私の旦那様は狂人だと聞いていたのですが
来ないんじゃないか、という予感は確かにあった。
サイドテーブルに置かれたオイルランプの火が、揺れている。ベッドの縁に腰掛けた自分の影が、壁に大きく、鈍く映し出されていた。
見たこともないほどに質の良いシーツ。金糸の刺繍がぎっちりと施された天蓋のカーテン。深色の調度品。足が触れているのは毛足の長い絨毯。
窓の厚手のカーテンの隙間。
もう、金色の陽光がわずかに差し込んでいる。
自分の腕に触れる。
初夜の日に着る服は、肌が透けるほどに薄手で、脱がせやすい構造をしていると聞いたことがある。
でも、今私がこの屋敷の使用人たちに着させられた夜着は、厚手で、小さなボタンがたくさんついている。おまけにしっかりとしたガウンまで羽織らされた。
そして、使用人たちは、私をこの部屋まで送り届けると、こう言ったのだ。
『おやすみなさいませ。
――奥様』
と。
私はランプの火を吹き消して、ベッドを降りた。
窓のカーテンを開ける。
雲のない、真っ青な空。
そう。
旦那様は初夜に、
――寝室へは来なかった。
ゆっくりと息を吐き出した。
窓を開ける。
ここからでは敷地の終わりが見えないほどに広い。
整えられた庭園。
向こうに見える森のような木々でさえ、きっとこの屋敷の敷地内にあるのだろう。
「これで……きっと良かった」
窓枠に肘をついた。冷たい風が、頬を撫でていく。
私の旦那様は、王国内でも指折りの富豪。貧乏貴族の娘である私は、彼の後妻として嫁いできた。
私は、お金のため。
彼は、体裁のため。
旦那様は三度目の結婚となる。もう三度目だからと結婚の儀式は互いに書類に署名をするだけだった。
その際、契約書類の控えらしき封筒も手渡されたのだが、実家を出る準備と、嫁入りの慌ただしさに追われ、私はまだ封も切れずにいる。
旦那様とは、その時に一度お会いしただけ。
想像していたより、さらに若かった。
きっと十も違わない。
だが、若いからこそ、社交界は彼を“狂人”と呼ぶ。
彼はこれまでの二度の結婚で、一人目は失踪。 二人目は国外へ逃げたと聞く。その後の行方は、誰も知らない。
結婚してから数ヶ月足らずでの離縁を、彼は繰り返した。
彼女たちの血縁の一族たちはみな、口を噤んでいる。社交界では噂が飛び交った。
“暴力を振るっていたのでは?”
“ひどい冷遇をしていたのでは?”
“もしや――殺したのでは?”
私の旦那様は“狂人”と名高い。
私は窓を開け放ったまま、ベッドの縁に戻った。
指先に触れたシーツは、ひどく冷えている。
部屋にノックの音が落ちた。
私はスリッパに足を入れて扉に向かうとそれを開ける。
向こうにいたのは痩身の中年女性。少しの乱れもなく簡素なドレスをきっちりと着た彼女は、昨日侍女だと紹介されたメイベル。
彼女は私を見るなり、わずかに目を見開いた。遅れて、微笑んでみせる。
「奥様。おはようございます。
奥様は、扉に触れなくてもよろしいのですよ。お返事さえ不要でございます。
私共は奥様に仕えさせていただく身。何もお気遣いされる必要はないのです」
「あ……はい」
メイベルは銀のワゴンを押して部屋に入ってきた。後ろから、女性の使用人が何人も続く。
大勢の使用人に囲まれながら身支度を整えると、メイベルだけを残して彼女たちは部屋を出ていった。
メイベルは私の前に立つと、一度瞳を伏せる。
「奥様、少しお時間をいただきたいのですが……」
わずかに、心臓が跳ねた。
――何を言われるのだろう……。
「はい。何でしょうか」
メイベルは「こちらへ」と言って歩き出し、私はその後を追った。向かったのは衣装室。一部屋丸ごと衣装が納められ、帽子や宝石類などもここにある。
私はそれを見回した。
ドレス、ドレス、ドレス……。
宝石。ストール。帽子。靴。
「……こちらは、旦那様が奥様のために揃えられた品々でございます」
「……こんなに」
「季節外のものは使用人棟の衣装準備室に収められておりますので、すべてではございませんが……」
「……まだあるの……?」
声が知らずに震える。
メイベルは感情の読めない瞳で私をまっすぐに見た。
「すべて、奥様のものでございます。
お帰りになる際はご自由に持ち出してくださって構いません」
――“お帰りになる際”とは?
私が眉を寄せてメイベルを見るも、彼女の表情は少しも変わらない。
「必要であれば、持ち出す用の馬車も手配いたしますので、遠慮なく申し付けてくだされば、と」
ますます眉を寄せる。
私は口に手を当てて彼女を見つめるが、メイベルは用件は終わったとばかりに踵を返した。
衣装室の扉前に立つと、メイベルは頭を下げる。
「ご入用のものがあれば、なんなりとお申し付けください」
「あの……!
メイベルさん」
慌てて声をかけた。
「私のことは、どうぞ“メイベル”と。
――いかがなさいましたか?」
「旦那様に朝のご挨拶をしたいのですが……。どちらに?」
メイベルは少しだけ不思議そうに私を見つめた。
どこかの壁にかけられた時計が、ひとつ、音を刻む。
彼女はポケットから懐中時計を取り出すと、時刻を確認した。
「……この時間ならば、朝食を終えられて、執務室に入られた頃だと思います。
……会いに行かれますか?」
「はい。ぜひ」
メイベルはまた私を見つめる。
わずかに眉が下がっている気がした。
「ご案内いたします」
メイベルが踵を返す。私はその後を追った。
――なんか……変じゃない?
執務室は、実家の父の執務室とは比べものにならないほど広かった。
大窓から差し込む明かりは眩しいほどに白い。執務机も含めたすべての調度品は黒壇で揃えられ、リネン類も紺と白だけに統一されていた。
壁には周辺国の地図と窓だけ。マントルピースの上には、控えめに金杯がひとつだけ置かれている。
部屋は広い。
だが、大貴族の執務室にしては飾り気がなさすぎる。
執務机に向き合っていた旦那様、レナードが顔を上げた。
私は毛足の長い絨毯の上で、慌ててカーテシーをする。
「おはよう。ロザリー」
柔らかい声。
私も、顔を上げる。
「おはようございます。旦那様」
レナードは持っていた書類を手元に置くと、ゆっくりと指を組んだ。頬を緩めて穏やかに微笑む。
派手な顔つきではない。よくよく見ると端正な顔立ちをしている。だが、その整った顔よりも、どうしても“優しそう”だという印象の方が勝つ。
「ロザリー、昨晩はよく眠れたかな?」
――ん?
昨晩は、初夜でしたよね?
戸惑って、レナードの脇にいた彼の侍従オーウェンを見る。旦那様と同い年くらいの彼は表情を変えないままに、私を見つめ返した。
振り返り、壁に控えているメイベルと老執事のバーナードを見る。彼らも無表情だった。
もう一度、旦那様を見る。
彼はにっこりと笑っていた。
「慣れない場所だと眠れないよね。
僕も、枕が変わるとなかなか寝付けなくてね。視察で遠出するときは毎度大変なんだ」
ふふっと笑っている。愛嬌があって人好きのする笑み。
だが、
――“初夜”の話はどこへ……?
「何か欲しいものがあったら、僕でも、メイベルでもバーナードでも……。誰にでもいい。気軽に言ってほしい。
金塊でもスイーツでも。何でもね」
――初夜の話をこちらから振るのははしたないかしら……?
――今“金塊”って言った?
「あぁ、あとは……。
そうだな。やりたいことや、親しい人がいるなら、それも遠慮なく伝えてほしい」
私は眉を寄せる。
「君の実家への支援は恙無く済ませるよ。
弟さんと妹さんがいるんだよね?
大丈夫。苦労させないように、すべて手配する」
旦那様は顎に手を添えて、隣のオーウェンを見上げる。
「他に伝えておくことはあったかな?」
「あとは我々で」
「そう」
旦那様は私を見て、手のひらをペラリと差し出した。
「君から聞いておきたいことはあるかな?」
「しょ……」
――“初夜”は?
つい、顔が赤くなるのが自分でもわかる。
レナードが私の言葉を待って、小さく首を傾げた。
「いえ……。
いろいろと、お気遣いいただき、感謝いたします」
諦めて、頭を下げた。
旦那様はゆったりと頷く。
――やっぱり……なんか変じゃない?
それからも、寝室に旦那様が来ることはなかった。
かと言って冷遇されることも、暴力を振るわれることもなかった。こちらが申し訳なくなるほどに、使用人たちは皆丁寧に、親切に接してくれる。
だが、強いて言えば――
「何かやりたいことや、お会いしたい方はいらっしゃいませんか?」
低く澄んだ声。
老執事のバーナードが少し腰を折り曲げて、書き物机に向かっていた私にそう問う。
やたらと、この質問をされる。
「……特には」
バーナードの眉が下がる。
後ろに控えていたメイベルの眉も下がる。
私は口元を手で覆った。
――もしかして、受け身すぎて困らせてしまっているのかしら。
「……や、やりたいこと、あります!」
バーナードの眉が上がる。
二人からの視線。
私はつい、視線を壁に逃がした。
「旦那様とお茶をしてみたいのです……。
その……なかなかお会いできないですし」
朝食も、晩餐も別々。
寝室にも来ない。
広い邸宅だ。会おうと思わなければ顔を合わせる機会など皆無。
バーナードとメイベルの動きが止まる。
執事はまるで機械仕掛けのようにぎこちない動きで体を起こすと、メイベルに身を寄せた。
二人はそれぞれ口元を手で覆い、ぼそぼそと会議が始まる。
「今から間に合うでしょうか……」
「旦那様ですから……。奥様がお望みだとお伝えすれば、時間を作ってくださるのでは……?」
「調整するのはオーウェンです。そこは彼がなんとかやるでしょう」
「執事長……。前代未聞ではありませんか?」
「問題は、茶菓子が奥様の分しかないことです」
「それは大変です」
「私が走ります。メイベル、あなたは旦那様にご連絡を」
「あ……あの……!
今日じゃなくても!」
立ち上がって声をかけると、バーナードとメイベルは眉を寄せて私を見た。
「奥様。遠慮してはなりません。
我々は奥様の願いを叶えるのが仕事ですから」
バーナードが私の目を静かに見つめながらそう言う。
メイベルも大きく頷いた。
「そうです。奥様。
旦那様にお伝えしたいことがきっとおありなのですよね。
私共はその場をぜひ作らせていただきたいのです」
メイベルに背後から両肩に手を乗せられ、椅子に座らさせられた。
二人は目を合わせると、力強くうなずき合う。
老執事は自分の胸に手を当てた。
「奥様。準備させていただきます。
しばしお待ちくださいませ」
二人は深く頭を下げ、素早く踵を返した。
部屋を出ていく。
扉が閉まる。
途端に、廊下を駆ける足音が重なった。
私は確信した。
――選択を誤ったのだと。
書き物机の上の便箋に目をやる。
家族からの手紙は、レナード様からの手厚い経済支援のおかげで、滞っていた災害からの復興に目途が立ちそうだという内容だった。両親も、弟妹も、みな喜んでいる。
それを手に取った。
長く細いため息を吐いた。
窓から差し込む光は、随分と鈍い。
メイベルに促され、庭園の一角にある巨大温室に足を運んだ。鉄製の幾本もの支柱に支えられた大きなガラスが、贅沢に全面を覆っている。
中へ入ると、ふわりと甘い香りが漂った。
薔薇の芳香。
温室の中央に置かれた白塗りのティーテーブル。その近くに、旦那様が立っている。
彼は、私に気づくと片手を小さく上げてみせた。
「やぁ、ロザリー。
お茶に誘ってくれて、ありがとう」
やっぱり、優しい声。
「いえ……。
お忙しいのに、我儘を言ってしまったようで……」
彼は首を振った。手で向かいの椅子を示すと、旦那様は先に席に着いた。私も、バーナードに椅子を引いてもらい、着席する。
「あの……実家に早速支援していただけたと……。家族からお礼の手紙が届きました。
本当にありがとうございます。領民も、安心して冬を越えられることでしょう」
旦那様は、ふわりと静かに笑んだ。
「僕のところにも、君のご家族からの長い手紙が届いたよ。とても律儀な方たちだね。
喜んでもらえたのなら、良かった」
メイベルが、私とレナードの前にそれぞれカップを置く。それを互いに持ち上げ、口に運んだ。ソーサーに戻したときに小さく音が鳴る。
旦那様は淡く微笑んだまま、静かに私を見つめた。
何か言葉を待っているように見えたが、何を求められているのかが私にはわからなかった。
「えっと……。
ロザリーは、いつも何をして過ごしているのかな」
顔を上げる。
「読書をしています。それか、庭園の散歩を。とても広くて、まだ全部は踏破できていないのです」
旦那様はゆったりと脚を組み、声を立てて笑った。
「あはは。
僕も、全部を歩いたことはないかもしれない」
屈託のない笑顔。
柔らかい声が耳をくすぐる。
どうしてか、胸の奥がわずかに軋んだ。
唇を湿らせる。
膝の上で組んだ指先は、わずかに震えていた。
「で……では、今度一緒に歩いてみませんか?」
旦那様はきょとんと私を見つめるが、その背後、オーウェンの顔がさっと青ざめる。
「あ、お忙しいのですよね。
……なんでもありません!」
オーウェンがほっとしたように息を吐き出した。
レナードは何かを言おうと口を開きかけたが、それは言葉にはならずに口は閉じられた。彼は不思議そうに自分の顎に手を添える。
「……ロザリーは、植物が好きなのかな?
君の家は、昔から勤めている使用人一家だけを雇っていたようだね。その一家で、君の家の全てを担っていたと聞いている」
「お恥ずかしながら……その通りです。人手が足りず、私も雑巾を持って家の中を歩いていたほどです」
旦那様は小さく頷く。
その眉が少しだけ下がる。
「君と歳の近い青年の使用人は、庭師の仕事もしていたようだ。
君もよく彼と過ごしていたのかな」
「え?」
穏やかな金茶の瞳。
きっちりと整えられた胡桃色の髪も、その質の良い衣服も、仕草一つとっても、どれもが品がいい。
「それで、植物が好きなのかと思ったんだ」
まぁ、確かに、弟たちと一緒に雑草を刈っていたりはした。食べられる植物ばかりを選んで彼らと植えていた記憶もある。
「……そうかもしれません」
瞳が柔らかく細められる。
――旦那様は、穏やかで優しい。
使用人にも決して横暴な態度を取ったりしない。
私の家族にもすぐに支援してくれた。
だからといって、私に偉そうに振る舞うこともない。
使用人だって、私に丁寧に接してくれる。
――なぜ、旦那様は二度も離縁したの?
――なぜ、旦那様は寝室に来ないの?
「例えばお仕事中に……私が旦那様にお茶をお持ちしてもいいですか?」
旦那様はオーウェンを振り返る。彼が頷くと、レナードは私の方に向き直り、にっこりと笑んだ。
「気を使わせてしまったようだね。
いいよ。君がしたいなら、そうしてくれていい」
私は旦那様の瞳を見つめる。
「ありがとうございます。
明日から、ティータイムに伺います」
薔薇と紅茶の香り。
華やかで甘いのに、どこか遠い。
旦那様はゆったりと笑った。
誰が見ても、優しいその表情で。
――なぜ、旦那様は“狂人”と呼ばれているの?
私は、カップを口に運んだ。
バーナードの後について、部屋へと入る。私の後ろからティーワゴンを押すメイベルも執務室内に入った。
部屋の奥。黒壇の執務机に向かっているレナードは、手元の便箋に目を落としていた。大窓から差し込む白い柔らかな光は彼の手元を鈍く照らしている。
その表情。
柔らかく細められた瞳。
口元も、少しだけ緩んでいる。
かすかに心臓が跳ねた。
便箋の隅には、花の絵が描かれている。
――その手紙は、誰から?
――どうして、そんなに優しい顔をしているの?
「旦那様」
バーナードが声を掛けた。ゆっくりと顔を上げた旦那様は私に気づくと、ハッとして、手紙を素早く折りたたむ。
そして、それを書類の間に挟み込んだ。
――まるで、隠すみたいに。
旦那様はすぐにいつもの淡い笑みを浮かべる。
「……あぁ、ロザリー。
そうだった。お茶を運んでくれるんだったね」
彼は立ち上がり、手前のソファセットを手で指し示した。
「そちらでいただこうか」
彼の脇で書類を抱えていたオーウェンが眉を下げる。
「レナード様」
二人は目を合わせた。
「少しなら、いいでしょう?」
レナードがゆったりと移動してソファに身を預けると、もう一度、向かいの席を手で示した。私も座れということだろう。
オーウェンを見ると、彼は小さく瞳を伏せた。
私は彼に向かって軽く頭を下げると、旦那様の前に腰を下ろす。
「お忙しいようなのに……申し訳ありません……」
「いや。休憩を挟みながらの方が、結局は効率がいいだろうからね。
それに……君と話すと少し疲れが取れる気がする」
メイベルがお茶を淹れ始めた。ふわりと香りが立つ。
旦那様は壁に視線をやると、顎に手を添える。
「君は……趣味などは?
絵を描いたり……刺繍?
それから……そうだな……翻訳とか」
「趣味ですか?
実家では家を回すことに忙しくてあまり……。
ここへ来てからはのんびり読書ができるのでありがたいです」
「執筆など?」
「いえ……手紙くらいしか」
「……そう」
――何を聞き出したいのだろう?
旦那様の視線が、背後のメイベルへ滑る。メイベルは旦那様に頷きを返していた。
私は眉を寄せる。
「あの……不躾なことをお伺いしますが……。
その……」
旦那様の目が優しく細まった。
「いいよ。何でも聞いて」
息を飲む。
一度口を開いて、でもそれは言葉にならず、口を閉じた。
もう一度、口を開ける。
「その……愛人の方などは」
旦那様のカップを持つ手が止まった。
視線が、私、オーウェン、バーナード、メイベルへと走る。
そしてまた、私を見た。
「……僕?」
「えぇ、そうです」
「愛人はいないよ」
遅れて、レナードが笑った。
「ふふ。僕、忙しくてとても女性を囲っている余裕はないんだ。
そもそもモテないし。
社交界で僕がなんと呼ばれてるか、知っているでしょう?」
彼は膝に肘をつくと、私の目を覗き込むように見つめる。
彼は、声を低くした。
「僕ね。
“狂人”……て、呼ばれているんだ」
金茶の瞳は澄んでいるのに、私を見ていないような気がする。
彼の口角がゆっくりと、上がる。
ぞくり――と、肌が粟立った。
旦那様は紅茶を飲み干すと、ソファを立ち上がった。
「君はゆっくりそこで飲んでいていいよ。
僕は仕事に戻る」
壁に控えているメイベルを見て私の話し相手になるようにと声を掛けると、自分は執務机の前に戻る。
部屋を満たす白い光は、あまりにも澄んでいた。私の心に落ちる疑問に、それは何一つ答えをくれたりはしない。
カップの中の琥珀色が、揺れた。
旦那様のご両親は、早くに亡くなられている。
御兄弟もいらっしゃるけど、独立して別に住まいをお持ちで、かなり忙しくしていると聞いている。
王からの信頼は厚いが、他に親しくしている貴族家の話はあまり聞かない。
旦那様に関する“狂人”の噂はいくらでもあるのに、お相手となるような女性の名前が上がったことは確かにない。
――あの手紙は、やはり前妻のどちらかなのでは?
サイドテーブル上のオイルランプの火が揺れた。
大きなベッド。
その縁に腰掛けて、カーテンが開いたままの窓を眺めた。
夜空には月と星が浮かんでいる。
失踪したと言われる最初の妻。
国外に逃げたと言われる二番目の妻。
シーツを、強く掴む。
――あんなに優しい顔。
本当は愛し合っていたのでは?
ベッドに寝転がる。天蓋の金刺繍が淡く光を滑らせていた。
瞳を伏せた。
きっと、今日も彼は来ない。
窓の向こうには、細い月が一つだけ浮かんでいる。
翌日も、私はティータイムに彼の執務室を訪れた。昨日と同じようにソファに向かい合う。
旦那様は、よく笑う人だった。
私にもよく笑ってくれる。
バーナードやオーウェンたちにも、笑いかけているところを実際によく見る。
旦那様はふと立ち上がり、窓際の花瓶から一本の薔薇を抜いた。そして私の前に戻るとそれを差し出す。
「白薔薇が咲いたって、庭師がくれたんだ」
それを受け取った。
わずかに指先が触れる。
「うちの領地で開発した花なんだ。花弁が多くて華やかでしょう?
香りも良い。
一本、あげるよ。
気に入るなら、庭師に君の部屋用にも花束を作るように言うけど」
旦那様がふわりと笑った。
触れた指先が、ほんの少し、熱い。
「いえ。この一本で十分です」
「……花は好き?」
レナードは膝に肘をついて、私の瞳を覗き込む。
「好きです」
「君はあまり香水の類は使わないとメイベルから聞いている。
香料などには興味はないのかな。
……ハーブに興味は?」
思わず、私はふっと笑ってしまった。
「……旦那様は何をお聞きになりたいのですか?」
彼の目が、細まる。
「君のことを知りたいだけだよ」
金茶の瞳。
その瞳に、私の姿が映り込んでいる。
――本当に、私を見ているの?
「私も、旦那様のことを知りたいです」
彼が驚いたように眉を上げた。
「僕?」
旦那様は身を起こすと、口を手で覆った。
やがて、声を上げて笑う。
「あはは。
僕のことを知ったって、しょうがないでしょう?」
――どうして?
壁に視線をやる。バーナードも、メイベルも、オーウェンも表情を変えない。
――私たち、夫婦なのよね?
――私が旦那様を知りたいと思うのは、そんなに変なこと?
手の中の白薔薇が、強く香る。
庭園をメイベルを連れて歩いた。
このエリアはハーブが多く植えられていた。背の低い花々がまるで自然に咲いたかのように整えられた、ナチュラルガーデン。
空はよく晴れ渡っている。足元にだけ落ちた鈍い影。
――少しだけ、気づいてしまったことがある。
私は邸宅の方を振り返った。
上階の部屋。きっと、今も旦那様がお仕事をされている部屋。
その窓を見つめた。
私が着ている今日のアフタヌーンドレスはラベンダー色。私の肌によく合う色味だった。
旦那様は、私をよく見ている。
私の話をよく聞き、私の目をいつも見てお話をしてくださる。どんなに忙しそうにしていても、私が部屋に行けば、必ず笑って迎えてくださる。
――なぜ、そんなにお優しいの?
隣にいたメイベルの視線がふと、遠くへ向いた。私もそれを追いかけると、向こうから人影が近づいてくるのが見える。
「あ……」
旦那様は私に向かって、小さく手を振った。そして、少しだけ小走りで近づいてくる。手には、ピンクの薔薇。
「ロザリー。散歩していたの?」
旦那様が目の前に立つ。私は彼の金茶の瞳を見上げた。ここまで近づいたのは、よく考えると初めてかもしれない。
「はい。
……そのお花は?」
レナードはそれを少しだけ高く持ち上げると、にこりと笑った。
「これも、新しい花。食用にもできるよ」
花を私に差し出す。
私が少し躊躇すると、彼は私の手を取って花の茎を握らせた。
「花が好きだと言っていたね。
これも、あげるよ」
しっかりと触れた手。
顔を上げる。
至近距離で目が合う。
彼は、私の目を覗き込むようにして微笑んでいた。
頬がじわじわと熱くなってしまう。
――気づいてしまったこと。
手が離れる。
それを追いかけたいと、思ってしまった。
――私は彼を。
旦那様が庭の方を向く。
「うちの領地に、新しい花の開発が大好きなお爺さんがいてね。ほとんど彼の成果だったりするんだ」
声を立てて笑っている。
その声さえ、優しいの。
レナードが私の方へ向き直る。
「やりたいことや、愛する人がいるなら、遠慮なく言ってね。
君は、何も我慢する必要はないんだから」
――彼は、私をよく見ている。
――でも、彼は私に興味がない。
それなのに……私は……。
視界が滲んだ。
それが、頬を伝い落ちていく。
旦那様は肩を震わせると、慌てて指先で私の涙を拭った。
「ロザリー……。
どうしたの?
花、嫌だった?」
優しい優しい旦那様。
その瞳は、ひどく悲しそうに揺れている。
――私は彼を好きになってしまった。
私は首を振った。
彼は手を伸ばして私の肩に触れようとしたが、戸惑うようにそれは戻されてしまった。
手の中の淡いピンクの花。
それはとても、甘い香りがするのに。
その日は、執務室に行くのが少し早かった。
広い部屋だ。書類や書簡を持ち出したりする使用人たちも出入りしているから、私たちが入っても旦那様はしばらく気づかずにいた。
彼は窓際に立ち、淡い桃色の便箋に視線を落としている。
また、あの優しい顔。
口元に手を当てているが、きっと、口元も微笑んでいる。
胸が締め付けられてしまう。
――その手紙は、どなたから?
――誰があなたにそんな顔をさせているの?
オーウェンが私に気づくと、彼は旦那様に顔を寄せて声をかけた。
旦那様がハッと顔を上げる。
また慌てて手紙をたたみ、書類の間に差し込もうとした。
反射的に、私は駆けた。
彼の手首をつかみ、指先から手紙を奪う。
「ロザリー!」
慌てたような声。
私は手紙を胸に抱いた。
「……どなたからですか?」
旦那様は眉を寄せる。
私は唇を噛んだ。
たった一枚の便箋。だけど、ひどく冷たく感じる。
見てはいけないと思う。
だけど、旦那様をどうしても知りたい。
震える指先で、手紙を開いた。
「ロザリー……それはいけないことだよ」
◇◇◇
レナード様。
おかげさまで、大きな個展が開けることになったわ。
忙しくてとても難しいでしょうけど、いつか、見に来てもらえたら嬉しい。
ささやかだけど、一枚、絵を贈るわ。
あなたの支援がなければ、私はここまでたどり着けなかった。
心から感謝してる。
あなたも、そろそろ幸せになったら?
イザベラより
◇◇◇
「……イザベラ?」
レナードは私の手から手紙を取り返すと、丁寧にたたんだ。彼は眉を下げて、小さく息を吐く。
「イザベラって……旦那様の前の奥様……ですよね?」
レナードは諦めたようにふっと笑った。
「……そうだよ。
彼女、絵を描くのが好きでね。
今では国外を飛び回る人気画家だよ」
私は眉を寄せる。
「国外へ逃げて……今はどこにいるのか分からないって……」
「あちこちにアトリエを持っているからね。こちらから連絡をとるのは至難の業だ」
彼は、丁寧に引き出しに便箋をしまった。そこには以前見た花の絵のある便箋も入っている。
「……そちらは?」
レナードは私の目を見ると、一度だけ、髪をかき上げた。そして、オーウェンを見る。
「……もう、いいか」
オーウェン、バーナード、メイベルが頷く。
彼は花の絵の便箋を取り出すと、私に差し出した。
◇◇◇
レナード様
収穫時期となりました。
今年もたくさん収穫が見込めそうです。
子どもたちも一歳と三歳になりました。夫も元気にしています。この土地は本当にのんびりとしていて、私たちには合っているように思います。
このような生活ができるのは、レナード様のおかげです。
またご結婚されたと伺いました。
その女性も私のように幸せになれることを祈っております。
レナード様がついているのなら、心配は不要でしょうけど。
お身体大事にされてください。それではまた。
ルイーザ
◇◇◇
私は眉を寄せてレナード様を見上げる。
「それは、最初の奥さん。
彼女、結婚前から恋人がいたんだ」
手紙をもう一度読んだ。
「つまり、旦那様は、この女性二人を支援されていたと……?」
旦那様は頬を指先でかく。
「二人とも、実家が経済的に苦しくてね。
金持ちのエロ爺に売られそうになってた。
だから引き取った。
――君も、そうだよね?」
部屋を見回す。メイベルたちは、憐れむような目で私を見つめた。
「“狂人”という噂は……」
旦那様は窓に背を預けるように立つと、腕を組む。
「最初は“お人好しすぎて狂人”て王太子が冗談で言っただけ。
だけど、あえてそのままにしてた」
金茶の瞳が、面白そうに私を見つめ、その口角が上がる。
「僕は、お金持ち。王族からも信頼してもらっている。それでいて“狂人”。
僕が貧乏貴族の娘を欲しいというと、エロ爺たちは諦めるんだ。
“あいつなら、仕方ない”――ってね」
私の唇が震えた。
「君のことも、しっかり支援する。
貞操も守るよ。
愛する人がいるなら気兼ねなくその人の胸に飛び込んだらいい」
メイベルたちが一斉に頷く。
「君の実家にいた使用人の青年。彼が君の恋人なのかと当たりをつけてたけど、違うみたいだね。
何か、やりたいことはあるのかな。独立できるだけの支援は惜しまないつもりだよ」
彼が小さく首を傾げた。
「……契約書類にも、書いてあったはずだけど。
君との婚姻は白い結婚とすること。
必要な支援は惜しまないこと。
君が望むなら、いつでもここを出られること」
――契約書……?
私は口元を手で覆う。
――あまりにも忙しなくて、封も切らないまま引き出しに入れたきりだった……。
私は、眉を寄せて、うつむいた。
細く長く息を吐く。
――まったく……。
――とんだ“狂人”だわ……。
彼の目の前に立つ。
「“愛する人がいるなら気兼ねなくその人の胸に飛び込んだらいい”って言いましたね?」
「うん」
「撤回は受け付けませんからね」
「ん? うん」
私は腕を広げてレナードに思い切り抱きついた。
彼の身体が硬直する。
まわりにいた使用人たちからも動揺する気配が伝わってきた。
「では、私はこの胸に飛び込みます」
「え!?」
顔を上げて、その金茶の瞳をまっすぐに見つめる。
「こんなに素敵な人にあんなに優しくされて、恋に落ちないとでもお思いですか?」
「え? いや……だって……。え?」
彼は目を見開いていた。
その腕は宙を彷徨っている。
思わず、吹き出してしまった。
「好きになってもらえるよう、努力します。
まずは、夜に寝室に来てもらえると嬉しいんですけど」
にっこりと笑う。
彼の顔は、みるみる赤くなっていった。
けれど、宙を彷徨っていたその手は、やがて恐る恐る私の背に触れた。
私の旦那様は“狂人”と聞いていましたが……。
とんでもなくお人好しで、
とんでもなく鈍感な、
ある意味“狂人”の、素敵な旦那様でした。
彼が寝室に来る夜も、そう遠くはない気がします。




