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「夕日の道で…」  作者: 源三郎


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第7章 ゆりの夏

ゆりには、ゆりの十年があった。

 忘れられなかった夏。偶然の再会。夜行バスの最後部座席。

 あの夜、彼女は何を見たのか。


 東屋のベンチに並んで座った。


 古い木のベンチ。屋根のトタンが錆びていて、柱に蔦が絡んでいる。子供の頃はもっと大きく見えた場所だった。二人で座ると、肩が触れそうな距離になる。触れそうで、触れない距離。


 蛍の光が遠くで明滅している。虫の声が、夜の底を満たしている。


 「ゆり」


 「うん」


 「なんで、あのバスに乗ってたの」


 聞いた。ずっと聞けなかったことを。


 ゆりは、しばらく黙っていた。膝の上で手を組んで、指先を見つめていた。蛍の光が、彼女の横顔を断続的に照らしている。


 「……父が、入院してるの」


 声が低かった。いつもの作った明るさがない、素の声だった。


 「去年から。心臓。優くんのお父さんと、同じ病気じゃないけど。手術して、今はリハビリ中」


 「そうだったんだ」


 「お見舞いに行ってたの。東京の病院に。それで……」


 ゆりの声が、細くなった。


 「父の病室の同じ階に、優くんがいた」


 心臓が跳ねた。――いや、跳ねたような気がした。もう動いていない心臓が。


 「僕が?」


 「検査入院。二週間くらい。私が父の見舞いに行ったとき、廊下ですれ違った。最初は分からなかった。でも、歩き方が同じだった。子供の頃と。猫背で、少し右に傾いて」


 「……そんな歩き方してた?」


 「してた。今もしてる」


 ゆりは少し笑った。けれど、すぐに表情が曇った。


 「気になって。ナースステーションの前を通ったとき、ホワイトボードに名前が見えたの。大崎優。間違いないって思った。でも、声をかけられなかった」


 「なんで」


 「十年だよ。十年会ってなくて、急に『覚えてる?』って。覚えてなかったら、って思うと」


 峠の上で、優が感じたことと同じだった。名前を告げて、「誰?」と返される恐怖。ゆりも同じものを抱えていた。


 「それで、帰ろうとしたの。でも、帰り際に、先生の声が聞こえて」


 ゆりの手が、膝の上で握りしめられた。


 「優くんの主治医と、看護師さんが話してた。数値がどうとか、進行がどうとか。それから、『本人が帰省を希望してるから、許可を出しましょう』って」


 「……聞こえたんだ」


 「聞くつもりはなかった。でも聞こえちゃって。声の調子で分かった。よくない話だって。すごく、よくない話だって」


 ゆりの声が震えた。


 「怖かった。優くんがいなくなるかもしれないって。子供の頃、毎年夏が来るのを待ってた。優くんに会えるのが、一年でいちばん楽しみだった。それが終わったとき、私の中で何かが止まったの。十年間、ずっと止まったままだった」


 蛍の光が、一つ、東屋の中に入ってきた。二人の間をゆっくりと横切って、反対側から出ていった。


 「バスのことは、ナースステーションの予約票で知った。新宿発、平湯温泉行き。日付も時間も。気づいたら、私もチケットを買ってた」


 「麦わら帽子は」


 「顔を隠すため。優くんに気づかれたくなかった。ただ、同じバスに乗りたかっただけ。近くにいたかっただけ。声をかける勇気なんてなかった」


 最後部の座席。白いワンピース。微動だにしない影。あのときから、ゆりはずっと優を見ていたのだ。


 「それで、バスを降りて。優くんが歩いていくのを見てた。暗い道を。一人で。追いかけようか迷って、迷ってるうちに――」


 ゆりの声が途切れた。


 唇を噛んでいた。次の言葉を出すことに、体中が抵抗しているように見えた。


 「――優くんが、倒れた」


 静かな声だった。静かすぎる声だった。


 「走った。走って、走って。サンダルが脱げて、裸足で走った。砂利が痛かった。でも止まれなかった」


 優は、第一章の夜明けを思い出していた。泥だらけの膝。擦り傷のついた足首。息を切らせて、泣きながら、優の頭を膝に乗せていた彼女。


 「間に合ったの。間に合ったと思ったの」


 ゆりの声が、かすれた。


 「優くん、目を開けてくれた。私の顔を見て、話してくれた。立ち上がって、歩いてくれた。だから、間に合ったんだって。助かったんだって――」


 言葉が止まった。


 東屋の中が、静かになった。蛍の光が遠くで明滅している。虫の声だけが鳴り続けている。


 ゆりは、それ以上言わなかった。


 優も、聞かなかった。


 聞かなくても、もう分かりかけていた。ゆりが何を言おうとして止まったのか。あの夜明けの道で「間に合った」と言いながら、なぜ泣いていたのか。五メートルの距離。物に触れられないこと。影がないこと。母に見えないこと。


 全部、分かりかけていた。


 けれど今夜は、もう少しだけ。このまま、蛍の光の中で、隣に座っていたかった。


 「……ありがとう」


 優が言った。


 「走ってきてくれて。あの夜」


 ゆりは答えなかった。ただ、優の隣で、小さく肩を震わせていた。


 蛍が、東屋の周りを飛び交っている。二人の沈黙を、光が包んでいた。


お読みいただきありがとうございます。

 ゆりの側から見た物語が、ようやく語られ始めました。

 けれど彼女は、最後の一言をまだ呑み込んでいます。

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『夕日の道で…』を最後まで見届けてくださった読者様へ

五メートルの距離から始まり、ゼロになり、そして現世での「ただいま」に辿り着くまで。二人の一途な愛の軌跡をお読みいただき、本当にありがとうございました。[cite: 112]

もし結末に感動していただけましたら、以下のリンクや画面最下部の評価にて応援の声を届けていただけますと幸いです。

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