第1章 帰る場所
これは、夏の終わりに始まる物語。
帰る場所があるということは、きっと、幸せなことだ。
――たとえ、もう帰れなくても。
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
エアコンの送風音だけが響くワンルーム。積み上げた段ボールと、最低限の家具。生活しているというより、ただここに居るだけの部屋だった。冷蔵庫には水のペットボトルが二本と、賞味期限の切れたヨーグルトがひとつ。食事は大抵コンビニの弁当で済ませている。この部屋で誰かと言葉を交わしたのが最後いつだったか、優はもう思い出せない。
大崎優はベッドの縁に腰掛けたまま、枕元の写真立てを手に取った。
三人で撮った写真。父と母と、まだ中学生だった自分。背景には青い空と、見渡す限りの田んぼが広がっている。父は日に焼けた顔で笑っていて、母は少しはにかんでいて、自分は――どこか所在なさげに、二人の間に立っていた。
写真の中の父の顔に、指先で触れる。
ガラス越しの感触は冷たくて、そこに温度はなかった。
一年前の冬、父は死んだ。心臓だった。電話で知らされたとき、優は自分でも驚くほど冷静だった。泣いたのは葬儀の翌日、一人になったアパートの風呂場で、シャワーの音に紛れるようにしてだった。
それから一年。帰っていない。
帰れなかったのか、帰らなかったのか。自分でもよくわからない。最近は、地元のことを思い出そうとしても、うまく像を結ばないことが増えた。父の笑い声。母が作った煮物の匂い。夏休みに遊んだ誰かの顔。どれも水の底に沈んだ石のように、輪郭がぼやけている。病気のせいだろうか。何年も生きるか死ぬかの縁を歩いているうちに、体だけでなく記憶まで擦り減ってしまったのかもしれない。
ただ、季節が一巡りして、また夏が来た。窓の外では蝉がけたたましく鳴いている。東京の蝉は、地元の蝉より怒っているように聞こえる。
写真立てをそっと棚に戻して、優はスマートフォンを開いた。会社の勤怠システムにログインし、来週の月曜から金曜までの有休申請を送信する。理由の欄には「私用」とだけ打った。それ以上書くことがない。帰省とも書けなかった。帰省という言葉には、帰る場所がちゃんとある人間の響きがある。
リモートワークだから、休んでも誰にも気づかれないかもしれない。先月、三日間寝込んだときも、Slackに「体調不良で休みます」と一行打っただけで、返信は定型文のスタンプひとつだった。それでいい。それが楽だった。ただ、ときどき、自分がこの世界からすでに消えかけているような気がする。
バスの予約サイトを開く。新宿発、平湯温泉行きの夜行バス。今夜の便に、まだ空席があった。
指が一瞬止まる。
胸の奥で、何かが締まった。最近、この痛みが増えている。走ったわけでもないのに、心臓のあたりが不意にきゅっと握り潰されるような感覚。前回の診察で主治医が見せた表情を、優は覚えている。何かを言いかけて、やめた顔。検査結果の数字を指でなぞりながら、「無理はしないでくださいね」とだけ言った、あの声。
父も、こうだったのだろうか。胸を押さえながら、それでも笑って田んぼに出ていた父も、この痛みを知っていたのだろうか。
大丈夫だと自分に言い聞かせるように、優は予約ボタンを押した。
――今夜、帰ろう。
そう決めたら、少しだけ息がしやすくなった気がした。
*
新宿のバスターミナルは、夜になっても人が多かった。
スーツ姿のまま大きなリュックを背負った優は、発車案内の電光掲示板を見上げた。二十二時三十分発、平湯温泉行き。あと十五分。
夏の夜なのに、ターミナルの空気は冷房で冷えていた。蛍光灯の白い光が、床のタイルに反射している。周囲を行き交う人々の足音と、遠くからバスのエンジン音が聞こえる。みんなどこかへ行くのだ、と優はぼんやり思った。自分もどこかへ行く。正確には、どこかへ帰る。
改札を抜けて、指定された乗り場に向かう。
乗り場は、ターミナルの端にあった。暗がりの中にバスの車体が浮かんでいる。白い塗装に青いラインが入った夜行バス。エンジンは低く唸っているが、車体の周りの空気がやけに静かだった。夏の夜の熱気が、ここだけ薄いような気がする。
乗り場には先客が数人いた。スーツケースを引いた中年の男性、イヤホンをしてスマホを見ている若い女性、大きなリュックを背負った学生らしい男。みな無言で、それぞれの夜を抱えた顔をしている。
列に並び、順番を待つ。運転手に乗車券を見せ、ステップを上がる。
車内に入った瞬間、空気が変わった。外の喧騒が嘘のように消え、密閉された静寂が耳を覆う。冷房の風が首筋を撫でたが、それは涼しいというよりも、冷たかった。薄暗い車内には消毒液のような、かすかに甘いような、どこか懐かしい匂いが漂っている。病院の廊下を思い出して、優は小さく眉をひそめた。
カーテンが引かれた窓の向こうは見えない。通路の足元灯だけが、青白い光を床に落としている。
すでに乗り込んでいた乗客が、前方にちらほら座っていた。カーテンを引いて眠っている人、読書灯をつけて本を読んでいる人。どの顔も薄暗がりに沈んで、表情は見えない。
通路を進む。狭い通路で、背負ったリュックが通路側の席に座っていた男性の肩に当たった。
「あ、すみません」
優は立ち止まって頭を下げた。
男性が顔を上げた。四十代くらいの、疲れた顔をした男だった。「いえ」と短く答えて、すぐにまたスマートフォンに目を落とした。
それだけのやりとり。何でもないことだ。けれど優は、少しだけほっとした。誰かと言葉を交わしたのが久しぶりだったからかもしれない。ちゃんと声が出た。ちゃんと相手に届いた。肩がぶつかれば、相手はこちらを見る。そんな当たり前のことを確かめるように、優は自分の席へ向かった。
指定された座席は前方の窓側だった。リュックを足元に置き、腰を下ろす。シートの布地がひんやりと太腿に触れた。リクライニングを少し倒して、息をつく。
ふと、視界の端に何かが映った。
振り返る。バスの最後部。一番後ろの座席に――人がいた。
麦わら帽子をかぶった女性だった。
帽子のつばが広くて、顔がよく見えない。夏らしい白いワンピースを着て、膝の上に小さなバッグを抱えている。うつむいているのか、眠っているのか。微動だにしない。青白い足元灯の光が、彼女のワンピースの裾だけを淡く照らしていた。
――さっき乗り込んだとき、いたか?
記憶を探る。ステップを上がって通路を歩いたとき、確かに車内を見渡したはずだ。誰もいなかった。見落としたのか。それとも、自分より先に乗っていたのか。
夜行バスに麦わら帽子。真夏の夜に、白いワンピース。
違和感があった。けれど、優はそれ以上考えなかった。他人には他人の事情がある。自分だって、端から見れば平日の夜中にスーツで夜行バスに乗り込む変な男だ。
前を向き直し、イヤホンを耳にはめた。スマートフォンからプレイリストを再生する。聴き慣れた曲が流れ出す。学生の頃によく聴いていたバンドの、静かな曲。あの頃はこの曲を聴きながら、夜の田んぼ道を自転車で走ったりしていた。
バスが静かに動き出した。
ターミナルの灯りが後ろへ流れていく。高速道路に入ると、街の明かりが遠くなり、窓の外はだんだん暗くなった。イヤホンの中の音楽と、タイヤが路面を踏む微かな振動だけが、世界と自分を繋いでいる。
目を閉じる。
音楽が耳の奥で小さく鳴っている。バスの揺れが心地いい。まぶたの裏に、あの写真の光景がぼんやりと浮かんだ。青い空。田んぼ。父の笑顔。
優は、いつのまにか眠りに落ちていた。
*
目が覚めたのは、バスが速度を落としたからだった。
イヤホンからはもう音楽が流れていなかった。バッテリーが切れたらしい。耳を塞いでいたものがなくなると、エンジンの低い唸りと、タイヤが砂利を踏む音が急に近くなった。
カーテンの隙間から外を覗く。
暗い。街灯がまばらで、道の両側に木々の影が連なっている。山の輪郭が、夜空との境目にぼんやりと浮かんでいた。空気が違う。窓ガラス越しにも分かるほど、濃い緑の匂いが漂ってくるような気がした。
停留所に停まった。
ブレーキの軋みで、優は浅い眠りから引き上げられた。カーテンの隙間から覗くと、コンビニの明かりが見える。まだ街中だ。前方の席で、スーツケースの中年男性が立ち上がった。通路を歩く足音、ステップを降りる靴の音。運転手の「ありがとうございました」という声。扉が閉まると、車内が少し広くなった気がした。
またうとうとする。バスの揺れが、浅い眠りと覚醒の間を行き来させる。
次に目が覚めたとき、窓の外の景色が変わっていた。街の灯りが消え、道路の両側に暗い山肌が迫っている。松本を過ぎたのだろう。バスは山間の道に入っていた。
停留所。また一人降りる。読書灯をつけていた乗客だった。小さな明かりがひとつ消えて、車内がまた暗くなる。
カーブが増えた。車体が左右に緩く揺れるたびに、窓の外の闇が傾く。ガードレールの反射板だけが、ヘッドライトに照らされて断続的に光った。山の匂いが、冷房の隙間から忍び込んでくる。湿った土と、針葉樹の青い匂い。標高が上がっているのが分かった。
また停まる。今度はバス停のポールすら見えない、道路脇の小さな待避所だった。あの学生風の男が降りていく。運転手に軽く頭を下げて、暗闇の中に消えた。こんな場所で降りて、どこへ行くのだろう。
車内に残っているのは、もう優だけだった。
――いや。
ふと後方を見る。最後部の席に、あの白い影がまだあった。麦わら帽子の女性。他の乗客が降りていくたびに車内の人の気配が薄れていったのに、彼女だけは最初と同じ姿勢で座っている。微動だにしない。眠っているのだろうか。それとも――。
まるで、自分と同じ場所へ向かっているみたいだ。
その考えを振り払うように、優は前を向いた。窓の外は完全な闇だった。トンネルに入ったのか、山に挟まれているのか、もう判別がつかない。バスのエンジン音だけが、低く唸り続けている。
やがて、バスが最後の減速を始めた。
「――平湯口、平湯口です」
運転手のアナウンスが、がらんとした車内に響いた。優以外に、立ち上がる者はいない。優は荷物をまとめ、立ち上がる。足がすこし痺れていた。通路を歩きながら、ふと後方に目をやる。
最後部の席は、空だった。
あの麦わら帽子の女性は、いない。途中の停留所で降りたのか。他の乗客と一緒に降りていったのだとしたら、その気配すら感じなかった。
優はそれ以上考えず、ステップを降りた。
夜明け前の空気が、頬を包んだ。
冷たかった。東京の夜とは違う冷たさだ。標高のある山の空気が、湿り気を含んで肺の奥まで沁み込んでくる。蛙の声が、どこか遠くで鳴っていた。停留所は道路脇のポールとベンチだけで、屋根もない。足元のアスファルトに、朝露のような水滴が光っている。
バスのテールランプが山道のカーブに吸い込まれ、消えた。あたりは完全な静寂に包まれた。街灯は一本だけ。その光が、優の影をぼんやりと地面に落としている。
ここから実家までは、歩いて二十分ほど。タクシーなど来る場所ではない。電話をかける相手もいない。この道は知っている。子供の頃から何百回と歩いた道だ。
リュックを背負い直し、歩き出す。
街灯の途切れた道に入ると、頭上には星が見えた。東京では見えない星だ。天の川が、淡い帯のように空を横切っている。風が吹くと、道の両側の田んぼから稲の青い匂いが立ち上った。まだ穂は出ていない。夏の盛りの、若い稲の匂い。
靴が砂利を踏む音だけが、夜の中に響いていた。
懐かしいはずだった。この空気も、この匂いも、この暗さも。けれど、どこか違う。一年前とは何かが変わっている。いや、変わったのは風景ではなく、自分のほうかもしれない。
父が歩いた道を、今、自分が歩いている。
父もこうして、夜明け前の道を歩いたことがあったのだろうか。胸を押さえながら、それでも家に向かって歩いたことが。
不意に、左の胸が痛んだ。
立ち止まる。息を吸う。吐く。大丈夫だ。いつものやつだ。少し休めば治まる。
歩き出す。
田んぼの向こうに、山の稜線が夜空を切り取っている。あの山の向こうに、実家がある。母がいる。父の仏壇がある。
もう少しだ。
もう少し――
胸が、握り潰された。
足が止まる。膝が折れる。砂利の上に手をつく。冷たい。地面が冷たい。視界がぐらりと揺れて、星空が回った。
息が、できない。
暗い道の真ん中で、優は崩れるように倒れた。
頬に当たる砂利の感触。遠くで蛙が鳴いている。星が見えている。天の川が、ぼやけていく。
――ああ、帰ってきたのに。
指先の感覚が消えた。次に、頬を押す砂利の硬さが消えた。蛙の声が遠のき、風の冷たさが剥がれ落ち、体の輪郭が溶けるように曖昧になっていく。世界が自分から手を離していく。東京のあの部屋で怯えていたことが、今、本当に起きている。
――嫌だ。まだ、母さんの顔を見ていない。
意識が、薄れていく。
最後に聞こえたのは、砂利を踏む足音だった。
誰かが、走ってくる。
白い裾が視界の端をかすめた気がした。
それきり、優の意識は途切れた。
*
……くん。
……優くん。
声が聞こえる。
柔らかくて、少し震えている声。どこかで聞いたことがある。ずっと昔、夏の日に聞いた声。
「――優くん、大丈夫?」
目を開けた。
空が見えた。紺色から薄紫に変わりかけた、夜明けの空。星はもう薄くなっていて、東の山際がほんのり白んでいる。
その空を背景に、一人の女性が優の顔を覗き込んでいた。
最初に見えたのは、白いワンピースと、麦わら帽子の丸い影だった。――バスの中の、あの女性。ぼやけた視界の中で、優の頭はそれだけを拾い上げた。
何度か瞬きをした。像が揺れる。滲んでいた輪郭が、少しずつ焦点を結んでいく。
麦わら帽子は、なかった。
さっきまで見えていたはずの帽子の影は、暗い空を背景にした彼女の髪の輪郭を、寝ぼけた目が見間違えただけだった。帽子はどこかで落としたのだろう。黒い髪が乱れて、額に汗が張りついている。大きな瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。その目の縁が、赤くなっていた。
知らない顔だ、と優は思った。バスの最後部にいた女性だということは分かる。けれどそれ以上のことが、頭の中で繋がらない。顎の丸みが取れて大人びた輪郭。日に焼けていない白い肌。十年という時間は、人の顔をまるで別人に変えてしまう。まして優の記憶は、この数年で随分と頼りないものになっていた。
――けれど、さっき。
彼女は、「優くん」と呼んだ。確かにそう聞こえた。意識が遠のきかけていた耳に、その名前だけがはっきりと届いた。知らない人間だ。バスの中で一度も言葉を交わしていない。なのに、なぜ自分の名前を知っている。
考えようとして、霧の中を手探りするような感覚に襲われた。答えがあるはずの場所に、何も見つからない。記憶の底で何かが揺れている気がするのに、指が届かない。
「……間に合った」
絞り出すような声だった。唇が震えていた。安堵ではなかった。もっと深い、もっと切迫した何かが、その短い言葉の奥に詰まっていた。
膝の上に優の頭を乗せて、彼女は優の額に手を添えていた。その指先が、優の前髪をそっと払った。まるで、壊れものに触れるように。
彼女の息が荒かった。走ってきたのだ。肩が上下するたびに、浅く速い呼吸の音が聞こえる。白いワンピースの膝が砂利で汚れていて、裾には泥が跳ねていた。素足のサンダルから覗く足首に、小さな擦り傷がついている。暗い山道を、この格好で走ってきたのだ。
「……よかった。まだ、ここにいる」
その手が、温かかった。温かくて、少し湿っていた。汗の熱だ。生きている人間の体温だった。
優は、自分の手がどうなっているかを確かめようとした。けれど不思議なことに、砂利の冷たさも、夜風の冷たさも、さっきまで感じていたはずの感覚が、どこか遠い。痛みもない。寒さもない。彼女の手の温度だけが、やけに鮮明だった。
「……ここ、は」
「道の途中。倒れてたの」
彼女の声がかすれていた。泣いた後の声だった。目の縁が赤く、睫毛がまだ濡れている。
優はゆっくりと体を起こした。頭がぼんやりする。胸の痛みは、もうなかった。不思議なくらい、体が軽い。さっきまでの苦しさが嘘みたいに、何も感じない。体重すら感じない。地面に手をついているはずなのに、砂利の硬さがない。
あたりを見渡す。砂利道。田んぼ。山の稜線。さっきまで歩いていた道だった。変わったことは何もない。
――ただ、空気が澄んでいた。
夜明けだからか。さっきまでとは光の質が違う気がする。すべてのものの輪郭が、ほんの少しだけ柔らかくなったような。音も遠い。蛙の声が聞こえるのに、それが水の底から響いてくるみたいだった。
「あなたは……バスの」
「うん」
彼女は小さく頷いた。乱れた前髪の奥で、まだ濡れた瞳が優を見ている。泣いていたのだと、優は気づいた。
「どうして、ここに」
彼女は答えなかった。ただ唇を小さく噛んで、それから、無理に作ったような笑顔を浮かべた。
「歩ける? 立てる?」
優は頷いて、立ち上がった。足元がふらつくかと思ったが、不思議とそんなことはなかった。むしろ、体全体が嘘みたいに軽い。胸の痛みも、足の痺れも、何もかもが消えていた。
東の空が、少しずつ白くなっていく。
山の稜線に朝の光が滲み始めて、田んぼの水面がかすかに光った。蛙の声が遠のき、代わりに鳥の声がひとつ、ふたつと増えていく。
世界が、夜から朝に切り替わろうとしていた。
隣に立つ彼女の横顔を、優はじっと見た。風に乱れた髪から覗く横顔。少し上を向いた鼻。薄い唇。朝の光が、彼女の頬をうっすらと染めている。
どこかで見たことがある顔だと、優は思った。
思い出せない。記憶の底で何かが引っかかるのに、手を伸ばすと水のように指の間をすり抜けていく。病院のベッド。夏の光。誰かの笑い声。断片だけが浮かんでは消える。ずっと昔の夏にも、こうして誰かの隣に立っていたことがある。でも、その「誰か」の顔が、もう思い出せなかった。
「……行こう」
彼女はそう言って、こちらに手を差し出した。
白い指。細い手首。砂利で擦れた掌。その手が、朝の光の中で、まっすぐに優へ向けられていた。
優は、その手を取ろうとした。
指先が触れた――はずだった。
彼女の掌の温度を、確かに感じた気がした。けれど、それが本当に「触れた」感触なのか、優には分からなかった。温かさはある。でも、指が掌を押し返す抵抗がない。皮膚と皮膚が合わさる、あの確かな圧がない。手を握っているのに、水に手を浸しているような、奇妙な感覚。
――気のせいだ。
優はそう思った。倒れたばかりで、感覚がおかしくなっているだけだ。
彼女は何も言わなかった。ただ、優の手の辺りにそっと自分の手を添えるようにして、歩き出した。その横顔は朝日を受けて穏やかだったが、繋いだ手の側の、優からは見えない方の目を、一瞬だけ強く閉じた。
白いワンピースの裾が、朝風に揺れていた。田んぼ道を歩く彼女の足取りは軽くて、まるでこの道を何度も歩いたことがあるみたいだった。
夜明けの風が、稲の匂いを運んでくる。
山の向こうから、光が溢れ始めていた。朝日が真横から差し込んで、砂利道に長い影を落としている。
ふと、優は自分の足元に目を落とした。
彼女の影が、砂利の上に細く伸びていた。白いワンピースの輪郭。風に揺れる髪の先。朝日が作った、くっきりとした一本の影。
その隣に、優の影があるはずだった。
並んで歩いているのだから。同じ朝日を浴びているのだから。彼女の影の右側に、自分の影が伸びていなければおかしい。
なかった。
彼女の影の隣は、ただの砂利道だった。朝日に照らされた、何もない白い地面が続いているだけだった。
優は足を止めかけた。
「――こっちだよ。覚えてる? この道」
彼女が振り向いた。朝日を背にしたその顔が、逆光でよく見えない。けれど声だけは、はっきりと聞こえた。柔らかくて、少しだけ急いでいて、優の足を止めさせまいとするような声。
笑っていた。
口元は確かに笑っていた。けれど逆光の中でも分かった。目だけが、笑っていなかった。何かを堪えているような、何かを隠しているような――祈るような目。その表情を、優はどう受け取ればいいか分からなかった。
まるで、優がこれ以上何も気づかないでいてくれることを、彼女のすべてが願っているように見えた。
優は、足元から目を上げた。
――見間違いだ。朝日が低くて、角度のせいだ。
そう思うことにした。影のことも、彼女の目のことも。
彼女はもう前を向いていた。さっきまでの震えた声、泥だらけの膝、泣き腫らした目――その全部を振り払うみたいに、背筋を伸ばして歩き出していた。
「ねえ、空気おいしいね。やっぱり山は違うなあ」
少し高い、弾んだ声だった。さっきまでとは別人のような声。朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、両手を軽く広げて、まるで遠足に来た少女みたいに。
不自然だった。ついさっきまで泣いていた人間の声ではなかった。
けれどその不自然さを、優は追いかけなかった。追いかける気力がないのか、追いかけてはいけないと直感したのか、自分でも分からなかった。ただ、彼女のあの声を聞いていると、何も考えなくていい気がした。
彼女の後を追って、歩き出す。
お読みいただきありがとうございます。
優の旅は、ここから始まります。
次話、夜明けの道で再会した二人の物語が動き出します。
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