見知らぬ男
「名前を消せ!」
怒号にも聞こえる声が東通路の真ん中で響き渡った。
何の間違いか知らないが、東通路の真ん中には二学期中間考査の順位表が掲げられているはずだ。そんなところで『名前を消せ』だなんてどこの馬鹿だ?
人事のような考えをしながら野次馬の出来ている順位表の前へ人を押しのけ一番前に出ると、そこにいたのは一位を奪われた二位の生徒でもなく、落書きをされて憤慨している教師でもない。
そこにいたのは見知らぬ男だった。
「早く名前を…名前を消すんだ!」
誰もが思うだろう。
この男は誰で、厳しいセキュリティの学校内に進入できたのか、そして一番は誰の名前を、いや、その前に何故名前を消す必要があるのかということ。
ミステリー研究会会長のボクとしては実に興味深い現場に立ち会っているのだが、一般人にはさぞかし頭をひねらせるはた迷惑な妙な事件だろう。野次馬の中にはこの場に居合わせたことを後悔する者もきっと居るはずだ。なんせココは頭の固い生徒の集まる進学校なのだから。
西側廊下から数人の足跡がバタバタと音を忙しそうに立てている。おそらく教師数名と警備員数名がやってくるらしい。
とりあえず問題の男と少し接触してみるか。
「失礼ですが、『名前を消せ』と言うことはどういうことでしょうか?」
突然話しかけたボクを見て少し驚いたのか、みるみる瞳が見開いている。しかし、そうしたのも束の間、男は口を開いた。
「名前を消さないと…」
「え?」
最後のほうが小さく聞き取れにくくもう一度尋ねると今度は、はっきりと野次馬の最後席にいる者まで響いた。
「三日後に死ぬぞ」
その声はまるで死神のような口調で背筋がヒヤッと何かが走った。こんなことはボクでさえ、珍しいことなのに、周りの生徒は表情を真っ青にして立ち止まったままである。きっと怖くて動けないのだ。
「…誰なんです? 名前をかかれた人物は?」
もはや声に出せる状態とも思しいのだがどうしても聞く必要がある。
「アレだ」
男が指差したのは順位表ではなく、真横にあるいつ付いたのか分からない染みだった。名前が書かれているとは思いがたいが近づいて触ろうとしたときだった。
「そこで何をしている! 生徒は直ちに教室に戻りなさい!」
どうやら教師団が到着してしまったらしい。とりあえず身を引くが諦めたわけではない。放課後またココに来よう。
そんなことより、ボクは無意識的に驚く行動をしていた。
男が立ち去ろうとした右腕をつかんだのだ。まだ聞きたいことはあったのだが、これだけ聞いておこう。
「あんたの名前は? それと…名前を書いた奴って…」
もう、礼儀作法なんてかまっている余裕なんて無かった。教師の声に耳も貸さずに男の言葉を待った。
目が合った。男の黒耀の瞳に一瞬、時間が止まった気がした。
「俺の名前はクロ。名前を書いた奴の名は…」
渡り廊下とはいえ風が強烈に吹き込むことは無い、はずだった。常識とはかけ離れた風が男を取り囲んだ。そのときに掴んでいた手を離さずにはいられなく、掴んでいた手が無性にむなしく思えていた。
「『死』だ」
何度か瞬きをして男の姿を探したが、すでに男は消えていた。
しかし、男の声は確かに聞こえていた。
あの事件から五日が経過しようとしている。
あの後、放課後に調べた結果、あの染みの中に一人の名前が書かれていた。その人物は二学期中間考査、一番最下位の、『キバ ハジメ』という人物だった。
一位の人物だったならそれなりに理由をつけることが出来るだろう。しかし最下位ともなれば邪魔というわけでもなく、むしろ最後になってくれて感謝されるような人物ではないだろうか?
そしてもう一つ、彼は入学して以降、首位を独占していた人物でもあった。それが何故いきなり…
教師たちは男の言葉など信じてはいなかったが、生徒たちが怖がってしまい勉強に身が入らないと言い出したのだ。県内屈指の進学校だ。こんな馬鹿げた事件のせいで学力を落としたくなかったのだろう。渋々あの染みを消そうとした。
だが、その染みは決して消えることは無かった。
その結果、『キバ ハジメ』は謎の出血多量で事件の三日後亡くなった。まさに、あの男が言っていたように。
生徒たちの恐怖心はもう限界だったのだろう。生徒の数名がこの学校を去っていった。その中にはボクの親友もいた。
あの男『クロ』はいったい何者なのか?
消えない名前を何故、『名前を消せ』と言ったのか?
それに『クロ』という名前にも違和感を感じるのだ。ありきたりでまるでペットのような名前にボクは何故か引っかかっていた。
薄暗い東教棟の奥にある『ミステリー研究会』部室。
この棟は明治初期に建てられたということもあって洋風でヨーロピアンな印象を受けるところだ。この棟に一般教室は無くほぼ文化部・同好会・愛好会などの部室として宛がわれている。しかし、この教棟を使用している部活は今はここのみ。理由は簡単。来年には老朽化の問題でこの校舎は取り壊される予定だからだ。その他の部活は新校舎のほうへと部室を移している。かくして何故この『ミステリー研究会』だけが取り残されているかと言うとこの部活も来年には廃部が決定しているからだ。もちろん部員はボク一人で現在ボクは二年生。この学校では部活は二年生の三月までという校則がある。まぁ、進学校なら有り得るものだがなんだか寂しいものだ。
ミステリーは好きだが現実なんて寂れたものだ。ミステリアスな事件など平和そのもののこの街に起こった試しが無い。永遠にこのままなんだろうと思っていた矢先の事件がこれだった。
確かに怖いことは怖いのだが平和な日常に満足していなかった者としては吉報だった。自分も狙われる可能性のある中でなんとも呑気な奴だって自分だってわかっている。
そんなことよりも日常を回避できるチャンスなのだ。
ガチャ…
部室のドアを開ける。物静かな校舎に響くこの音は少しばかり快感を覚える。
ドアを開けた瞬間、前髪がふわりっと流れた。風がドアを通り抜ける。
窓が開いていたようだ。薄い白いカーテンがバタバタと音をだして靡いている。
「あれ? 窓なんて開けたかな?」
そんな独り言を呟きながら窓に近づくと何かが横切った。
一匹の黒猫だった。
黒猫の目は普通ではなかった。普通の猫ならば黄色の目をしているのが普通だ。だがこいつの瞳は黒だった。引き込まれるほどの黒耀の光はどこかで見覚えがあった。
「ニャァ~」
一声出して気がつくと猫はボクの机の上に座っていた。
「お前どうやって入ってきたんだよ。それに、変な目をした猫だな…」
素直な意見を呟きながら猫を持ち上げる。
にゃあ…
一声鳴いたその瞬間、ボクの手から簡単に抜けでてしまった。スッタっと良い音のしそうなほど見事な着地を見せ付けて名も無い猫は扉の向こうに消えてしまった。
「何だったんだ? 今の…」
何故か不機嫌になっていたことに自分でも驚きだが、何より小さなミステリーをまじかで見ることが出来たのは良い傾向の証なのだろうか?
ボクはひとまずこれまでの出来事をまとめてみることにした。
第一に謎の男の出現。これはこの学校の関係者ではないことは明白。この学校にもセキュリティというものはちゃんと存在する。それをどのようにしてかいくぐり学園内に潜入できたかは謎…
第二に男が発した言葉の意味についてだ。あの男は何度も言うようだが『名前を消せ』と言った。その後に起こるであろう出来事を見越しての言葉だったのだろうが、なぜその事実を知っていたかは謎…
第三に消えない謎の字について。そもそもこれが一番の謎だ。何の目的で現れたものなのだろう。どんなにこすっても消えなかったあの字が『キバ ハジメ』が死ぬと同時に消えたという。まさに死神のようではないか…
とにかく、こんな事態に陥ってしまっては学校側としても大問題だ。探偵やら、退魔士なんかを裏で雇っているという噂だ。まぁ、これは噂でしかないが十中八九本当のことになることは誰が見てもわかること。さすがにこの事件を一人で追うのは骨が折れる仕事だ。誰かもう一人でも助手が欲しいところだが生徒、教員は恐れおののいて事件になるべく関わらないようにしているし、難しい話だ。
「はぁ~…」
一息ため息を吐いて天井を見上げる。背筋を伸ばすとなんだかストレスの溜まった中年のサラリーマンのようだ。
「…お困りなら俺が助手になってやろうか?」
不意にかけられた声に内心、驚きを隠せないでいた。それもその筈、そこに立っていたのは、噂の謎の男だったからだ。