予告
踊り場の正面の壁には忌まわしき染みの名が刻まれていた。そこには紛れもなくボクの『スズキ リョウ』の名前があった。
「やっぱり来たか。死神が…」
クロが呟く。これで僕の命はあと三日。こすっても消えない呪いから逃れるすべはない。
「…どうしよう…クロ。お前なら知っているんだろう?何か逃れる方法を!」
無駄な足掻きかもしれない。だけど、生きたいことに曲がった感情はない。
「普通ならない。と答えるが、どんな方法でもいいなら一つだけ…」
「方法があるんだな! 逃げれる方法が!」
クロの言葉に重ね叫んだ。
「どんな方法でもいいなら、な」
クロはボクを睨んで声を張り上げた。低い声がずしりと心に響く。
「どういうことだ?」
クロは俯いたままうしろを向き部室の方へと歩き出した。ボクは必死に後を追いかける。
「方法は、『誰か代わりに死ぬ事』だ」
「ぇ…それって誰かを犠牲に生きろってことか?」
「そうだ。どんなことでも生きていたいなら、誰か一人殺されてくれって頼むんだな。まぁ、どんなに誰かを大切だとほざく奴でも結局は自分を最後に選ぶもんだ。人間っていうのは薄情な生き物なんだよ」
クロはそこで言葉を切った。
「諦めろ」
小さな囁きだった。だけどボクにはただ大きく聞こえていた。それはどんな言葉よりも重かった。
ボクは幼い頃、同じ年頃の子供がサンタクロースを信じることと同じように『死神』を信じていた時期があった。それは大好きな祖母が亡くなったとき、泣き叫ぶボクをいさめるように両親が言った言葉を真に受けたからだった。
『おばあちゃんは死神に連れられていったんだよ』
今思えば酷く単純な子供だったんだろう。本気でその言葉を信じた僕は三日三晩暗闇が怖くて眠れなかったくらいだ。
確かにボクがこの事件を解決させたいと思ったのはただ非日常に憧れていたからだ。けれど少なからず幼い自分が信じていた死神を見たいと思ったのも理由の一つだった。
一人、教室の窓からグラウンドを眺めている。日がもう落ち始めあたり一面淡いオレンジ色に染まっていく。
放課後になってやっと落ち着き始め考えていた。何を思っても、何を考えても良い方向に進める気がしない。クロは相変わらずどこかに行ってしまっているし、先生は先生で相談してよいものか…
「鈴木君? ここにいたんだね。てっきり部室の方かと思って探したんだよ?」
教室の扉から先生が声をかけてきた。どんな顔をしたらいいのだろうか?確かにあの場にはいたけどクロの話は聞いていないはずだ。もちろんあのノートにも方法は書いていなかった。
しかし、先生は何かを悟ったようにボクを見つめ言葉を重々しく告げた。
「その…こんなこと今の君に言ってもいいか…決して同情とかじゃないんだ。本当に、ただ…『生きる』ことは大切だ。もちろん『死ぬ』こともそれと同じように重要なんだよ」
「何が、言いたいんですか?」
先生の顔を見ることが出来なくて、ただ窓の外に映るグラウンドを見つめていた。グラウンドには部活をしている生徒が活発に運動している。
「犠牲を恐れるのなら『生きる』ことをあきらめなさい。生きることは常に犠牲の上に立っているものだ」
はっきりと言った信じられない言葉にボクは先生のほうに振り向いた。先生は真剣な面持ちだ。
「そんなこと、ボクだって分かっています。『死ぬ』覚悟だってこの事件に関わった時点で決めています。だけど…誰かを犠牲に出来るほどボクは人間が出来ていない。いや、そんな人間になんてなりたくない!」
「だったら…君は『死』を受け入れるのかい?」
冷たい言葉だった。今ここで『生きたい』と言葉にすればボクは誰かを犠牲にしなくてはいけない。大切なものを失うかもしれない。だけど死ぬことも大切だと言った先生の言葉が何度も頭をよぎる。
「ボクは…あぁ…なんて答えれば良いんだ? ……先生…何かを失う時に得るものは何ですか?」
「君が願う答えは僕には応えられない。あえて言うのなら、得るものは最も悲しい『喪失感』だよ」
先生はそう言って教室を後にした。
ボクは知らないうちに涙を流し、その涙は酷く冷たく地面を弾いた。
「僕が犠牲になろう」
そう告げられたのは僕の命が前日に迫った酷く紅い夕日の照らす放課後だった。
先生はおもむろに部室の扉をノックして入ってきた。もうすでにクロからあの方法を聞いていたのだろう。切ないような、複雑な笑みをボクに向けた後の言葉だった。
「何を言ってるんですか? 意味が分かりません」
「君はもう知っているのだろう? 唯一助かるかもしれないと言う方法を、だから僕が犠牲になると名乗り出たんだ。君は優しいから、自ら死ぬことを選ぼうとしたのだろう?」
見透かされた言葉に動揺が走る。もちろん表向きには冷静を装ってはいるが、先生の眼差しを見るとどうも心がザワザワして冷静さを保てない。先生の強い意志はどうやら本当に『犠牲』になるために来たようだ。
「…先生、お気持ちは嬉しいのですがその話はお断りさせて頂きます」
「僕のことなら良いんだ。もうこの世に未練はないんだよ」
「だめですよ。先生は生きてください。これはボクの責任です。きっと罰が当たったんですよ。こんな若造が身勝手に首を突っ込むから」
あきらめた顔をすると先生はボクに向かって土下座した。
「僕は君に生きることをあきらめろと言った。だけどあれは君に生きる意味を確認して欲しかったからなんだ。分かったはずだよ、生きることは犠牲が必要だということ。それはどんな条件下においても覆すことは出来ない。教師として言うのではなく一人の人間として君に可能性を感じて未来を託したいと思ったんだ」
言葉を切って頭を下げる。
「生きてくれ」
「ふっ、ははっはっははは!」
突然場違いな笑い声が響く、その元は横で静かに座っていたクロだった。いつの間に人形になっていたのか分からないが酷く可笑しそうにボクら二人の様子を見ている。
「人間って言うものは実に面白い生き物だな!自ら犠牲になるなんて…フッ笑いが止まらん!」
クロはそれだけ言うとまた狂ったように笑い出した。
「クロ…お前って奴は…どうして人を嘲笑うようなことをするんだ!」
ボクはクロの胸倉を掴み声を荒げた。クロはまだ笑っていて長い前髪から覗く黒耀の冷たい輝きが背筋を凍らせた。
「フッ…俺は事実を言ったまで、それをどう解釈するかは俺の自由だ。まぁ、これでお前は生き残れるんだから万歳じゃないのか? たかが知り合いの一人が死ぬだけなんだしな。」
「お前には大切に思う人はいないのか?」
怪訝しい顔で言って、しまったと思った。
「大切な…人ね…。さぁ?」
あまりにも味気ない様子に言葉が出なかった。大切ではなかったのか?元飼い主である『キバ ハジメ』を…
クロは静かに部屋を後にした。
「彼はいったい何者なんだろうね?」
先生が一言呟いた。今まで疑問だった。アイツはあまりにも矛盾している。
「…そんなことより、先生の申し入れは聞き入れませんからね!」
そう言うとその場にいることが出来なくてそそくさと部屋を退出した。先生は今だ部屋の真ん中で立ち尽くしていた。
『ただ、怖かったんだ。
ただ、悲しかったんだ。
夢も希望もただの虚無の世界に漂っているようで現実ではないソレにすがる事も出来なくて、
掴もうとした手は通り過ぎて、俺の世界を見捨てていくようで、
俺はただ一人、唯一の存在を信じて生きるしかなかった。
アイツを創るのはたった一つの憎悪とたった一つの哀しみで良い。
ソレがアイツの糧になる』
キバが書いたノートに『死神』を作る方法が書かれている。
詩調にはなってはいるがきっとこう言いたかったに違いない。
『憎悪と哀しみが死神を創るうえで必要な要素である』