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08.孔雀石宮の端で

 孔雀(くじゃく)(せき)宮の外縁は、王女様の暮らす区画だから、来たくなかった。

 区画の名を耳にしただけで、背中に力が入る。


 ここでの一言は、私の知らないところへ運ばれやすい。

 私の立場で、その種の場所へ好んで足を向ける理由はない。

 けれど、今日は、断れなかった。


 法務局から回付された決裁済み写しに、孔雀石宮付きの文書係の受領印が要る。

 回付票の欄が空白のままだと、書類の流れが止まる。

 嫌がろうが、そうでなかろうが、仕事は待ってくれない。


 回付票を挟んだ封筒を抱え、案内の指示どおり外縁の廊下を歩く。

 すれ違う者の服飾が、こちら側だけ少し煌びやかに見える──美しいもの、綺麗なものに目がない王女様に仕えるものは一目で分かる。


 詰所に近づくにつれて、この区画の空気にまで足並みを揃えさせられる気がした。


 端の扉は、細かい彫刻が目を惹くが、ゆっくり見ている暇などない。


 扉前に立つ下級騎士の背筋だけは、やたらに誇らしげだった。

 通行証の札を出したこちらを一瞥し、視線を落とさないまま口を開いた。


「孔雀石宮で、あんたの話はよく聞いてたよ。可哀想になあ。オレが慰めてやろうか?」


 言葉が耳に入った瞬間、指が冷えた。

 回付票の端が爪の先に食い込む。


「……受領印をいただきに来ました。文書係の方にお取次ぎを」

「行き遅れの伯爵令嬢なんてひどい言われようだなって同情してたんだ」


 下級騎士は笑い、私の進路に半歩だけ入った。たった半歩なのに、壁ができる。


「お取次ぎを、お願いします」


 繰り返すと、彼は口角を上げたまま私の胸元の封筒を見た。


「捨てられたんなら、オレを断る理由はねえだろ? お高く留まんなって」


 喉が乾いて、咄嗟に言葉が出てこない。

 言い返したい文句はいくつも浮かぶのに、ここで口を荒げれば目立つのは私だ。


「勤務中です。持ち場を守ってください」


 なんとか出した声は、自分でも驚くほど平たいものだった。


 下級騎士は肩をすくめた。


「オレは持ち場を守ってる。あんたを通すかどうかは、オレが決める」

「……通行の札がありま──」

「札があっても、礼儀がないとなあ」


 彼は詰所の扉を背にして立ち、私を壁側へ寄せる。距離が縮む。

 封筒を持つ腕に力を入れたせいで、紙がかすかに鳴った。なぜだか、その音が怖くて息を止めた。


「オレってば、可哀想な子の話を聞くと、助けてやりたくなる性分だからさ、遠慮すんなよ」


 ……『遠慮』の使い方が間違っている。


「不要です」


 言い切ったあとで、唇の端が勝手に震えた。

 怖い。でも、ここでひるんだ顔だけは見せたくなかった。


 下級騎士が笑い、手を伸ばしかけた、そのとき。


「そこで何をしている」


 低い声が廊下へ落ちた。

 振り返る前に分かる。法務局で聞き慣れた声だった。

 フォレスト様が近づいてきた。灰色の上着のまま、書類の束を脇に抱えている。孔雀石宮側の廊下でも、歩幅が変わらない。


 下級騎士が、少しだけ胸を張った。


「……通行の確認ですよ」

「確認にしては距離が近い」


 フォレスト様は私を一度も見ず、下級騎士の胸元の徽章に目を留めた。


「今の発言は警備勤務の態度じゃないな、所属と持ち場を言え」

「……え?」

 下級騎士の笑みが消える。こちらの立場を測り直す目になった。

「いやいや、オレは真面目に仕事してただけですよ? なんでですか? 名前なんか聞いて、何の意味が──」

「なぜすぐ答えないんだ」


 フォレスト様の声は荒くない。なのに、一語ごとに逃げ道が削られていく。

 処分を前提にした言い方だと、すぐに分かった。


「いや、だから……」

「分かった。もういい。答えないのなら、お前の上官に直接聞く」

「……っ」


 下級騎士は口を閉じ、視線が泳いだ。

 詰所の扉へ目をやり、私の封筒へ目を戻し、最後にフォレスト様の書類束を見る。

 勝てないと悟ったような顔だった。


 フォレスト様はその様子を見届けてから、私の手元へ顎を向けた。


「受領印か?」

「は、はい。回付票です……」


 下級騎士は舌打ちを飲み込み、詰所の扉を叩いた。中から文書係の者が出てきて、封筒を受け取り、回付票に手早く印を落とす。

 朱が紙に広がる音が、やけに大きく感じた。


「これでよろしいですか?」

「ありがとうございます」


 礼を言うと、文書係は視線だけで下級騎士を制し、扉の中へ戻っていった。

 廊下に残った空気が、ひやりとした。


 下級騎士は私を見ないまま姿勢を正し、その場を収めたつもりでいたが、フォレスト様の声がそれを遮った。


「今後は勤務中に私語をするな」


 下級騎士が小さく「はい」と言うのが聞こえた。


 回付票を封筒に戻した指がまだ冷たい。爪の跡が紙に薄く残っている。


「……助かりました」

「いや、いい。次からはここへ来るな。俺が行く」


 フォレスト様はそう言い、私の顔を見た。

 正面から向けられた視線に、うまく返事ができなかった。


 礼をもう一度言おうとして、口を閉じた。

 先に視線を外したのはフォレスト様だった。


「戻るぞ」


 そのまま踵を返し、法務局へ戻っていく。

 私は封筒を抱え直し、半歩遅れてそのあとを追った。

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