第13章 一ミリの体温
始まった場所に、戻ってきた。
あの砂利道。あの夕日。あの風。
全てが、あの夜と同じ。ただ、隣に彼女がいる。
あの道は、夕日の中にあった。
第一章で優が歩いた砂利道。バス停から実家へ向かう、街灯の途切れた一本道。田んぼの間を真っ直ぐに伸びている。あのときは夜明け前の闇の中だったが、今は夕日に染まって全く違う道に見えた。
砂利がオレンジ色に光っている。田んぼの水面が赤い。稲の穂先が金色の縁取りを持って、風に揺れるたびにきらきらと光る。山の稜線が、空との境目で黒いシルエットになっている。
美しかった。死にゆく時間の光は、こんなにも美しいのか。
二人は並んで歩いていた。ゆりの影が、長く道の上に伸びている。優の影はない。
優の体は、さらに薄くなっていた。手だけではない。腕も、胸も、足も。夕日の光が体を透過して、向こう側の景色がうっすらと見えている。ゆりのすぐ隣にいるのに、まるで硝子越しに世界を見ているように、すべてがかすかに遠い。
「ここだ」
優は立ち止まった。
道の真ん中。砂利の上。この場所で、膝が折れた。この場所で、頬が地面に触れた。この場所で、星が見えなくなった。
「ここで、倒れたんだ」
ゆりは、小さく頷いた。
「あの夜、ゆりは後ろから走ってきたんだよね」
「うん」
「帽子が飛んで、サンダルが脱げて」
「うん」
「膝が砂利で擦りむけて」
ゆりが、自分の膝を見た。今はもう治っている。けれどあの夜の傷は、彼女の中に残っている。
「ごめんな」
「謝らないで」
「ごめん、じゃなくて」
優は、言葉を探した。正しい言葉を。最後になるかもしれない言葉を。
「……ありがとう」
ゆりが、優を見た。
「走ってきてくれて。あの夜も。今日も。十年間、忘れないでいてくれて」
風が吹いた。稲が揺れた。夕日が、山の稜線にかかっていた。太陽の下半分がもう山に沈んでいて、上半分だけが赤く燃えている。
優の体が、一段と透明になった。
手を顔の前にかざした。夕日が手を貫通している。指の輪郭が淡く光っているだけで、中身はもうほとんど見えない。
時間が、なくなりかけている。
「ゆり」
「うん」
「僕、もう行くよ」
ゆりの足が止まった。
唇が震えた。目が赤くなった。でも、泣かなかった。泣くまいとしていた。最後に泣き顔を見せたくないのだと、優には分かった。
「……うん」
声は小さかった。けれど、確かだった。
「行っておいで」
その言葉を聞いて、優は、ゆりがどれほど強い人間なのかを知った。十年間忘れなかった人を、もう一度見送ろうとしている。病院の窓から手を振ったあの日と同じように。ただし今度は、二度と会えないと分かっている。
「一つだけ」
ゆりが言った。
「最後に、一つだけ。いい?」
「うん」
ゆりが手を伸ばした。
優の頬に。
指先が、優の頬の輪郭をなぞった。触れていない。触れることは、最初からできなかった。でも、指先が優の頬の一ミリ外側を、そっと辿っていく。頬の丸み。顎の線。耳の下。まるで空気の上に顔を描くように。
温かかった。
ゆりの指の温度だけが、かすかに伝わってきた。肌と肌の間に一ミリの隙間があるのに、温度だけが境界を越えてくる。
ゆりが泣いた。
堪えきれなかった。笑おうとして、失敗して、涙がぼろぼろと落ちた。
「顔、覚えた」
震える声で言った。
「忘れない。絶対に」
お読みいただきありがとうございます。
触れられない。でも、温度だけが境界を越える。一ミリの隙間に、すべてが詰まっていました。
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