必要はない。魔術師ギルド、もしくは聖職者ギルドに所属することもできるだろう。そうなれば、高度な魔法技術を会得する鍛錬を受けることもできる。各国への仕官の道も開ける。仲間探しになど苦労することもない。
それほどの価値が魔法にはある。現に勇者の放った魔術により、ネズミ達は呆気なく死んでしまったのだから。先ほどの火炎術の威力ならば、恐らく人間ですら焼き殺せるだろう。
「言ってなかったっけ」
「聞いてません! というか詠唱するならすると最初に言って下さい。私だって時間ぐらいは稼げます」
魔術師達は、魔法を行使する際に詠唱を必要とする。強力な魔法を使おうとすれば、その分だけ魔力の集中と、複雑な詠唱が必要となるらしい。――らしいというのは、マタリが具体的な情報を手に入れる事が出来ていないからだ。
「詠唱の時間? まぁ、魔法にしろ剣にしろ、要は魔物を殺せれば良い訳よ。今回は目的を達成できて万々歳ね」
「え、ええ、まぁ。ってそういう事を言っているのではなくて」
「じゃあ何よ」
「……な、何でしたっけ。と、とにかく、後でどんな魔法が使えるのか教えて下さい。私もあまり詳しくなくて、連携をどうしたら良いかとか全然分からないです」
前衛が戦士、後衛が魔術師。一応の定石だろうが、魔法を行使する人間の意見が最も優先される。
「連携なんて適当で良いわよ。死なないように敵を殺せば良いの。分かりやすくて簡単でしょ」
「そ、そうですか? 勇者さんが良いなら良いんですけど」
「さ、ちゃっちゃと尻尾をバラして次に行くわよ。ネズミだけで終了じゃ味気ないわ」
勇者がマタリの背中を叩いてネズミの解体を促す。二人の姿は血塗れで、焦げた肉片がこびりついている。
反省したマタリは油断なく作業を行い、今度は無事に尻尾を刈り取ることに成功した。
その後、二人は更に奥へと進み、矢印の終点、地下二階への階段へと到着した。
戦利品を入れる皮袋の中は、ネズミの尻尾で賑わっている。その数は五十個。
勇者はさらに返り血を浴び、普段着は真っ赤に染まっている。流石にどうしたものかと悩み始めている。替えの服を持ってきていないのだ。
マタリの鎧は腐食防止の加工がされているので問題はない。アート家に保管されていた中々の逸品である。誰も使う事無く埃を被ってはいたが。
「私の服どうしよう。血塗れで帰ってそのまま連行されたりしないでしょうね」
あの横柄な門番ならやりかねないと唸っている。また難癖でお布施を取られないかと心配しているのだ。
「広場の水場で洗ってみたらどうでしょう。皆あそこで着替えてましたし」
「野郎共に混じって素っ裸で洗濯しろと。中々良い考えだと思うわ。でもね、秘密にしてたけど、私、実は女なのよ」
「し、知ってますよ!」
勇者はいきなり上着を脱ぎさると、汚れた服を力強く絞り始めた。吸収しきれなかったどす黒い血が流れ落ちていく。
あわあわしているマタリを尻目に、勇者は何事もなかったように上着を身に着ける。
「よし、血塗れで帰ってベッドに飛び込むとしよう。極楽亭のマスターが泣いて喜ぶわ。門番にも抱きついてやろうかな。ご自慢の僧衣を赤く染め上げてやろう」
「……お願いですからやめてください」
更に喧々諤々とやりあった後、帰りに替えの服を購入することが決まり、二人はようやく先へと進み始めた。
階段を降りながら、マタリはふと気になった事を呟く。
「そういえば、魔物の死体って誰が片付けるんでしょう。あのまま放っておいたら大変なことになりますよね」
腐って蛆が湧いたり、腐臭が迷宮中に漂いそうなものだ。そもそも死体の山で足の踏み場がないのではないだろうか。でもここまでの通路では、そのような形跡はなかった。ということは誰かが掃除しているのだ。
「魔物でしょ。あいつら何でも食うからね。人間だろうとなんだろうとお構いなしよ。それが同族の死体でもね」
「……やっぱり、魔物は恐ろしいですね。仲間の死体を食べるんですから」
ネズミがネズミの死体を食べている光景を想像したマタリは、何だか気分が悪くなった。
「人間だって、似たようなもんでしょ」
勇者は無表情で冷たく吐き捨てた。