女の部屋
殺風景な個室のベッドに寝転がり男は一人テレビドラマの再放送を眺めていた。窓一つない所為かその部屋はやけに蒸し暑く、ベッドの端々には脱ぎ捨てた服が散らばる。暑苦しさのためか、ドラマの筋書きにも集中できない。
彼は蝸牛の這い回ったようなシーツの、それでも乾いた方へと何度も身体を動かす。湿気から逃れようとするのだが、どうにも自分の汗をなすりつけているようでもある。生乾きの布地で身体を拭う作業が不毛に思えた時分、テレビ画面に砂嵐が吹き荒れた。どうにもこのテレビは映りが悪い。男がベッドからよろよろ這い出て雑音をわめくテレビを叩くとくしゃみのような音を立てて沈黙した。急に汗が肌寒く感じて男はシャツを着直す。
いつからなぜその部屋にいたかを男は覚えていない。気づくとベッドの中で、そのまま部屋から出ようとも思わなかった、といった具合だ。部屋に来る前に肉か何かを食べ過ぎたようで食欲も湧かず、テレビを眺めたり棚の本に目を通したりして時間を潰した。たしか大それた催しがあり、それから逃げて来たような覚えはある。だが携帯電話の電池はとうの昔に切れてしまって、彼も手を打とうとはしない。
時計ならある。壁の上の方にある、白黒のアナログ時計がそれだ。だがその文字盤には何も書かれておらず針も一本のみだから時の感覚もはっきりとしない。長いとも短いとも言えない長さの針は常に気づかぬうちに回り、男が部屋に来た頃は何度も針の動きを確かめた試しもあるが、近頃は気に掛けるのをやめてしまいもう何周したかも思い出せない。この部屋に来て数十時間か数週間かのうちに――ともすれば十数ヶ月は経ってしまったのかもしれないが――自然と彼は時計から目をそむけはじめる。針の動きが急かすようで煩わしかったのだろう。 彼は決してその部屋を気に入ってはいない。薄橙の内装は女々しく映り、雨漏りにもしばしば悩まされた。ただ多少不愉快といえど男には他に適当な場所もないらしい。そんな中途半端な心境の所為か彼は始終何かをやりすごすようにベッドで丸まっていた。ただでさえ壁の向こうから響く呼吸に似た音は都合よく眠気を誘う。それに寝入る間際だけは生暖かいベッドも心地よい。時計の存在はますます記憶の奥底に沈められていく。
うまく寝付けないときはテレビを見た。昨今では珍しいそのブラウン管テレビは時々画面がちらつき、音声がくぐもり、酷い時には何の番組かさえも分からないが、男は番組の判別も含めてテレビを楽しんでいるようだ。とはいえリモコンが見つからないために男が見られるのは名前も分からぬローカル局一局で、流れるのは殆ど再放送のドラマばかりだった。時々思い出したようにニュースが映るのだが、どれも大して重要と思えないものばかりである。三日ほど前にもコインロッカーに死体を遺棄したとか誰かが無理心中を起こしたが未遂に終わったなどといったニュースが流れたようだが、すでに男は忘れている。ただニュースが入るときはなぜか決まって緊急速報だった。男以外の誰かにとっては緊急を要する知らせなのだろう。
テレビの見られない間、男は本棚に向かった。その本棚は彼の決して低くはない背丈ほどもあり、女性誌や小説、育児書まであらゆるジャンルの書物がある。だがそのどれにも興味を持てないでいた男は一番上の棚に妙な装丁の本を見つけた。文庫本以上ハードカバー未満の中途半端な大きさと規格を無視した形、緑の布地で装飾された本である。男は何の気なしに手に取り開く。旧約聖書であった。
突如、男は途方もない恐れを感じ取る――何か咎められたような感触――思わず開いたページに見えた[第三十八]の文字を頭から振り払うように足下の棚にそれを押し込んだ。息が詰まる。どうにかベッドに逃げ込もうと後ろを振り向く。
女が、膝を抱え横になっていた。
その女は透き通った瞳、けれど何一つ見えてはいないような、水揚げされた魚のような目をしている。身体の輪郭がどうにも丸っこく、その所為か必要以上に幼く見える。そう見ると顔つきも幼く見え、抱えた足の細さがやけに痛々しく感じた。見覚えも無く印象にも残りそうにない、誰ともいえないようなその顔立ちは――しかし、男の記憶に沈んで消えた他の誰でもあるように思えた。
――この人殺し。
女は彼の居る方に向けて、はっきりと言い放った。彼は短刀を突き立てられたような感触を覚え、たじろいだ。女はそれ以上彼を苛むことはなかったが、男は身に覚えのない言いがかりに心から震える。ベッドに戻るつもりにもなれず、その場にしゃがみ本棚に身体を預ける。背中に当たる無数の古びた背表紙がもたらす、遠き日の母の腕の中に似た感触。気づくとテレビからいつもの再放送のドラマが流れ、女がひたすら見入っていた。
始終ぎこちなかった男はその女を容認した。たとえ追い出そうにも行く宛てがなさそうに思えたからであり、またこの部屋が女のためにあるようにも思えたからだ。事実、部屋に来てしばらく経った今でも男はしばしば部外者意識を覚えた。部屋を無視して入室したようにも、逆にこの部屋に呼ばれたようにも考えられるが、侵入者であれ来客であれ部外者には違いない。彼と対照的に女が水を得た魚のごとく部屋で心地よさそうに過ごすのがどこか歯がゆかった。
部屋に認められたからか、誰一人寄せ付けないような女の素振りは次第に薄れ、お互い口数は少ないものの会話らしきものが成立し始めた。女が一言二言こぼし、男が聞き返す。その殆どはドラマの感想についてで、寝るたびに番組内容を忘れてしまう彼を女はその度に蜥蜴のように冷ややかな目で見やるが、彼を責めることはなかった。ただ、未だに彼の脳裏に響くその言葉について彼女は一言も説明をしなかった。彼もそれを思い出さぬよう、時計のように忘れてしまえるよう努めた。
だが彼の意味のない抵抗と裏腹に、あるとき彼女はふと時計へと目を向けさせる。
――あれを見て。
見ると真っ白だった時計の文字盤にいつしか目盛と数字が打たれている。だがよく見ると目盛の量が異様に多い。また本来の時計で十五分の目盛には「70」、三十分の目盛には「140」、四十五分には「210」と書かれていた。針はいま「70」と少し過ぎたところ――この時計で言えば九十あたりだろうか――を差している。二百八十進法の時計とそれに怯える女の小動物じみた顔つきを、彼は布団の中で不思議そうに見比べた。
時計の話をされてなぜか居心地悪く感じた彼は無理やりテレビの画面へと向き直った。いま映っているドラマは恋愛がテーマらしい。二人はベッドに並んで座り、時計を忘れようとドラマに見入る。
画面内の小さな世界では、公園の電灯に淡く照らされた男女が抱きしめあっている。女優は頭に包帯を巻いており、見るからに衰弱していた。二人の立っている影はカメラの左隅に伸び、遠くにヒグラシの声が聞こえ、女優は相手役の男優の引き締まった腕に無心で包まれていた。男の側が何かささやき、女優も頷く。彼はさらに腕の力を強める。恍惚の表情を浮かべる二人。
彼にはどうしても、そのドラマが作り物のように見えた。女の側が西洋人形のような顔立ちなのに対し、男のスタイルはマネキンのようで、その番組はよくできた人形劇にも見えた。そんな俳優のきな臭さは鼻につくほどだったが隣の女に遠慮して、幸せそうだねと言ってみた。すると女は彼に目を向けもせず、気持ち悪くないの、と一言問いかけた。彼は何がそう感じたかを問おうとしたが言葉に詰まり、ついに聞き逃してしまう。そのとき彼には彼女が別の生き物のように見えた。ドラマは不意に臨時ニュースに変わり、女は慌てて立ち上がり時計を確認する。女の顔はみるみる青ざめたが、彼はそれに気づくことなくベッドに潜り込んだ。
男が次に目覚めた時、ゴム手袋をした女は馬乗りになって彼の首を絞めていた。
思わず突き飛ばし、頭の覚めきらぬ内に女を後ろで押さえつけ右手袋を引き抜く。摩擦でうまく外れなかったが、女の握り締めた掌を無理やり広げて手袋を奪う。この手袋がいけないんだ。俺を馬鹿にしやがって。自分の頭でさえも追いつかないほどに手袋が憎憎しく感じ、悲鳴を上げる女からもう一方の手袋も奪った。そこで何か達せられた気がして、二人してベッドに倒れこむ。両者とも、呼吸が整うまで息遣いで何も聞こえないほどであった。
男は我に返り、手の中に残った手袋を不思議そうに眺めた。女は肩を震わせて泣いている。無理やり引き剥がそうとした時に付いた女の血や男の手汗なんかが気持ち悪い。思わず手袋を投げ捨てる。
――どうして、こんなことを。
男は問う。それは女に対してというより、手袋がどうにも許せなかった自分に対する疑問の方が強かった。女がシーツに顔をうずめて声を上げて泣く。ふと、体温の冷めに乗じて湧いた得体の知れない使命感が彼に女の身体を引き寄せさせた。女は何一つ抵抗せず、彼の腕に捕まえられた。彼は何か言葉を掛けようとしたが、昨晩のドラマの内容が思い出せないのでやめた。女の小鳥のようなすすり泣きだけが耳についている。
しばらくして女は部屋の奥の台所へと向かった。顔を洗い、水を飲んでいるようだ。ところでこの台所は水道管が錆び付いているのか薄く赤茶けた水しか出ない。以前に男もこの水道を利用しようとしたことがあったが、彼はすぐに台所に向けて吐き捨てたのだが、女は平気でその水を飲んでいるようだ。やはりこの部屋は女のためにあるのかもしれない。
女は部屋に戻るとコップの水と、桃色の小さな錠剤を持っていた。ベッドとテレビの間のテーブルにそれらを静かに置くと、これは毒薬です、わたしはこれで死にます、とそう告げた。
男はあわててその錠剤を彼女から奪おうとしたが失敗する。錠剤は確かに女の手の中だが、また同じように手を出すことは彼にも憚られる。数刻悩み、試しに君を愛していると言った。するとその女は錠剤を床に放って自分から彼を抱き締めてきた。彼はドラマの俳優がしたことを真似てその艶やかな髪を撫でてみたりしながら、拍子抜けした気持ちで電源の切れたテレビを眺めていた。そこには親鳥を見つけた雛のように懸命に泣き付く女と、あまりに人形じみて動物にすら見えない彼自身とが映り込んでいた。
――お願いです、いい子になりますから……。
女はひたすら彼の身体にしがみ付き、離すまいと泣き続けた。その間、男もまた心当たりを失った罪悪感に悩まされていた。
来る日も来る日もドラマだけは見続けた。女は本を手に取ることもしばしばあったが、男に至ってはテレビばかりを見ていた。先の恋愛ドラマは今に至るまで執拗に繰り返され、彼は同じ話を何度も見せられているような錯覚に陥ったがそもそもその放送は再放送であるからさほど気にも留めはしない。そのドラマを全話見通せば何かが分かる――そんな根拠のない確信が彼にはあった。
何度も見返すうちに彼にもドラマの概要が掴めてくる。劇中の男と女は共に大学生で、女の方につらい過去があるらしい。男はその過去から来る女の儚さに惹かれるが、女は過去のトラウマから男を退けてしまう。そんな中、女と関係を持った別の男が現れ、それは明白すぎる悪役として描かれる。その男の暴力により付いた痣と彼女自身が付けた傷とをホテルで見た男は、女を連れ去って旅に出た――筋を了解するほどに、彼はそのドラマへの嫌悪を募らせていった。自分の根底で膨らむ何かをわざわざ手に取り、見せられるような心境。記憶をくすぐるような細かいデジャヴの数々が、余計に彼を苛立たせる。物語の一面的すぎる切り取り方は、かえって悪役への興味をもたらす。けれど以前このドラマを気持ち悪いと言った隣の女は、見下したように劇中人物を眺めながらも男に見るように強要し続けている。
何度目かのベッドシーンで、ふと女が手を握る。彼はテレビ画面を参考にして身体を横たえようとしたが、すぐさま女の手に阻まれる。見るとその手には手袋がされている。彼は女を睨み付けると身体を引き離し、テレビ画面へと目を向けた。
あなたとは、できないよ。
女はさほど感情のこもらない声でそう諭す。まるで自明だと言わんばかりに、あたかも物理法則で定められているかのごとく。あまりにも明白に断られ、思わず彼も納得させられる。それからやっと自分にその衝動が大してないことを自覚した。そして彼女から目を逸らそうとして、代わりに時計が視界に入る。
――その針が八十四を差す前に、わたしはこの薬で死ぬはずだったのに。
指先でいつしか取り出した錠剤をもてあそびながら、彼女は呟いた。錠剤と手袋のことが頭をよぎり、思わず彼女の手を握る。手の中に広がる汗が彼のものかどうかは、誰にも分からなかった。
次の日、ドラマは急展開を見せた。
主人公の恋人である女優が一人、病院へと歩いている。足取りは重い。今までこの恋人たちはほぼ毎日を共に過ごしていたから、単独行動は奇異に映る。彼女は家庭内に問題があり、そのためトラウマを抱えて生きていた、男はテレビを見ながらそんな設定を思い出す。すると、向かう病院は精神科だろう。彼はそんな先読みをしてみたが、どうやら違ったらしい。
回想シーンが入って男は驚いた。その女優が父親役の男と手を繋いでにこやかに談笑していたのだ。トラウマの話はどうしたのだろう。彼は冷や水をかけられたような心境で番組に見入る。
お決まりの回想が終わると女優が病院から出てくる。待っていたのは恋人でなく、悪役の男だった。女優は父親に向けたのとは違う意味の笑顔を浮かべ、彼の腕の中に包まれる。悪役――いや、元悪役は彼女の傷を優しくさする。彼女はその男の胸元で安心したように泣きはじめる。
「その子、かわいそうな子でいてほしかったでしょ?」
隣で見ていた女が意地悪そうに問いかける。男はドラマの前後のつながりが分からなくなり今まで見てきた恋愛描写すら伏線に思えた。疑心暗鬼で見るに堪えなくなって目を逸らそうとした男の頭を女は抱きかかえる。お願い、ちゃんと見て。彼は仕方なく、薄目を開けた状態でドラマを覗き込む。
――ボクはトラウマを持ってるんだ
崩れ落ち、顔をくしゃくしゃにして泣き叫んだのは不幸な境遇だったはずの女優ではなく普通に育った主人公の方だった。それを女優は親身になるでも聞き流すでもなく、ただ受け止める。そして泣きじゃくる主人公を女優は抱きしめ諭す。だがその目は決して主人公に向けられたものではなく、このときほど男にとって劇中の女優が人形のように見えたシーンはなかった。
男はついに我慢できず、女の腕を払いのけて布団の中へと逃げる。女は無理にでもドラマを見せようと布団を懸命に引っ張るが、その間に番組が終わってしまい、同時に彼への抵抗をも放棄した。そして代わりに布団の中に潜り込み、目を逸らす彼を抱きしめた。しばらく二人はそうしていたが、やがて女は布団を払いのけ、まっすぐに男の目を見て尋ねる。
――わたしがいなくなっても、わたしのことを愛してくれますか
その問いかけに男は心から頷く。愛情というより、むしろ恐怖に追い立てられた形での肯定だろうか。だがその恐怖は彼女に対してではなく――むしろ彼女の居る部屋に対してのそれだった。審判が下される。そんな予感が男を恐怖させる。
次の日、彼が目覚めると女は消えていた。慌てて部屋を見渡すと恐ろしい光景が広がっていた。女が身体中を滅多刺しにされて死んでいる。
男は駆け寄り、絶命した女を抱きかかえる。足元には血まみれのナイフが転がっていて、女の見開いた目は取り返しが付かない克明に示している。女の最期の顔は、どことなく男のそれと似てしまった。呼吸のやり方も忘れるほど男は動転し、時計が目に入る。だが時計も床に堕ちて文字盤のガラスが割れ、もう二度と動かないらしい。
時計の針は「0」まで辿り着いていて、このとき彼は実に永く部屋で過ごしていたことを悟る。だがその日数さえ多くとも三十八週間には満たない程度だろう。
点いたままのテレビに映る主人公は、死体に懺悔する男と同じ顔をしていた。
了
四年ぐらい前につくった話です
「三十八週」とかでググっていただければ意味は伝わるかなと
教訓はまぁ、「ゴムは着けましょうね」ってことでひとつ