07.ほのかな感情と、噂の行方
婚約の解消から二年半が過ぎ、私は二十一歳になった。行き遅れと言われてもおかしくない年齢に片足を突っ込んでいるというわけだ。
そして、父と約束した一年はとっくに過ぎたのに、まだ法務局にいる。
今でもときどき、母のもとには縁談の話が届くらしい。
けれど、法務局の仕事を理由に、まだ誰とも婚約していない。
父も母も、婚約を強く勧めない。
法務局に通い始めた頃こそ、母は「いつまで続くのかしらね」と半ば様子見のようだった。
だが今では、私が朝から机に向かい、夕方には紙とインクの匂いをまとって帰ってくることを、当たり前のこととして受け入れている。
最近父親になった兄は「俺の妹は前衛的だなあ」と笑い、義姉はそんな兄の鼻を遠慮なく摘まむ。
仕事内容は大きく変わらないが、量は倍になった。
帰りが遅くなる日も増えた。
……そういえば、フォレスト様にも婚約者はいないと聞いた。
侯爵家の嫡男がそれでいいのだろうか、と頭をよぎる。
だけど、その考えをすぐ脇へ押しやった。
余計なお世話だ。聞く気もないし、私が口を出す話ではない。
仕事中にフォレスト様の声が飛んでくると、手が先に動く。
叱られれば奥歯を噛むし、褒められれば張っていた肩から力が抜ける。
監査用の束を回すとき、私の机へ先に紙片が置かれることも増えた。
仕事の流れでそうなっただけだと分かっているのに、紙片が置かれるたび、目だけ先にそちらを見てしまう。
ラフェド様と、その奥方であるマリーナ様の噂を聞いても、前ほど心臓が跳ねることはなくなった。
いや、まったく平気とは言わない。
そこまで図太くない。
だけど、どちらかの名前が聞こえたからといって、その晩に一人で枕を濡らすようなことはもうない。
人の口は好き勝手に動くし、社交界の噂など、昨日は祝福で今日は嘲りだ。その程度のことは、ようやく分かってきた。
忙しく働き、家に帰れば食事がある。
父も母も兄も義姉も、それぞれのやり方で私を気にかけてくれていた。そして甥は、私を癒してくれる。
朝に出仕し、受け取った書類を分け、昼をまたいで清書を進め、夕方にはその日の束を決められた棚へ戻す。そういう流れが、ようやく手に馴染んでいた。
廊下から噂が聞こえてきても、まず机の上の紙へ目を戻せる日が増えていた。
だから、その声も、最初はまたどこかの社交の噂だと思った。
春の園遊会で、王女殿下の白馬が暴れたという話だった。
廊下で足を止めた下級役人が、抱えていた書類を胸に押しつけたまま言った。
「聞きましたか、園遊会で白馬が暴れたそうですよ」
人の輪に気を立てて後ろ脚を振り上げたところへ、ラフェド様が身を投げ出したのだという。
私は手元の紙から目を上げないまま、その続きを聞いていた。
額を切ったが、大事には至らず、髪を下ろせば隠れる程度の傷で済んだらしい。
妻を庇った若い子爵。
危ういところを救われた可憐な夫人。
園遊会にふさわしい美談として、二人の名はまた並べて語られた。
窓口へ書類を持ってきた下級役人までが、同じ話を口にした。
子爵様はなんて立派な方なんだ、と。夫人もまた、なんと守られるにふさわしい、と。
指先に力が入ったが、見本の束を重ね直し、次の紙を手前へ引いた。
手が止まらなかったことに、むしろ自分のほうが驚いた。
◇
午前中に受け取った裁決記録の束を整理し、昼には租税局へ回す清書を終え、夕方には補修費の控えを書き写した。
噂を聞いても、机の上の仕事は減らない。
手を止めれば、そのぶん後ろへずれるだけだ。
だから、残っている順に片づけた。
園遊会の話は数日、あちこちで繰り返された。
だが、同じ噂が長く一つのままで残ることはない。
話が消えきらないうちに、別の名がひそひそ声に混じり始めた。
──王都で急に名を上げてきた新興商会の若主人である。
穀物と織物で財を成した家の跡取りで、最近では貴族相手の出入りも増えているらしい。
最初は見舞いの名目だったと聞く。
エヴァンズ子爵家へ何度か果物籠が届けられた。傷の見舞いに、というもっともらしい札が添えられていたそうだ。
それだけなら、別におかしくはない。
王都では、縁を作りたい商人が貴族へ愛想を振りまくことなど珍しくもないのだ。
しかし、その若主人の名は、何度もマリーナ様のそばで聞こえるようになった。
「慈善の集まりで夫人と言葉を交わしていた」
「茶会の帰り、同じ並びで馬車へ向かうところを見た」
「神殿への寄付の相談だと言いながら、必要以上に近しい空気だった」
こうした話が重なるにつれ、夫妻を持ち上げていた口ぶりは変わっていった。
園遊会の後しばらく、子爵夫妻が別々に馬車へ乗り込むのを見た、という話まで混じり始めると、人々はもう『仲睦まじい夫婦』としてではなく、『いつ綻ぶのか』を見る顔つきでその名を口にするようになった。
法務局の中で表立って話す者はいなかったが、廊下ですれ違うとき、向けられる目には妙な含みがあった。
書類の受け渡しのついでに落とされる一言も、子爵夫妻の噂だけを面白がっている響きではなかった。
どうやら、あの二人の間に綻びが見え始めたことで、今さら私の名まで一緒に口にのぼっているらしい。
よりを戻すのではないか、と思われているのだろうか?
少し前まで涙ぐんで称えていた人々が、今は子爵夫妻のどちらが先に心変わりしたのか、いよいよ離縁になるのではないかと囁いている。
その先には、捨てられたはずの元婚約者はどうするのか、という下卑た興味までぶら下がっていた。
ついこの前まで美談として並べていた名前を、今は面白がるための材料として口にするなんて……。
人の口は、驚くほど早く向きを変える。
法務局で紙を見続けているうちに、私が目を向ける先も変わっていた。
綺麗に語られる話ではなく、誰が何を失い、誰に何が支払われ、何が記録として残るのか。
私が見ているのは、もうそちらだった。
帰り際、廊下で擦れ違った他局の若い女の見習い書記官が、わざとらしく声を潜めて言った。
「元婚約者殿の奥様は最近、例の若主人とよく顔を合わせているそうですよ」
憐れんでみせる声色に反して、頬は笑いを堪えているように見えた。
「まあ、そうなのですね」とだけ答え、抱えていた紙束を持ち直した。
どういう意味ですか? なんて言い返せば、相手を喜ばせるだけだ。
自分の机へ戻ると、仕分け前の束の上に、判例番号を書いた紙片が置かれていた。フォレスト様の字だった。急ぎ分から先に、ということだろう。
未処理の清書を一枚ずつ並べ、急ぎの束を手前へ寄せ、紙の端を揃え、順番に重ね、ペン先を置く。
そうしているうちに、さっきの声も仕事の外へ押し出されていった。




