第二十九話
靄が掛かった思考に、突如として喧騒が入り込んでくる。
二日酔い気味の頭には耐え切ることができなかったので、勇者はむくりと起き上がった。
まだはっきりと視界が定まっていない。分かる限りで周囲には二人、いや三人はいるだろうか。
マタリ、エーデル。後一人は一体誰だったか。
『おはよう。昨日の戦いの疲れは……どうやら抜け切っているようだな。若いってのは羨ましい』
『おはようございます。さぁ、今日も無事に過ごせるように朝のお祈りを致しましょう』
『それよりも飯だろう。今日も世界の為に戦わなくちゃならないんだ。腹が減ってはなんとやらだ』
『うむ、では準備を万全に整えてから出発にしよう。何事にも万全を期してこそ勝利は得られるのだから』
聞き覚えのある男女の声。勇者の世界がぐるぐる、ぐるぐると回り始める。
「……なに、これは」
「おはようございます、勇者さん。お酒は抜けましたか? さっきリモンシーさんが来て、何か用があるって言ってましたよ」
『さ、着替えて顔を洗って来い。折角の美人が台無しだ』
『それよりお祈りを欠かしてはいけません。さぁ、女神様にお祈りを。心を篭めれば必ず祈りは届きます』
「どうしたの勇者ちゃん。意識が遠いお空の上まで飛んでっちゃったみたいだけど。まだ寝てるのかしらぁ。お寝坊さんねぇ」
男女三名の声とマタリ、エーデルの言葉が勇者の耳に絶え間なく入り込んでくる。
勇者は左手で顔を抑え歯を思いっきり食い縛る。そして何度か頭を振ってから再び目を開ける。ぼやけていた視界が輪郭を持ち始める。
先程の喧騒が嘘のように静まり返り、幻聴は完全に消え去っていた。
「だ、大丈夫ですか? 顔が真っ青ですけど」
「……大丈夫よ。ちょっと、ちょっと眩暈がしただけ」
「……今日は、あまり無理をしないほうがいいかもねぇ。無理をして魔物の餌になる必要はないし」
「誰が魔物の餌になるってのよ。ご飯を食べれば元気になるわよ。さ、私は着替えるから先に行ってて。そうそう、冷えた水を用意しておいて頂戴。きっと頭がスッキリするから」
勇者が促すと、心配そうな顔をしながらもマタリは了解して出て行った。エーデルは暫し思案した後、無言で立ち去っていく。
「…………」
勇者は溜息混じりに左手でもう片方の手を持ち上げる。手首辺りから全く感覚がない。握りしめようとしても、反応がない。
更に力を篭めようとしたとき、脳に鋭い雷鳴が迸る。例えるなら、針で指先を貫かれた時のような感覚。
「――ッ」
勇者は力を篭めるのを諦める。どうやら右手はその役割を終えてしまったようだった。
勇者は表情を変えずに、一度だけ溜息を吐いた。
「仕方がないわね」
◆
右手の事はマタリ達には伏せる事にした。話したところで最早どうにもならない。治癒魔法も効力を発揮することはなかったのだから。もう打つ手はない、勇者はそう判断した。
普段と変わらずにマタリをからかい、エーデルとくだらぬ言い合いをしながら、左手で食事を済ませた。マタリは全く気付いていなかったが、エーデルは時折観察するような視線を向けてきた。蛇女だけあって、人の弱みを発見するのは得意なのだろう。
食事を終えた勇者達は、リモンシーの用事とやらを聞く事になった。
「それで、用事って何よ」
「はいこれ。依頼は受けちゃったからぱぱっと片付けてきてねぇ。よろしくー」
リモンシーがぽいっと折り畳まれた地図を渡してくる。地図を広げるとここらへんという文字と共に赤字で大きな丸がつけられていた。
「何これ。地図なのは分かるけど」
「ほら、前からあったでしょう。空を飛ぶ謎の物体をなんとかしてくれってよく分からない依頼が。その人は学者さんなんだけど、これ以上耐えられないから何とかしろって大暴れ。研究が上手くいかなくて精神的に追い詰められてたみたいでねー。仕舞いには依頼を受けないと今ここで死ぬって脅してくるの。もう本当に大変だったんだからー」
リモンシーが身振り手振りで大変さを強調してくる。
勇者は鬱陶しそうに見つめたあとで一言だけ呟いた。
「面倒だからそのまま死なせてやればよかったのに」
「ゆ、勇者さん。そ、そこまで言わなくても」
「死ぬ死ぬ言う奴に限って中々死なないのが世の中ってもんよ」
「流石は勇者ちゃん、真理を突いてるわ。私も全く同意見ね。声が大きい人間ほど行動が伴わないものだし」
「エ、エーデルさんまで。本当に死んじゃったらどうするんですか?」
「そのときは面倒ごとが片付いて良いんじゃないの」
エーデルの一言に顔を引き攣らせながらもマタリが提案する。
「ま、まぁ、今日は勇者さんの体調も思わしくないみたいですし、この依頼を解決でも良いんじゃないですか?」
穏健派のマタリが妥協案。革新派の勇者としてはだるいから断りたかったが、体調がおもわしくないのは確かだった。
エーデルに確認の視線を送ると、仕方ないんじゃないといった感じで頷いてきた。
「はいはい、引き受けるわよ。死体押し付けられても困るし。でもこれは貸しだからね、ちゃんとその脳天気な頭に叩き込んでおきなさい。後で十倍にして返してくれるだけでいいから」
「さすがは勇者ちゃん、懐が広いわねぇ。それじゃよろしくねー。ま、何もなくても全然気にしないから。追い払ったとでも適当な物語を作っといて頂戴ねー」
勇者の言葉を聞き流し、リモンシーは満面の笑みを浮かべて捲くし立てる。都合の良い耳を持っているようだ。
この女は自分よりも長生きするだろうなと勇者はなんとなく思った。
カウンターを離れると、再び席について空飛ぶ物体について話し合い始める。
「で、この空飛ぶ謎の物体って一体何なのかしら」
「それは、やっぱり鳥じゃないでしょうか。鳥に、誰かが悪戯で布を被せたとか」
「うーん、でも結構大きいって話よぉ。正体を隠しているような感じだって。鳥がそんなことするかしらねぇ」
「魔物が外に出てきたんじゃないの」
勇者は思った事を率直に述べる。空を飛び正体を隠す知恵を持つといえば、魔物ぐらいしか思い浮かばなかった。
「それは有り得ないわねぇ。魔物は、迷宮を覆う大結界を超える事は絶対に出来ない。魔素を持った全ての生物を弾くのよ」
「でも、魔素を持った人間は入れるじゃないの。アンタら魔術師は入ってるし」
「刻印がそれを可能にしてるのよ。刻印は星見の試験を受けた者にしか刻まれないでしょ。つまり例外は限られた人間だけって訳ね」
「……魔素がなければ、結界は自在に通行できるの?」
「おそらくは。ただ、多かれ少なかれ魔素を一切持たない人間なんて存在しないし、魔物は魔素の集合体だしねぇ。まぁ犬や猫なら通れるんじゃないのぉ。あとは虫とか」
エーデルが全く興味なさそうに言い放つ。
「防衛の要の大結界の癖に、そんなにいい加減でいいの?」
「そこまで柔な結界なら、とっくに破られてるわよ。脅威なのは魔物であって、動物じゃないし。中の化物に比べれば、外の狼なんて可愛いものでしょう」
「そ、そうですね。良く分からないけどそう思います! あの大結界は絶対に破ることはできません!」
理解してなさそうなマタリが大きな声を出す。結界はアートの人間の成果であるので、柔ではないというところに反応したようだった。
「まぁいいけど。えーと、地図に赤丸があるのはスラム地区あたりかしら。この辺りの上空で良く目撃されるって書いてある」
「それじゃ、あの子達に案内してもらったらどうでしょうか。コロン君にシルカちゃん達」
マタリがポンと手を叩く。確かに、彼らならば何か知っていても不思議ではない。
「それがてっとり早いかもね。今度遊びに来いとか言ってたし。じゃ、食休みしたら早速行って見ましょうか。気は乗らないけど」
「はい!」
「今日はのんびりできそうねぇ」
「ババくさいわよ、ピンキー」
◆
依頼を引き受けた勇者達がスラム入り口へとたどり着くと、そこには仏頂面をしたロブが腕組みをして睨みを利かせていた。
スラムのならず者達も、流石にギルドマスターに喧嘩を売る度胸はないらしく、見て見ない振りをして通り過ぎていく。
勇者一行の姿を確認したロブが意外そうな表情を浮かべた後、手を上げて合図を送ってきた。
「よう、珍しい場所で会ったな」
「こんにちはロブさん」
「戦士ギルドは廃業して衛兵にでも転職したの? アンタの周りだけ近寄り難い空間が出来上がってるけど」
「うちのギルドは大繁盛営業中だ。何、ちょっとした人探しってやつかな」
「ふーん。そうなんだ」
「そうそう、エクセルの馬鹿野郎を助けてやってくれてありがとうよ。豚の餌になるところだったらしいじゃねぇか」
ロブが感謝を述べてきたが、エクセルを助けに行った訳ではないので勇者はどうでも良さそうに返事をする。
「別にあの種馬を助けに行った訳じゃないし。ついでよついで。魔物殲滅のね」
「そうか、しかし一人でオークを壊滅させるなんてとんでもねぇなお前は。いつかウチのギルドをついでくれねぇか?」
「嫌よ面倒くさい」
ロブの軽口を勇者は一蹴する。どうせ本気ではないだろうが、後進の面倒をみてやってくれぐらいは言ってきそうではある。
「ハハッ、ふられちまったか。まぁ、あの馬鹿はお前には死ぬ程感謝すべきだろうよ。んで、その大馬鹿野郎なんだが、ギルドに退会届を出した後行方が分からなくてな。スラムに出入りしてるとか、胡散臭い連中と絡んでるって噂を聞いたから俺がここにいるって訳だ。女連中にも居場所を教えてないらしいからよ。生活費は俺が立て替えてるんだぜ?」
エクセルが手を出したとか言う女達のことだろう。子供が生まれてくるというのに実に大変だとは思う。とはいえあまり同情する気にはなれない。所詮は他人事である。
「面倒見が良いのね。流石はマスター」
勇者は大あくびをして伸びをする。右手はまだ動く気配はない。
エーデルは沈黙を保ったまま笑みを浮かべている。
「あの、エクセルさん、急に辞めるなんてどうかしたんですか? この前はすごいやる気だったような」
マタリが尋ねると、ロブが軽い溜息を吐く。
「あいつは剣の腕には自信を持ってたからな。確かに実力はかなりのもんだった。それが賞金首には返り討ち、挙句は豚野郎に叩きのめされてすっかり魔物恐怖症だ。二度とあんな迷宮には入りたくないってよ」
「まぁ、死にたくないならそれが正解じゃないの」
死にたくないなら剣を捨て、身の丈にあった生活を送る。そういう生き方もあるだろう。自分には出来なかったが。勇者は苦笑を浮かべようとしたが、上手く顔を歪める事が出来なかった。
「そこで済めば良かったんだが、アイツは大金を稼ぐ夢を諦めきれなかったらしい。今回もどうせ碌なことじゃないだろうが。もしどっかで会ったらぶん殴って連れて来てくれ。自分の始末ぐらい自分でつけろってな」
「分かりました!」
「安請け合いするんじゃないわよマタリ。まぁ蹴りをいれるぐらいはしておいてあげる」
「それで十分だ。俺は衛兵ごっこは辞めて一度ギルドに戻ることにする。腹も減ったしな」
じゃあなと手を上げると、ロブは腕を回しながら立ち去っていった。
「マスターってのも結構大変ね。馬鹿の面倒まで見なきゃいけないなんて」
「え、ええ。そうですよね。私もそう思います」
マタリが何か含んだような視線を向けてくる。
「何その、『お前もその馬鹿の一人だったのに』みたいな生暖かい視線は。マタリの癖に!」
勇者がマタリの柔らかい頬を左手で抓り上げると、踏まれた猫のような情けない悲鳴をあげる。
「しょ、しょんな。私、な、何も言ってないじゃ」
「目で分かるのよ、目で。今度その呪いの大剣に相応しい鎧を用意してあげるから覚悟しておきなさい!」
「ひ、ひどいです!」
「ほら、貴方達。いい加減スラムの入り口で大騒ぎするの止めてくれないかしら。私まで変な連中の仲間にされちゃうでしょ。勘弁して頂戴」
「アンタが一番の変人でしょうが! この腐れピンク頭!」
「はいはい。それじゃあコロン君を探しにいきましょうねぇ」
勇者の頭を一撫ですると、生温い笑みを浮かべて先へと進んでいくエーデル。勇者は文句を言いながらその後に続いていった。
十分程度は探しただろうか。スラムの廃住居に武装した子供が警戒しながら立っているのを見つける。
武装といっても小汚い棍棒のようなものに、壊れかけの鎧を装備しているだけだが。
何か情報が聞けるかもしれないと思い、勇者は声を掛ける事にした。
「ねぇ、そこの勇ましい見習い戦士。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「だ、誰だ! 怪しい真似をしたら女でもぶっ飛ばすぞ! ほ、本当だぞ!」
「私は勇者。アンタ、コロンって子供しらない? 私の知り合いなんだけど。ここらへんに住んでるらしいのよ」
“勇者”と“コロン”という名前を聞くと、武装した子供は粗末な武器を降ろし、安堵の表情を浮かべる。
「あー、なんだ勇者のねーちゃんか。コロンから何度も聞いてるよ。約束通り遊びに来たんだろ? 案内するよ!」
「ちょ、ちょっと!」
勇者の右手を引っ張り、子供が駆け始める。マタリとエーデルも顔を見合わせた後続いてくる。
「こっちこっち。俺達の家はこの裏手にあるんだ。他にもあるんだけど、いつもはここ!」
「わ、分かったから引っ張るなこの糞ガキ!」
「いいからいいから!」
案内された場所には、元は何かの倉庫だったと思われる大き目の建物があった。壁は皹がいくつも入り、屋根は所々に穴が入っている始末。瓦礫はいたるところに散らばっており、雑草も生え放題だ。隠れ家には丁度良いのかもしれない。
「おーい、勇者のねーちゃんが遊びにきたぞー」
手を繋いでいた子供が大声をあげると、廃倉庫の中から十人ぐらいの子供達が飛び出してきた。
その中には探していたコロンとシルカの姿もある。
「お、本当に勇者のねーちゃん達じゃんか! 丁度良かった、今ヤトゥムが――」
子供達の後方から、のそのそと這い出てくる何かが勇者の目に入る。
「――ッ!?」
それが何かはっきりと認識できた瞬間、勇者はすかさず剣を抜き放ち戦闘態勢に入る。剣は左手に持ち、右腕で横にいた子供を後方へと追いやる。
マタリとエーデルは事態を理解出来ないようで呆然としているようだ。
慌てたコロンが両手を前に出して何かを叫びはじめる。
「ちょ、ちょっと――!」
「マタリ、エーデルッ、私が仕掛けるからガキ共をその虫から引き離しなさい!」
「は、はい! 任せてくださいッ」
「なんでこんなところに八つ目蜂が。有り得ないわ」
「そんな事はぶっ殺してから考えなさい! いくわよッ!」
――廃倉庫の中から最後に現れたモノ。それは八つ目蜂。
地下迷宮中層部、植物が生い茂る層に棲息する虫型の魔物だ。名前の通り、八つの目を備えている。
基本は蜂のような姿だが、二足歩行で普段は行動する。羽は地下で退化してしまったらしく、素早く飛行する事は出来ない。得物を殺した後は、肉団子にして保存する習性がある。
顔面には緑色の目が四つ。そして背部に隠された目が四つ全方位を警戒するように備わっている。
黒を基調とした姿で奇襲を得意とし、強靭な防御力と凶悪な攻撃力を誇る厄介な魔物だと勇者は説明を受けた。
実際に戦闘したところ、遠距離からは両腕に備わった毒針を飛ばし、低空飛行で近寄ってきた後は四本の腕で拘束してから顎でのかみつきを行なってきた。
バラバラに引き裂いてやったが、更に十匹程現れた時は流石に気分が重くなったものだ。エーデルと協力して一気に焼き尽くしたが、魔法が使えなければかなり危険なことになるのは間違いないだろう。
「ま、待ってよ! ヤトゥムは違うんだ!」
「…………」
コロンが必死に何かを訴えかけてくる。一方の八つ目蜂は未だに戦闘態勢を取らない。毒針を発射できる左手には小さな紙袋が握り締められている。
勇者がいよいよ仕掛けようかというとき、いつの間にか隣に来ていたシルカが剣の柄を掴んできた。
「……お願いだから待って。まずは話を聞いて。確かにヤトゥムは見かけは怖いけど魔物じゃない。だから話を聞いて」
「魔物じゃない? どう見ても魔物でしょうが。こんなでかい虫がいたら人間が至る場所で食い散らかされてるわよ」
「でも、私達は食べられていないでしょ。だから、ヤトゥムは魔物じゃないの」
馬鹿馬鹿しいと聞き流していた勇者だが、確かに子供が未だに食べられていないのは奇妙ではあった。本来ならここには人間の死骸が散乱していなくてはならない。それが、仲良く廃倉庫から出てくるというのはどういう訳だろうか。
勇者には理解できなかった。
「勇者ちゃん。ちょっと話を聞いてみたらどう? 別に慌てて仕掛けなくても、その虫に戦う意志はないみたいだし」
「ゆ、勇者さん」
エーデルの言葉に、マタリが困惑した顔で紅い大剣を下ろす。
「…………」
勇者は殺気を発したまま、無言で剣を鞘へと一度納めた。事情を聞くだけだ。殺すのはその後。魔物は必ず殺す。今までもそうしてきた。だからこれからもそうする。
その後を継いでエーデルが説明を促すと、安堵の息を吐いたコロンが口を開いた。
「ヤトゥムは、もともと地下迷宮に住んでた八つ目蜂なんだって。でも、人間を襲って食べるのが嫌だって言ったら、仲間に殺されそうになって上に逃げてきたんだ。で、いつの間にか入り口にたどり着いてて、青い膜を超えて全力で逃げてる内に気を失っちゃったんだってさ」
「あ、青い膜――け、結界を抜けた!? あ、あの大結界を抜けちゃったんですかッ!?」
マタリが真っ青になって叫び声をあげる。大結界に自信を持っていたマタリからすると、あってはならない事態なのだろう。
今にもぶっ倒れそうなほど動揺している。
「う、うん。で、俺達が見つけて、どうしようかって悩んでたら、ヤトゥムが泣き出したんだ。怖いから本当は殺すつもりだったけど、なんか可哀相だから許してやったんだよ」
「ま、魔物が泣いた? この魔物――八つ目蜂が泣いたって言うの?」
困惑した勇者が問い質すと、コロンははっきりと頷いた。
「捨てられた子供みたいにさ。四つの目から涙流してた。……俺たちも捨てられたからさ、同じだと思ったんだ。だから、ここに隠して怪我を治してやったんだ。そしたら、そのお礼だって空を飛んで色んな食べ物を取って来てくれるようになって。だから、こうして盗みをしないで暮らせるのはヤトゥムのおかげ」
「ソウ。ヤトゥムガ、コウシテイラレルノモ、コロンタチノオカゲ。ヤトゥムタチナカマ」
八つ目蜂が顎をカチカチ鳴らしながらしゃがれた声を出す。
忌まわしい外見から、想像しがたい平和的な言葉が紡がれる。勇者は思わず戦意を挫かれそうになるが、ぐっと堪える。
「…………で、だからその魔物を見逃せって? 冗談じゃない。魔物は魔物、人間を餌としか見ないのよ。そいつが人間の味を覚える前に殺す。さぁ、さっさとどきなさい!」
勇者が話は終わりとばかりに剣を抜き放つ。マタリはどうしたものかと考え込んでいる。コロンたちは人間の盾とばかりにヤトゥムの前で両腕を広げている。
「ねぇ勇者ちゃん。貴方の魔物の定義は何かしら。教えてくれる?」
エーデルが試すように問いかけてくる。
「人を食らう化物。そして腐臭のする屑共よ。悪夢に出てきそうなね」
「じゃあ、人を食らう狼と魔物の違いは?」
「人を甚振り食らう事に楽しみを見出しているかどうか。血に堕ちた屑共は一発で分かる。……後は私が判断する。勇者であるこの私が」
「……なるほど。で、ヤトゥムからは腐臭はしているの?」
――していない。外見は魔物そのものだが、腐った臭いは出ていない。だが返事はせずに勇者は沈黙する。
「そう。ところで、今朝説明したかもしれないけど、大結界を抜ける事は魔物には絶対に出来ないの。だから、ヤトゥムは――」
「魔物ではないとでも言いたいの? 馬鹿馬鹿しい! こんな化物放置出来る訳がない! このガキ共が食われるのは時間の問題よ! 餌になりたくなかったらさっさとどきなさいッ!」
勇者が一喝するが、コロン達は動じない。一歩も退かないという強い意志を感じる。
「ヤトゥムハ ニンゲンタベナイ。ニンゲントモダチ。ダカラ ユウシャモトモダチ。ヤトゥムノトモダチ」
「うるさいこの魔物がッ! 黙れ黙れ黙れッ!!」
「ユウシャハトモダチ」
ヤトゥムがゆっくりと勇者の方へ歩いてくる。引き止めようとするコロンたちを優しく振り切って。
もうすぐ射程距離に入る。殺せ殺せ殺せと脳が強く警告を発する。
命乞いしたオークを殺したじゃないか。血に堕ちた人間達も殺したじゃないか。だから、こいつも殺さなくちゃ不公平じゃないか。
勇者は魔物を殺さなければならない。ならないのだ。だから剣を振れ。まだ動く左手で一閃しろ。魔法で塵一つ残さずに焼き尽くせ!!
「少し、様子を見たらどうかしら。ね、勇者ちゃん。それからでも大丈夫だと思うわ」
エーデルが勇者の『右手』を取る。勇者は歪む視界でエーデルを睨みつける。
「何かあってからじゃ、遅いのよ?」
「この子達は、それでも後悔しないんじゃないかしら。それを選んだのだから」
エーデルの言葉に子供達を見渡すと、自信満々の表情で口々に宣言する。
「そうだよ! もしヤトゥムが魔物になっちゃったら俺達がなんとかする!」
「ヤトゥムはそんなことしないと思うけど、俺たちで止めるよ」
「うん。友達だし、大切な仲間だもんね」
「…………」
勇者は天をしばし仰いだ後、剣を乱暴に鞘へと納める。そして、無言で立ち去る事にした。
本人たちが構わないと言っているのだ。ならば問題ないだろう。こいつらが喰われたならば、その時こそこの虫を始末する。それで何もかも問題ない。そう、何も問題はない。判断は間違ってはいない。勇者は何度も何度もそう言い聞かせる。
勇者が顔を上げると、そこには八つ目蜂の緑色の四つ目が眼前にあった。いつの間にか超至近距離まで接近を許してしまっていたらしい。
「糞虫ッ――」
一撃くれてやろうと左拳を握り締めたとき、勇者の顔の前に、赤い何かが差し出された。
「ユウシャタチモ トモダチ。トモダチニ コレアゲル。アマクテオイシイヨ」
「…………」
ヤトゥムが差し出してきた果実を勇者はつい受け取ってしまった。エーデルとマタリにも紙袋から果実を差し出すと、ヤトゥムは満足気にコロン達の下へとのそのそ戻っていく。
「ジャアネ バイバイ」
そしてこちらに向かって手を振ると、廃倉庫へと戻っていった。
「勇者のねーちゃん。すぐにとはいわないけど、きっと分かってもらえると思うな。それに、その実本当に美味しいんだぜ! ベルタの高級林檎!」
「うんうん、昔食べたことあるけどとても高いんだよ。貴族ぐらいしか――」
「シルカ、お前ここ以外でも食べたことあんの?」
「あ、う、う、うん。良く覚えてないけど。あ、私ヤトゥムの所に行くね!」
「お、おい。あ、それじゃあね姉ちゃん達。また遊びに来てよ! ヤトゥムは色んな遊びも知ってるんだぜ!」
呆然とする勇者を置いて、さっさとひっこんでいく子供達。
マタリも何がなんだかという顔をしているが、エーデルはこれで良いのだという解決したような顔を浮かべている。
「……何すべて上手く行ったみたいな顔してんのよ。腹立たしい」
「何か問題あるのかしらぁ。依頼は解決でしょ。“ちょっと”大きな虫が正体を隠すために、布を被って飛んでたってだけ。貴方じゃ無理でしょうから、リモンシーには私が上手いこと説明しておくわねぇ。デカイ虫の仕業でしたって」
「勝手にしなさいよ。糞ッ、あーイラつく!」
本当にこれで良かったのか。良くないと思う。だが、始末しようとしたら糞ガキ共が身を挺して邪魔をしにきたのは確かだ。魔物のついでに子供をぶっ殺すのは明らかに間違っているだろう。
あれはデカイ蜂、あれはデカイ蜂。勇者は己に言い聞かせようとするが、モヤモヤは全く晴れなかった。
諦めた勇者は馬鹿馬鹿しいと舌打ちして、さっさと帰路に着くことにした。
「あ、すいません! 私ちょっと行かなくちゃいけない場所があるんで」
「どこ行くのよ」
「ちょ、ちょっと実家のほうに」
マタリの実家、追い出されたというアート家のことだ。快活なマタリが言いよどむという事は、それなりの事情があるのだろう。勇者は突っ込むのは止めておいた。
「そう。じゃあ後でね」
「はい、すみません! じゃ急いで行ってきます!」
猪娘を見送ると、勇者とエーデルはゆっくりとスラムの出口へと向かいだす。
その途中、ならずもの達が獲物を狙うように後をついてきたが、殺気を発して威嚇してやると散るように逃げていった。勇者の機嫌は最悪の状態であり、もし手を出してきたら半殺しにしてやるつもりでいた。
間もなく出口というところで、隣を歩いていたエーデルが静かに呟いた。
「……ねぇ、貴方、もしかして右手が」
「さすがはピンキー、鋭いわね。ええ、使い物にならないわ」
知らないうちに右手をかばうような仕草でも取っていたのだろう。左手だけで過ごすというのは意外と大変なものらしい。違和感を与えても不思議ではない。
エーデルが気遣うような視線を向けてきた。実に似合わないなと思いながら左手で果実を弄ぶ。香りの強い品種のようで、甘酸っぱい匂いを感じることができた。勇者の好みの香りである。
「治癒術師は……呼ぶだけ無駄かしら」
「そういうもんじゃないから。でもまだ左があるし。だから何も問題ないわ」
「……そう」
「マタリには言わなくて良いわよ。何の解決にもならないからね」
勇者は一方的に告げると、持っていた赤い果実に齧り付く。
――なるほど、確かに甘くて美味しかった。微かに感じる酸味が高級感を演出しているのかもしれない。大量に溢れる果汁を気にする事無く、勇者はひたすらに貪り続けた。余計な言葉が、口から漏れてしまう事がないように。
◆
勇者達と一旦別れたマタリは、スラムを抜けて懐かしの我が家――アート家の入り口に立っていた。
そして兄のレケンに会いたいと伝え、今はこうして待ちぼうけを喰らっているという訳だった。
会って聞きたい事はただ一つ。ビーンズの一件だ。ビーンズは確かにレケンを同志と言っていた。一体何をしているのか。何か危険なことに関わっているのか。それをどうしても問い質したかった。
一時間ほど待たされた頃、重々しく扉が開き顔見知りの使用人が現れる。
「申し訳ありません。レケン様は御会いにはなられません」
「どうしても会えない?」
「はい。もう一族の者ではないのだからと。二度と近寄るなとお怒りのご様子でした」
「……そう」
マタリは嘆息する。簡単に会えるとは思っていなかったが、ここまで嫌われているとは。血というのはそこまで重要なのだろうか。母が違うというだけで、これほどまでに差別されるのは一体何故なのだろう。マタリには分からなかった。
「マタリお嬢様。レケン様からこれを渡せと言伝を預かっております。時期が来たら開ける様にと」
「これは?」
厳重に封印された箱をマタリは受け取る。そんなに重くはないが、一体何が入っているのだろうか。
「見れば分かるそうです。軽々しく開けてはならないと」
「……分かった。時期が来たら開けるようにする」
マタリはそう告げると、もうこれ以上留まる必要はないと踵を返す。
「……マタリお嬢様。近頃のご活躍、本当に嬉しく思っております。きっと、レケン様も同じ思いかと」
「慰めてくれてありがとう。でも、兄上は」
「お体をお労りくださいませ。私達は、最後までレケン様に着いていきます故。マタリ様は、どうかわが道をお進みください」
何かを含んだような言葉に思わず怪訝な顔を浮かべるが、使用人は穏やかに微笑んで、静かに屋敷へと戻っていった。
この言葉の意図をマタリが知るのは、レケンの告げた“時期”が来てからのことだった。
ヤトゥムは気さくなナイスガイなんです。
見かけはスズメバチを二足歩行にして、更に重装化した感じです。
両腕から毒針ミサイル出します。死角が存在しないイカした奴なんです。
顎で子供を噛み砕くのは容易いことです。羽音が嫌な感じです。