死神
「もうすぐだな」
誰かがそう呟いた気がする。僕は階段の踊り場に座っていた。
もう、こうして座っているのも三時間くらいになる。今日は土曜日で本来ならば学校は休み。部活のある生徒と教師しか来ることのない日である。朝からこの状態でいるのも飽きてきてはいるのだが命のかかった日でもあるので呑気に家にいることも出来ない。
「まだここにいるつもりか?」
振り向くとクロがそこに座っていた。首を傾げる姿は可愛らしい猫だが性格はなんとも言い難いほど子憎たらしいものだ。それに加え正体の掴めない謎の多い生き物だ。
「…先生はどうしてる?」
「さぁな? どこかで命を捨てる覚悟をしている生徒を見張ってるんじゃないのか?」
冗談のつもりなのか笑えない言葉に苦笑の溜息がでる。きっと先生はこの近くにいるんだろう。もしかしたら『アイツ』が来た瞬間ボクを跳ね飛ばしてでも犠牲になるつもりでいるのだろうか?
「クロ…いつ死神はやって来るんだろう。お前は知らないのか?」
「俺が知るわけがないだろう。大体命捨てる覚悟ができているんならいつ来ても一緒だろう?」
クロはボクの隣で胡座をかきはじめた。なんだか緊張感のない奴だな。
確かに覚悟は出来てるつもりだった。でも死ぬことをこんなに考えたことがなくてなんだか変な感じなんだ…
「知ってるか? ソレを『恐怖』って言うんだぜ」
クロがボクの考えてることを読んで話しかけた。クロの姿を横目で捉えながら真っ直ぐ正面を見つめる。
「何だよソレ。恐怖なんて感情はもうとっくに知ってるよ」
「今思ってる感情がなんだか分からないんだろう? だから教えてんじゃないか。それが死に向かう者しか分からない本当の『恐怖』さ。全身が冷たくて、でも何だか落ち着いている。そうなんだろ」
「そうだけど…。何でお前がそんなこと知ってるんだよ!」
自棄になって話しかけるとクロは黙ったまま正面だけを見続けている。
仕方ないからボクも前を見るだけにした。だんだん周りの音が遠ざかっていくようだ。まるで深い眠りに堕ちていくかのようにボクの意識を暗い闇に引き込まれていく。
それから、ピタリと音が消え、本当の闇が世界を包んでいた。そう、ソレが合図だったのだ。
目の前が何も見えない。自分の指先でさえ見えないほどの闇がそこにあった。
「クロ? クロそこにいるんだろう? 返事しろよ!」
ボクは側に居るはずのクロを呼んでみる。しかし声が届かないのか、まったく返事が返ってこない。
「くそ! どうなっているんだ!」
焦っても何も変わらないのは分かっている。でもどうしようもない『恐怖』がボクを包んでいる。この状態を回避させる方法はないのだろうかと模索はしているがパニックになっているのか中々良い案が浮かばない。誰か…!
「鈴木君! 何所にいるんだ! 返事をしてくれ!」
遠いところから誰かの声が響いた。先生だ!ボクは手探りで先生の声がする方へと走り出した。
「先生! ボクはここだよ」
焦っていたんだ。今の状況を把握することも出来ないほど。
「ミツケタ」
地の底から響くような声が後ろから聞こえた。振り向くと周りよりさらに深い闇の霧がボクを捉えていた。その霧の中から紅い瞳がボクを睨んでいる。
声が出ない。捕らえられたように体が動こうともせず脂汗が滲む。『死神』の正体は深い闇の霧だった。形もないそこに存在するだけの闇だった。
もがけばもがくほど闇はボクを侵食していく。もう手足は闇に引き込まれてしまった。その時、誰かが体を引っ張る。
一瞬体が浮くような嫌悪感に苛まれ目の前の霧が晴れた。何が起こったのか分からないまま気を失った。
「おい! 起きろ」
誰だ?ボクを呼ぶのは?
「起きろって言ってんのが分からないのか? サッサッと起きろ!」
誰かに蹴飛ばされて目が覚めた。さっきから声をかけていたのはクロだった。辺りを見渡すとさっきまでの深い闇は消え同時に死神も消えていた。
「あれ? ボク…生きて‥る…?」
自分の両手を見つめてボーっと意識が白濁している。
「残念だったな。お前は生きいてるよ」
淡々と告げられた言葉にはっとする。どうしてボクは生きてるんだ?まさか…!
「そのまさか。お前の考えている通り誰かの命が代わりに死神が取ってた。その人物は…」
「あぁあ! そんな…どうして…」
ボクは動揺した。こんなこと起こって欲しくなかったのに、どうして!
目の前には窓からこぼれた光が横たわるある人物を照らしていた。その光に照らされた横顔は悲しいくらいに穏やかなものだった。
「先生!」
昨日の全てが幻だったのではないかっと言うほど今朝は真っ青な晴天だった。
セキ先生は持病の心臓発作での急死ということで事件は幕を閉じ、今日は先生の葬式が物々しく行われた。棺桶の中の先生の表情は清々しいほど穏やかなものだった。その顔を見た瞬間今まで押し込めていた感情が涙となって溢れてきた。
火葬される先生を見送りもう一つの目的地へと足を運んだ。最初の犠牲者となった『キバ ハジメ』の墓である。
ボクの数歩前を行くクロをぼーっと見つめていると彼の墓の前に来た。
「これが木場君のお墓…」
若くして謎の死を遂げた少年の墓は清楚で花瓶には生前好きだったという白い百合の花が風に揺れていた。これで終わったのだと自分に言い聞かせ、そして最後に彼の墓前に報告した。
「これで終わったんだよね。ぜんぶ…」
先ほどから何もしゃべらないクロを視界に入れながらもう一度墓を見る。きっと元ご主人様のことを思っているんだろうと気を使ってその場を離れようと踵を返したそのときだった。
「…一つ言い忘れたことがあったんだ」
この日初めて発した言葉は決して軽いものではなかった。
振り返るとそこには人型になっているクロがボクをじっと見つめている。気恥ずかしいのか目線をあげることが出来ないボクにクロは静かに言葉は続けた。
「実はキバハジメの名前が書かれていたのはハジメが死ぬ四日前だったんだ」
「何を今更そんなこと言ってるんだよ。もう事件は終わったんだぜ?」
不気味なことを口走るクロに非難の声を出すとクロはクツクツと笑い出した。
「今更じゃない。確かにあの死神が本物ならなんの問題もない。けれど、あれが偽者だとしたら本物は別にいる。あの文字は本物だからな」
「何が言いたいんだ? お前は…」
「今日は四日目だ」
突然言葉を切るとボクの目の前にきてあごを掴み上に持ち上げる。
「?」
「お前の名前が書かれて四日目ってこと。つまり、まだ事件は終わってないんだよ。」
驚愕だった。クロが何を言ってるのか意識が追いつかない。クロを見据えていた視線の端に黒い塊が横たわっているのが見える。あれは黒猫だ。瞳の焦点が合わずボクは何度もクロの顔を見た。
「…あの死神は人間が創った幻。本物の死神は…お前の目の前にいる」
視界がぐらりと捻じ曲がる。黒い霧のような男の姿が益々大きく見えて、空気を掴んだ手は虚しく地面に叩き付けられた。
体はゴム鞠のように弾み、まるで生きている感じがしない。
消え行く聴覚にわずかな音が聞こえてくる。遠くから聞こえてくる鐘の音、目の前に立っているであろう男の声。
ただか細く聞こえてくる男の声は酷くボクの心をえぐり取っていった。
「結局、お前は死ぬんだよ」
目の前が真っ暗になった。ただそれだけを感じた。
墓場の真ん中で横たわる少年を横目で眺め男は視線の端にある墓石の傍らに死んでいる黒猫に近寄る。感情の見えない瞳で見つめる黒猫は少し干からび死んでから数日経っているのか体のあちらこちらで虫が湧いている。
「本当に馬鹿だよなぁ。ちょっと演技して仲間になったフリをしてみたら簡単に信じて…それに “本物”のクロはとっくに死んでいるのになぁ…」
男は不気味に笑うと足音を数歩響かせると消えていた。
主のいなくなった東教棟の奥にある『ミステリー研究会』部室に真っ黒い猫が佇んでいる。
猫は机から飛び降りると足音も出さずいなくなった
にゃぁ~…
どこからか猫の鳴き声が聞こえる。