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第十九話

 水晶から映し出される映像に、その場にいる誰もが目を奪われていた。

 試験前は一体誰が出てくるのかと騒いでいた輩も、一切言葉を発しようとしない。

 信じられないといった表情を誰もが浮かべ、ただ見入っていた。

 夢の世界では、勇者と巨大な化物が激戦を繰り広げている。

 人間の数倍の大きさを持つ恐ろしい化物相手に、ただの人間が一歩も引かぬ戦いを行なっているのだ。灼熱の炎を掻い潜り、腸を抉ろうとする凶爪を跳ね返し、肉薄して何度も剣を振るい続けている。


「あ、あれ、なんですか? た、ただの魔物じゃないですよね」

「……あんな凶悪な化物が普通に歩いてたら、迷宮は今頃死体だらけだろうよ。少なくとも、地下七十階までにはいない。俺はあんな奴を見た事がない」


 マタリの疑問に、ロブが答える。視線は映像に釘付けとなりながら。


「じゃ、じゃあ、この魔物は実際には存在しないってことですか?」

「残念ながらそれは違う。この水晶の試験は、そいつが実際に見たことのある奴しか出てこない。つまり、あいつは“どこかで”あの化物を見た事があるんだろう。全く信じられないがな」


 ロブの言葉に、マタリは息を呑む。勇者は何の躊躇もなく果敢に攻め続けている。勿論敵の攻撃を何度も喰らってもいる。燃え滾る炎は勇者の腕を燃やし、爛れた皮膚が露わになっている。それでも怯む姿を一切見せない。


「う、腕が……」

「とんでもねぇ奴だな。恐怖心がないのか、或いは命がおしくないのか。あの世界は確かに幻だが、痛みは感じるからな」


 マタリはふと考える。自分ならばどうか。あそこにいるのが自分ならば。

 ――無理だろうと思う。明らかに勝てる相手ではない。格が違うと一目で分かる。伝説上のみに存在する恐ろしい魔物にしか見えない。それを相手に、たった一人で戦うなんて、無理だ。


「……三本の捩れた角に、四枚の黒き羽。赤き竜の皮膚に、猛き獅子の面は憤怒を表すという。まるで、どこかで聞いた魔王様みたいねぇ」

「あ、あの、伝説の、魔王ですか?」

「だって、伝説通りの姿だと思わない? 魔族の頭領に相応しい威厳と迫力があるわ。あんなの魔王以外の何者でもないじゃない」

「ば、馬鹿馬鹿しい、そんなはずがないだろう! あれは三百年も前の話だ!」


 ロブが吐き捨てるが、エーデルは話を続ける。


「それじゃあ聞くけれど、あんな人間の手にあまりそうな化物、一体この世のどこにいたのかしらねぇ。軽く一つの国ぐらい滅ぼしそうな化物じゃない。精強な軍隊でも止められそうにないわ」

「む、むう」


 ロブが口ごもる。エーデルに反論出来ない。


「マタリちゃん、貴方も気になるでしょう?」

「そ、それは、この地下迷宮以外には考えられないのでは」


 地上にはもう魔物は存在しないと言われている。現に、異形の者が姿を現したという話は聞いた事がない。魔物が存在するのは、この地下迷宮のみ。


「そう、魔物がいるのはここだけよね。世界中どこを探したって魔物はいないわ。遙か昔の戦いで、地上での彼らは全て滅びたから」


 エーデルが自分に確認するように話しを続ける。頭の中で考えを巡らせているのだろう。

 マタリは話を聞きながらも、戦闘に釘付けとなっている。勇者が化物の右腕を切り飛ばした。完全に勇者が優勢。体格差などないかのように鋭い斬撃を放ち続け、化物に反撃の隙を与えない。その合間に、矢、いや槍ほどの大きさの光弾を構成し、化物に浴びせかける。嵐のように激しい攻撃。それと並行して自らの治癒も行なっている。

 勇者の本来の戦い方は、恐らくこうなのだろう。一人で戦い続けるための攻防一体の戦闘術。


「し、しかし、こ、これほどとは。あいつは治癒術まで使いこなせるのか?」

「は、はい。あっと言う間に傷を治しちゃいます」

「……なんて奴だ。本当に何者なんだ、あいつは」

「彼女は魔物のいる地下迷宮に入ることは出来なかった。ギルドに所属しなければ、結界を通ることは出来ないもの。つまり、この街以外のどこかで、彼女はあの化物を見た、或いは戦ったことがあるというわけね」


 思わせぶりなエーデルの言葉。恐らく予測はついているのだろう。だが、口に出さないだけで。


「……お前はこう言いたいのか? あの三本角の凶悪な化物は魔王で、あの小娘が勇者だと。俺達が知らぬ間に、どこかで伝説が再現されていたとでも」

「さぁ、どうかしらねぇ。いつ、どこで戦ったのか。それが分かれば、全ての謎が解けるでしょうけど。でも、きっと教えてくれないでしょうね。名前も教えてくれないもの。……忘れてしまったらしいから」


 エーデルは水晶が映し出す勇者の姿を見て、寂しそうに微笑んだ。


「…………」

「いずれにせよ、この目で実際に見て分かった。自分から勇者を名乗るだけはある。賞金首を討ち取ったのも頷ける。戦い慣れていて、恐ろしく強い。俺達が束になってかかっても、間違いなく敵わないだろう」


 ロブが嘆息しながら呟く。その顔には悔しさといったものは浮かんでいない。諦めが見て取れる。次元が違うと理解してしまったのだろう。

 ギルド員達もロブの言葉に頷いている。古参の荒っぽい人間達も目を伏せて反論しようとしない。実力差が歴然だからだ。

 同じ人間同士ならば、勝ち目はある。だが、あの世界での戦いは全くの別次元。化物の一振りで、自分は粉砕されると予測できてしまう。勇者の放った光の矢、たった一本で死ぬだろうと分かってしまうのだ。

 彼らは二度と勇者を嘲笑することはないだろう。勇者かどうかはどうあれ、その実力は本物なのだから。


「本当に惚れ惚れするような戦い方ね。あれなら一人で十分、共に戦う仲間なんていらないでしょう。魔法を操り治癒術をも使いこなすのだから。どうやら、私達はただの足手纏いになりそうねぇ」


 エーデルの言葉を聞いて、マタリは沸きあがってきたものを抑える事が出来なかった。


「そ、それは違います!」

「……マタリちゃん?」

「敵わないと思うなら、ついていけないと思うなら、もっと鍛錬を積めば良いんです。私は絶対についていきます。歯を食いしばって、しがみついてでもです! 一人より二人、仲間がいれば何かあった時にお互いに助け合う事が出来ます。……これは勇者さんの受け売りですけれど」

「お、おいマタリ」

「とにかく、私は絶対に強くなって、勇者さんを助けられるようになってみせます! 絶対です!」


 マタリは強く言い切った。勇者は確かに強い。誰の助けもいらないだろう。

 だが、以前迷宮でマタリが弱音を吐いたとき、勇者はひどく落胆していた。とても悲しそうな顔をしていた。

 今までの彼女に何があったのかは分からない。想像もつかない。教えてくれるのかも分からない。だからマタリは共に行こうと思う。大事なのは、自分がどうしたいかだ。


「勇者ちゃんは、良い仲間を見つけたみたいねぇ。貴方みたいに呆れるほど真っ直ぐな人間が、最近少ないから」

「こいつは昔から変わらないからな。思い込んだら直線にしか進まないんだ。それは長所でもあり、短所でもあるな」


 ロブが無精髭を撫でながら苦笑する。


「若いってのはいいなぁ。真っ直ぐで」

「俺ももう少し若ければな」

「まだまだこれからだ。俺達も真っ直ぐ生きようじゃないか」


 ギルド員達が、幾分か表情を和らげて軽口を叩き始める。マタリの言葉に何か思うところがあったのかもしれない。


「皆して真っ直ぐ真っ直ぐって、私は猪じゃないんです!」

「そうかそうか。まぁ、お前が付いていくって言うなら止めねぇよ。あの娘に鍛えられれば、お前は確実に強くなる。嫌がられても死ぬ気でくっついていけ。生意気だが、性根は悪い奴じゃないだろう」

「はい、死ぬ気でくっついていきます!」

「あ、そうそう、私も勿論ついていくわよ。二人より三人の方が賑やかでしょう。賑やかな方が楽しいわ。それに捻くれ者が一人はいた方が、世の中色々と上手くいくのよねぇ」

「……エーデルさん」

「あんなこと言ったけれど、一人って本当に寂しいからね。私には良く分かるわ。どんなに強くても孤独には勝てないのよ。誰からも相手にされず、相手にせず。それってもう死んでるも同然じゃない。だからあの娘は――」

「だから?」


 言いよどむエーデルに、マタリが問いかける。

 一人は寂しい。マタリにも良く分かる。エーデルが何を言おうとしたのか、とても気になったのだ。

 だが、エーデルは首を横に振った。


「いえ、何でもないわ。そろそろ終りみたいよ。試験の最後をちゃんと見届けましょう」


 エーデルが視線を映像に向ける。マタリがそれを追いかける。

 息を荒げた勇者が、倒れこんだ化物の首に剣を突きつけている。化物は両腕を失い、三本角も無残に切り飛ばされている。完全に戦意を喪失しているように見えた。

 終りの時が来たようだった。

 

 



 勇者は何の躊躇いもなく、首を刎ね飛ばした。勝ち誇る事もなく淡々と。死体に火炎魔法を放つと、欠片すら残さずに消滅させる。

 剣を鞘にしまい、不快な気分を振り払うように髪をかき上げた。


「あの魔王をあっと言う間に倒しちゃうなんて、流石は勇者と言うべきかしら」

「――ッ」


 慌てて振り返ると、いつの間にかフードを被った人間が後ろに立っていた。

 手を叩きながら、勇者を褒め称える言葉を発している。背丈は同じくらいだろうか。


「世界を救った実力は本物ね。外の人間も驚愕していたわ。もう貴方を馬鹿にする者はいないでしょう。但し、勇者と認められた訳じゃないのは残念ね」


 声はどこか聞き覚えのある女の声。特に武器は所持していないようだ。

 女は馴れ馴れしい口調で挨拶してくる。


「こんにちは、伝説の勇者さん。ご機嫌はいかが?」

「……アンタ誰よ。試験の相手は本当はアンタだったとか?」

「違うわ。職業認定試験は合格よ。貴方は見事に魔王を打ち倒したんだから」

「あっそ。それじゃあさっさと星石を寄越しなさい。とっととこんな不愉快な場所とはおさらばしたいのよ」

「……ここが不愉快? どうしてそう思うの? こんなに素敵で美しい場所なのに」

「素敵で美しい? アンタ、頭がおかしいんじゃないの。こんな暗くて気味の悪い場所――」


 と、勇者が文句を言おうとした瞬間、辺りの風景が一挙に変化する。

 魔王と死闘を繰り広げた瓦礫交じりの廃墟から、光に溢れ彩り豊かな花が咲き誇る楽園に。


「ね、とても素敵な場所でしょう? だって貴方が救った世界だもの。貴方はここで幸せに暮らす資格があるのよ」

「ふん、くだらない寝言は結構よ、間に合ってるから。用が済んだならとっとと私を戻してくれる? 時間の無駄よ」


 勇者は鼻を鳴らして一蹴する。余計な御託は聞きたくない。試験が終わったのならとっとと帰りたいのだ。


「私達の会話は映し出されていないから、何の心配もいらないわ。貴方の本心を曝け出しても、誰も笑わない。誰も馬鹿にしたりしない。ここは貴方が平和に暮らす事ができる、最後の楽園だから」

「……最後の楽園? 悪いけど、アンタが何を言っているかさっぱり分からない」

「分からない? 本当に分からないの?」

「分かる訳ないでしょうが」

「だって、貴方には帰るべき場所がないじゃない」

「いきなり失礼な奴ね。……それぐらいあるわよ」


 勇者は視線を泳がせながらも答える。


「嘘ばっかり。私は全部知っているのよ。貴方が隠そうとしていること全部。例えば、貴方が本当は寂しがりやなことも知っている。だから、足手まといであろうとも貴方は見捨てない。外法術師であっても貴方は受け入れた」


 表情を窺う事は出来ないが、女は楽しげに語っている。それがひどく不愉快で、勇者は苛々が増している。


「……さっさと星石を渡せ。私は帰る」

「そして、貴方が何故勇者であることに拘るのかも知っている。だって、貴方から勇者であることを取ったら何も残らないものね。貴方は辛い闘いの中で、自分の名前すら忘れてしまった。だから必死にしがみつく。人から勇者と呼ばれることで、貴方は自分を何とか認識できている。でも、心は限界に近づいてきているのでしょう。勇者の役割は終わったという事を、貴方が一番分かっているのだから」

「――馬鹿馬鹿しい。私はそんなことを考えたことはない。私は勇者であることに誇りを持っているからね。ねぇ、いい加減にしないと本当にその口黙らせるわよ」


 勇者が殺意を篭めて睨み付けるが、女は全く動じない。怖気づくことなく、口を動かし続ける。


「貴方はどうして未だに魔物を殺すの? どうして平和になった世界で、わざわざ地下迷宮に挑もうとするの?」

「魔物を殺すのが勇者の使命だからよ。理由なんていらないわ」

「結界があるから、魔物は外に出て行く事は出来ない。だから、貴方が魔物を倒す必要はもうない。平和な世界で、剣を捨てて静かに暮らすことも出来る」

「だから? 誰が何と言おうと、魔物がいる限り私は戦い続けるわ。あいつらの存在が不愉快だから」

「そう信じていれば余計な事を考えずに済むものね。だから貴方はこの世界のことを知ろうとしない。自分の身に何があったのかを考えようとしない。暗い地下迷宮に閉じこもっている限り、辛い事や悲しい事は知らないで済むから」


 女が近づいてくる。勇者は身動き出来ない。


「…………」

「――ねぇ、教えてあげましょうか。貴方が必死に目を逸らしている事を全部」

「やめろ。私に近づくな!」

「知りたいでしょう? 全部、ありのままを教えてあげるわ」

「うるさい、黙れッ!」


 勇者が声を張り上げる。


「……ふふ、冗談よ。貴方を追い詰めるつもりはないわ。ただ、事実を認識して欲しかっただけ。外の世界が、貴方にとっていかに辛い場所かということを」


 女は更に近づいてくる。


「試験はとっくに終わってるでしょうが! 早く私を元の世界に帰せッ!」

「試験なんてどうでも良いのよ。最初に言ったでしょう? 貴方はこの楽園で幸せに暮らす資格があると。だから、もう余計な事を考える必要はないわ。誰も傷つかないこの世界で、永久の平穏を楽しみましょう」


 女が勇者の目の前までやってきた。手を伸ばせば届く距離だ。


「……それ以上近づいたら攻撃する。容赦なく首を刎ね飛ばす」

「私の手を取りなさい。そうすれば全てのしがらみから貴方は解放される」

「お断りよ」

「良く考えなさい。これが最後の機会なのよ。私を拒絶すれば、貴方は再び地獄に戻り、苛みつづけることになる」

「……どういう意味?」

「貴方には信頼出来る友もなく、愛する者もいない。誰にも心を開かないから愛されるはずもない。帰るべき故郷もなく、挙句には自分の名前すら失った。最後に残ったのは『勇者である』という小さく惨めな自尊心だけ。そこに誇りなんてものは存在しない」


 我慢の限界がきた勇者が全力で殴りかかったが、女の手前で止まってしまう。何らかの力で攻撃が阻止されてしまった。


「――ッ!?」

「貴方は『勇者』であるという唯一の価値まで、簡単に否定されてしまった。笑い者の道化と見做され、屑共に嘲笑される始末。……強がってはいても苦痛の日々だったでしょう。勇者であることを証明するために、戦い続けなければいけないのだから。それを地獄と呼ばずに、何と言えば良いのかしら」


 言葉の刃が勇者を抉る。聞いてはいけない。恐らく、妄言で勇者の精神を犯し、最後には破壊することが目的なのだ。

 だから、一刻も早く耳を塞ぐべきなのだ。

 だが、勇者には否定出来ない。


「……う、うるさいッ!」

「戦っている時だけは、気分が高揚して全てを忘れることが出来る。だから、貴方は魔物を殺し続ける。でもね、人々を助ける為に戦うのが『勇者』なの。決して己の為ではないわ。貴方は、その事実から必死に目を背けようとしているだけ」


 淡々とした口調で、女は勇者を追い詰めてくる。勇者であることを否定しようとする。

 人々を助ける為に戦うのが勇者。だから勇者は、人々を苦しめた魔王を打ち倒した。何も間違ってはいなかったはずだ。

 そして、魔物を皆殺しにした。魔に屈服し、尖兵となった人間達も殺した。染み付いた腐臭は二度と取れることはない。だから、殺すしかないと勇者は判断した。

 だが、結果はどうだっただろうか。勇者の意識が混濁する。

 何かが間違っていたのか。それとも、何も間違ってはいなかったのか。勇者には分からない。誰も教えてはくれなかった。


「わ、私は間違っていない。だって自分で、決めたのだから。間違っていないッ!」

「あの世界にいては、貴方の精神は確実に崩壊してしまう。ねぇ、自分でも気が付いているでしょう。徐々に心が壊れ始めているのが。最近、貴方の体調が優れない理由、それが答えなのよ。――さぁ、これが最後の機会よ。この楽園で、私達と共に幸せに暮らしましょう」

「――黙れッ、私を惑わせようとする腐った魔物がッ。さっきから好き勝手言いやがって! 今すぐ死ねッ!」


 勇者が剣を抜き放ち、女の首筋目掛けて鋭く薙ぎ払う。一切の加減はしていない。首を叩き落すつもりで放った。


「無駄よ。この楽園では、そんな乱暴なことは出来ないわ」


 勇者の渾身の一撃は、薙ぎの途中で止まってしまった。止められたのではない。勇者の身体がそれ以上動かなかったのだ。

 腕が何かに押さえつけられているかのように、重い。


「――ッ。何でよ。何で動かないの! な、なら魔法で」

「それは無理よ。貴方は私を傷つける事は出来ないの。絶対にね。何故ならば――」


 女がフードを取り、正体を現す。見知った顔がそこにはある。だが、いつもの生意気で勝気なものはなく、どこまでも穏やかな表情だった。


「わ、私? いや、マタリのときと同じ幻影かッ!」

「私はあんな紛い物じゃないわ。私は貴方。貴方がかつて忘れさったもう一人の私。私は貴方を誰よりも理解できる。だって、貴方は私なのだから」

「ふざけるなッ、私は私だ! お前は魔物が化けた偽者だッ」

「そんな大声をあげなくても大丈夫よ。貴方を傷つける人はここにはいない。貴方は孤独な『勇者』でなくても良いの。ここには魔王も魔物もいない。貴方を嘲る人達もいない。どこまでも穏やかに暮らす事が出来る、貴方のために作られた楽園」


 目の前の勇者が温和に笑う。幸せそうな笑顔を浮かべながら手を差し出している。


「…………」


 勇者は少しだけ考える。この手をとるべきかどうか。

 取ったら全てが終わる。勇者であることを止め、この楽園でいつまでも静かに暮らすのだ。

 何らかの罠ということは分かっている。だが、もうどうでも良いのではないかとも思う。

 まやかしの世界に取り込まれて、誰かが困るわけでもないだろう。

 どうせ戻ったとしても、何かが待っているわけでもない。平和な世界に勇者は必要とされない。魔王を打ち倒したときに、物語は終わるべきだったのだ。

 これから先も、勇者であることにしがみつく惨めな日々が待っている。寿命が尽きるその日まで続くのだろう。それは、まるで地獄ではないか。


「…………」

「さぁ、その剣を渡して。もうそんなものは必要ないのだから。楽園に武器なんて必要ない。強さはいらないの。平和な世界に、勇者なんて必要ないのよ。『勇者』などという重荷は捨てて、私と一緒に幸せな日々を送りましょう」


 目の前の女が強く促してくる。今すぐ剣を渡せと。勇者であることを捨てろと、甘く囁いてくる。

 勇者は少しだけ迷った後、決断した。やはり、自分にはこうすることしか出来ないと。


「答えは否よ。私は、こういう風にしか生きられない。馬鹿なのは分かっている。けれど、今更自分の道を曲げるつもりはないわ」


 流れるような自然な動作で剣で自らの喉を掻き切った。全く躊躇うことなく、刃を横に滑らせたのだ。

 鮮血が吹き荒れる。目の前の勇者は驚愕で目を見開いている。二人の勇者が赤く染まっていく。


「な、何を」

「自分には、攻撃、出来るみたいね。良かった。本当に、良かった」

「なんて馬鹿な真似を! これで貴方は最後の機会を――」


 初めて声を荒げる目の前の女。こいつが本物なのか、偽者なのかは分からない。恐らくは魔物なのだろう。勇者を誑かすために現れた。

 もしかしたら、本当にもう一人の自分が提供してくれた可能性もある。安らかに死ぬことが出来る、最後の機会を。

 だが――。


「ゆ、勇者であることを、捨てるくらいなら、死んだ方が、マシよ。わ、私は、勇者、なんだから。これで、終わりなら、それでも、構わない。最後まで、勇者として生き、勇者として死ぬわ」


 自分は勇者なのだ。だからこれで良い。誰にも認められなくてもだ。

 溢れてくる血と共に吐き捨てて、勇者は口元を歪めた。


「…………」


 返り血を浴びながら、女は無表情でこちらを眺めている。その表情はまるで人形のようだった。

 勇者は心から満足そうに歪んだ笑みを浮かべる。


「――それ、じゃあね、偽者さん。もしかしたら、本当の私」


 勇者は駄目押しに、剣を喉に突き刺した。灼熱の痛みと熱が脳を焼き尽くす。幻の世界の癖に、痛みは現実と全く変わらない。

 もしかしたら、これで死ぬのかもしれない。もしくは本当の地獄に落とされるのか。どちらでも良いかと、勇者は笑った。

 力を籠めて抉ると、意識が闇に覆われ始める。黒と赤が入り混じり、楽園は醜く歪んでいく。

 勇者は膝から崩れ落ちた。赤い血溜まりの中で赤子のように蹲る。

 意識が完全に途切れる瞬間まで、勇者は狂ったように笑い声、或いは泣き声を上げていた。

 

 



 頭部に酷い痛みを感じて勇者は目を覚ました。二日酔いを更に酷くしたような症状。最高に気分が悪い。


「……あ、頭が割れそうに痛い。なんなのよもう」


 布団を引き剥がし、勇者は気だるそうに身体を起こす。隣のテーブルには果物や水差しやらが置いてある。

 空腹を感じたので、勇者は早速手を伸ばしてつまみ食いすることにした。


「よいしょっと。もうちょっとで取れそう――」


 手を伸ばした勇者はバランスを崩して、ベッドから転げ落ちてしまった。身体がなまっていたようだ。

 床に顔面から崩れ落ちたため、大きな音をたててしまった。グエっという蛙をつぶしたような声も漏れた。


「な、何の音ですか!? って勇者さん、一体何をしてるんですか!」


 慌てて飛んできたマタリが、目を見開いて驚いている。


「あ、ああマタリじゃない。ちょっと果物を取ろうとして」

「『ああ』、じゃないですよ! もう、本当に心配したんですからね! でも、意識が戻って本当に良かったです!」


 マタリが心から安堵したような表情を浮かべた。一々大げさな奴だと、勇者は呆れる。


「ちょ、ちょっと。そんなに心配するようなことじゃないでしょ。少し寝坊しただけなのに」


 酒を飲みすぎて二日酔い、後にぶったおれて寝坊した。こんなところだろうと勇者は推測していた。

 マタリは勇者の言葉を聞くと、肩を怒らせて声を張り上げた。


「何を言ってるんですか! 勇者さんはもう五日も意識を失っていたんですよ!? どれだけ心配したと思ってるんですか! とにかく、すぐに先生に連絡しますから。絶対に大人しくしていてくださいね!」


 勇者を無理やりベッドに担ぎ上げると、部屋から大慌てで退出していくマタり。

 展開が速すぎて、ボーっとしている頭がついていかない。

 勇者はとにかく水でも飲んで落ち着こうと左手を伸ばす。


「――ん?」


 水差しを取ったところで、手を止める。

 左手になにやら紋章が刻印されている。これが自分の紋章なのか。恐らくはそうなのだろう。マタリもこのように変化していた。

 気付かない間に、職業認定試験には合格していたようだった。

 勇者は自分の左手を見つめる。

 鎖が巻かれた剣からは、二枚の見事な翼が生えていた。どういう意味なのかは分からないが、普通の紋章とは違うようだ。

 ロブにでも見せれば、余計な薀蓄を聞かせてくれるだろう。

 しかし、紋章が翼とは。不細工な白カラスを思い出し苦笑する。あの白い鳥頭は今頃何をしているだろうか。

 勇者がぼーっと思考に耽っていると。


「五日も寝込んでたくせに、意外と元気そうね。慌てて駈けずり回ってたのが馬鹿馬鹿しくなってきたわぁ」


 ふと横を見ると、エーデルが呆れた表情で立ち尽くしている。


「い、いつからいたのよアンタ」

「マタリちゃんと入れ替わりよ。貴方が目を覚ましたって言うからね。仲間だから、心配するのは当然でしょう」


 エーデルがらしくない笑みを浮かべるので、勇者は目を逸らす。


「……し、知らないわよ、そんなの」

「まぁ、元気になってなにより。後はもう少し感謝の気持ちがあればなおさら良いのだけど」

「う、うるさいわね。……ところで、五日間も寝込んでいたってどういうことよ。私はこうしてピンピンしてるじゃない」


 勇者は気まずくなり話を逸らしてみた。だが、エーデルは怪訝そうな表情で勇者を見る。


「……試験が終わった後も、貴方の意識が戻る事はなかったの。貴方はまるで死んでいるかのように眠り続けていたのよ。呼吸をしていなければ、まるで死体かと見間違うところだったわ」

「危うく、アンタに操られるところだった訳ね。危ない危ない」

「何か心当たりはないの? 認定試験でこんな事故があったなんて話は、聞いたことがないわ」

「水晶に触ってからの記憶が全部すっとんでるわ。試験にはいつの間にか合格していたみたいだけど」


 顎に手を当てて、考える仕草を取るエーデル。何を考えているのか、勇者には見当もつかない。


「試験の相手は? 貴方が夢の世界で、誰と戦ったかは覚えている?」

「全く覚えてないわ。今起きたら、いつの間にか左手に刻印があって、私も驚いているところだから」


 試験の相手は誰だったのだろうか。残念ながら、勇者の記憶にはない。


「……そう、なら良いわ。星石は私が預かってるから、後で渡すわ」


 と、言う割にエーデルの目つきは真剣である。


「ねぇ、私の相手は誰だったの? もしかして狂化したマタリだったりして。あれは印象が強いからね」

「本当に大きな魔物だったわよ。強大で、とても恐ろしい化物。人間じゃ太刀打ち出来ないような感じだった。皆驚いてたわよ。腰を抜かしてた奴もいたしね」

「ふーん、そうなんだ」

「貴方はそれに打ち勝った。魔法、治癒術を駆使して、最後まで化物を圧倒していたわ。まるでお伽噺の勇者みたいにね」

「全く覚えてないわ。まぁ勝ったならそれで良いじゃない」


 興味なさげな勇者に、エーデルが問いかけてくる。


「……貴方、あれと戦ったことがあるの?」

「あれが誰を指しているかは分からないけれど、魔王を倒すのは勇者しかいない。だから、そういうことよ」

「なるほどねぇ。今度、是非詳しく教えてもらいたいわ」

「時間があったらね」


 勇者は首を鳴らして、身体を動かし始める。どうもあちこちが錆び付いているようで、居心地が悪い。


「……その紋章」


 エーデルが指を差してくる。


「何よ」

「相当珍しいみたいよ。マタリちゃんのもそうだけど、貴方のも何か特殊な奴だって。それを見た鑑定士が、慌てて教会にすっとんでいったからね。一体どういうことなのかしら」

「そんなに珍しいの、これ?」

「私の知る限り、特殊な紋章は貴方達二人しか見た事がないわね。自慢できるわよ」


 勇者は特に思うところはなかった。刻印が何であろうと、勇者である事に変わりはない。だから、何も問題はない。


「ところで、私はこれからどうしたら良いの?」

「何もしないで良いわ。暫くは安静にしていなさい」

「なんでよ。もう動き回っても大丈夫よ! 体調は絶好調だし」


 とりあえずは腹ごしらえと、汗臭いのをなんとかしたい。温泉に行くのも良いだろう。勇者は動き回る気満々だった。

 エーデルが戒めるように目を細め、強く釘を刺してくる。


「貴方、腕利きの聖職者から『意識回復の見込みなし』とまで言われてたのよ。少しは自重という言葉を頭に叩き込んでおくと良いわ。それと、後でマタリちゃんにしっかりお礼を言っておきなさい。貴方の看病を一生懸命にやっていたんだから」


 大人の貫禄で睨みつけてくるエーデル。反論出来ずに、勇者は思わず口篭る。


「……わ、分かったわよ」

「素直で宜しい。意識のない人間の看病というのは本当に大変なの。それを一日中付きっ切りで彼女はやっていた。私も、ほんのちょっとだけ手伝ったけれど」

「…………」

「良い仲間を持ったわね。貴方、本当に幸せ者よ」


 知ったような顔で微笑むと、散らかった部屋を片付け始めるエーデル。

 勇者は返事をせず、布団をかぶる事にした。


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